邓小平秘录:杨尚昆承认64事件犯下大错% ^) ]9 p. `" r. O1 R9 N x$ O
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日本产经新闻今天开始连载“邓小平秘录”,首先锁定一九八九年六月震惊全世界的“天安门事件”。文中指出,邓小平至死未对武力镇压一事留下反省或悔恨之词,但是,当年参与开枪命令的现职国家主席杨尚昆则在生前表示反省之意,承认共产党犯下最严重错误,早晚必须加以纠正。0 f5 f' W! b- t# b; z
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文中指出,二零零四年二月,暴露中国在前一年隐瞒国内发生的严重急性呼吸道症候群(SARS)的军方医院医生蒋彦永致函给温家宝总理等人,要求重新评价天安门事件,信中提到的新事实引起瞩目。5 c2 |# X% m i4 `5 R
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报导指出,天安门事件发生当时,参与开枪命令的国家主席杨尚昆在一九九八年死去以前,曾向蒋彦永说道,党(在天安门事件的武力镇压)犯上历史上最严重的错误,早晚必须加以纠正。杨尚昆表示反省之意似在一九九六年左右。 / U4 b" R4 X- ]1 Q3 ]. ]8 U : ?7 D/ T& f" l4 B当年学生运动领袖之一的吾尔开希(事件后逃出中国)曾向产经指出,邓小平的长男邓朴方曾为避免流血事件而行动。北京在一九八九年五月二十日发布戒严令之后很快地,邓朴方担任主席的“中国残障者联合会”有四名职员前往天安门广场访问学生运动指挥总部,指出邓朴方为避免流血,希望和学生对话,要求派遣学生领袖出面。 & f) O) `" W A/ I" e1 N! @9 ?, o! c; s) \3 ]& q
“联合会”一名职员被留下来作为人质,吾尔开希本人则在一名学生的陪同下前往“中国残障者联合会”。应对的“联合会”干部向吾尔开希表示,政府势必动武,若想避免流血,将安排和主席的会面。吾尔开希是由于邓朴方表示想见学生领袖才出面,这名干部的发言与此有违,结果他未和邓朴方见面而离去。 . ]) V0 I" N s# L% r* \. F% H- P6 Y" j: L
吾尔开希表示,邓朴方派遣职员向学生运动总部转达的意见应是真的,但很快地改变主意。他猜测邓朴方是判断流血已不可避免。邓朴方虽未曾作何表示,但或许已知道他父亲的坚定决意。 + c( N7 g4 R6 `8 S) r* _; S8 z * o( { L4 E5 n: B; k文中指出,一九八九年六月三日晚上至四日凌晨,中国戒严部队对学生和市民开枪,造成三百人以上死亡的事件震惊全球,中国领导阶层完全孤立,改革开放停顿,中国陷于混乱和分裂的危机,这也是在武力镇压扮演中心角色的邓小平的危机。/ u0 B% s: C2 Z& q
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中国后来的发展使得事件后的政权都肯定邓小平当年的决断,至今中国国内除公式的见解外,不准谈天安门事件,要求对该事件重新评价的人士都被置于严厉的监视下,当年支持学生运动而被解职的前党总书记遭软禁至死。一名中国老记者被引述指出,事件遭全面封锁是由于政权内部有看法认为大量杀害人民是作得过火。 / r1 _4 A1 Q, m6 Q9 w - `$ s4 o8 s! T文中指出,天安门事件后,中国虽经济发展,但为贫富悬殊和腐败的蔓延等严重的矛盾而头痛,该事件是政治改革受挫的主因之一,胡锦涛政权背负着邓小平留下来的正反两面的遗产。 + N% O' d$ K: l# A5 k 8 F% i, w" s5 ^) M/ v6 @中央社东京十五日专电% W9 w7 j( s. i' H! Z
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日本产经新闻 , M, Y: Y- [8 ^8 C1 ?; D- n) ~0 `3 f! z! e
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【トウ小平秘録】第1部 天安門事件 格差と腐敗の中華振興 6 b& B/ Q& r* r, C5 R0 \! K& ~9 Q/ h, |& O
トウ小平(とうしょうへい)氏の死去から7年後の2004年、中国各地でトウ氏の生誕100周年を記念する行事が催され、大量の文章や映像が公開された。トウ氏の波乱に満ちた人生や人柄、思想について、さまざまな分野の関係者が証言し論じたが、決して触れられないことがあった。! Q' y. `" d! D$ U. o& U
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武力鎮圧の残影 % N2 R: ?6 U2 t& h9 W " \/ i `" l' ^ G/ N 5 C( ^& e! u# \( F+ r/ |9 Vその年、15周年を迎えた天安門事件である。, T6 f4 y1 o3 A, Z V7 y+ _8 D, Z
: Q% d9 S$ J8 l! B" _. V 1989年6月3日夜から4日未明にかけ、戒厳部隊が学生、市民に発砲、300人以上の死者を出した事件は、世界に衝撃を与えた。中国指導部は完全に孤立、改革・開放は頓挫し中国は混乱と分裂の危機に陥るとみられていた。7 }3 S; s7 c& B X0 ^
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それは、武力鎮圧で中心的役割を演じたトウ氏の危機でもあった。 & v+ z. K- y3 J& B8 Y. ` ! [0 W0 j& n6 [ c が、中国は事件後ほどなく驚異的な発展を始めた。01年には08年北京五輪の招致に成功、世界貿易機関(WTO)加盟も遂げ、国際社会で重要な存在になった。事件後発足した江沢民(こうたくみん)政権も、その後を継いだ胡錦濤(こきんとう)政権も、トウ氏の当時の「決断」を評価し続けてきた理由だ。5 k9 J9 c1 [0 q( m9 f. S' r: C3 y
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04年8月22日、北京の人民大会堂に6000人余を集めて開かれたトウ氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤国家主席はトウ氏を賛美する演説の中でこう述べている。 7 b% j. _) j5 P9 ]( m+ r7 \' {+ n* d5 q4 u/ A' A9 [* @
「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」: k7 f0 n. ~! I5 \/ \
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同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。 + u- {6 [9 N7 x . W: O- Y9 F' T7 E 中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。6 ^# A j( D( q
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天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。 % ^6 }/ o1 h* H: g7 w8 L' R ~8 M3 S8 L
なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。 & G: | N( ? b) |( S! X( u5 _2 H0 ?1 k6 t6 j' Y( w# m
2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。 # }4 Z! \ r" |# g. m2 E' G3 R* G* m6 ?
