5 b j0 c$ M: t: A; {文中指出,一九八九年六月三日晚上至四日凌晨,中国戒严部队对学生和市民开枪,造成三百人以上死亡的事件震惊全球,中国领导阶层完全孤立,改革开放停顿,中国陷于混乱和分裂的危机,这也是在武力镇压扮演中心角色的邓小平的危机。 , ?9 V" y! ^" G {1 }. l7 o; i. U- |' n
中国后来的发展使得事件后的政权都肯定邓小平当年的决断,至今中国国内除公式的见解外,不准谈天安门事件,要求对该事件重新评价的人士都被置于严厉的监视下,当年支持学生运动而被解职的前党总书记遭软禁至死。一名中国老记者被引述指出,事件遭全面封锁是由于政权内部有看法认为大量杀害人民是作得过火。 4 V5 x8 p$ f j% t; a 3 R( ?3 s8 E _, k0 z0 M& Y1 M* r文中指出,天安门事件后,中国虽经济发展,但为贫富悬殊和腐败的蔓延等严重的矛盾而头痛,该事件是政治改革受挫的主因之一,胡锦涛政权背负着邓小平留下来的正反两面的遗产。 0 ?0 o5 R! a) `- H& A$ j+ h. _: E! @2 ?+ _ o7 b4 T
中央社东京十五日专电 ! z1 K6 y( `% f: T( b$ Q6 ` Y# e1 R! T1 u( j4 i K8 t/ I' q2 X7 @
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【トウ小平秘録】第1部 天安門事件 格差と腐敗の中華振興; j/ T8 ?) e, D3 K
8 V! @) d+ t5 k9 ^トウ小平(とうしょうへい)氏の死去から7年後の2004年、中国各地でトウ氏の生誕100周年を記念する行事が催され、大量の文章や映像が公開された。トウ氏の波乱に満ちた人生や人柄、思想について、さまざまな分野の関係者が証言し論じたが、決して触れられないことがあった。 9 M4 X2 ~3 a6 }& T. N / l: L' v4 K& K* j9 x$ B( R s) U4 g9 r+ z" {
武力鎮圧の残影8 }9 g. ~4 D+ W6 s6 {; D- ]2 f
& S# Q1 q6 C) G) Q# m" i% w, p 2 @3 L6 L% D8 z, gその年、15周年を迎えた天安門事件である。 * Y! \$ P6 }+ R% m$ g! W7 A, B Y0 @" |. D: o
1989年6月3日夜から4日未明にかけ、戒厳部隊が学生、市民に発砲、300人以上の死者を出した事件は、世界に衝撃を与えた。中国指導部は完全に孤立、改革・開放は頓挫し中国は混乱と分裂の危機に陥るとみられていた。 ' i+ Z2 V1 }3 O2 o! I O2 D% ~' J" d2 R4 h それは、武力鎮圧で中心的役割を演じたトウ氏の危機でもあった。2 n& R! ]- m0 c T1 V1 J
% D/ ?1 c3 @+ g% U が、中国は事件後ほどなく驚異的な発展を始めた。01年には08年北京五輪の招致に成功、世界貿易機関(WTO)加盟も遂げ、国際社会で重要な存在になった。事件後発足した江沢民(こうたくみん)政権も、その後を継いだ胡錦濤(こきんとう)政権も、トウ氏の当時の「決断」を評価し続けてきた理由だ。 8 {) i8 o# I+ S- C! f4 ~* g + W; |# n1 Q/ b: H) I2 _2 I0 ` 04年8月22日、北京の人民大会堂に6000人余を集めて開かれたトウ氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤国家主席はトウ氏を賛美する演説の中でこう述べている。6 X2 O3 m0 \/ n! ?/ G% I7 }# O
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「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」, b) ^4 s. p S3 a' H
) }* W: u9 V1 O+ n 同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。# ^# j$ A1 [% w" c% h. d. G: [
6 k% e+ a# A3 g 中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。 5 k/ M* A: Q b7 S7 n5 V8 Q7 C l0 E9 D0 |& G
天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。+ g. M+ u( c+ X) S. [* T0 k
) S7 o" @# ^+ Q) \
なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。, p8 ~. Y* M9 W/ p
% n" Z! K9 Q2 D 2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。$ ~" v% S; r. m4 W. P
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天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。2 C! \4 H' I/ r2 e( E
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事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。( @2 I0 b4 N& q! i% b/ P1 P+ ^' m
; f+ p. n5 b3 Q( ~" ?, O 仏留学時、「二度と戻るな」と命じた父親の言葉を守り抜いたとの説がある。頑固な性格から出た説だ。" O% x+ s& y- a
- [3 @( ~. t, j3 H; }8 T トウ氏は個人崇拝を嫌悪、「公平、無私」をモットーにし、出身地の利を図る傾向を批判してきた。だから地元政府からの故居改修の申請に同意せず、各地から相次いだ記念館や彫像を建てる申請も拒否し続けた。 8 [5 d, c7 [9 k5 a p& S+ L/ _- s% h' o
しかしトウ氏の死後、故居は修築され、広壮な記念施設に変わった。彫像や記念館が各地に誕生、江沢民(こうたくみん)前国家主席が看板などの揮毫(きごう)をしている。* j* S: W" ]# V! o
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トウ氏の生誕100周年の2004年、胡錦濤政権は盛大な記念行事を挙行、大量の文章や映像が発表され、「偉大なマルクス主義者」との賛美一色になった。一党独裁を堅持し、経済発展を図る正当性を訴える上で、トウ氏の理論と名声は政権に欠かせない。4 r) l# _5 |; u
7 \' l' A9 ]( |8 S だが、家族や関係者の証言からは、家族を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。 . j8 t* i0 ] f! o! H0 w6 V 2 t# W( ?% v; ~+ | トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにする理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。 1 O* A5 R6 ~' w8 j0 }$ ?1 L2 ?* `; ?2 R- m n! T7 R* Q
共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名な言葉はその時のものだ。: x% D) Z u+ o
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改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみる活気を回復した。 ( \! b/ n! t: O9 q. B. W5 }. I , \0 n+ D! U( |8 h9 H e) ]& ?2 C 豊かさと自由-だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だった。 / ?) h; j: c% k( s8 s( S& `3 m# ^: H& R4 G/ h
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6 ~" S" w9 j1 c8 n/ |* P/ q矛盾生んだ「先富論」; f- W8 z* Z- y u% w1 c* h7 O
8 C: z$ q* [' p トウ小平氏は着想力に富んだ現実主義者だった。改革・開放の初期、深センなどに4つの経済特別区を設け、市場経済の実験場にしたり、19世紀末以来、英国の植民地だった香港の制度など現状維持を認める「1国2制度」というアイデアを打ち出し、主権回復に成功したりした。3 z v& w h; k
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それは、台湾への統一呼びかけの武器にもなっている。( ?' l% [3 c# Z; ~0 B
9 \" Y! j& p4 ]6 U$ b 1993年9月、トウ氏は弟のトウ墾(こん)氏と会話している。トウ氏は、天安門事件(89年6月)後間もなく引退したが、事件後に保守回帰が強まると、南方視察に出て、改革加速を号令する南巡講話(92年)を発表、経済を成長軌道に戻すのに成功していた。 : r* {4 V/ [! m' ` 9 h$ X' E3 x t. U' c( L トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。 9 Y; O* M9 n7 j4 c6 H; m ( d! H2 C" h, n: P 「富をどう分配するかは大問題だ」 - X5 w& L& }1 K- s4 z. C+ O% |: G: Z$ p+ T4 Z# I
「この問題の解決は発展を図るより困難だ」- U/ x5 F M, Z* J
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「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」" V" [3 r' z' x! ]7 b
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トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。 0 L2 L8 |$ t1 P3 `6 s4 m( D8 ]2 B; L0 ]6 F; U2 I2 Y' q
トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。 " z( J5 w$ ~; n; |- M' S) B$ ~0 r! W& A+ L* |/ Y$ O/ S
経済に関しては、社会主義の枠を突破する革新派だったが、政治に関しては確固たる保守派だった。理論面にとどまらない。トウ氏は、路線上のライバルだった陳雲(ちんうん)氏(1905~95年)を含め長老との対立を避け、長老政治の頂点に立って権力を振るった。政治改革を志向、長老と対立した胡耀邦(こようほう)(1915~89年)、趙紫陽(ちょうしよう)(1919~2005年)両総書記も切り捨てた理由だ。 9 ~/ ^6 U" ^1 g2 o( L / ]4 J \. n$ r0 P5 t- F/ _" p 毛沢東と違い、トウ氏は元気なうちに現役を引退、江沢民氏を総書記に指名し、92年には江氏の後釜に胡錦濤氏を内定した。両氏の使命はトウ路線の継承だ。 6 o U' L: ?0 p/ U) ~, h 9 ^% G; R8 P# ?4 c 中国ではいま、矛盾を拡大した改革・開放への反省が起こり、毛沢東賛美の声が上がる一方、政治改革や民主化要求も強まる。「トウ小平」は依然、現実政治の中心にいる。 9 p1 K1 t( D. q* O * A/ e) f' k. K) g. k# z% _; e1 J トウ小平氏は戦争、革命、闘争の中国現代史を生き抜いた。氏にとって人生最大の危機は、天安門事件だったろう。それは、文化大革命とは違う意味で、現代中国の矛盾の爆発であり、大きな歴史の転換点にもなった。5 k5 T% K S: ^# S
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(中国総局長 伊藤正); g; F& ~9 p8 c4 K; y/ u p
; o. d; w% k& b- D! K* a ■トウ小平氏(1904~97年) 四川省生まれ。若いころにフランスに留学し共産主義革命運動に参加。中華人民共和国の成立後、副首相、党中央軍事委員会主席などを歴任。生涯で3度も失脚を経験したが、そのたびに復活、78年以降は事実上の最高権力者として改革・開放政策を推進した。89年6月の天安門事件の際、民主化を求める学生らの武力弾圧を決断、国際社会の批判も浴びた。 . w) p6 f# l% m: s2 E4 P0 D9 r' G+ s2 h1 t' j8 Q
■4つの基本原則 (1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想-の4項目のことで、トウ小平氏が79年3月に堅持すべき原則として打ち出した。共産党規約や中国憲法にも明記されたトウ小平理論の核心だが、市場経済が進むにつれ社会の現実や国民の意識と乖離(かいり)、政治改革の足かせになっているとの批判もある。# v z- ]* U9 Z6 x: h: F
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(2007/02/14 06:13)
2 N6 k* c% Z$ Q: P$ b& s( k 文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。 3 `1 F% ?2 ^) Z5 \0 \ n D- c0 h0 ?, b; A. S. _9 C9 V' O
拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。 , S0 [3 L I" W/ T; j 7 A9 a& |# j( V, _- w9 e 胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。 # M4 n, V2 X. v0 ^) M0 z7 q$ s% e( {% B; E
「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。9 x6 N" e% A2 I- Y* `3 I9 J
) a, B2 E/ \; C; t) I5 B% @$ U 根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社 ; N& ~- D0 h4 ^9 C0 b1 v# A! i 1 x" r2 O/ o' L3 a; A【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ 3 E; F! a2 Q5 f9 ` g0 Y* n ( S: B" \& ~6 s# F中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。 / X, \( S2 d; @% c/ y( j& T+ E) P1 L& `. i' G" I
その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。 . w3 J N* N/ z( }1 O3 u( ` ], v* K% w3 Y. u# c
国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。 / b' X, b6 p7 m5 K4 N3 y% [7 o. @5 n! @# S
前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。 7 i; D. a8 }. k1 W2 z' K! O% f [+ u
長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。) }$ S5 S2 U+ @+ ?- r1 B" U8 B9 a
: _2 X# z0 S8 c6 j% R2 C これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。 , n) j$ o5 D4 z* l2 R+ m. _/ b, o5 q. Z, a% V& R; `
「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」 7 ?: b( u# n5 O3 r, {! g( m6 E! p3 D9 M e; `! ^7 a
「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」" R2 L5 T! @/ A( i
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同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。 " }' [9 d! f& E7 t7 X 4 p ?+ Q" v3 M$ H 「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」 4 E. X5 R& z7 `) O( P0 a2 | . e5 G' ]- `' z 王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。 o& n s4 i) w. M: ?; ]6 k" D
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≪胡耀邦は声上げ泣いた≫7 M" P; m" x: Y9 H. c- \
) u0 J+ m* ^9 N" M' a, S外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)) f# }, _0 m2 P
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胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。0 U8 _2 ` o; T6 K3 H4 q7 t
8 k. G* E! p9 @- i C4 W 胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。+ g* u2 m* f/ z7 P. @. G
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「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。 Q; ?0 D& \1 x# V8 B& ?" ?* {' L! K, t2 e# A( ^
その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。 6 n2 l! d3 ]0 L/ L: z& U9 \ & S' V2 h( K4 U; {2 K- t 「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)% I+ E& `& e& I
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趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。6 u# C, Y2 A7 @, d; ` b. F' Q
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「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」)# i% N! x! `6 l) e4 q: D" V
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生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。 2 g( e5 d" s" n7 \9 p# F6 m6 z2 O0 }( u' R4 M/ _
それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。 " T8 B v- y% ~ / D/ f. [ k; @+ H9 p" B8 S* \8 m8 U8 b 「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」3 f& ~; F% O9 l3 P/ Y' f
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採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正); T) P- m" }2 f8 Q1 ]! u! q. ~
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■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。7 `0 |' B0 g. e2 f5 R( V
