邓小平秘录:老邓听到胡耀邦去世猛抽烟" r: f8 i" M* J- _+ G
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日本产经新闻今天连载「邓小平秘录」,报导一九八九年四月十五日胡耀邦由於心脏病发作去世,邓小平听到这项消息熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,但片刻后开始猛吸烟,想必他警戒的是民众对胡耀邦死亡的反应。8 q* F2 b& C7 v/ [3 s+ w
4 i C+ {. l. N3 \ u7 V/ [文中指出,今年一月十五日薄一波去世,他是曾在一九八九年天安门镇压事件采取强硬路线的八大元老最后死去的一位,他也是在一九八七年一月积极支持将当时担任党总书记的胡耀邦解任的一位。后者由於对一九八六年十二月安徽合肥学生民主化示威表示应放任无产阶级自由化而和保守派元老对上。 & C) i- `/ @7 @ R* o; t& l) I' Q0 X
秘录指出,「亚洲周刊」曾报导,当时担任贵州书记的胡锦涛曾针对胡耀邦被解职一事对部下表示(处分)相当不公平。学生和知识份子很多人虽也都有相同的看法,但并未发生抗议事件,改革派的赵紫阳被选为胡耀邦的后任也是原因之一。 8 `3 J8 i1 q4 H6 p1 G( A' V3 h3 S& E7 ]% ~0 d% I
胡耀邦去世消息传出后的十五日晚上,北大等部份大学贴出追悼胡耀邦的大字报,十六日,大字报扩大至二十所大学,批评元老政治的内容也增加,一般市民也开始追悼胡氏,十七日晚上,中国政法大学等学生在天安门广场的示威揭开各大学竞相组织示威并扩大规模,由追悼胡耀邦而转为攻击保守派。 6 j; J& d/ g& k' X2 {. M, U+ I' @; N1 j: B, w& E
胡耀邦的突然去世带给中共领导阶层冲击,据「中国六四真相」报导指出,赵紫阳总书记接获中央办公室主任温家宝的报告后召开政治局紧急会议,决定讣文内容和葬礼程序并於午后报告邓小平,邓氏由於已接获报告而显得相当平静,但政治秘书王家瑞事后透露,当邓小平得知胡耀邦去世的消息后熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,片刻后开始猛吸烟。 8 r! @5 Q8 }# D5 D + j/ f4 x, l, v, ]9 P3 h# u邓小平针对胡耀邦的去世同意赵紫阳报告提议将胡氏定位为党卓越的领导者,对由於主张「无产阶级自由化」而被迫下台的胡耀邦来说是异例的待遇,邓小平对胡耀邦去世保持戒心的想必是「民众的反应」。$ f5 B" t( g) _
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一九七六年一月,毛泽民未出席周恩来首相的追悼大会而引起民众的怀疑,发表追悼周氏演说的邓小平被迫下台,同年三月底开始,追悼周恩来的活动遭到镇压,发展成为第一次天安门事件。中国资深记者指出,不仅是邓小平,所有领导阶层都想避免一九七六年事件的重现。- R( A) N& p2 d( b/ Q; o" o
2 U) I" Z5 }, k一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。 n/ ~4 M* H Y- A8 A
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【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死 7 E2 `- j7 a" }! w* q, D 3 ^$ K& @* A, i) G/ ^4 _今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。# D% v @* m- x$ h# |
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猛然とたばこを吸った/ A0 j% j! b: S2 b# W1 U
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天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。/ n4 O' u) B; W0 X) w9 ^
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胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。 ( J8 e7 e, T# [* a , j: a5 Q# V/ \8 d, @4 s" ]9 A 当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。 8 m- N J! v% j# n2 {) w1 Q5 W* O: P+ @3 }! u5 P3 F, g
そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。 ( g6 L+ D7 Q6 B+ x; ]: r+ M+ C' j; r7 z
89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。 9 }" B6 S _/ I K H0 U% j( J! t N, o( y1 D5 m
予感通りに事態は展開していく。 + W9 e, l" W* h# L# k7 e4 w8 B0 g% P4 C: }1 ?8 ]8 z7 L. F" N$ ?) O
訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。 & @7 o; N" b5 M / R5 n7 e1 e7 D! p そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。 . Y+ a2 x! v: u7 j( y6 _" j; | , V2 |' S. p! e0 e5 P1 d$ q 胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。( H1 V- j8 `# o
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「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」: b% ]% E6 Q" x
9 {* g4 k0 H+ e- t" a 邓小平政治论理精髓的「四项基本原则」是在魏京生被捕的同时发表,核心是「党的领导」,亦即坚持一党独裁体制,攻击邓小平是「新独裁者」的魏京生也可说是导致邓氏「四项基本原则」的产生。9 d8 \4 Z7 F. O' A, c; F6 X) G
' x: _. e t& j: ]. n 方励之的公开信刺激改革派知识份子,要求释放政治犯和民主化的公开信接二连三出现,而在此之前,令知识份子提高警觉的是电影纪录片「河殇」问题。这部作品揭发中华文明的封建制和黑暗面,要求改革,六月中旬在国营电视台放映,引起很大回响,但进入七月,开始出现反弹,党宣传部虽驳回再放映申请,但赵紫阳大力称赞作品,默认上海等地方电视台的放映。" R0 P0 L! y9 X) X