天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。 / d& A$ i3 m9 [3 b- c v& h# G 1 C4 i5 X" z) @4 t/ S 事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。& i+ @, D1 b; x; ~ E. U/ N5 C8 O
- g$ C3 s& X, L( c5 D- d1 |# W7 l 同氏によると、戒厳令布告直後、樸方氏が主席を務める中国身障者連合会の職員4人が、天安門広場の学生運動指揮本部を訪れ、「主席(樸方氏)は流血回避のために、話し合いを望んでいる」と学生指導者の派遣を求めた。9 v5 r$ N! c- W; f6 D
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職員1人が人質として残り、ウアルカイシ氏自身が学生1人を伴い身障者協会に赴いた。 " n6 L8 Q0 e9 z. n# s& P2 ? 8 s3 O- J/ h0 J- L 応対した協会幹部は「武力行使は必至だ。流血を避けたいなら、主席との面会をセットする」と言った。樸方氏が会いたいというから来たのに話が違う。で、ウアルカイシ氏は樸方氏には会わずに辞去したという。 ; A* Z! q, f! z3 V, m 8 N2 S- c/ v" W- M ウアルカイシ氏は「樸方氏の協会職員らに託した意思は本物だったが、急に翻意した」とし、流血は不可避と判断したためではと推測する。樸方氏は何も語っていないが、父親の固い決意を知ったのかもしれない。 K" C& G. L" w% ]. K4 L2 _% j' B
天安門事件における武力鎮圧は当時84歳のトウ氏の人生をかけた決断だった。「中華振興」の夢実現に、一党独裁下での経済建設が必要との確信に基づく。97年2月の死去まで、武力鎮圧への反省や悔恨を示す言葉は残していない。 5 n, H" r$ q2 H* B% ? / ?7 r( `8 h1 z# f7 T) b* Y4 q 事件後、中国は経済発展の一方で、格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)など深刻な矛盾に悩む。事件で政治改革が頓挫したことも要因の一つだ。胡錦濤政権は、トウ氏の正反両面の遺産を背負っているのである。(中国総局長 伊藤正)4 j J% q ]) o# t
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矛盾生んだ「先富論」, Z% y* P4 O2 A1 V
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トウ小平氏は着想力に富んだ現実主義者だった。改革・開放の初期、深センなどに4つの経済特別区を設け、市場経済の実験場にしたり、19世紀末以来、英国の植民地だった香港の制度など現状維持を認める「1国2制度」というアイデアを打ち出し、主権回復に成功したりした。 ! Q, ]$ `2 l8 W1 k( v 7 t# q9 V, J' N) i それは、台湾への統一呼びかけの武器にもなっている。 }. h7 |7 W8 t$ S/ l0 e% S- j ?
" Q/ S' d/ a, i7 N7 n$ `+ w- } 1993年9月、トウ氏は弟のトウ墾(こん)氏と会話している。トウ氏は、天安門事件(89年6月)後間もなく引退したが、事件後に保守回帰が強まると、南方視察に出て、改革加速を号令する南巡講話(92年)を発表、経済を成長軌道に戻すのに成功していた。( n% i% m' m) q8 _/ y
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トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。* k/ ]" D3 [# R
9 e1 O" M3 ]) R" p. Q3 {+ v 「富をどう分配するかは大問題だ」 ' }6 x# y8 w. w0 s9 b: q ]9 j/ o) R: b& E4 x+ R E' [
「この問題の解決は発展を図るより困難だ」 $ j. K3 [1 G2 ]& L( ?- V ; P& ?; d4 f( }1 L4 w 「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」 # Q& m' {9 `; H* T8 |( Q( ~7 Q A, n0 ~% y& _! }
トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。# H7 W: u2 Z+ ?4 g$ s( }. Q
! ~ P% y: v: V' s+ h; p トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。" G- _, r, s) k9 Y
# N: `) w5 Z8 {1 k9 \0 I 経済に関しては、社会主義の枠を突破する革新派だったが、政治に関しては確固たる保守派だった。理論面にとどまらない。トウ氏は、路線上のライバルだった陳雲(ちんうん)氏(1905~95年)を含め長老との対立を避け、長老政治の頂点に立って権力を振るった。政治改革を志向、長老と対立した胡耀邦(こようほう)(1915~89年)、趙紫陽(ちょうしよう)(1919~2005年)両総書記も切り捨てた理由だ。1 z! R6 \- w7 G$ T$ V6 g
1 x- s3 Q" m _7 M. Q" |1 b- v1 e2 k 毛沢東と違い、トウ氏は元気なうちに現役を引退、江沢民氏を総書記に指名し、92年には江氏の後釜に胡錦濤氏を内定した。両氏の使命はトウ路線の継承だ。- Q- Z2 `0 I W& ?$ Q7 M
1 z B1 t$ P$ E. w日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。. b) s3 N: m6 U/ t& E, h: z
1 U" |* y \( q8 o$ e2 u U0 | 文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。- b1 z0 J E; G8 r5 t
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文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。9 d5 l9 L% K7 @; @3 g0 |; y
, p+ \6 L( Z3 r+ _. Y" r 拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。( H! l- S* u% M5 N
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胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。% N- c: R% w$ n- i: B1 c
) @* m- J& o5 w4 e* F 「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。9 a; R3 O$ c$ [5 s3 e
7 t. w9 f# A6 q 根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社7 F4 I' _$ `1 F7 }8 C" P
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【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ# m, a' t# G6 s! F ]; q& b x
* Q, j( W. R9 D! q/ x h中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。4 @3 p* `9 H7 c2 [) Q
* h. w/ d! h" r7 i' a. a その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。! \% V! b- A1 j; [
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国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。! G. H8 O( J( E
* c; K/ W7 M9 ?! s' I; C 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。- `' V8 }3 }7 T* O9 b0 F& @
0 n% Y/ m) |' n! ~, x# ] 長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。5 E& E' X9 V$ d1 x# l# Z8 r3 [7 u
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これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。7 B w+ @8 D9 F$ x! b& G1 z, V: a
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「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」$ F9 r, ?; @; j- m% `7 J4 ?