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1987年、北京・人民大会堂で行われた日中国交回復15周年記念レセプションで乾杯する左から竹入義勝・公明党最高顧問、王震・中日友好協会名誉会長、宇都宮徳馬・日中友好協会会長、田紀雲・中国副首相(共同)=肩書きは当時
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改革へ深謀、トウ・趙合作 2 A8 L+ `- G/ F/ U% Q, h ( g1 U$ H: j" k 対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。7 D. I6 m0 d! P- i G- s
5 Q& t& \1 L7 C 党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。 $ g8 E5 R) l" { - M u- f5 b# q+ G! R7 r1 @2 b/ q トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。) c. h* u" s3 n# y
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トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。 4 ?- A8 D8 ]( x. }, y, I1 A4 _3 c' K. A
党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。! o; @9 K- ]& b
5 y9 o' ~ y5 ?* P: O: n トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。- W9 }0 K% F/ X" H! x
: C' m, @9 t1 k5 E4 m% W9 h8 H9 I% u 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”2 {: d% n; A% N7 O, r# k" C
) Q* v1 ~% E* ^' W: h# o! P
* T5 k. f3 K; l. o3 N5 M( x& y+ n
他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 0 m* u* a8 z+ ]1 p, O9 K
$ r+ ~7 k d/ Q% d6 \
在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 ; e( }( P+ _0 b- M+ W- f
# f0 D# Q3 d# X+ D- S n1 y& N 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 2 n3 T! a; y0 v4 H8 ? ) n$ ~' b- x) s' P0 v3 {+ P F( H7 T! G5 m3 F( G: o; [! F
1 b. G6 I4 }9 D$ A6 b0 SChina honours man who reshaped world ; i6 R0 q! r3 v& aWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. * P. l4 B7 W& N" ~8 b2 q6 U7 u0 E
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 3 `8 r+ `) I7 ]! }
9 Y3 O2 d# p Q3 I6 e
But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. ; y9 o3 }4 i, v" Y( Y2 [
9 r( a" t7 \$ k4 sHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. 8 y2 d, X5 z; i) _* D- L* Q, v* s6 L; d% x- g( ?
“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” 5 b& t% e6 S7 ?) Y- M+ w: J: Z" }6 w( ?# C% q5 h% i
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. 0 R. l7 }4 F5 Y. [+ Y / V' Z4 W- ?3 z1 i! {+ N4 YMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. & {# H& t/ h, r: I$ h/ B . y" }8 t h( R4 h8 O2 tShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” ' K% Y' }3 \0 a2 K: t v
: X; S4 @2 s, X6 I5 d2 a
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 2 T5 a* k& t, F1 a/ b" ]1 P& ?
# t8 {! C; Y$ c3 q7 X; \1 |8 D- _. ODeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. 9 x. a; w- S: e1 h7 _
- b: `' V: W9 S
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” ' Q3 W9 e, m( _
) c6 f' {$ x' d9 f
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. ! @, v, a, h4 _) b& a: l% B8 s
: S; I% y7 o6 G: w6 \' r# h8 j5 oMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” " C( |5 L1 S/ r( \, N2 {4 E: j/ ]
: z* l3 D' i8 \3 cMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. , X: Q& k' F: q, M! C, d @/ \! j. |' `3 w1 ?/ k& E. I8 z
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. - c9 I" |6 G4 B. r
, |5 Y) w: i+ SHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” ; c) S# d$ j- i* y 4 |% y/ L6 Q; o6 K& A( DLong road to riches, c- P/ e5 u. L# N0 l. g, G8 t
- F/ w- D. q) p. C, `2 j! w" kNow ; Q; k6 d* t/ G, ?4 Y+ l- T7 ?6 |& G) g* R
Population in cities: 550 million 6 r7 F6 @1 \2 N9 e8 g# _: p& K+ N3 n, V9 `4 m
Gross domestic product: $10 trillion 2 K+ z, O3 M8 r2 z0 R- ^
b- ?1 i4 q6 ^& T/ \; v9 U
Oil consumption: 6.5 million barrels a day # m# N+ L1 J) s$ G/ o% b 7 O6 F* M2 l+ Y! H( `Exports: $954 billion 6 U+ J3 k' o3 M/ D& N/ M; N
4 P8 F* N( C, a$ w$ x
Population below the poverty line: 130 million 8 S \4 e* k8 H8 U% Q. p- l {( k' L
Ten years ago 7 x( i2 ^) t q# G: s/ k2 i0 K2 k, ~/ h: b& x H) F; ~; H6 k1 ]
Population in cities: 370 million / t- m; E' d* i& @; b& A $ i( u7 T% Z e1 n6 A, _Gross domestic product: $4 trillion % ]& Q$ h* H& a2 `2 X ; h% i" h( R; @1 w `Oil consumption: 3.9 million barrels a day 7 j4 I; M, B: Y0 C 6 f8 _+ @* A O8 Q! E( I3 gExports: $182 billion % _! q4 \* E: {% k
, t& U8 B5 E8 w- U; T6 V: PPopulation below the poverty line: 120 million K! ~1 l2 r& R) [% s) b) r
9 m0 E0 m" r" a2 f: x+ t& B4 JSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies7 r7 d F7 X5 e- _% i! \# g
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治 1 l2 A4 `3 x; \+ ?8 e/ A4 q$ f l5 x1 k- x( T& J; n' F
(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?” 8 t( b3 N; L- I) o" ^: P. {8 ~( r* i k3 z
赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。 + f" O. L& ?9 v' h# `: U; k2 h 9 X: r) E6 U8 Q: ]5 e赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。3 p+ S6 b: V5 F5 U1 o# @, h* D5 q7 E" q
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鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。! \6 w. _; ?! b' L
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鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。 1 r; q9 |% w" o7 V6 \ " i1 d3 c3 k* x( _8 d* U赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。 & r- `0 O4 h0 s U% K2 V7 j5 T5 K' k! U. V! e
一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。 : N! ? K4 _' {2 }4 o5 D3 e# o/ F+ a! ^/ J. A1 ?
未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。 ; i- [5 g: g& F9 K5 r: V 0 b7 l1 [9 e* V+ m$ O5 x【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」4 d. w7 H) R, H$ n
* N' R* o g% R! @' c6 c, b趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。 3 V$ ~2 Z5 h$ ? 6 |+ @+ M, e% U8 T2 y/ a' ~ 2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。 3 u% {9 ~& ~! o' v8 g7 \ 8 f) S4 T, e4 V. W4 S0 [' e2 P 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)+ w% D& e( Q7 Y" j5 N/ f
( G# y) Q# A- `- P) M: ]
この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。 d0 b8 P5 _1 a2 t* i4 u4 F4 @, _- b! \. l1 e: h
趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。 : ^& d/ f, w5 v3 V% Q& u: E& J9 G' E+ [8 G% ]5 ^) D
中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。+ X# f* i% ^5 W1 _9 \0 ^0 i' L
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しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。$ _) F# E- g6 {" C6 f
! { P. N/ T0 e この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。7 L$ G M4 j; {; I+ K% a
3 W, ^# p# E: _ ?1 ]
しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。% l7 o( I( X3 ]/ e% E- b' _3 j
! S3 B' d A) b
≪パニック買いが起きた≫# G% E+ I/ p! t( W& b7 W: Y
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ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。 9 r( ~3 I$ A: L( c+ }8 A8 r' s, _5 s9 s# t4 |
趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。/ u2 Z* x, w3 ^. O- Q& o
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「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏)% ]- w2 K0 G- `! v+ W6 g
, {: B8 o( K. K \ トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。# ]# [, f1 e% m
& i: y# m# Y4 Z
当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。! l% c- C. l \" ?7 J4 T
6 v& F! v% J; h& C7 P 5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。$ ^( u: l% h+ {, X# ~
! R1 B" U Q& C- r* K
当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。 2 `/ P' l# E5 x- z4 b+ \1 |; x5 C4 L1 g" m
その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。 # S4 C5 t8 M7 o* q t; G& J. l) c6 g" S1 |4 B3 [, I# p2 h6 y9 N
ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。7 [$ c7 t& i" {9 _8 G4 n
& M5 ?" N! }8 o8 Z1 O, G. ~ 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正) , n! B3 v; B2 b& J7 R [5 C& h . h9 G: X& J( R: q, W ◇+ g! Z7 [+ K5 C+ v
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【用語解説】3自1包 + ]( `5 `: Y$ O9 ?8 r8 W" L0 c' s- Q2 s1 ]+ d! X
自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。7 L/ r$ c: Q E6 y6 F3 D+ c2 R) Y9 b
5 l% S/ o- p$ {3 @: H! z- D ◇ * K3 t" G+ q6 j* i1 x& n" y. o& Q3 _, `% G" v
【用語解説】北戴河会議 3 j3 O7 }2 A! x. H/ J0 L( b% P 5 Q. w+ L! b8 @. c9 O- i# Z- _4 H 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。! J! y3 ] n; Z7 N
0 s) ? A8 b2 o3 @3 Q, u+ a/ G その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。7 a, P1 ?. K' v" p4 b' q0 x3 K% \& Y
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5 h. X- ^. [$ K「中国は乱を許さない」 / m$ {" t8 |& R. j9 U/ R+ ]7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。 3 U; e& o1 H( n/ B$ M - F1 K0 R0 W I$ W 「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」 7 b6 T0 y% k$ U w7 g: w; `4 v4 @% ~) \2 N* V8 ~8 l
「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。4 ]2 g! b" f6 M: F- Y: F( H
/ j0 b9 U9 N6 d 88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。 2 q, r( H# ?: I. k2 p* K& ]/ h9 u . a* e6 g2 t9 S& s 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。 ' _5 Y0 G1 \- p9 G0 G) G/ K+ ]4 f# {* f% I) ^+ o
「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」 3 b; ^* l, i* x0 l! w% {' S' |! y1 O# `& y f' N
私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。" p: f% K: z/ m% z
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それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。 6 D! z6 L' T$ n i& f; S' H& U ) b: w \$ j& Y, q+ S 当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。 ! L! q$ }; r, A* ` 3 P3 }3 k) X. i トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。 % U( g& m/ E; n& | ` B6 q! Y! B) T: [ ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。 - c3 w5 V. Y1 B# j. d z% w8 D( M7 \0 [$ o
「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。- ] ?( m$ P" R1 W5 Y) J! Z
7 b& f1 G! x8 M2 p- `3 M 89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。; Z# [7 F. g! [8 f1 x" Y% [
/ f- @9 ?+ J' f- e その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。 1 T1 I d% k: n. s' Y3 O$ ~& ]- ]6 B/ d7 g+ n( A+ j$ ?
それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。 7 ~$ F$ V8 K2 g6 O) N- g7 {9 @% F2 a l; {/ A( u4 z9 z. z
3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。: X# Q: ^0 M( b! Z# I/ l
- N* r. g" {* }5 b3 V 「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」 R2 ~% [6 b" \$ ?3 Q+ ^
6 i d# b. W+ _, Y, t: ], K. v4 @ 「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」 * s6 G' s6 |/ i4 z7 q; v4 B 0 n" `+ D* o9 G; T- h6 T6 v それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。" e, F% Y% c p+ {; S
' G ~ w" b: K @0 G+ N; y その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正) 2 R: j3 v G+ [' e- P- V9 `% c4 T& {/ l2 v1 Z0 G- } Q
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% ^/ J' R) c f* D' O3 g) f【用語解説】抗米援朝 + ]. ?6 W& r% R9 W6 \2 ?0 \ h% t" E* {+ C# Q' Y* r
1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。9 M, f6 i* r) M u! H+ R. h0 B
- _. k7 ~ l6 } 4 [5 \6 V0 l. q' {2 M# ^: @. O' c8 e. F2 @3 D
- @( Y1 Z J2 f. [- O# j 十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。 9 c& Q. ^/ w! A, k ) Q( p L* H' @& {( m; f 二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。 J+ O# y6 J, h2 p# l A0 j. R# K1 k n$ G2 a2 z! S
这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。 : K- w( ~- K. d$ D' q8 t8 h7 y6 b( Z! v
由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 1 [, Y) d z0 ~, r! ~7 `; r
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【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件 ! J2 e& d) s- z2 I$ t1 o) A2 Y! ?) `& t' x- ^9 b+ v e. e
■下心ある者を警戒せよ: S8 M3 F" Q. ]' z I
8 r* X) k* |2 ]4 {9 _! }" P* I; t 異変は、新華門事件から始まった。 / f0 C8 \8 q* M- Q* G 0 o" c0 ]$ G; }' J& e 1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。2 f7 G" j: @1 D) m) z% ]8 @
3 R' Q2 [ ]1 q 「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」 4 Q- D5 }) \# J! b' D. \0 k: n$ @( V) q7 n
北京市の李書記が続ける。2 {) x3 M# T0 k3 d/ m4 I% v, W
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「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」 4 \ J% P9 `! j/ U8 S* V, g- e4 I" I# F) g: y( y% v. R5 e* Y( e
それに対し趙紫陽氏は言う。6 V5 ]: q+ i. U
# s0 K! X% L$ N; f 「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」 % z7 [0 z- v; B5 D6 D! A- d9 ` 1 e: M7 P6 G7 h, \: l 趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。 5 P; J- _, R. g $ f+ t) i# P( u# l' `+ X/ Q 趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。) J6 }0 F7 d# Z/ V
$ I' ~7 x9 u( A 「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。/ G+ F; G! B6 T8 J2 u, i
+ f( ]# j: M' Q. o8 `2 C( x 4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。4 G7 W3 H+ Q8 `" `( A) `7 k7 r/ K
& w0 z% \: B$ V 「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」 ( O# q5 g! y. l& g; U0 s9 V 2 u1 K# u" r: w8 `# i! r 学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。. Z% a4 q. D4 S2 T% h/ Z. d I
$ s. _9 r+ h: r( N. d 数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。' }- {. W! q6 ]6 q+ h8 ^/ m1 r- Y
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「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」9 l' w/ K% Y$ w7 b* S& O9 c" U
8 S( d3 Y1 n' u# L# G! M9 d. | O 李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。* g, {* f) n! O: Q
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趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正)" ?% Z# b/ i. E5 ~6 i6 V( _4 j) ^
: D% \* K8 S' L( @, x ■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。 $ S% m2 u) D' c( l2 f7 I+ B 7 s* S( V% ?3 H: ?# q●=くさかんむりに内* R3 y" K* q+ z2 O Z
' E3 |6 r# l) z* V. i% B$ M(2007/02/28 ). R1 `2 }0 D/ H4 f9 L/ _
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邓小平秘录:反扑致赵紫阳路线成梦幻 # \! [- c+ U# s P, R0 a- X ! v1 y1 [0 a2 A8 F; z" G(中央社记者张芳明东京五日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日北京学生举行的反日爱国“五四运动”显示出四月底人民日报主论的强硬路线出现破绽,中共转向总书记赵紫阳柔软路线明显化,学生运动出现和平终止的希望,但是,随后由于保守派的反扑,赵紫阳路线成为梦幻。) r$ l' V) { A
1 R+ z$ w; a( e2 e' S9 I' p“秘录”指出,赵紫阳在五四前一天的演讲表明推动改革和建设的决意,强调社会安定的必要性,对学生的改革要求肯定为爱国的行为,没有四月二十六日人民日报社论那种高压的表现。这项发言带给学生好感,五四当天数万学生在北京市中心的游行井然有序,学生们的表情开朗,集合天安门广场要求与政府对话后宣布中止罢课,次日开始返回学校上课。 ' p- C& L4 _/ Q" J/ h6 w$ ~五月四日下午,亚洲开发银行理事会在人民大会堂召开,赵紫阳接见各国代表,针对学生示威指出,学生是批评政策运作的缺点,并非反对社会主义的基本体制,难以避免少数人利用运动图引起动乱,但确信示威已迈向结束,不会成为动乱。赵的这项发言后来成为他的罪状。 6 I5 x+ ]5 S- @0 {: F+ t3 _8 }1 Q, s# w! n) n/ V. E
天安门事件后的六月二十三日,总理李鹏在党中央委员会大会(四中全会)提出赵紫阳的罪状时,严厉指责后者在五月四日的发言是鼓舞策谋动乱者。然而,实际上五月四日内赵紫阳的讲话赢得党内压倒性的称赞和支持。6 `# `. I, I" B5 @
" @7 U6 J4 V# z; G1 v4 q& G) H张良的“中国六四真相”指出,李鹏曾在五月四日称赞赵紫阳的讲话内容,并表示次日接见亚洲开发银行代表时将表达相同的看法。事实上,李鹏在次日的会谈向亚银代表作了相同内容的发言。 2 T. _) ?) Q+ k+ Q) ]* b" |* \7 K. T4 [0 `* g h
赵紫阳当时曾对李鹏表示,使用柔软的语调是为促使学生示威早日结束,让外国资本家确信中国的安定,他向后者探寻修改四月二十六日人民日报社论的可能性,但是被以这篇社论是根据政治局常委会决定及邓小平讲话内容为而遭到拒绝。 , O4 B) F- \. G- b5 \& t) }/ r# Q 2 B H2 Q3 b2 x4 J: l+ k5 }赵紫阳为改变社论将学运定位为反党动乱的定义,打电话给友人、新华社香港分社主任许家屯,请他来北京一趟。许家屯后来发表的回忆录中指出,五月三日和赵紫阳见面,两人对情势的分析和意见近乎一致。赵接着提出四二六社论问题指出,常委中,乔石和胡启立赞成他的看法,问题出在李鹏和姚依林,拜托许家屯协助拉拢与邓小平有深交的国家主席杨尚昆。 4 X* ]# G" G3 G6 y - K' Q' l& F0 Q" J' d: d6 d! d五月四日,许家屯前往杨尚昆家,杨完全同意许转达的有关赵的看法,并称赞赵紫阳对亚银代表的发言,但是对要求邓小平改变四二六社论的主张表示有困难,指出他可试着向邓小平说,但以邓小平的性格恐不会接受。: S& L9 p2 q1 L, F8 q
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人民日报副总编辑陆超祺的“六四内部日记”指出,五月四日,社长钱李仁通知编辑部,赵紫阳的秘书鲍彤两度来电话,指出赵对亚银代表的谈话极为重要,要求在版面上大加报导。人民日报在五日以头版头条报导这则消息。# N! i/ m8 N, R
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赵紫阳在五月三日的演讲,四日对亚银代表的发言内容都是鲍彤起草,反映出赵让学生运动迈向结束的强烈决心,若是成功的话,赵将可重回权力中心,出现全面推动改革的可能性。赵紫阳掌握趋势是事实,但是,挡在前面的四二六社论是道很厚的墙壁。 5 F; H4 U" w h X- y- Y D; m Z# f
前年秋天前往杭州别墅静养的保守派大老,党中央顾问委员会主任陈云于五月七日回到北京,不久,保守派开始对改革派进行反击。 , s+ J) {4 \6 g k! W, g 0 |* g0 J0 H- n6 Y* X% ~! k【トウ小平秘録】(20)第1部 天安門事件 幻の柔軟路線 7 k/ \* Y5 y1 s% _7 V - m. M3 j! s+ r: `& ~6 Q0 K% @
■厚い壁、立ちはだかった1 x5 g: @3 Z" n0 C
/ p4 y, S7 ?: K$ b 北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。 $ C4 n1 _+ z, J% g( s j* V - q* Y7 t6 d" @3 D l* Z この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。1 k+ T+ b: {2 d
; C1 C8 c' j0 E 趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。 - o4 H7 q- E0 i+ Z) r- n* i- t V n% Q2 g' `
学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。' g% s) I( K+ f. x
4 N% p& \- M1 m/ u 学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。8 R& ]3 ]$ N' H4 q. L3 w: A6 G
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「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」 9 H8 q5 S6 @/ A) _) E' y& K 7 d+ a" S G8 ?9 m% f% t 天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。. j, }/ H# j- ~" n
$ l+ H4 X7 f) H. e& G' G S 張良著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、李首相自身、趙氏に「すばらしい講話で、評判は申し分ありません。明日のADB代表との会見で私も同じように話します」と語っていた(実際、李首相は5日の会見で同趣旨の話をした)。 a. ?# S/ X8 M. i# u! n+ [, b
7 s1 O9 |5 q8 b( \ その際、趙氏は「柔らかいトーンにしたのは、学生デモを収束に終息させ、外国の資本家たちに中国の安定を確信させるためだった」と話し、人民日報の4・26社説の見直しを初めて打診した。+ x5 ~8 q7 o- L; W( b7 F
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それに対し李鵬首相は「政治局常務委員会の決定とトウ小平(しょうへい)同志の講話に基づいており、それはできない」と拒否する。# {: m+ Z/ d M, |" Y% r' Z1 E h$ |
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趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。) q1 ~& f3 r& O/ j
2 K" F% v0 Q% w* R S 許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。 $ G! j+ L. k0 Y! y! a/ L3 B0 w4 D# I/ W3 b/ w5 d" B1 ]
趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。% M, C8 | _* a