' g" a: e7 R: T 赵紫阳的作法激怒保守派元老国家副主席王震,大骂前者,九月以后攻击更趋激烈。中国的文艺作品常成为论争的火种,政争的工具,河殇问题升高知识份子的危机意识,发展成为对政权的批判,方励之的公开信则成为保守和改革对决的导火线。 9 N5 I% N( s- _6 {6 L' v 7 h( ~( A* w$ R5 y5 D v t9 s5 ^中央社" G/ ~. b% z6 F7 p% L# ^5 Z& ^; b
2 x0 S. h2 r, q, G, u6 D" [ * T$ B% c5 S- Q' c8 v- ]6 \0 [ * J6 e6 i3 L: L0 Q; m3 d$ w6 c2 e , {2 n& d+ b& H2 G5 s: _【トウ小平秘録】(4)第1部 天安門事件 魏京生事件0 V4 j1 T9 X' P. N3 v$ u- m
トウ小平(しょうへい)時代の重要な特徴の一つは、トウ氏自身をはじめ権力の中枢を文化大革命の被害者が占めたことにあった。その結果、毛沢東時代の誤りを批判し、文革路線から改革・開放路線へ転換することもできた。& S/ d7 T* M* B2 G
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釈放要求公開状に激怒' Q# P0 J% J8 C8 d' }4 Z
簡単だったわけではない。1976年9月に毛が死去した後、江青(こうせい)女史ら極左4人組を逮捕して誕生した華国鋒(かこくほう)政権は、毛路線の継承を掲げていたからだ。 ( P# z |2 q2 i4 o+ J
トウ氏の権力奪取には、毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする「2つのすべて」派を打倒する必要があった。毛無謬(むびゅう)論は78年5月、「真理を検証する唯一の標準は実践である」キャンペーンを口火に打破され、同年末の党中央委総会(3中総会)でトウ氏の指導権が確立、改革・開放へ転換する。 5 B' @" L* A0 m# B8 F3 s & u6 b& d' {0 {2 N3 K" o/ ] この理論闘争で大活躍したのが胡耀邦(こようほう)氏だった。胡氏は「思想の解放」を唱えてタブーを次々と破り、文化・芸術や報道を活性化させた。80年代、改革・開放が進み西側の文化や思想の影響が強まる中で、政治体制の改革を求める声が広がった。2 x; W* S8 ^, Q9 P' _
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第2次天安門事件(89年6月)と第1次天安門事件(76年4月)の違いは、76年には獄舎にいるか、骨抜きになっていた知識人が、89年には運動の一翼を担ったことだった。 - h0 w6 ~ v0 f0 W Q) [7 d& t) f0 d/ F. ~8 C+ L
前回書いた、北京市党委員会が警戒した「一部の下心のある者」の多くは知識人だった。事件後、当局側から名指しされ批判された知識人は著名人だけで約50人に上る。その代表的人物は、86年12月の安徽省合肥の学生デモを扇動したとして、党を除名された天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏だった。$ Y+ a) L5 j: v1 z: H7 e
4 X& w3 b" F( B' I 私が88年12月に北京の自宅に方氏を訪ねたときも意気軒高で、トウ氏らを痛烈に批判、民主化は必ず実現すると話していた。それから間もない89年1月初め、方氏は行動に出る。服役中の民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を求めるトウ氏あての公開状を発表したのだ。: \5 M: c1 T \1 l$ P8 I
- G9 a7 V' Q& P5 g 方氏の要求にトウ小平氏は激怒した。それは翌2月に訪中したブッシュ米大統領(現ブッシュ大統領の父親)主催の夕食会に、招待された方励之夫妻が公安当局に出席を阻止される異例の事態になって表れた。魏京生事件は、トウ氏にとって特別な意味を持っていたからだ。 6 p7 C- }! v R2 r5 z! ~4 q0 [8 ~
攻撃の矛先 民主運動へ: \" T; V6 X. f, _9 i4 p9 L2 s- L* Y" i
胡耀邦氏が1978年に開始した(毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする)「2つのすべて」派への攻撃は、青年層の強い支持を受け、民主化要求の壁新聞運動に発展した。それは同年末の党中央委総会(3中総会)で改革派を勝利に導く「院外活動」の要素があり、トウ小平氏も当初は壁新聞を支持していた。) w& `4 I+ l& a0 z6 X7 D
ところが、当時、過激な文章を次々に発表していた魏京生氏がトウ氏に批判の矢を向けると、トウ氏は逮捕を指示する。 ; v7 e s/ h/ J* `3 @( F% N. \3 c! ~8 z7 T( A0 U0 `, d% x
当時、胡耀邦氏のブレーンで、毛派との理論闘争に活躍した阮銘(げんめい)氏(台湾在住)は、魏京生事件について、産経新聞の取材にこう話している。 1 P/ g; ?; A. P O" N% K. T 8 R ?1 F2 c" r 「魏京生逮捕後、胡耀邦は厳罰は望んでいなかった。懲役15年の判決と聞いて驚き、胡に問いつめると、資料は直接、トウの元に行き、トウ小平自ら(量刑を)決めてしまったので、なすすべがなかったと言っていた」 2 w/ Y( J. {( Y- O0 i % _! l, C7 z3 q- }1 s' p/ W7 H トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。& u# f6 B8 B! I
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天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。 + w: v% G+ u( z! F$ i* z6 F 5 D; i+ P7 y2 d: r. D! x5 ~5 X それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。8 D ^" C, h. A2 }8 i
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中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。( T/ A# Q$ k- W8 @
* k/ l, o" L+ m) @! H 中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。! T8 H. U$ D6 ]! I2 |/ B
0 c* B+ B: d- P. g g; m3 b a これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。# P' J' H" M. m7 y
( d/ x3 r2 E2 q y/ [4 A! I中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) & W2 J7 K& [4 l# w◇ : _; L* q% W. x- z【用語解説】文化大革命4 l8 Q" w& e% N