7 v+ I- r4 E+ P' N: L6 f/ } 「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」 # O2 F! q1 z- `* U" [7 P8 O, C# o; |% w
同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。 * t7 g) b! H# t. k* W+ G0 \& @$ F/ V5 B
「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」 ) ]/ B. j* S* q T: I8 n8 z" b& Y
王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。 5 s. x |# f+ j2 J6 i - B3 ~" r1 |! C4 @' U6 j' B5 X2 t ≪胡耀邦は声上げ泣いた≫ * R# [5 S5 K% v% b& U9 N- ^9 q- x7 s- N8 _9 G9 _/ q- C
外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)& ^: r: e" V' V9 w
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胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。/ d; P# j, f6 r1 n @3 }
! @" @. l5 ~1 X$ |5 N 胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。 + m6 U+ w; u& ~) `. y . A( _7 I4 f. a 「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。8 U; O! q+ O3 w% P) z) c: h
& s6 M# A ^- C* l/ {6 r その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。: Z$ B8 o5 y; h& N. g0 j& H! x
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「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」) . P% e" O5 x# r: ^1 b+ q3 i, H# m0 C f# u6 d! d! K
趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。; G, W4 r( y- S9 H0 Z$ y
; w* u" a) _' Q# S% h 「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」) ) S5 d1 l7 D% R6 p 4 P3 V) E2 {/ }1 k" X- ]5 E 生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。 * O0 j2 B" K) F- {0 }+ u* ^ 4 \5 {3 ?; A7 u' ], L$ J0 B9 { それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。 ; S6 x: w& m" ^. P9 k5 i. @, W" g) u# d3 M- l3 G g
「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」 : L7 E! v( y; y% p3 q! Q- l- d1 M7 \2 K2 X2 G9 V, ~
採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正) . E1 A: k o1 Z+ n 5 B& q, `4 \4 h$ S& ] # X' Q A% b; Y: a0 j- Z. _! o2 B r( C% k8 }* I. ~' P! C7 x
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■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。9 b' ~ g* k; t; Y& }- F
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市) " x2 r* J4 |' v# f0 j$ f 8 F& s/ a" f4 h + H; a X0 T s' o7 J" @8 t) t% {) y7 F6 |% b) q$ T9 R, \" r6 }: t
1 f1 a$ E1 f$ X/ H) W* O 朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」4 v$ M! @9 `5 Q+ g* r b
! R& a3 Y& k- R$ W% w U7 L トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」: L& n8 g+ e! r8 j
3 f! M7 u9 e i% {( ]: N しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。 ( z- m; a' v# Q" t5 C& A8 t5 C% t8 I. t
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。 1 N+ e9 O4 Z$ J; T4 Z$ c$ [ E4 [5 \- i* X; D0 M
「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」)3 d6 ~. ]; a2 t% f' _' }* e
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一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。 % t) v. ~4 z) B& s2 {. C6 G+ v1 C
「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」! B/ c- M! i! O" Q
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それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 " P4 g3 V! b& g$ E" ^ 8 n$ t0 ]1 w4 g+ w. J( `% K4 h/ T 《ひっくり返った党人事》 % |& Q3 y( z4 J. p9 O. \, C( \+ @$ X) ], ~( \9 ]* ^) r/ p. z
思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。* Z7 x; M0 {! @
' s( J6 x* R u2 f3 W$ r K" _ 保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。 ( R0 {; ~. l0 x" R G, o( z8 a2 l: K3 ]0 W' u
5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。 / j s7 j3 S& ^. _, \8 z( |0 e& R( T. g
10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。 $ C5 W' V6 u: A, x$ Q3 j3 o& N) o& m" L
「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。 / e! [5 S/ q0 | 8 ~6 T; A0 D D/ w; O9 ] その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。, i4 Q; [: ?! u7 }1 k
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趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。 ! D* B: ^8 N( [" C2 g8 K6 T T8 _* M& O5 Z! l% d" t. T; B このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。7 Y4 [+ O0 q( |4 K" ]3 T3 |5 N5 I
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陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正) - M @; `8 @- h% v6 n+ [ 5 m; \0 D0 O6 p h' [ ■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。2 A9 M9 M) ^% o% y1 ?5 ]5 a9 Y: {# o
" j2 p J- Y% ~" j6 G$ J4 v ■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。. ^+ u4 Y- p" T) c1 B) R
c- I6 n3 C \. m英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》( u, n$ R4 L, ]- Z k
上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。* i/ M l% q3 U: a; h+ T
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不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 9 w! C; X3 }# B% h, _8 ^ s# L' ?1 a6 K
' y$ T, k b7 {" p6 V8 Q7 L( S 她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 ! a! A: X6 [8 ^4 k4 s2 u" b& P, @* r
邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” 2 T5 v" h6 f% Y! f, X1 u- f % s1 d# w# H9 Z/ \# b% a8 t 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 , m+ {$ D0 x$ G