0 L+ R5 e# `& S 翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。" a- `5 C6 Z+ g8 w. x) R. d
* D4 D2 u! D% y p 「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」 + G. s$ D, u; m9 s( b e+ d& A& M, ]: H9 C f9 }1 D- T 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。 l+ x. o1 }: l: Y6 F& w8 \) V# X# r3 o/ h/ W
3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。7 O% c1 Y3 X6 V
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許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。) i: {3 S; M! i0 [ H" F
" I) I. C c0 z 趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。 , V7 j" Q5 F- V6 v$ T- e0 Q* q0 d7 @, V/ m( {5 e8 n
前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正) , m5 G+ Z8 |" x/ H9 t) u+ G- H$ L7 L2 f. Y. r7 U
●=彫の周が丹 & A5 X( v$ }: p& {# I* m( V* x2 `# [, e+ P: k: Z2 G
■新華社香港支社 国営通信社新華社の香港の出先機関だが、1997年の香港返還前までは報道機関としてだけでなく、中国共産党の対外工作部門と政府の在外公館の機能を併せ持っていた。許家屯氏は83年に党香港工作委書記兼香港支社長(中央委員)になり、香港返還交渉に活躍。趙紫陽氏との関係を疑われ90年に米国に脱出、91年に党を除名された。 ' m* K7 o% \7 }/ O. x5 `- m# y- k, j6 K% G( p% ]
(2007/03/05 )作者: 日月光 时间: 2007-3-6 08:05
邓小平秘录:邓氏曾为民运对策态度犹豫 ( m7 l. W. ?& M( `# y2 a 7 Q9 {( W3 e$ x, }2 {) m) F2 @(中央社记者张芳明东京六日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日党总书记赵紫阳对出席在北京召开的亚洲开发银行理事大会说明对大陆民运的看法后,拟以对话来收拾事态,邓小平对民运对策曾态度犹豫,学运领袖王丹等采取绝食抗议行动使得情势为之一变。 5 ?% F# P3 I( W) O+ D$ o" u & D8 h5 N7 a2 {# D“秘录”指出,一九八九年五月四日亚洲开发银行在北京召开理事总会后,党总书记赵紫阳有意经由对话收拾学运。中共于八日和十日分别召开政治局常委会和政治局会议,决定促进与劳工界、媒体和学生的对话,早日召开全人代常委会及检讨处理腐败和民主政治建设具体案。全人代常务委员长万里决定六月二十日前后召开常委会。$ }# \* T7 `: L5 q% M
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中共党中央对民运改以柔软路线因应并非未遭到保守派的抵抗,且在社会各界引起复杂的反应,多数学生回到教室,五月八日时,只有北大等少数学生继续罢课,反应最敏感的是媒体界和知识份子,五四以后,要求“表现自由”的气势增高。6 c1 O1 Z1 f# M- J1 ~, G
m; v. f* x j e. G五月九日,中国青年报发表千名以上新闻从业人员要求和政府对话的信函,新闻报导和社论也出现很大的变化,支持赵紫阳路线的色彩升高。人民日报高层在内部达成共识,采取慎重态度未像中国青年报那样积极报导,主要是担心这种作法会提供反对赵紫阳讲话的藉口而挑拨激化邓小平和赵紫阳之间的矛盾。 : x6 L" D' [! O. W3 c0 Z0 s- u3 z0 a- X i- S( f5 O
张良编著的“中国六四真相”指出,杨尚昆国家主席于五月十一日和邓小平见面,指出王震虽反对赵紫阳五四讲话的内容,但是这项讲话确实有助使得示威趋于平静。邓氏则指出,李先念和王震等元老曾来电话要求他留意赵紫阳讲话。他接着指出,数天来一直思考到底是柔软对策还是强硬对策有利于解决问题。2 v- [- ~; F7 c! D& g/ v. F
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杨尚昆随即向邓小平试探修改四月二十六日人民日报社论强硬路线的可能性,表示赵紫阳希望能稍微淡化社论的语调。邓氏只回答表示有意了解其他政治局常委的看法,并未表示反感。 ; i- c7 s! c5 B% p$ l7 b$ O4 E # w+ K- h/ e, `9 M3 x当时邓小平脑中最在乎的是四天后苏联共产党书记长戈巴契夫的访中,他和杨尚昆有相同看法,认为历史性的中苏和解不宜在民运示威中进行。 3 b- i1 I8 b! ]- W, \" G- w# M$ B) i; _5 L) ~4 C% P* a% w) T
就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。4 H, e. i: Z4 c3 c" F4 Q
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【トウ小平秘録】(21)第1部 天安門事件 内部分裂 $ u3 c$ i! c3 l! U 7 s# h6 z# s6 q) w.: B: U* w; |. \# Y2 M, E4 f# V
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中国共産党の前総書記、胡耀邦(こようほう)氏(1989年4月15日死去、肩書は当時、以下同)の追悼がきっかけとなった北京の学生たちによる民主化要求の運動は大きなうねりとなり、事態は予断を許さなかった。. I. F8 b! j) \( |
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89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。4 @5 R1 A2 u7 R5 G- g$ L/ r
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5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。( ~# t% ]# x z3 u
4 g% l. ?; U3 }+ u1 ^ b
これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。 $ h, r( X+ p' w7 C9 k/ I9 r' w0 U ~) I
柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。; F) t5 o: e. w1 b
: C# S F7 \7 r# ]1 H1 h 「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」' I& w5 T/ |$ e! K. t3 X4 N! k
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張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。# c9 ]4 h" v1 x0 x1 O& k
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党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。 , Q" B* t- {0 O* M! m! R 0 I0 L% w" G6 Z! b9 @; \5 v6 H 最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。- x# n' L; ^, y* D3 [
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9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。 . D# w5 w% n) |/ h3 A 8 g ^. V+ o6 B1 E4 h. ` 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。5 x' h5 j+ \$ M4 ~% Q
% A& s3 A; i& F1 U! d7 ]1 C+ j1 ], ?
しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。 6 N) ]7 m9 P/ ]! p! l; ] M' o% ]; T* K
陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。( U1 k+ p7 O4 P* G
; ~* m5 ~7 P/ c$ [ そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。9 L' c9 o# v# l0 f2 h
$ O* Y/ `8 ~; x3 ^5 ~8 n+ r(2007/03/06 )1 m' N3 u0 S7 S0 l0 M2 [# q/ \, ~
# `' W, H* R# u, C `, b. h" r 作者: 日月光 时间: 2007-3-7 10:31
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口9 |$ m" F, ?* C: ^# D
中央社 - m- ?- _+ _5 ]4 @8 \+ `4 X A6 P' ^
日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。3 L9 \ S' I" ^% m0 w( _4 V
; e3 G/ s1 |" ]+ M 「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。+ i, {7 M; m, T2 _
% ~6 P. J; ]( F& M# y 「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。 # [. r; e: s2 H7 w # `2 x, F2 |5 x2 l 王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。 / u8 Z" n* u3 b" g# D& q5 a, b/ h7 N, y1 v7 I3 w0 q6 Q
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但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。2 X* T' @9 F! \; X2 h! d3 e9 d
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王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。 & ~5 U7 K8 w3 ` $ e( o% {1 P! ] 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。 ' p l. y& i( p0 M8 Y6 K% G* ? 7 i) P. S0 u3 ] 就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。2 a! u, c% |0 K! d
0 L/ E7 \. |. @ 邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。) W4 m4 b i, b/ a9 k
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对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。 + `/ t9 g5 z$ |+ L " [ _ Y6 ?) l" Z ]* N 学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。 t W# J5 J& ?/ u9 C9 W) y: s, i7 ~% L0 t0 k! a# m- h
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【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言 / b4 r! w" X+ F; @ + T( P: k+ J0 q- ]■急進派が押し切った ( {) Q Q" T4 |! _4 t( [0 c: S: `% r2 ]
1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。# y7 z9 r$ J6 ~6 z: z' t
4 y# H z" w$ l& E5 ^. E- Y, j9 l 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。$ d5 K g5 `: k8 p' ?" N
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同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。 + W; a! T5 s8 z5 s9 P $ _0 \ i" c- _( L O3 ?9 L0 P. z しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。 $ n" E- Z& _* ]0 ~' E * D5 V% Y$ k9 S( a3 m# x 絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。 , D& l+ p2 J9 A; v( d2 I7 s5 y% k- W: a6 ]; s! v" Z2 M- @) l5 n
それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。 2 d# x/ I. ?0 _8 C 8 P0 Y5 b' ~; o; L5 U2 o, }5 {- L. s 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。4 `5 q+ V9 O$ L7 Z, [
% y0 Y+ @0 @9 A8 G 王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。" z# e/ q- a* N& Q7 K0 q+ E
3 A/ a) X" K3 [7 a4 b: i/ V* P7 l" c 在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。 t3 C1 h ^, p6 }
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李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。( s6 O& m3 L2 m6 k7 K' o8 C# n