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1966年、毛沢東中国共産党主席の主導で始まった政治、思想、文化闘争。古い文化を破壊、理想社会を目指すとのスローガンを掲げて大衆を組織し、あおられた学生や労働者が古参幹部、知識人らを迫害する弊害を生んだ。毛死去(76年)に伴い終了。81年の党中央委総会で「災難をもたらした内乱」と位置づけられた。2 T L# w. I. Y8 a* O0 {
$ L( {* F: }% d$ y 一九七八年开始每年有九成九以上的受迫害者恢复名誉,当时从事重新评价的是党组织部长胡耀邦,邓小平批评领导阶层的谈话显示出他对自由化思想的严峻态度。 2 E+ Z5 E; p5 N G* G7 ^ . c7 e$ F9 l9 _4 y! ?/ r$ t 根据一九八九年天安门事件后现身的北京市党委书记陈希同报告等资料指出,当时党全力搜集知识份子在集会中的言行及大学内发现的传单,作为策动动乱和组织准备的反党活动证据。8 A8 W# j, Q; r- \! z; U" _ h# y& t
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邓小平接获报告后认为反右派斗争是正确的作法,有必要新的反右派斗争。中央社 & J9 s5 e8 W; G; ]7 c' z) L$ z. d4 _! k
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【トウ小平秘録】(5)第1部 天安門事件 反右派闘争. q1 `, y a* B+ I3 r
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■必要なら専制手段使う - f6 ^0 ]) T2 e8 Q$ \. ?+ i: S , J }+ F* I+ x. ?! K 「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻) + ^- k- G( F$ c& U ; W; C# N, c! N9 L3 d 1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。- U) W, ^1 P# Y& w/ m7 {
" f9 S1 B1 o$ o% T この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。 / ?! Y u$ j2 R, }6 _5 \4 z+ `8 H j+ E5 O# P
談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。 Y* Q0 s" L \1 \8 ]" R7 s8 ~2 v% }: P - Q6 y7 y ]7 ]4 Z; V3 I そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。 - o a- Y$ x: M% H P" ^ b5 Z* L/ E1 _' u) w( y6 a この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。7 V3 f/ n& R) B* O t3 }9 Z4 h
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当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。 ! z! I6 }. h# h' p' V% y6 Q C4 g- z9 b* S
78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。* V( B4 s6 M! L" e! B
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トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。 7 a4 a. b9 h# f- n. Z0 e* k/ J7 m9 t! q, j m, w
「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」" F: V3 [# R: L( D+ I+ p( X/ Q
2 L' X2 U( b: M- Z: f# D 「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」2 d \. V+ ?1 w
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だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。* W J, i+ t1 G! e6 ]. D5 u% q! I
$ r6 [" J* J3 A0 Z e 邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 $ K: Y- N$ v' Q0 T9 y7 v, i0 e
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她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 & W5 \* @. \% e( J' H
0 q2 y: r2 D; l: L5 [; Y4 f) } 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” , ~- V: C1 p4 c/ v) }6 k 9 s4 D8 I5 l6 p+ v, T 在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 ; e9 t* m$ I3 U. q; `
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邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 " z9 X/ X6 G4 N [9 X; b5 s ( d/ [. H7 s( I) M8 j0 ^ 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”/ |2 i2 u/ } M9 V5 r
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他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 . l/ j1 v( E2 h& S5 x
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在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 ! g2 T2 W/ t* H2 Y9 ]# d
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邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 ( {9 N( {: e" I5 Z! f/ r5 }. Q) Q2 A) T$ g& b1 O. ?