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邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 # G# l1 t5 e, p- L: C9 e 0 r [" Y5 o0 q 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 ! W1 V/ J3 `: l* B% a0 q 4 k6 X/ ~4 ?+ q% {. N n& X 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 3 [# q9 ~2 v( @" j0 Q; U- a! |" P' c8 t" V" I
在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 ! g$ m2 Q8 B- g& X$ g
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邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 8 h% d" p; I6 { b M% m) P* o P# A2 U. @' M 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”1 g7 Y6 J3 Q% `3 L/ |+ ^% K
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他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 4 x$ L+ U3 g9 R3 R6 W3 h " }: ?& @# V1 D6 j& a 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 ! g7 W+ \ Q+ `' ? , R. {7 R5 `' q1 p) j* } 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。0 o' A! Q, l; H( H6 V8 q
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3 d) [# `$ P5 r; q4 L4 X 3 R7 ^' s i' a+ b' _5 J8 U" s9 r" uChina honours man who reshaped world * ` G6 R1 }$ `When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. $ c. G o9 G: d7 @3 }$ i
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China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 5 k9 `2 {! w4 A, b4 Y: x! K6 J
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But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. , |2 n7 f( T! `$ _, `6 L; h/ E) d 7 g4 X, q- t& ^5 ?1 Q1 ]; Q6 R- BHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. 3 O$ b8 T% A4 n# Q! W
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“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” 5 P: X" _$ y, |' F: E * h! v: ?4 ^; `2 V3 J2 x7 aMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. 6 K0 |0 d* \5 I" ~
# q- a2 s8 ]3 u4 J5 y3 S; r5 wMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 3 ~/ M: _: m: @9 N' z5 t5 G 9 U6 U) J: A* j6 uShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” 8 A8 d; a# R* Z w2 k/ R" B1 j( N$ @6 }. V0 T0 {8 `# O
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 8 B# k" N ]3 z) @ t6 X D9 `- @8 N8 z7 D2 L4 P: B8 `
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. / R% i$ | t4 J/ f% b% }, l* R8 |( N& [) {
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 0 W2 h# p, s1 v
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He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. . A9 Y; f) e6 t1 o2 t H1 m0 ]* i0 y7 xMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 3 A4 p m+ r. a9 K" @: ^
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Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. 6 U; v5 W9 Z: n4 ?: v2 i2 N q8 P! }! ~% x \9 f" Y
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. ! i) P! B7 B3 P; O! H1 ?; | / C8 u3 m( T% z# N. tHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 5 H2 c$ l1 e& e r- `
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Long road to riches' r8 t; V4 i0 p: ~2 {. c
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Now 6 ?$ y0 v, U4 T7 E1 h; }; a. Q- F8 \- c) j3 X
Population in cities: 550 million & B. d: k- G$ D: X' k4 r
% z3 T _, {% [' gGross domestic product: $10 trillion 9 L2 p' w! B- U+ T% [+ t# w8 I 2 Y+ y. `% g: u. nOil consumption: 6.5 million barrels a day 0 b2 G( i' Y+ G- }; x* @4 t
8 i% r' O( N8 Q' n- V( RExports: $954 billion # P* O. W2 \8 s+ c6 A* U* h" e/ {) d. s2 l1 o+ |4 p+ _
Population below the poverty line: 130 million K; S+ W' G6 Y: ` P* q
' N2 g0 R+ x+ d8 S9 L% p3 \2 P. ~3 H+ ]Ten years ago' l# W* v' H6 f t. H
8 A- G# s% ^0 {5 I% k) J. PPopulation in cities: 370 million 5 j' A! T# B: C, v7 x$ Z) v) U8 h: i& a6 X4 e k
Gross domestic product: $4 trillion ) s" N3 P+ ~2 a' R& W) R
* S; e8 F1 z/ L" m* e; [
Oil consumption: 3.9 million barrels a day + f; \6 z2 p/ ? ! k8 U! C6 s/ `3 B: c8 C: dExports: $182 billion . k) n) h- T/ N- M6 v+ u& P
5 d" K7 l$ l: z! E# `# K7 }# yPopulation below the poverty line: 120 million 7 ~3 ~- c) n3 X7 U# j: B: V
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Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies9 @( f" e- P) \4 A
邓小平秘录:中共掌握王丹与李淑娴「谋议」* x. Z- m' h! P0 ]0 s2 L# q/ ^
中央社" `7 Q9 H" S/ W& ?) A" w
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日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,中共保守派在学生发动示威至爆发天安门事件期间都一直认为学生背后有黑手在操弄,计画颠覆社会主义政权;中共资料显示,公安当局严厉监视学生运动领袖王丹的行动,并掌握中共宣称的王丹与方励之夫人李淑娴之间的「谋议」。2 k; ^- h* x; k0 s) U
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连载文中指出,在一九八九年四月十八日示威学生与中共警卫冲突的新华门事件后,中共保守派元老对学生极为愤怒,他们的不满传至最高领导人邓小平的耳内,邓氏虽告诉当时的总书记赵紫阳将出席胡耀邦的追悼大会,但视情势变化有可能缺席。结果,邓小平后来现身二十二日上午在北京人民大会堂举行的追悼大会。# \& p. F) g8 k4 _5 i
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中共保守派在学生展开示威运动后至六月四日的天安门事件期间,都一贯认为学生背后有黑手,有意利用学生来颠覆社会主义政权。但是,被指名为「黑手手下」的知识份子中有许多是在五月以后才参加运动的,而且是为了要求学生停止绝食抗议等行动,他们的行为和主张「有关当局捏造(不实指控)」大致是一致的。+ g0 p+ h# S0 z R! _