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14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。0 Y, L! D! x/ W& M; D
9 Y) ]; m# z; t& T: L3 ?, b6 w8 { 政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 6 v N" y1 U, U 9 j; O4 i8 w g- K9 h6 L9 Q5 x' E/ ^7 ] 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。4 y2 C. @# D- u, H: n+ N
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それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。6 N) h! W: n, r9 I8 l* C
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趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。 & \' e2 g- O, R4 T- D! r7 s; o( Q- K7 H( s' _7 A/ ^0 H$ @; `* g
14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。 2 r& ]/ U* ] V; A 0 E' ?( Y0 a/ X* s 絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正) & m- Z2 S! ^6 r/ J' g# X1 ?2 a' {) f, ]+ Q* n
●=彫の周が丹( f, p- d; J" p- i5 m) L$ P
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【用語解説】中国社会科学院 . a6 j( ]- h! @- O4 r- ?4 M) P. m; L9 ]% ~
中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。 ' g0 {( {$ f+ P* y ) R: L7 J* n" e. I4 B(2007/03/07 )
; B9 W0 i; b/ e" ~* {赵紫阳和学运一样,逐渐失去退路,欲情势逆转唯有即时中止绝食。赵紫阳在十七日凌晨代表党中央发表书面谈话,肯定学生的爱国热情,承诺党和政府不会进行报复,要求学生中止绝食,回到学校和党中央及政府进行对话。- S$ r7 ?- V$ n. p) X8 U# P
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陆超祺的“六四内部日记”指出,十六日傍晚,人民日报社长钱李仁和拿着中苏会谈照片前来报社的杨尚昆长男杨绍明见面,拜托后者说服杨尚昆让赵紫阳的谈话刊登在人民日报。党中央于十七日凌晨透过新华社把赵紫阳讲的话向全国报导,但由于并未对学运定位“动乱”予以否定,效果令人质疑。 1 ?1 b; l' ?! J c* ~! _. f/ U0 q! h: _) h* N. H; \
赵紫阳于十七日早上送函给邓小平要求见面,希望邓小平能修正四二六社论,他把这次见谈视为最后的希望。“邓小平年谱”指出,十七日下午,政治局扩大会议在邓宅召开,除常务委员之外,杨尚昆也出席。: L7 t7 j' x9 _
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赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。( w$ ]( [: h( h& u- s
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【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談 $ Q3 U1 g+ s: I % S2 \+ x: `( K8 }! Q: X北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。 o+ L" `# V8 G/ W) r, I* X. e' V
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宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。' b0 }& a& J. k
3 [$ R- O7 H. b! q, S2 S" H: w ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。 4 q2 ?( l4 }8 n/ R6 o8 h1 B 4 y0 u0 K7 Y- m7 E3 w. d 「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」 8 E( v; A8 x: Q7 ~8 Z ( o# ]$ r% M" J7 C5 Q 重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。7 a& n5 a' A' }( q. B* {# m
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趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。- Q8 `, @( E% ^
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鮑氏は「李鵬は(学生デモを反党的と断じた人民日報4・26社説の)『動乱』規定はトウ小平講話に基づくと言いふらし、とっくにトウを前面に出していた」と趙氏を弁護したが、タイミングがいかにも悪かった。+ @: y+ E1 B# `4 S& ]1 y& i7 j
: J8 g5 o5 \& ~4 Y( J 新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は「この談話(趙紫陽氏のゴルバチョフ氏への説明)を聞いたとき、多くの人は、趙紫陽には局面悪化の全責任をトウ小平にかぶせる意図が潜んでいると考えた。これでトウと趙の関係は決裂した」と書く(「中国改革年代的政治闘争」)。 6 F! n v' |. P, G: x% v3 x0 U' q. h3 H* N8 p! \* d
その報道の後、学生が「垂簾(すいれん)政治反対」「老人は引退せよ」などとトウ氏攻撃を始めたからだ。0 Z; J1 }! I" r
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趙氏とゴルバチョフ氏の会談が終わった後の16日夕、天安門広場では、閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長が絶食中止を必死で訴えた。約2000人になった絶食学生からは病人が続出していた。7 L& T9 e* A' v7 b8 I7 [
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北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ両氏は動揺し、絶食中止を提案したが、拒否される。世間の同情と支持、メディアの注視が集まる中で、絶食学生らは高揚し、運動は統制力を失っていた。 4 q) D2 G% W a) A U. A! v$ ` / z! S2 _; X5 ^& o% K" B この日のデモも50万人規模になり、労働者や文化人、ジャーナリストなど、参加者の広がりが目立った。大学の大半は再び授業放棄に入った。! X# N/ m7 q$ `4 D
5 Q' v. e3 B+ |8 }" @
既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。 6 P; N" b: i2 P" s! G$ c- a0 T, I 6 O N0 G0 I8 | ^8 O: A' w( j しかし、それまで趙氏を支持していた喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)両常務委員は疑問を示した。常務委にオブザーバー出席していた、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と薄一波(はくいっは)中央顧問委副主任も柔軟路線に反対した。 $ Q) ~0 [( B8 V* J' T/ w2 x( G8 N/ k8 C0 _2 f
学生運動同様、趙紫陽氏も退路を失いつつあった。形勢逆転には絶食の即時中止しかない。趙氏が17日未明、党中央を代表して発した書面談話には悲痛な響きがある。 * _6 Y4 }; ?4 R1 W+ ^- m3 D" f( U' z
「学生諸君、君たちの要求する民主と法制、反腐敗、改革推進の愛国の熱情は尊い。党と政府は決して報復しないと約束する。諸君が絶食を中止し、学校に戻った後、党中央と政府は君たちとの対話をさらに進める。再度お願いする。絶食をやめてくれたまえ」6 u+ ]3 I# n, J( J. r' e: y
1 W. r" @6 M" h0 G 陸超★(りくちょうき)氏の「六四内部日記」によると、この談話は16日夕、中ソ会談の写真を持ってきた楊尚昆主席の長男でカメラマンの楊紹明(ようしょうめい)氏に人民日報の銭李仁社長が会い、趙氏の談話を同紙に出すよう楊主席への説得を頼んだのが発端だった。党中央は17日未明に新華社を通じ全国に流したが、学生運動の「動乱」規定の否定を否定しておらず、「効果には疑問があった」(陸氏)。6 y# b# B Q1 A6 E, X' i$ A5 P
( [8 U- b7 A7 F" S8 x# _ 趙氏は17日朝、トウ小平氏に面会を求める書信を送る。トウ氏に4・26社説の修正を受け入れてもらうためだ。趙氏は面談に最後の望みをかけた。/ z5 M4 _, P6 k6 l$ C
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「トウ小平年譜」は「17日午後、住居で政治局拡大会議」と記している。その通り、トウ氏宅には李鵬、姚依林、胡啓立、喬石の常務委員と楊尚昆氏も集まっていた。 ! o, @( R( _3 F4 h) H$ i9 u2 ^ ; i$ P( K! K5 R8 b) o 「私が面談を要求したのに、トウ小平は彼らにも通知し呼んでいた。私の意見は聴く気がない表れだった」と趙氏は92年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」開放出版社、07年)。 - U2 u4 s% e" J9 K: T ! f7 p% ^1 g4 _! S8 V! y1 W トウ小平氏は既に重大な決心をしていた。 7 K/ r% `6 l8 Z8 l9 c - ^ h0 f' T# e6 C(伊藤正)' d, R8 ~3 e! q" D0 L; H: Z6 I
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◇7 v4 ?2 E5 C! N9 r: n
( u7 H. v6 @8 t【プロフィル】宗鳳鳴氏 ' }( n2 u, i' z" T( j / R( W# s5 X; X 趙紫陽氏と同郷の河南人。航空技術畑出身で、元北京航空航天大学教授。80年代に国家経済体制改革研究会に参加、趙氏と親交を持つ。趙氏が天安門事件後、軟禁された1年後の90年7月から、死去3カ月前の04年10月まで、「気功師」として趙氏宅を約100回訪問し対話した記録本を今年1月に刊行。00年刊行の回想録でも、趙氏の発言を紹介している。5 m* ?6 h: i* _ V! D7 H
5 n& I U$ Z7 U●=彫の周が丹 ) y' F! K/ X4 n' P& p 7 V& A' T# @) i0 K: C★=示へんに其 ! U; z9 `3 Z" [6 x3 S! M" r: C+ q* Y" L0 i$ P* h
(2007/03/08)
- z' G2 _+ L. ?2 a# b ` 张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。' ?; O ]) M6 p0 ~
6 H3 N% l J! z. h" N! X/ n
天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。9 c g- H2 Q* Z V: m0 Y' O
$ S9 C6 f, S' X+ f7 d9 z1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。/ S2 [, c& S' V7 j' j9 s2 S
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「来るのが遅すぎた」% V" W3 {( e" G0 `! ?
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四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。 ) I! Y2 T7 f& w! `0 s( J* E' c. j$ ?
張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。$ U; B, x* q I S
3 U& y. h, t* A) |0 W Y5 ^7 i" ~4 C 長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。 2 g @) n$ e9 l' l4 M 9 J* n/ s0 C; v }' \" [8 H0 B 「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」6 [, L4 ]( j% W" D
% ]' ~2 J/ y- G4 Z7 C& U5 o; c+ k 数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。+ B1 h2 {( r9 T+ [- U/ S* m% O
5 d, s& d( }3 [& n0 Y( F' C
「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。 7 M2 r9 f: I9 Q4 N3 a' [& z 5 i3 t; [+ g. s 文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。 ; ?" G* L2 q1 E( @7 c: V2 x ; b- v* _5 @9 m# O8 D 「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。 ) L. A( X; h2 @* S& [0 E7 W) n4 s) h' F h" V
トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。 , S) b) P+ ]+ ]4 `; m - j) h% Y, V& h 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。 8 E$ Z" ^0 d. d$ u1 |2 J+ ?' k& C0 P, `0 u
19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。 9 F f7 N) ~6 k$ w! v" n m' l & `* H& @3 ?/ }" C5 [4 c 「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」0 i& H0 y- u8 q3 {8 [$ a' L