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China honours man who reshaped world8 K+ k3 b5 {+ n8 ]8 F
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. , q( E' f) W" u; Z6 Q7 S# r& B2 K) ?3 H( w2 {$ ]/ k/ F( w
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 3 {$ M9 ?3 Y; I, V" b1 E" x1 ]
7 n, u: N9 Y }' e5 Q" VBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. * s! Y/ A( }" F
! {9 o9 d% Y* i" ]9 L# r$ o9 y7 H6 OHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. ' H! z. @4 s3 ]) a3 K
9 [9 r) Z& u ^* Z0 ^$ X% Z9 D E( `“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” & m# N+ o5 h% S2 C+ C. \5 U& M) i: ^$ X# `% J
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. ! G, c- V1 n# z) c; t% k e B( X $ ?. P/ Y: s/ ^) xMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. + T$ x) Q, ?0 Z ( G! ]5 f8 |# \, h' PShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” / P! f) C+ n7 m
7 h: Y1 r. T2 j9 dNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. ' O u* ~0 a; B4 m6 D4 X
! l2 s v: x6 I6 i! n% LDeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. 7 Y6 L) Y3 G) P, x' R/ p : Z! [6 i) l- {/ t! ~David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 0 d! N/ B0 d( P3 b1 f$ ]" t ' R6 y& g: q( w3 SHe understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. * B' h2 r/ L' t 9 u! \, W: v8 h/ J8 M+ VMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” & m- V/ V$ M% H6 y6 |
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Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. 8 Z) i2 E' p" e/ O8 P! s( d6 E- u6 T0 A4 I# H' P
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. 8 E: u) o9 m( ~6 N % s8 F& u! [; t! p) dHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 8 U ?* |, Q% ?, g
0 v& q" y0 P9 E) x4 rLong road to riches) N9 f2 h7 k' v8 @9 K
\# K/ [. A2 q6 P/ B! V: O
Now : d: U. h! a5 Q
* `6 y, k- A% e$ H2 o; O& O G+ PPopulation in cities: 550 million " M, c: \( Z4 Y$ |/ E
* E3 R% u8 T& k1 K; lGross domestic product: $10 trillion . q6 Q o# J7 E% \7 {; h/ J7 N' D$ \6 d; I) k* ^
Oil consumption: 6.5 million barrels a day / A$ r [+ Y F0 z% S( D" l! H
/ L- k, u5 [9 V/ t
Exports: $954 billion 9 t' [9 Z) t; l6 ]/ \ }
0 n: j0 ?3 K$ M8 x1 N! [$ b* pPopulation below the poverty line: 130 million * ~' |( P: E$ @0 u! P, O, a/ V* p+ \: t/ u+ `" F- A* h& \
Ten years ago # |: P, F, r7 ^ F7 q2 r0 G5 z; S8 k - r9 T# ]- i& EPopulation in cities: 370 million m! Z( K, O. d2 e' C: T9 H9 q9 }( m5 _4 F
Gross domestic product: $4 trillion : T$ W: J- O6 ~0 v3 o8 t4 t
" s$ T5 ]' f8 x4 n5 k, u
Oil consumption: 3.9 million barrels a day , w! ]# ?+ r% q$ a5 K
. v# y$ H+ K# N3 lExports: $182 billion - | x' d* V( d+ s1 b% R' @- P( X" g- K Y
Population below the poverty line: 120 million ; ~# _! w+ _3 Y% r- |6 Z