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秘录指出,四月二十日,党政治局员宋平和副总理姚依林面谈时指出,过去数天的学生示威已有明显的征候,天文物理学者方励之的行动非常活跃,学生的背后有部分另有居心者在操弄。& F# X' o9 U4 H6 A1 o2 y" N. t
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文中接著指出,当天为止,方励之并未有与学生示威直接关联的行动,公安当局掌握的是方励之夫人、北京大学副教校李淑娴和北大历史系学生王丹「谋议」。 . p; ^2 F0 j5 C# u 6 k4 M9 U* F" {9 [( {0 M 北京市党委会在天安门事件后发表的「制止动乱纪要」中指出,胡耀邦死后两天的十七日,李淑娴在北大和学生讨论,呼吁发动示威,示威组织的中心人物是王丹。王丹于十八日上午在天安门广场演说,拟订包括恢复胡耀邦名誉等七项要求交给中国人民代表大会事务局,这些要求是事前和李淑娴商量后才决定,且事后王丹和李淑娴还相互联络。' {; E1 o2 ] F$ w' u1 ~ }
, N: e) k6 g. V/ W 秘录指出,王丹和方励之夫妇的交情很深,包括一九八八年设立「民主沙龙」等,王丹受到方励之夫妇很强的影响。由「纪事」可看出,王丹受到有关当局很严厉的监视,但是,他并不在乎,继续发表演说呼吁示威、罢课和成立北京各大学的联合组织奔走,而成为学生运动的领袖。特别是二十日以后,随著大学之间的合作而提高保守派的警戒。6 |3 @* D( [' y7 a
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赵紫阳和保守派相比则显得乐观。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳的改革同志田纪云副总理在二十日上午和赵氏见面,指出不仅北京,连地方都有不稳定的情势,建议将预定二十三日的北韩访问加以延期。" e0 k6 p( {0 F* k. t f
: o- C7 Y2 p. V8 r2 E% G, H 赵紫阳回答表示,他虽曾考虑延期,但若改变日程,将会让外国怀疑国内政局不安定,因此决定照原定计画访问。赵氏于二十三日下午如期搭乘专用列车启程前往平壤,到三十日返国期间,中国国内情势已出现重大的变化。 7 g9 t# {7 ~1 w T - A/ e6 u) f6 h: [【トウ小平秘録】(14)第1部 天安門事件 追悼大会 ! B j8 q4 l& ~" V % I# x; q$ c( ?4 y.' f; K9 l0 e9 j6 `3 L
9 G. g K# N$ }7 ~ [ 1989年4月22日午前10時、北京の人民大会堂で故胡耀邦(こようほう)氏の追悼大会が挙行された。トウ小平(しょうへい)氏はじめ党、政府、軍首脳や各界の代表ら4000人が参加、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席(肩書は当時、以下同)が司会し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が追悼演説をした。 , a0 r' y% S$ c& o$ d) T" X7 W3 y! I& w% O, G1 w, ?0 z, ]
演説は胡氏を「偉大なプロレタリア革命家」と呼び業績をたたえたが、「偉大なマルクス主義者」は使わなかった。2年3カ月前の解任事件にも触れず、学生たちが要求する胡耀邦氏の名誉回復はなされなかった。「ブルジョア自由化」の罪状は重かったのだ。 ' `/ [: T' v! A8 a* ]: A" t3 ~* U9 w
北京市はその日午前4時以降、天安門広場への立ち入りを禁じていたが、学生たちは前夜から数万人が広場に入って座り込み、胡氏の遺体への告別を要求した。当局側が大会の実況放送を流すことで折り合ったが、胡氏のひつぎは学生たちの待ち受ける東門ではなく西南門から八宝山革命公墓に運ばれた。 9 }* f( k7 e, r0 C8 e7 S. L& M& b' `
追悼大会に参加した人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は著書「六四内部日記」の22日のくだりにこう書いている。5 T9 Z% _- Q" M+ ?( G: z
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「(周恩来(しゅうおんらい)追悼大会に欠席した毛沢東のように)トウ小平同志は来ないと思っていたが、トウ小平は毛沢東ではなかった。夫人や子女たちも一緒で、とても上機嫌に見えた。が、大衆の間の声望は以前の高さには遠く及ばなくなっている」 / C( i" E. p5 g* {/ O x# v, R0 \3 h% y2 r トウ氏は、追悼大会出席の意思を趙紫陽氏に伝えていたが、その後の情勢急変から欠席する可能性があった。張良編著の「中国『六四』真相」(明鏡出版社、以下「真相」)によると、学生デモが拡大するきっかけとなった4月18日の新華門事件以降、保守派長老たちの怒りはすさまじく、その声はトウ氏の耳にも達していた。1 ]/ t+ A+ Z" b$ ~6 u' @
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長老たちは「学生たちの背後に黒幕がいる」(彭真(ほうしん)前全人代委員長)「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」(トウ穎超(えいちょう)前政治協商会議主席)などと、学生運動の背後関係に注目していた。姚依林(よういりん)副首相は20日、宋平(そうへい)政治局員にこう話している。 # b: c% H3 T" B2 m) L* p8 C9 b. p: H" f- o
「今度の騒ぎは一部のブルジョア自由化分子が早くからチャンスをうかがい、(社会主義政権転覆の)計画をあたためていたものだ。彼らは学生の愛国の熱情を利用している。ここ数日の動きから、学生デモが動乱に変じる可能性がある」1 {" ^% k( A: e5 d) e' G( ~1 L
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これは、89年6月4日にクライマックスを迎える天安門事件の全過程で保守派側の一貫した認識だった。事件後に当局側が主張したように、社会主義政権転覆の陰謀はあったのだろうか。0 N% Q$ \0 o4 L# F4 g* C
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「黒い手先」と名指しされた知識人の多くが運動に参加するのは5月以降であり、それも学生たちにハンスト中止などを説得するためだった。知識人たちは「当局側のでっち上げ」との主張でほぼ一致している。 $ E3 l/ O' _4 l1 i* H, G; c. y- X7 K9 I3 ~" E8 K
この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。 % \7 w" y$ \1 H2 z! ~+ q4 A) a+ |4 l1 q. C' _
しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。 7 G' K, n; |- U. [( \5 j; Q! u 6 p/ S# B: P) b- N1 S 北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。) q1 f# r3 t `
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王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。 3 D/ w& f2 p) R8 R. U+ F, {% S4 f) J8 _* @5 I$ z. V( A
王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。3 `$ A, t& {9 s7 s9 @0 f5 F& l
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それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。 % m2 |' W2 q9 ]' o% _; Z7 k & c" u# i2 g1 l. M6 ^6 Z それに比べ、趙紫陽氏は楽観的だった。「真相」によると、趙氏の改革の同志、田紀雲(でんきうん)副首相が20日午前、趙氏に会い、北京だけでなく各地が不穏な情勢にあると伝えて23日に予定されていた北朝鮮訪問を延期したらどうかと進言した。それに対し、趙氏は言う。 " @1 Z W2 T) J, ~# z" g. M) h! v& x5 _ t4 u" ]& i! K6 |
「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」 % ?4 c+ Z) ^6 |8 v( f: o6 a. O& @. p5 t
趙紫陽氏は23日午後、専用列車で平壌に向かった。30日に帰国するまでの間に、国内情勢は大きく変わっていく。(伊藤正) 0 W' m( e$ ~7 }! P3 r4 [: M$ `( [1 U( ~0 a, T3 W
◇1 ~& l1 Q5 y3 @6 q# y/ P% }. V5 q
/ u, M7 r/ q ? トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。) O: H* x3 p) r# K& `3 c
. X5 ~7 ]: w% Z$ R 彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正) - T) F0 X$ |) r4 G4 h4 Z. E1 g5 g. L8 X" g
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【用語解説】中国青年報 ( R/ S) H- I' W ' `, a. Q7 m# Y4 z+ P ?& A5 j# q 共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。/ s: N; I) k% D6 r/ p% E. G
, C! p" O) o A4 j(2007/03/06 )- \( c6 O' ^, M$ y
: m5 Y2 i& K1 m" }7 ?0 t2 ~4 T 作者: 日月光 时间: 2007-3-7 10:31
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口 ' M0 ^( g" H' D% t/ c; d中央社 ) u9 G" O0 Q$ C) Z $ z/ p5 r; l# N, I" @ 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。& J, `1 ~. |0 k" s5 C
) R2 F6 Y. S0 K' N; S+ ^. V 「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。- J$ d1 Z5 s W! p& Q