+ n# H* e- I5 c! o' u. v; N, q+ S2 n 学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。 ! A3 _$ |1 c: ~- P$ G: e# H# K2 a% k# c/ U* w0 s; v% |: r+ k% y
朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。 ' g8 |$ N# \" A% Z" F" M 2 f* v1 l! k9 Z- V5 U A9 N 「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」0 S- z& P+ m, B1 o0 D
: \2 L3 B1 J9 `8 C, y, w 楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。 / o" ^! Z! j+ E/ d. ~; P9 a * L* x+ m( q8 f% n2 y- e! m2 T/ U) a 李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。 3 \ e/ n0 G0 o% P7 U' G; d0 _6 i# N& M4 k6 ~
趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。3 D% M! g2 K: B- t8 ?" B# v
G1 ?3 I) Y/ g" x 絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。( s: i% q- Y# C8 o
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新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正)) d9 j, t ?. j# _( U, U
6 y) _0 w" V7 a. @2 d3 B' C" D ◇" N/ q w- D7 e. a* }
9 k/ ~; Z& [6 f: p1 ?, s. c【用語解説】中央軍事委員会 2 ?( o3 q* s% d1 t: |3 B4 n8 c9 Q/ e/ G5 C0 | N/ \1 P
最高軍事指導機関で、トップの主席は軍統帥権を持つ。党と国家の2つに分かれているが、実質的な違いはない。トウ小平氏は81年6月、主席に就任。当時は党副主席で、それまで毛沢東、華国鋒と党主席が兼任してきた前例を破った。87年の党大会で中央委員を辞退した際、党規約を改正し軍事委主席を続投、江沢民氏も中央委員引退後約2年間、主席に留任した。戒厳令布告は首相権限だが、軍動員命令権は軍事委主席にある。, g$ M3 J$ W# x F7 O
' |0 e8 S/ b. e- X7 g U% s/ a(2007/03/10 ) . B9 C: N2 Q' p1 z4 z: |3 H& d) F& A0 G! Q/ ^
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( X0 i2 \9 |) k% C. j1989年5月19日未明、北京・天安門広場で学生たちに絶食の中止を訴える趙紫陽氏。右後方は温家宝・党中央弁公庁主任(現首相)
5 l+ c! ]* o' O; |: G 「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」 1 K6 f O, F4 w3 | 1 R8 g1 Y4 Q2 y! t% r9 t 1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。9 C! j$ x2 ^( I5 E' ]0 k, y
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この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。* X E1 C, O. ^* e& _! b7 l
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李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。/ w+ P" \) A$ r& H* W ^! ]1 t- _; v
9 M6 {# L# R/ E' o ≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫! M$ g1 K8 I! P6 N$ i
邓小平秘录:民运对万里的期待遭到出卖2 ^; N; }. Q$ U8 L9 `# {0 B
中央社 ' f$ ^4 d* s5 Q 1 h$ m P! K, w; }4 ~ 日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,中国大陆民运人士曾对全国人民代表大会常务委员长万里表示期待,结果遭到出卖而落空,一九八九年五月二十日,中共宣布戒严令后,全无同意学运要求的气氛,使用武力的可能性日益增高。 ; c8 D9 Z4 v: @% ~" n0 e2 k& j* Q! ^7 l6 i, _* s7 X9 h
「秘录」报导,新华社当年五月十七日报导在加拿大访问的万里发言肯定学运升高了社会对他的期待。万里谈话被报导的当天,北京有一百万人示威,谴责邓小平和李鹏的强硬态度,声援绝食学生达到高潮,中共宣布戒严令之后,民运对政府的抵抗色彩更趋浓厚。1 i: e$ v& `# X) g' h/ z% P# x
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张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳于五月二十一日经由秘书鲍彤要求万里早日返国,社会各阶层和学生对万里的期待升高,学生计画二十五日热烈欢迎万里返国,但是,这项期待遭到出卖。/ d M; u3 i( e& a2 @
* ~& F: e8 Q6 n$ f) F3 @ 万里虽提早于二十五日凌晨返国,但是并非回到北京而是上海。没有人相信新华社所报导的,万里是为治病,两天后万里表明支持党中央的决定。万里的返国问题显示元老主导下的强硬派正在控制局势,加强对各方面的取缔,并着手准备对天安门广场进行清场。 [% W' [& G2 l8 ~ / ?! |: E. J/ v K7 Z4 S& T) ` 五月二十三日,北京出现戒严令之后最大规模的数十万人的示威后,中共有关当局下令各部门和工作场所禁止示威,二十四日以后,参加示威者急速减少,中共元老们的动向也逐渐明显化。大陆知识份子预感党中央行使武力的行动已接近,继续说服学生撤出广场,学生也曾决定撤出广场,但是悲剧仍然发生。) _6 i% o' {6 W. B n7 I
; `, P/ W ]: R1 z【トウ小平秘録】(27)第1部 天安門事件 緊急帰国; e3 v9 q% O9 ]+ N6 ~
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天安門広場での座り込みは続いていた。1989年5月20日の戒厳令布告後、学生側は北京市民とともに軍の市内進駐を阻止していたものの、政府が学生の要求に応じる気配は全くなかった。むしろ政府が武力行使に出る可能性が日々増していった。6 g* @& @' z N5 i- V6 \( {/ O- N, w
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期待は裏切られた % Y1 X: s. X5 }# p. s b- w8 P& g3 Q( R" O
そうした中で、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長(肩書は当時、以下同)への社会の期待が高まる。きっかけは5月17日の新華社電が、万氏が訪問先のカナダで、学生運動を「改革を促す愛国行動」と肯定する発言をしたと伝えたことだった。 h! |" R) y8 B/ Q N h. F1 u/ |( V, b, ?9 ~' P
万氏の外遊出発前に、6月20日前後に予定していた常務委会議を繰り上げ開催しようとの動きが常務委員を中心に始まる。 0 S5 r p2 m- i5 q+ _ e) ~; _
万里談話が伝わった5月17日は100万人デモが行われ、トウ小平(しょうへい)氏や李鵬首相の強硬姿勢を批判、絶食学生への声援がピークに達していた。政府に対話を通じた事態の平和的解決を促すことが、緊急会議招集呼びかけの当初の狙いだった。6 D/ @& C$ M+ L8 k! p
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しかし戒厳令後には、政府への対抗色が強まる。例えば21日に胡績偉(こせきい)・元人民日報社長ら40数人の全人代常務委員が署名、発表した緊急会議提案書は「法的手段を通じ人民の意思を反映させる」と述べていた。某常務委員は「李鵬をクビにする」と語ったものだ。, G j5 B) s+ G! E+ h1 w
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党中央の指導下にある全人代が党の決定を覆すことはあり得ない。が、万氏が帰国して全人代常務委を招集すれば、戒厳令反対の声がさらに強まり、形勢を逆転できるとの淡い期待が趙紫陽(ちょうしよう)総書記周辺にあった。; A7 }& w( N% e' U4 n, X
( N- h! p# f5 i6 N+ z: T, A* @ 趙氏を支持するコンピューター会社「四通集団」傘下の四通社会発展研究所の曹思源(そうしげん)所長が、緊急会議招集を胡績偉氏に働きかけ、自ら各常務委員の署名集めに奔走したのはその一例だ。 ; a) R2 F* }) s' ^- x, p/ {! I: A2 J4 l; \
また張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、趙紫陽氏は5月21日、秘書の鮑●(ほうとう)氏を通じ、万里氏に早期帰国を要請したという。万氏は趙氏の長年にわたる改革の同志であり、外遊前には趙氏の柔軟路線を支持していた。 8 g: D7 s$ s, |' y2 |; O1 r H3 B$ o q' V( b$ N
万里氏への期待は社会各層に広がり、学生たちも同様だった。学生たちは25日に万氏の帰国を歓迎する大デモを計画さえしていた。* a6 G2 q$ ?$ N( h
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しかし期待は裏切られる。万里氏は5月25日未明、日程を繰り上げ帰国したものの、帰着先は北京ではなく、上海だった。「病気療養のため」との新華社電を信じる人はいなかった。2日後、万氏は、党中央の決定への支持表明をする。 # X5 x* @( K! M, o. ?# H! I6 e" k5 l( L, p! C% _" ^
「真相」によると、トウ小平氏の指示で、党中央は22日、トロント滞在中の万里氏に「米大統領との会談(23日)終了後、速やかに帰国し、しばらく上海で休養するよう(との指示を)決定した」と至急電を打っていた。同時に、上海の江沢民(こうたくみん)書記を23日、北京に呼び、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が江氏に対し、万氏への説得工作をするよう指示したという。 * b0 u) c4 c- G. Z' x6 M$ H: X" ]9 y. e5 n% c! H( T+ E/ {
《万氏はこの件を含め、天安門事件に関しては沈黙を守っている。趙紫陽氏は97年7月、友人の宗鳳鳴(そうほうめい)氏に万氏への怒りを表し、事件への態度を明確にすべきだと述べている(「趙紫陽軟禁中的談話」)》 2 H5 F3 E+ B; z7 ] 7 s% l$ O; c: } 万里氏の帰国問題は、トウ小平氏ら長老のリードの下、李鵬氏ら強硬派が事態をコントロールしつつある表れだった。各分野で締め付けを強化、天安門広場の「清場」(学生一掃)への準備が進む。; E# c8 d! l7 T3 e( k7 W2 o9 S
7 Q. l) ]* O6 ?" y 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、新成立の「宣伝協調小組」(組長は王忍之(おうにんし)中央宣伝部長)が5月23日、各メディアに対し、すべての報道は「(戒厳令を予告した)5月19日の李鵬、楊尚昆講話と一致しなければならない」と通達した。% A) y& c4 @. v8 T
! G( I' p |# S その23日、北京では戒厳令後最大の数十万人デモが行われた後、各官庁、職場にデモ禁止令が通達された。24日以降デモ参加者は激減する。0 t2 ~6 X e, ^' p1 }9 U
+ u( R' R% t* H& V! |7 w$ H 楊尚昆氏は24日、全軍拡大政治工作会議を開いて、戒厳令に至る経緯を説明、動乱を制止し秩序を回復しなければならないと思想工作の徹底を図る。3 B# r# _5 j' W4 ]) L2 \
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長老らの動きも顕在化した。陳雲(ちんうん)中央顧問委主任は、23、24両日、李先念(りせんねん)政治協商会議主席、彭真(ほうしん)・前全人代常務委員長、王震(おうしん)国家副主席、薄一波(はくいっぱ)顧問委副主任氏ら長老のほか軍長老と会談、薄氏にこう話す(「陳雲伝」「陳雲年譜」)。; V* R# l2 x4 O; X& E
% F- \9 h3 Y2 ?! A4 o( G 「この局面で、引く余地はない。(デモを動乱とした)人民日報社説は、もう少しブルジョア自由化反対を言うべきだった。今やわれわれ老同志が発言しなきゃいかん」 ) A# ~& _$ B& x4 @7 J0 C6 ]- H 4 B0 b8 K1 f( H- K) z* f 陳雲氏は26日、顧問委員会常務委会議、李先念氏は27日、政協会議主席団会議をそれぞれ招集して演説、彭真氏も26日、全人代副委員長7人と座談会を開き、戒厳令支持で意思統一を図った。 % @# t I% ?( U" G 3 v9 o4 F9 o/ E- T 知識人たちは、武力行使が近いと予感し、学生たちに広場撤収を説得し続けた。+ i+ t5 f( _0 e/ i. l
% d: O5 X8 n9 V5 E いったんは撤収方針が決まるのだが…。(伊藤正) & {7 O% }) I& u) o- \ 6 o \9 k% r4 A* @ ■全人代常務委員会 国家の最高権力機関とされる全国人民代表大会(全人代、国会に相当)の常設機関。委員長、副委員長、秘書長、委員で構成され任期は5年。年1回開催する全人代の閉会中、憲法の解釈・実施、法律の制定・改正、経済計画案や予算案の修正、戒厳の決定などを行う。+ z, l5 G* V- L+ l
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●=彫の周が丹 3 ?7 ?2 A, |# H; h+ d$ b8 K5 ?6 p$ }$ Q0 v$ W
(2007/03/13 )
邓小平秘录:民运人士拒撤退血腥镇压成定局; r) V0 o& M1 p% [+ f
中央社 % U/ R r% k: b 5 s' w+ k* e2 D% |. i3 J 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月下旬,中共当局企图武力镇压已迫近,当时避免流血的唯一方式是学生撤出天安门广场,但是要学生撤退困难,结果学生拒绝撤退,中共血腥镇压成为定局。* E J) W& L( P8 ]
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「秘录」指出,五月中旬学生开始绝食后虽发展成为整个社会的运动,但参与运动的知识份子领导能力有限。二十日宣布戒严令后,大半知识份子主张应撤出广场,结果却未能如愿。 / X9 v! M6 M8 J' ~/ |/ f& R2 x( ?/ V, d