^- V. c' |4 ~! z. ?2 SSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies8 k7 ^$ D+ Y) F* z
% e& [# h' N1 q5 `0 r* S7 i" C( c“秘录”今天报导,四月二十六日人民日报刊登社论,把学生运动定位为“动乱”,引起学生的反弹,次日出现数万人的示威游行。当时学生高举的口号是“拥护共产党”和“维护社会主义”,令采访的中国记者感到困惑。 $ o; x0 y" F& H2 k' K- a4 W 6 T7 z; }6 M4 N. i) w' E t其实这是学生方面针对人民日报社论的指控采取的高级战术,表明并非反体制运动,而是要求消灭腐败和确立民主政治和法制,这项口号获得不关心政治的学生和一般市民的共鸣。) D4 {7 s$ c( u7 ~
8 l }) ~8 O! n. I2 R# W5 ?7 `天安门事件后被以“反革命阴谋的黑手手下”罪名判刑十三年的“北京社会经济科学研究所”主要成员王军涛在二零零四年刊登的专文指出,他虽避开直接参与追悼胡耀邦的示威,但应北大学运领袖要求提出建言,忠告示威运动保持行进的秩序以避免镇压。& [: _0 W3 f) S0 w1 D
. B/ k/ a' z, g- Q1 h% }; e王氏所属研究所的成员也在当时由“观察”学运转为“支援”学运,背景原因是被视为当时最进步新闻的上海的周刊“世界经济导报”遭到镇压。由已故的当时总编辑兼社长钦本立负责的这份周刊于四月十九日和月刊“新观察”共同主办追悼胡氏的座谈会,有二十多位著名知识份子出席,并计划于四月二十四日在追悼胡耀邦特集刊出会议内容。 6 d( P' `/ P6 C* }' D0 B1 y/ ~( l# \3 d% O4 b7 q7 X
造成问题的是“中国社会科学院”前政治研究所所长严家其和“光明日报”记者戴晴等发言批评党在一九八七年一月解除胡耀邦的职务,要求恢复胡氏的名誉。上海市党宣传部在特刊发行前一天下午获知内容,当时的市党书记江泽民指示将问题部份删除,但钦本立拒绝,上海市决定禁止这份周刊发行,但已印好的一部份则已对外发送,江泽民于人民日报问题社论同一天的二十六日将钦本立解职。4 D( C9 c9 C( f U: k# V ]
3 y z; C5 F+ M" t" f1 i3 B江泽民由于这项表现赢得邓小平等元老的信赖,是使得他在天安门事件后被提拔为党总书记的重要理由,但是,这项事件也引起知识份子和媒体界人士的强烈反弹。严家其等三十三名知识份子和北京的媒体界人士数百人连署对上海市党委的抗议文于二十八日发表,知识份子的危机感和学生要求报导自由结合在一起。) {, y/ K. q& F5 B' Q
7 u+ Z1 p9 B! n* l' |: g3 Y6 i中共党中央意图以人民日报的社论和世界经济导报事件来收拾学运,未料反而造成事态的扩大,对邓小平来说是一大误算。赵紫阳在二零零零年接受新华社记者访问时指出,在一九八九年五月十七日决定发布戒严令和他本人事实上下台的政治局常委会会议上,邓小平向李鹏表示,不要再度出现造成他发动戒严令的事态。 ' m& D2 v% D8 Z0 d1 O A9 b3 q% M2 E& v8 B
人民日报刊出问题社论后的情势令元老们感到不安,前全人代常务委员长彭真电话指示党中央办公室(当时的主任是温家宝),要求党中央自制,不要扩大矛盾。中共当局于二十八日改变态度,同意和学生对话,但是,二十九日,国务院发言人袁木的作法对学生造成刺激,因为获准参加对话的四十五名学生之中,有四十三名是与政府息息相通的官派学生会的成员。3 P7 M# N& Y' S; S2 p) F2 @$ H
, j9 R- ?. o3 Z8 p g% X- x正当李鹏等保守派被迫处于守势之际,赵紫阳结束了访问北韩之行于四月三十日返回北京,揭开了保守派和改革派激烈斗争的序幕。 . L2 o; a- K9 E1 q" w 7 N. v8 G4 g+ [5 t4 Y9 ]; w+ D【トウ小平秘録】(18)第1部 天安門事件 発行禁止" L$ t5 s" X9 }- B% T
. K' K+ }5 e& P, e
故胡耀邦氏に対する学生の追悼活動を「動乱」と決めつけた人民日報社説(1989年4月26日)は、学生側の反発を招き、27日の数万人の大デモになった。デモを取材した記者たちは学生たちの掲げたスローガンに戸惑う。「共産党を擁護せよ」「社会主義を守ろう」が前面に出ていたからだ。/ o' e' Q& W& I8 t% F4 }
9 z$ @# g+ J3 h7 c/ f1 t& c% {
これは、自分たちの活動は腐敗や不正をただし、民主的政治と法制の確立を求めているのであって、反体制運動ではないと訴え、「反党・反社会主義の陰謀」とした社説の逆手を取る高等戦術だった。そのスローガンは、ノンポリ学生の動員と一般市民の共鳴を得るのである。4 i+ \7 w9 H3 X8 \$ G' t/ e
, h0 `& m2 [6 S. b: d* E
後に「反革命陰謀の黒い手先」とされた独立系改革派シンクタンク「北京社会経済科学研究所」の中心メンバーだった王軍濤(おうぐんとう)氏(天安門事件後、懲役13年)は2004年に刊行された「浴火重生」(明鏡出版社)への寄稿文で、こう回想している。 : k9 @- ~, q% g" K( T5 n6 ? & t# W( M# }$ \! M 「当局側が強硬措置に出、政治的粛清になった86年のデモのときと同じ事態は防止しなければならないと思っていた。胡氏追悼デモには、直接関与を避けていたが、27日のデモの前、北京大の学生リーダーから求められ、アドバイスした」 $ ^6 G0 \$ p4 z: O1 p3 R , }' m6 W" y+ {: A1 i5 P/ } 王氏は「運動の秩序を保持して鎮圧を避ける」必要を指摘、「スローガンに注意し、ピケ隊を設けデモ行進の秩序を守るよう」忠告したという。それを機に王氏ら研究所のメンバーは学生運動に対し、「観察」から「支援」へと転じていく。( g% x1 J% ?( i( C( c
2 v1 ]0 M2 |' w* Q! R! L その背景には、上海の週刊紙「世界経済導報」弾圧事件があった。7 Z# @4 G2 g5 x9 l* }) o
" N) W. H0 n/ P0 N$ T6 y 老ジャーナリスト、欽本立(きんほんりつ)氏(故人)が総編集長(社長)を務めていた同紙は、当時最も進歩的な新聞として知られ、北京の中心部にあった支局には、改革派知識人や外国人記者が自由に出入りしていた。北京社会経済科学研究所との交流も深かった。4 v1 p' b: h8 F