2 _* u: s$ m1 D2 e6 c' U* ^5 f9 X 「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。; W9 w5 d# d+ g
3 C8 w# w3 P) f 王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。1 S; G- v0 h; }3 R! M# C
) u3 U: `+ d* d8 g1 \' y 1 r1 o2 L3 {1 P) J8 x# P o! z 但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。 & p/ D# i% j7 j! q 8 w" R9 ]- s0 W) y; V# x 王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。0 M, S3 h- a. O1 U
6 q; ]; l1 h& ~# ~! O2 D( g8 A9 L+ D 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。 # \9 m( C: ^" C2 R: w ^5 o6 D9 J5 Q6 o# z
就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。 * {# G9 c& _/ E. }# L+ @8 y( o1 O( \% q$ r) n/ F: {6 X
邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。 ) i% H# j* u8 T8 i6 Y # F F# A, O) r8 \- b 对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。 9 k. z& R& _; g6 o" }. D b# r6 {6 f6 x: H
学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。+ e0 m' m- x" d8 }2 o1 E( C
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% P. y- k1 K A 1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。 . }4 m! [( f0 V1 v' F. c- P: [0 l) P3 l4 Y4 Q! B' R
戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。 6 b7 c0 q+ ~+ q0 _, l% R" p 2 c2 b/ k2 [+ ~7 s 同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。 ( g8 x; Q( w- D, P& b) m: w0 p6 Y0 S6 y) _1 U
しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。 * g6 f& ^# a6 V3 |7 k - X! s5 `% p% n! x$ P t0 x; h 絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。 @' q8 I% N. r3 v/ \
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それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。 : p, f$ A- e: _, M+ | d9 j5 g" f, o4 G& ]5 }
宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。8 l$ E; m6 v. O; w0 h; d
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王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。! N. Z! E0 W& d; | s j$ ?
( x: D9 {9 d `2 P 在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。/ L- k, k `8 W# Q* t8 W" H3 O
3 W% X2 d" ~3 z& e- k% B 李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。- k% ^5 _. g6 G7 N' r
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14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。$ ^* I% \0 [% B( s5 B& r/ Y
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政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 ) |% X: N( |: s! a3 t 0 Z4 q! P l& @ 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。6 w( L% |& q2 f( q+ d/ r
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それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。 / u3 z% a2 \8 L. E: u0 N5 O% G( e( {* A% c4 l0 w$ G
趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。 ( u; f0 d$ j4 h/ y 2 L3 f: W6 f4 t9 E. L& x 14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。5 S+ B- ^" _* C1 ], U2 I
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絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正) & ~. J$ a7 H7 u( s# e$ r0 I7 p . q' i" y1 c5 e/ s5 W●=彫の周が丹1 r# u9 T1 Q+ f. o+ h. g
$ z$ a& [; R/ U& c6 f7 x4 C ◇ 9 R7 I6 V9 W) s1 P& b+ m- m - J& m7 D6 R0 b3 Y" F" g4 z【用語解説】中国社会科学院 3 z- \1 f3 D8 K/ h+ ?# e0 J9 E% t" ]" a
中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。 # M) E, x5 O3 C9 N# q) Z/ F* R, S$ l3 t6 L: o V* Y: j( P" a
(2007/03/07 )
: A. O, F: L2 ]5 k. R/ o(中央社记者张芳明东京九日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月十七日下午在邓小平家召开的党政治局常务委员会扩大会议,事实上决定了北京宣布戒严令和党总书记赵紫阳的下台,赵紫阳在会上反对戒严令而表达辞意,显示他看清戒严令将导至动武。& Z) T# _* a3 j2 H6 [" x
2 S- v) f9 ?& ^! ~7 H P) \“秘录”指出,与会者多数表示,当前的情势极为严重,绝对不能对民运让步,和主张撤回或修改四月二十六日人民日报定位学运动乱的赵紫阳的意见对立。会上决定对北京部份地区实施戒严。 9 ~ e3 ^4 `5 c6 R 2 _2 \' z- K; }" ^0 d% L对赵氏表示理解的国家主席杨尚昆在会上指出,若让步将造成堤防溃决。邓小平表示宜下戒严令,并征求与会者的看法。以观察员身分出席的薄一波提议表决,结果李鹏和姚依林两票赞成,赵紫阳和胡启立两票反对,乔石弃权,邓小平的一票具有了决定权。 5 a% s7 j: g7 @& s: b9 X4 ~& Z; D* ?# k! U, b! m
赵紫阳在会上突然表达辞意,薄一波和杨尚昆表示慰留。十八日上午,赵紫阳和李鹏等前往市内医院探望绝食学生后,赵回家写辞呈,但杨尚昆仍然慰留,拒绝收件。 : m* N7 B( i: Q: m/ [1 n' w7 W) k$ E6 O7 e
赵紫阳在一九九一年对友人宗凤鸣指出,他的辞职是不想在历史上留下丑名。他的发言显示已看清楚戒严令势必造成动武。他后来在接受访问也承认,向访中的苏联共产党书记长戈巴契夫透露“邓氏是最高决定者”的党秘密决定是造成北京下戒严令的导火线。0 ^$ }9 I4 t9 L6 t# A% s
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党秘密决定暴露后,知识份子和学生对邓小平的攻击一天比一天激烈,邓小平想必重新忆起文革时代挨红卫兵批斗的恶梦。毛泽东指出枪杆里出政权,邓小平也示意经由枪杆来保护政权。9 N# t% y8 {6 ?
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【トウ小平秘録】(24)第1部 天安門事件 趙紫陽の失脚! c+ z0 O) }, q" ^, }
) |4 u" `. a$ ~ c0 [1 M6 y8 h 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。- t' @8 p. f! F; N+ }- I
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「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。 - ]% E+ I, Q7 i- z' m' d. D # u9 s2 B6 Y2 Z5 `* q 张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。 3 I3 `" Z. y# O6 l$ w/ p k4 ]2 ]6 `6 _! a3 m
天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。2 a# i ^: K/ Y
& q% Y7 g3 I2 a+ A7 c# i 学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。 ' L. j) R: [. Z; h' @5 x. d- y- \1 a* h
「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。 8 b5 B3 L2 _' X6 U4 p; A& `9 x( k0 u- t! R- G. N! ?