中国社会科学会历史研究所副研究员包遵信曾在天安门事件后为文指出,北京社会经济科学研究所副所长王军涛本有机会说服学生撤出广场,但负责广场总指挥的柴玲突然改变心意,拒绝月底撤出广场。柴玲的先生封从德则在「天安门之争」一书中指出,五月二十五日晚上开始的民运领袖会议,九成七对撤退投反对票,柴玲只是加以宣布。1 M1 Q1 N! t e5 W4 ^
7 _. w' _" r8 Q* B 在学运扮演军师角色的王军涛认为学生若不撤出广场,中共行使武力已是不可避免,开始着手学运遭镇压后,主要学生领袖逃往海外的准备。天安门血腥镇压后,王军涛、王丹和包遵信在国内逃亡,三人在十月底以前都被逮捕,但多数民运领袖逃到海外。 . `3 g% U/ d5 L# u + G* ]0 K* w) ~6 }# {. T6 j 中共当局在天安门事件后指出反革命暴动的黑色打手「三所一会」,包括中国经济体制改革研究所等三个研究所和一个学会,它们都被视为是赵紫阳的智囊团。「三所一会」直接的罪状是五月十九日晚上发表的声明,中共断定它们和鲍彤关系很深,后者泄露戒严令等情报造成学运对抗政府的行动。但是,鲍彤事后一贯否认这项指控。 - A% E) L( v: H3 \* B5 q* G1 h, n" t F4 G5 B$ K
鲍彤于五月二十八日突然遭到逮捕,被送到北京市北部的政治犯监狱「秦城监狱」,这是邓小平等元老和李鹏总理等保守派决定武力镇压而进入具体性作战的一个信号。 4 v$ f+ J% ^, b5 K& i4 O9 z: Q6 O+ U9 x" |
【トウ小平秘録】(28)第1部 天安門事件 撤収拒否 . M4 _# D( Y9 z& a; Z4 G/ a# `2 G8 d; e0 w. z
■必至だった血の鎮圧 " [- R3 n2 o) d( X/ A) g# ? 5 d+ k z% F+ y8 L0 B& g; O 「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。% O8 p# z- ?( v q5 G$ m! q- F. H
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5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。7 K! q& Z0 ?, j7 N$ s+ p4 z
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5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。 7 v6 \6 G8 p5 Y1 E. o* O" n/ p. R* |& Y/ o4 Y
包氏「何とか学生たちを撤収させないと」 ; }0 J* t# G* E1 S3 ? # A1 K8 L' A3 M 王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」5 H s9 [5 x6 k
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包氏「(撤収は)いつ?」& x' N. Z+ M. a% `+ X# a, N7 c% k
6 [ a7 \; ~ D$ h* y# x( z 王氏「今月末だ」0 _% R L9 ?, V7 i* ]3 x, e, k( C
2 q& p# H1 U1 e) g0 A1 R5 q- u 王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。 . Z: y6 I" \# o4 i( x 4 }+ ` ?& z+ v1 }; J& s) u ところが、広場総指揮の柴玲(さいれい)氏(北京師範大生)が突然変心し、月末撤収を拒否したと包氏は言う。6 K, `/ H9 J* ]7 n- f* w5 J
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「柴玲の変心についての伝聞が強く印象に残っている。彼女は撤収の主張は、知識分子が広場の運動を左右しようと企図している表れだと話したという。(それは違う)撤収は学生の身を思ってのことであり、全くのぬれぎぬだ」+ n2 P5 F1 y: R
0 q; v; ?, ]" p. b, v5 n+ A: n 柴氏の夫で、北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏の著書「天安門之争」によると、25日夜からの広場占拠グループ会議で、97%が撤収に反対票を投じ、それを柴氏が発表したという。数千人の座り込み者の8割は地方大学からの上京組が占めたことも影響した。彼らは強硬派だったからだ。& Q0 R% v. K1 I$ Q7 c# k
, S: ~7 a5 `0 B3 f! T2 x 高自連内部は方針の違いや多額のカンパ資金の分配法などから対立が絶えなかった。5月27日、柴玲、封従徳両氏は、高自連から資金が来ず、運動継続が困難になったと王軍濤氏に訴えたという(陳子華ら著「浴火重生」への王氏寄稿文)。$ r' N+ J& e8 I' f8 T/ I6 O' ~/ z
4 G E* L+ n0 K- e( z 王軍濤氏は2004年に書いたその文章で、自らの運動経験や思想遍歴を加えながら、89年の学生運動とのかかわりを詳述している。その中で、広場の学生たちの撤収拒否を受け入れた点が最も興味深い。) U9 ?, I+ A& o
* r0 T% \7 L/ R; P2 ~5 |1 }; V' x 彼は文革以来の豊富な運動経験から、学生が撤収を拒否した段階で、武力行使は不可避と読む。しかしこの運動の主体は始まりから学生だった。彼らの意思を尊重しないわけにはいかない。6 X% S7 \8 V+ c2 N1 k; r# {/ q
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そう考えた王氏は、最後まで責任を果たす決意をする一方、武力行使後の弾圧に備え、主要な学生指導者らの国外逃亡の手はずに着手する。 : S% X- O8 [2 E" G% m3 N6 ` h' @2 d8 e, p0 m ≪王軍濤氏は、血の鎮圧2日後の6月6日、王丹、包遵信両氏とともに国内で逃避行に入る。3氏とも10月までに別々の場所で逮捕されたが、多数が国外に脱出した≫6 s, o) r8 G, |# n: V# P
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王軍濤、包両氏の主要な罪状の一つは、5月27日の「首都各界聯席会議の十項目声明」に反対しなかったことだった。 4 o' _% C' ^- _7 L" \, I ! X; `2 j9 y0 T2 ~ 声明は、学生、知識人、労働者など9組織連名で、学生運動の過程を総括し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を支持、李鵬(りほう)首相らを非難した上で、全国人民代表大会(全人代)常務委員会開催予定の6月20日まで運動を継続すると宣言していた。 . ^* h6 B3 K2 n, H: M# T& G+ D8 T5 V6 _ \2 |7 t
連合組織では過激な意見が通るのが常だが、知識人グループがそれまでの主張を変え、天安門広場占拠継続を支持したことは、運動の主導権が体を張っている学生にあったことを意味していた。 # i/ D+ T" e( ~1 ? + f3 g- J/ Q- |; i" o+ L! L この声明には加わらなかったが、当局側が天安門事件後、反革命暴乱の「黒い手先」と名指した組織に、「3所1会」があった。中国経済体制改革研究所など3つの研究所と1つの学会を指し、趙紫陽氏のブレーングループとされていた。* B2 _/ ^9 L' v# D
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直接的罪状は3所1会が共同で5月19日夜発表した声明。それは戒厳令が近いことをにおわせ、政府部門のデモ参加や全人代常務委の早期開催を呼びかけていた。$ ^( e+ S! N+ X+ r9 O) @: B
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3所1会は、官製組織で、趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏と深い関係にあったため、鮑氏が戒厳令や趙氏の窮地情報を漏らし、政府に対抗する動きに出たと断定された。鮑氏はその容疑を一貫して否定している(回想録「中国的憂思」による)。 V( r/ m7 v+ |5 s 2 j8 w2 s& `; t" n! I- u! h 鮑●氏は5月28日、突然逮捕され、北京市北部の政治犯収容所「秦城監獄」に送られる。それは、トウ小平(しょうへい)氏ら長老や李鵬首相ら保守派指導部が、武力制圧を決意し、具体的作戦に入った合図でもあった。(伊藤正). Z: L, n2 O8 x; C
1 k$ Z- x, E; @7 g! P" o ■3所1会 中国経済体制改革研究所、国務院農村発展研究センター発展研究所、中国国際投資信託公司(CITIC)国際問題研究所と北京青年経済学会のこと。いずれも1980年代に設立、改革政策を研究するシンクタンクで、鮑●氏が支援していた。文中の北京社会経済科学研究所は84年に設立された独立系シンクタンクで、出版などの副業を収入源にしていた。いずれも天安門事件後、解散。: {# r7 h( v1 V/ E1 M& b: u- ]4 k7 a
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●=杉の木が丹+ N( f: Q/ I. [) v
邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态 ! f% t' b) b! Y5 \' S K/ I- q. F+ N3 P& A
(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。 0 U* W* i* `& X _) L: e0 T: P3 @7 P7 V/ O
“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。+ [2 J9 ]- c, k! Q) x2 }+ z
但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。; J1 o0 d* |0 x% h, c+ b# `" I& S
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这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。 + E, p' F/ H; P0 W, Y 9 D! x0 }2 y# [ g2 V, g4 l三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。 ' f. s3 X. g) P. p2 T) s- |+ C- D' y* z9 W
张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。9 ]9 `7 C- b. b4 O C
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“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。 7 Z& U, ~2 V2 I7 k, z- y8 M3 y. p8 f
三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。 O7 M( a7 o2 p ! }2 [: @2 D: Z& @2 ?6 j就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。- }. R7 {8 L+ s7 Y% r
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【トウ小平秘録】(30)第1部 天安門事件 軍の発砲 M5 |# l. V. [0 I" g1 ]* e
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1989年6月2日夜、戒厳部隊は「清場(チンチャン」(天安門広場の占拠者一掃)作戦に入る。しかし北京市内への進入路は何重ものバリケードが築かれ、市民らの抵抗は必至だ。強行すれば流血は避けられない。1 M" Y- i1 Q7 u- V8 n: l
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これは本物の戦争だ7 ^. f, s, }( m: w( U7 U
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そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。 ) I; i3 r7 ^3 w. g: j! p" i; B + f9 \5 o7 C& j; Z; i1 B" A8 d9 J& @. W それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。2 O* Y, _" S1 l* N7 ~9 j
6 P e- M8 C2 c4 t 3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。 , _( Z+ l& j# I; k. z$ _' t3 N% F7 U
「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」 ; q" p0 }& S9 }' L2 `) [2 {( `, H- s7 Y l7 U: L- ~
情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。2 G( p' @( I1 Y2 S- L
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3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。) N$ |- B$ X) W+ z
6 g! ?( D% q4 W1 b* A9 Z: I; h y9 N 新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。" W$ k' t7 J6 R6 S, m
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3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。$ ^6 P- l9 F1 X/ I/ ]- W
% x/ Z2 [8 Y* w- N 張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。 2 b M8 O( t" D$ O W7 v $ f8 C: K+ N1 T( h; C 李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。 ! o9 E P, A. N+ l" `0 _! o3 e $ [: \8 m0 o! q2 C 「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」 ( B6 y6 m; K! H+ T1 v" P! G% Y; ?- E0 `4 X5 O: F1 V8 ^
楊氏は最後にこう念を押した。 ) {' [; G% B# K+ Q+ c. R3 S N! r K g3 `6 U4 I3 y
「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」% E: S( t. ]8 Q5 m5 ?