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同紙は、4月24日付紙面で胡耀邦氏追悼の特集を企画、その柱として19日に月刊誌「新観察」と共催で、胡耀邦氏追悼の座談会を開いた。著名な知識人20人以上のほか、胡氏の長男、胡徳平(ことくへい)氏(現党中央統一戦線工作部副部長)も参加して故人をしのんだ。$ S8 {! Q- g0 N5 W8 x
! w, T+ Y/ u4 i# ?% s
問題になったのは、中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏や「光明日報」紙の戴晴(たいせい)記者らが、87年1月の胡氏解任決定を批判、名誉回復を要求する発言をしたことだった。 : p; a8 ^7 G% B" E; i4 P0 |: H7 f. h: d/ h# k, e- X/ Q9 E' D
それを上海市党宣伝部は23日午後、校正刷りで知る。陳至立(ちんしりつ)宣伝部長(現国務委員)から報告を受けた江沢民(こうたくみん)同市党書記(前国家主席)は、宣伝担当の曾慶紅(そうけいこう)副書記(現政治局常務委員)に、問題部分を削除させるよう指示する。# o% @! v, [4 n* E4 q+ t
& ]/ M- ^! J0 v; j% T d8 V 一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。1 x% V% z, h2 r' B1 t7 W. K
3 u* E, m/ M7 N 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 3 W- s$ l p$ a( {5 \. I7 q E% ?6 L- _: i5 |- U 趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。 " _9 H+ g" P, `* D8 d4 U8 d ( X2 y6 ~/ _. D5 p8 p3 Q# I0 X' t: H# e 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。9 i* G: W; _, `4 T4 E3 Q! S
* M5 C2 Z4 o- ^4 M+ h 「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」3 }8 Q2 H) h( k g6 v4 }3 X* {
0 i/ Z. n; D, P+ n5 y" N5 W! V 89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。# @# F7 v0 d' G4 A( X& Z! A; Y
: Z9 ?9 U R% n& Y, X9 J 5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。# D9 B) k5 f: N# G; ~
% Y& W l% M8 t' P; P' I9 g) W これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。( k6 V I* n+ i
" r2 t9 O4 f" A 柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。1 ^7 m: i1 e4 u* K
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「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」 ( @/ g- I4 Z' u: X9 A* ^" P0 _( {/ ?$ j* x+ f _4 \, O6 C, A! Z
張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。 4 G. P' b; A U5 P1 A7 T: {7 v& G. F8 w+ I9 v
党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。2 N/ Y" g' H% }+ H
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最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。 2 ?" a) J3 } n+ r$ r1 {1 H8 l) ] Y# I$ A8 K2 }' {" F" @3 ^2 Y
9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。6 [2 |) f, l5 A9 P$ q
0 Y& g& ]4 u$ h$ L/ `6 S. P 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。 & ?: u9 y; X+ D$ b/ ^5 V 5 k7 X6 x/ A1 ?6 L しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。8 n; Y+ x) b5 F0 Q
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陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。 B# G( j6 Y9 x1 {! K/ B7 I5 b) r1 ~
0 m8 W' [8 V9 |" D6 |& n- P そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。6 D; o, I1 w. e% I0 @8 S: R
) J: L) g$ a, i それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。0 b, L. l+ r1 `0 ?& Z, @2 m! O f8 j
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「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」 $ f- W* e0 d: U8 p2 ~" A* I( ?: O; J! ?
そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」 ( u# d, {; a( c% O& X, N; r1 |. |* y. Y& F
トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。 ( h( \+ `- e; W4 T- Q6 ?$ a+ d" i2 `% s' O m8 s
トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。/ N% h: z) V% o( i* a. N# e$ w* C
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《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》 ' U8 A: J; h1 a3 `& ~# S! P # k. U4 X7 `- M トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。 : {. k" `! ]3 P" ~( I : r0 }. Y- J& F% ? 彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正)$ A6 [* I9 ^, E7 j
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邓小平秘录:赵紫阳透露中国仍由邓掌舵 # J. s1 O: ~" O% Q; I . O. m, [2 P9 s1 L/ x t$ g) S2 m(中央社记者张芳明东京八日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳于一九八九年五月十六日,在和访中的前苏联共产党书记长戈巴契夫举行的高峰会谈上透露,邓小平虽退出党中央委员会,但中国的重要问题仍由他掌舵,这项发言后来成为保守派攻击他的罪状,也造成他和邓小平关系的破裂。* M2 H& [( X# t& i( o9 ^/ |6 w1 B
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“秘录”指出,北大学生在天安门广场进行绝食抗议的第三天,五月十五日,前苏联党书记长戈巴契夫抵达北京访问,由于天安门有五十万人示威,欢迎仪式改在机场。戈巴契夫于十六日上午和邓小平会谈,下午则和赵紫阳会谈,赵紫阳在会谈上指出,邓小平是最高领导人,中日关系在上午的会谈已关系正常化。 $ y6 j' m7 \+ m" V& n' h- Y9 D % b* p9 ~* V, s- h" ]赵紫阳向戈巴契夫说明理由指出,一九八七年十月的第十三届党大会,邓小平虽退出中央委员会,但随后的“一中全会”决定最重要问题需由邓小平掌舵,自那时起,重要问题的处理都必须向邓小平报告,请示他的看法。赵紫阳的这项发言重大,后来成为赵紫阳的罪状,李鹏等指摘赵紫阳泄漏党的秘密决议,把斗争箭头对向邓小平,造成情势更趋恶化。/ `9 G/ U9 s) w$ `, g
, B: m* w; P. B( {- Y. ]新华社记者杨继绳在“中国改革年代的政治斗争”指出,许多人听到赵紫阳对戈巴契夫的说明之后,都认为赵紫阳潜藏让邓小平背负局势恶化全部责任的意图,赵邓之间的关系为之破裂。赵紫阳的发言经报导后,学生开始攻击邓小平,反对“垂帘政治”,要求老人引退。7 s. F7 r: N2 {9 ^# [( Z
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赵紫阳和戈巴契夫会谈后的十六日傍晚,党中央统一战术工作部长阎明复在天安门广场呼吁学生停止绝食,约两千名绝食学生接二连三倒下,王丹和吾尔开希两人提议要求停止绝食,但是绝食学生精神高扬,学运已经失控。 / `4 | K/ w- @4 K; f! K/ v# ^, r8 [# m/ Y
十六日当天的示威达五十万人规模,劳工、文化界和新闻界人士参加的人越来越多,大学中大半学生再次罢课,赵紫阳主导的柔软路线走入死胡同已是明显可见。当天晚上,在政治局常务委员会上,赵紫阳和李鹏等激烈争辩,赵紫阳仍主张修改人民日报四月二十六日的社论来解决事态,但是,连过去支持赵紫阳的乔石和胡启立都表示质疑,列席的杨尚昆和薄一波也反对柔软路线。- _6 {/ r' q! m7 Y- b1 U; p; r7 ]4 b0 C
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赵紫阳和学运一样,逐渐失去退路,欲情势逆转唯有即时中止绝食。赵紫阳在十七日凌晨代表党中央发表书面谈话,肯定学生的爱国热情,承诺党和政府不会进行报复,要求学生中止绝食,回到学校和党中央及政府进行对话。 ' R3 A5 D. B6 v5 ^8 c5 T& |, n. U5 b( S" O0 f, }
陆超祺的“六四内部日记”指出,十六日傍晚,人民日报社长钱李仁和拿着中苏会谈照片前来报社的杨尚昆长男杨绍明见面,拜托后者说服杨尚昆让赵紫阳的谈话刊登在人民日报。党中央于十七日凌晨透过新华社把赵紫阳讲的话向全国报导,但由于并未对学运定位“动乱”予以否定,效果令人质疑。1 I: v8 e+ B: N! X3 d
" Z, m$ V2 [! t赵紫阳于十七日早上送函给邓小平要求见面,希望邓小平能修正四二六社论,他把这次见谈视为最后的希望。“邓小平年谱”指出,十七日下午,政治局扩大会议在邓宅召开,除常务委员之外,杨尚昆也出席。2 r' g8 O# I- P9 k- z