担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。, ]* P# k+ K; K
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【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令 + `* f; e& `8 x+ \ 5 L3 W# v- T. Q3 s2 V- {1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。9 p& ~( \. ~0 x/ L" H: s' x
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「来るのが遅すぎた」7 y7 J/ o6 |- m: Y2 D
6 J( I2 ?4 X$ s' `0 k& e 四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。$ e0 l3 N! ~2 m: Q4 }' P# i
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張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。+ q- n8 n' ]4 f( x) y
) H' B- b% x/ k% N; Q 長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。- f6 e/ U, F0 |* V3 D3 S( g# G' z$ v4 p: L
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「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」 * O% r$ z8 a& T- k$ ^) G! e ; S* e- |7 `' K2 B" D: W 数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。7 O w9 `1 G5 C6 l$ P
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「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。 ( u3 U* j' X$ g$ c- A" L% J7 e+ f
文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。 , e4 I5 @' P& \4 R5 l- E# j+ G- q" m
「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。 ' T8 D! I$ B$ A8 J B) {/ R+ v/ |. h: R, C- }0 M( p& Y2 P" l7 E
トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。0 o, C5 h" c' U. a
# E4 m$ m8 Z; l 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。" Q5 v/ } c. P# R1 g
- b1 `! ]+ O2 ?7 y( w8 F4 g 19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。 - r8 l0 {) b9 |" I n5 g ! x. D; d1 K9 o9 c. L 「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」 O1 d" \6 ]& M, z& D8 F2 R* ~& _& E7 J2 O( ` n
学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。 / ] O. o3 [% _& f/ D " {$ ]* ^. X: T 朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。 5 E' q6 A+ n2 R# `) q. s( x4 Q! `4 E& w x& p& @( M4 R
「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」4 ^, N" X% Q; S% M8 I
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楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。 5 l1 i$ Y# Y! U 6 ]+ }# B: z: q8 N9 o5 k+ H 李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。 + l1 g+ F: o/ B& I* ]$ Z & E" N& Z' W' }& ? v6 C/ n, e 趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。7 b' y+ p/ Y0 y) O) z% V1 v6 z
" W+ _; \# o, D. A; K, C7 l【用語解説】戒厳令$ i. n2 g* i6 Y9 ]! t8 w) F, g
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暴動などの緊急事態発生時にとられる非常措置で中華人民共和国憲法に規定。全国または省・自治区・直轄市への戒厳令は全国人民代表大会常務委員会が、その一部地区の戒厳令は国務院(内閣)が決定する。89年3月にチベット自治区のラサで騒乱が発生した際にも発令された。96年に戒厳法が公布され、国家に危害を及ぼす集会・デモ、ストの禁止や報道管制など具体的に規定した。7 b& J4 L' b& n
# R i, G O+ c: d' c 1989年6月の天安門事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。 2 e3 m1 }: Z9 y6 @6 n + l" K! ~' U- ~8 h8 a3 T% F3 S 胡錦濤(こきんとう)国家主席(党総書記)が2004年8月のトウ小平氏生誕100周年大会の演説で、「80年代末から90年代初めの内外の政治的風波」発生時に、トウ氏が果たした貢献を指摘したことは本連載記事で既に書いた(2月15日付朝刊)。' C3 J' Z* D* D
x6 V8 [2 h G% @: o5 D トウ小平氏自身も89年9月16日、ノーベル賞受賞の米国籍物理学者、李政道(りせいどう)氏との会見でこう述べている。 3 k; u/ i6 Y5 P: P; z6 G* e ?8 t+ Q" M r/ f3 A
「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻)5 R4 x) P& M" g% V: w
s B c# r& _# D1 R ]: s; p その結果、「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。: |3 I+ A3 ~7 X; p; R3 T6 [" j; a. Y4 R
, N, y+ p- ^7 N0 C% S& y トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。% S, D& V7 ^% i2 @, o8 |) w7 V
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「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」 + I8 [6 i3 N' t7 j* p7 p" d3 r , b0 E# |7 v- o% ^' [$ \" Q! t 「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。 " z9 D/ K* R% L; j+ U" h : ^8 w6 e( i# M' N4 ]& e9 j 89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし、一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。 2 m1 n: H" `& h1 k3 N7 L 2 u. ?, t: D4 H4 g) e2 Q) T- R2 B トウ小平氏は先の李政道氏との会見でこう話す。 / C! ~; j5 A. z( r5 ~3 a# I" G% X& Y; B* @. `
「過去2人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。4原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」. |) T% _/ r4 m5 w+ j
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毛沢東遺制は守った 5 l5 D( j. |; S 6 p- J2 m: R8 @& E# a- W) k+ s トウ小平氏は天安門事件(1989年6月)後も、87年秋の第13回党大会で趙紫陽氏(天安門事件で失脚)が読み上げた政治報告は一字一句も修正してはならないと強調した。報告は、中国の社会主義を初級段階と定義、経済建設を中心目標にし、改革・開放と4原則堅持を基本にするとのテーゼを打ち出した。これを「1つの中心、2つの基本点」と呼ぶ。 : O) b" d# r" b" y f: k7 v9 x+ g$ ]2 E4 s4 C5 ^7 J
改革・開放は市場経済化と国際化を基本に経済建設を図る方策だが、それは毛沢東路線とは相いれない。ところが4原則は毛路線そのものであり、トウ氏が4原則の核心として挙げる「共産党の指導」、つまり一党独裁は、毛遺制だった。相矛盾した2つの基本点を並立させたことが保革抗争の種になった。5 w. A |6 Q# j6 P" R9 j& v+ Z
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張良編著「中国『六四』真相」によると、学生、市民のデモが「老いぼれ独裁者はやめろ」と叫んでいた89年5月19日、トウ小平氏は楊尚昆(ようしょうこん)氏にこう話した。# I5 Y# B! K& T! h2 z
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「わしは年を取った。老いぼれといわれてもかまわない。だが、この年にしては思想が保守的だとは思わない」3 k" D* g; x/ [7 n- }
3 I7 d8 A1 p( ?0 V3 ~% P( h 今日の中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。 6 w7 @3 A$ g) o 2 t/ h) o. \: ?( c% U" I しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、4原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。 , t, }& y0 _, P, _ X% D/ Z' v 3 ~0 H7 h; w6 t% m1 Z: m4 g その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。 : X6 [- n; }5 T7 o: B/ w8 K8 h, r2 {# N; F* C