1 p( r w* h: b3 R0 d ` 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。+ J; W2 _& {" Z# ^4 E1 b
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3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。 # v1 w/ z; A3 I- |$ @ e4 J5 J' m/ A/ i
当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。+ e7 y/ L1 z9 x! X( s8 \9 e
9 P5 b4 t9 A# J' s そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。 7 K5 | F: b' a& H$ P/ W . h/ T; G& i3 I: v( y 午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。. Z5 b" k5 C2 Y1 I' Y m8 P( u% }
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支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。 3 R: V, N+ s3 x/ O ! _5 V8 g3 H# G6 @5 \ 「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」 5 L3 n5 J" v) U2 f 0 u- m: C- R6 }& Y$ r. S 記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。 7 Q- d1 w! A9 l! c9 ?% C; U. J/ A( b1 W5 u4 J2 O$ {# r
「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」. i1 Q* N; x% t1 v1 Y. c
邓小平秘录:六四悲剧是学运卷入权力斗争 ' i2 H8 b- e$ z8 |$ K 4 `1 k3 L& }6 g8 R; p(中央社记者张芳明东京十八日专电)日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平推动改革开放,但坚持共产党独裁的毛泽东遗训,天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败运动被卷入中共保守派和改革派之间的权力斗争,而招致最后的血腥镇压。3 F. D1 f |& D% }: ^$ ^% f
* l" ~2 k( F' J: `1 x C) y「秘录」指出,一九八九年六月的天安门事件今年将届满十八年,中国不知道「六四事件」的世代增加,北京市民也将当时的体验关闭在记忆的抽屉里,中国媒体在上个月刊登邓小平去世十周年的特别报导都未提「六四」,有关人士指出这是中国报导管制的结果。1 l1 r9 M9 j# O& `7 W
* Y7 Z, D. J/ ?( W! G邓小平在天安门事件后的一九八九年六月九日接见戒严部队干部致词时指出,这次的风波迟早要来,那是由国际的大气候和中国本身的小气候来决定,不是人的意思可以改变。+ \9 N M( N% G
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邓小平所提的「大气候」是指一九八零年代后半,戈巴契夫的上台加速苏联和东欧的民主化及政治变革的潮流,「小气候」则是指中国自一九七零年代末期改革开放以来,政权内外升高对同样改革的要求。 " P5 S8 }( d N5 v( `9 D- _7 |1 [1 N! ?4 r" D
一九八九年东欧的社会主义政权相继崩溃,一九九零年苏联也放弃一党独裁,次年苏联瓦解,但是,邓小平与内外潮流背道而驰,以武力粉碎民意坚守一党独裁的社会主义。他在接见诺贝尔奖得主李政道时强调,中国包括共产党领导的四项基本原则,指责胡耀邦和赵紫阳未实行而犯错。$ e% Q% ^ F8 ]& M: ^& c2 w8 H# I+ I
/ C' q7 Y2 ^; u. w0 \* [/ ]1 \ 引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。 $ |+ `/ l# E* j8 I, K 7 I3 w0 b8 b! k% A. F1 M& M トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。# g4 }; K' N+ ^/ F# r
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≪天安門のツケがきた≫ " ]9 t& H5 K8 `- A# L [' k! B8 j. h G6 R. C 元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。3 j$ F8 [8 H. p0 p& Q$ \ M1 E
* s. |; P g* o h- b- f" | 「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」( }; q7 g! R- i ]+ n& g
$ x% z3 h. o' r6 c2 D このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。 7 D, R6 S& c* s6 d * C. Y" B4 j* n, B# A 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。 : S4 u0 l4 H" ?4 D( Z; X @3 W, |9 G: |+ i* r" v# l: O3 }; u
毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。 0 @8 l' b: E& H6 g _* O8 I: l9 U* E
林彪事件である。- Q$ z) h5 G. x9 z. v
3 b# b$ H% v; h; z+ h6 m, x" | 0 N7 C! D1 B* }2 X& ~6 r+ e6 m! ?5 l' E冒険せず何もできぬ & T. b8 ~& x# P- { 9 _9 l0 s" x# h( ]4 N. }% L1 j( T9 l; H トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。9 d: M+ X Z! C4 u( K, g$ C# M
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元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。 + Z( P5 [6 S9 d, T* s: Y! q6 d4 u; Q/ t
トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。/ |) d F X3 Y I5 P0 x
5 A% \* I0 u$ z, S$ f- T 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」 0 X6 Z7 O: x& k$ d- D' z ]+ A: y5 `, H5 `- F( K [
後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。 4 d" h' X5 e }0 C( D/ ^& M' o- d% b, v, w3 e5 u: q
トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。 ; w$ q1 M5 h+ f4 N5 H& X: c 7 L' W9 C$ }. `5 M& z トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。 9 m7 e+ [* h& z! E. e% _' | r# e; I7 D
劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。 h" ^7 A V) T/ d: j- |8 H* S/ o' { 6 H- `7 p9 j4 y0 u/ X5 g9 C 天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。 5 p# [0 v3 M1 b& a% b% Q7 H2 W+ ? , p g- V( V1 C3 a# N しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。; `7 C' ~5 h; `- R, _! i* h
( i8 r: E# C( K" l' e, z 軍が武力行使し多数の学生、市民を殺傷した天安門事件から1カ月もたっていなかった。 5 U8 c: u! h! Y9 [7 ~% G' S) h' H/ c' Y! ^4 c
) {. {# @* M1 x7 d, ?% ^) \+ v
米中関係の危機だった- @( v4 v2 U& D/ J w- x
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前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。 - A$ k v) }" V- ?. {5 l3 c& N0 s
「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」 * x g: B3 ^4 K, Y- t q6 }. z- w, N" ?+ m. Z# X% E+ `
「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載)* E$ w7 k6 P4 E9 N; S( R
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天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。! e! \' C- m5 @8 |
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雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。 $ Q6 L7 m1 r# C% t; G7 ^) v& o' L- O) s3 M7 G
しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。 9 E; t7 r: |3 G, d) N7 a" h9 x0 @+ K2 Y) l! G) `
その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。 \; n+ F2 U1 J" U- n3 e7 n1 g
1 U$ S! {% `# Q: A 米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。/ E: u1 B. }! I& M
0 g9 l; }* q8 x0 V7 j( u 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。 ) [8 v4 b* L8 q3 ~ ' d% |7 i9 V4 _& i, z 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。+ B& ` q! I# }( p
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79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。8 Q! I& N) O l" j3 D' E7 F
% s0 B$ i4 j5 M 5 j* _4 { X; O* P! p3 a弾圧も正当化される* F% F/ ?# P- c; d [2 s
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外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。 1 a" F% M3 u) @% A4 L+ \3 Y; d# R' e$ G3 y. @8 P
後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。2 @3 S- w+ U1 v' K2 [% l) S! ]7 Z
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理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。 6 u. O3 {# w) H0 c3 B P* a8 d$ B' i# l5 [) n' Q0 P
「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。 s* A/ c# z6 n1 ~) y: ^* k8 C+ b5 O2 C7 I C) u
そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。 3 P* T5 r: M& t : V& ~+ R5 f0 P5 ]" N. ~; J (1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。4 Z8 Y7 G3 J( j2 V
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これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。* h7 h0 t& f+ u0 S8 @" y; y
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理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。 k. H3 v0 \: o* x0 j; n
3 J3 n8 [7 F4 }6 [1 r8 I 天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正) ; q( d# A& [: B. x 2 C) K5 _& }$ w% ?4 W■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。0 P4 K( p3 ]. k- n6 j9 Z
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' V6 c- U4 q- q天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時)( o; D j+ v; d
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1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した
* A- ^3 D1 v. n 銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。 ) R$ s4 L( l2 F+ F , P& f% Y$ z" a: m/ c- d スコウクロフト氏とトウ小平(とうしょうへい)氏が人民大会堂で会談したのは7月2日午前。トウ氏はその直前、李鵬(りほう)首相と銭氏に「今日は原則問題だけにし、具体問題は話さない。米国の制裁は気にしないし、われわれを脅し倒すことなどできない」と話す。: i0 C( Q% D( \
0 X$ ?; W$ K6 s+ M! H 銭外相が、7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)でどんな制裁が決まるか分からないと話すと、トウ氏は語気を強めて言った。8 P5 B" z. F O+ f
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「7カ国といわず、70カ国でも(制裁は)無駄だ。中米関係はうまくやらねばならないが、恐れてはだめだ。中国人の気概と士気を持て」' h: R6 ]" ^& p" W1 l
' c. W* S& V8 A, j トウ氏はスコウクロフト氏との会談を極めて重視していた。対米関係の修復なしに、改革・開放の未来はない。しかしそのために原則問題では絶対に譲れなかった。 8 C+ f; V: `1 T8 F/ l) i; L& I/ U9 P @
トウ氏は、会談で「中米関係は危険な段階にある」と切り出し、米議会の強硬な動きを「米側にはそれが破滅的方向に発展するのを止める兆しがない」と話す。 ( l$ h, d2 O8 F" h. H0 ?" \ 6 x# V" L+ ~ `+ m$ n* Q トウ氏は、「幸いにも米側にはブッシュ氏、中国側には私らのような冷静な指導者がいる」とし、双方の利益に立って主張し合い、決着させようと述べた。だが、「問題は米側にある」と指摘し、こう続ける。- H% c# a5 v, Z
i* {. z8 C- l u9 Y 「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」0 a/ d: B$ ]: Q1 ]
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「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。: ~6 ?; D) ]0 P! R3 U0 U1 d
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中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。 ( P. S& g" d( w+ t# y 1 i: Y# E, d4 K: t: n6 \0 l 「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」& u: R$ A9 D4 f5 h2 _' C8 c/ G$ f
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トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。 6 `7 A7 \+ M- @8 U9 n# \7 h3 E% U, ], p' P R$ O
≪3度密書を送った≫4 J5 l! b: o9 z9 T$ A
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1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。 T e8 [1 ^) K * o5 {# a8 U- Y+ W7 L9 w. j 「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」9 L9 v+ v( B3 f y$ j8 o) b( w6 ?
k. \% K" p2 ?, S 関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。4 ?. `% I: z. X! ^( x6 k) \
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「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」 4 ~2 o: i0 _) E7 ` ; s W7 v- h: ?* C+ g% a& ? 大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。/ u7 ?* o# G5 O% Q+ L
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それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。6 j2 O+ N+ z. s& V2 e. {. i
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この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。' p) J- Y( L5 d( _6 n
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その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。 $ k$ F d% J* [9 {' i' L5 E3 Y7 y) ~
「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」 5 \4 E4 i* Z- ~) {! l/ J' j$ Q! s4 n
しかし、トウ氏にすれば新たな「鈴」が付けられたにすぎなかった。ソ連・東欧の変化が顕著になる中で、中国国内では強硬派が発言力を増す一方、米国も「ゴルバチョフのソ連」へ接近、米中関係の危機は続いた。(中国総局長 伊藤正): R- m. `; w! k4 ^) H2 x
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◇ 0 g0 l6 q+ @! E9 ^9 W ! K3 P) ^: n- f) j) [. `【用語解説】アルシュ・サミット 5 G. `+ f$ }! d, n% p* R' \7 @. [; `+ \$ O) m! S
89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。: W' k! k3 ^3 `# k. x" s( L6 ^
* I' M5 Y) c9 [- B: d# u: |
, P! }* p5 I. ], u2 b天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月 6 {. v) F& a% `/ E4 ] . P' k1 e3 @# G( Q4 p; W" r) Q 3 a7 P8 j8 Q/ @, ?3 j. d. y! ?6 P! R; L3 e+ X& X& z6 C* r
1989年7月、アルシュ・サミットの記念撮影に応じる各国首脳。左から4人目がブッシュ米大統領、その左はサッチャー英首相$ h6 R: A' T( x1 h
! ^: J) c, Y; \/ d, u; X6 A+ m2 \
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