89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。 3 ], e Q4 X% C. A. ~5 [ : M8 R) d- U/ O( o/ d0 [ 天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない。 / v9 I2 ^; u! V5 T$ L ) m s6 g1 _1 i! Z トウ氏がなぜ武力行使を決断したかは、まだ検証すべきことがある。第2部以降の課題にしたい。( E: e9 Z" k- t# o6 o
9 Z' v& f" _, q! A (伊藤正) , O9 c5 W3 w; C+ G% i E- ~. ]8 s4 n3 t( Z# Q! { p, H: p
=第1部おわり1 i& q6 O% `# n/ J, f
! |% A1 p2 ^" t0 t4 ^◇& K. Z" q" n/ w; l0 K; Z
: p0 E0 ?" U M" Y■伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。 ' d3 P' G+ O/ {8 k6 @6 o! o5 p: P6 E" M; R6 K) G& f
(2007/03/18)
【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行 ; R3 s0 o g/ _! `. O) C2 u
8 I) Z# Y# E, v$ v6 v4 h春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。1 L) A! p% i$ W. j8 m
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期するものがあった6 [ ~3 e5 @- t( ]. @5 F
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普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。 # h6 g. u1 B$ |0 ]5 d' k) \4 p O5 `2 ^# h$ J8 E
午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。$ H2 L3 j, H6 [" e- _
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緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。$ ?- O! _' R) ]0 t7 T5 B
+ P3 z0 S% c5 z) H* f+ }0 ` 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。* k/ F1 F6 F$ h& X' _' u5 R2 r* D
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「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」9 u2 E7 A1 N, `- `. U
) P: a: u' `4 b, Z: m. y: m7 i& t トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。 % Q4 o7 x1 F- `) a6 B& f) k- M) S$ a, e& G, M
引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。$ {( s' r$ K- z: S. G2 ?, Y6 M
1 S' S) f* `$ w7 @ s0 b トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。 & k% @" B$ }+ @$ s a! h & q2 j6 @; O# b ~3 `4 C( N4 \) Y6 r ≪天安門のツケがきた≫3 ?7 \/ h2 [3 ], P- E* I" b
4 ?4 M3 }/ C X: r8 ` | M 元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。1 ^6 w5 F3 W- ~- ~
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「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」 ! D) M1 i J* I4 r( N ; t; ?; i- i& Q) c4 R, O5 m( T 広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。7 a5 B, R9 A3 ]: b
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「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」2 y8 }8 O2 R) t- K% a4 c! C7 X I
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1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。 8 z( G) M! H% Q" Z$ D- K2 ?" s1 M - ?! I* _+ i1 Z" \, v6 d 身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。# S# K: U+ x- r4 f, b. D y
+ O7 k* Q0 a Y! d+ A1 ?3 q しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。 4 K2 ^/ E8 u b7 K1 h7 Y; n- x, t* X" ]! ^( B
トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。 " f' _- z$ W. T# J' H # [) e0 r- E( V# { 天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。% J$ l: @6 j& p, K! \9 O' I. p6 I
7 ?8 k* g" G4 d 計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。 ' O# x. U: [5 X7 f ( C$ e" `) S9 N" O その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。0 r0 P3 Y0 n9 _' {2 [; C
5 \4 j7 J; |+ T# P トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正)0 ?- @4 Q5 U/ A& N
5 ?+ W/ j$ m8 V! K■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。 $ k6 _9 O" W0 _( g# N. f ' ~3 F' ?& f& E, C' C1 q4 W 4 P5 d) ]# O. N1 j4 ?0 n& R" A第1部あらすじ% U- W6 ~5 u: e
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死者が少なくとも数百人にのぼったといわれる天安門事件(1989年6月4日)は中国現代史の大きな分岐点として後世に伝えられよう。2 S* x* F! G; z- k: @7 s( H, ?+ O
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「トウ小平秘録・第1部天安門事件」では、トウ小平氏が、なぜ人民解放軍を出動させ、デモを続ける学生や労働者らを武力で鎮圧する事態に至ったのか、背景を掘り下げた。! O1 Y) b9 v5 B6 V
3 ]+ j; w( c0 ~& O, L9 k5 F 89年4月、急死した中国共産党の改革派指導者・胡耀邦前総書記(肩書は当時、以下同)の追悼集会を契機に、北京の大学生らは天安門広場で集会を繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。党指導部内では強い姿勢で臨むべきだとする李鵬首相・長老ら保守グループと、対話による解決を主張する趙紫陽総書記ら改革派が対立し、深刻な権力闘争に発展した。6 Q2 k. Q. |2 [* q* G) ^
; }. }1 A) _+ M% n3 S S% g3 T( ^ 改革・開放を推進し、国民に豊かさと自由をもたらそうとの思いを抱くトウ小平氏だが、天安門事件で自らの路線の執行者である趙総書記を切り捨てる決断を強いられた。改革・開放のためには国の安定、つまり一党独裁の社会主義体制堅持が不可欠と考えたからだ。/ {9 g, X' S6 b5 x: q4 F
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第1部は最終回(32)で「天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力抗争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない」とも指摘している。$ D/ Y2 }7 {3 o) z- G) |5 t2 m
" n& y. B( {$ E8 l Q# ]: r8 P _[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-18 11:40 编辑 ]
1 _* G4 Z8 u8 C n 89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。 ( o }) W6 S( v/ z6 L9 J& ^; U+ C8 a R b/ E, U
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天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月+ s. L! @3 g. K8 g2 U
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1989年7月、アルシュ・サミットの記念撮影に応じる各国首脳。左から4人目がブッシュ米大統領、その左はサッチャー英首相, h9 r: Z( [/ |9 U, J1 Q5 s, m
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-21 11:00 编辑 ]