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赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。9 ]3 @( \) f/ O8 f9 p6 l
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【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談 $ G/ D. C' m q/ d% y, c9 N, m u5 ^& `
北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。" l4 p' T9 \ e. s% ~. T. H+ o
6 Y4 M- C, Q n 宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。6 r* W! l" `( |$ U0 C- M5 C3 c
" i1 S8 L; n" H; r ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。 * ^' B; C7 t" t+ _' F) \2 P7 `# j1 v : r& U# y& {$ Q3 z 「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」 / w5 D: N; V5 r ' Z; S8 `( b: l a. ?1 |8 Y$ ]" k 重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。- v% A7 ?& X; {6 e4 Y
. V, A2 l$ p0 ^# k6 a 趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。 3 v+ b: D/ c/ K" x0 n y. \ I/ A! c9 B8 e9 e 鮑氏は「李鵬は(学生デモを反党的と断じた人民日報4・26社説の)『動乱』規定はトウ小平講話に基づくと言いふらし、とっくにトウを前面に出していた」と趙氏を弁護したが、タイミングがいかにも悪かった。& w; M4 u* O2 a+ w/ G0 ^3 p
: m- p% w* y- F) O. d 新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は「この談話(趙紫陽氏のゴルバチョフ氏への説明)を聞いたとき、多くの人は、趙紫陽には局面悪化の全責任をトウ小平にかぶせる意図が潜んでいると考えた。これでトウと趙の関係は決裂した」と書く(「中国改革年代的政治闘争」)。1 N2 P1 G! R0 U7 h; ?
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その報道の後、学生が「垂簾(すいれん)政治反対」「老人は引退せよ」などとトウ氏攻撃を始めたからだ。 % N) f5 g4 ~7 d5 B# b% M. F! h( ~- {; P5 z
趙氏とゴルバチョフ氏の会談が終わった後の16日夕、天安門広場では、閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長が絶食中止を必死で訴えた。約2000人になった絶食学生からは病人が続出していた。( B, E, U& r1 w' ]. d
4 I4 z- S' D' G$ v! f# S$ s 北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ両氏は動揺し、絶食中止を提案したが、拒否される。世間の同情と支持、メディアの注視が集まる中で、絶食学生らは高揚し、運動は統制力を失っていた。) X- T/ y8 |! _2 N' O
! I/ W) n6 w) c* B J0 B; w4 I この日のデモも50万人規模になり、労働者や文化人、ジャーナリストなど、参加者の広がりが目立った。大学の大半は再び授業放棄に入った。 % d' _ ~% Z: ~8 l' v$ x& D3 b ) V8 C j6 \, L4 L 既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。 R' T2 V: I f0 F# o p0 w4 |# x# i* ^8 u/ o( T* R
しかし、それまで趙氏を支持していた喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)両常務委員は疑問を示した。常務委にオブザーバー出席していた、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と薄一波(はくいっは)中央顧問委副主任も柔軟路線に反対した。0 z5 y+ U( e+ t! y% M6 U( u/ f
3 [3 G4 L4 y& ~2 n& ~, R 学生運動同様、趙紫陽氏も退路を失いつつあった。形勢逆転には絶食の即時中止しかない。趙氏が17日未明、党中央を代表して発した書面談話には悲痛な響きがある。 / x6 h5 t/ i2 i& m1 G6 k9 N9 T: m6 l8 l9 P 2 _: [8 T; o" A6 J% b 「学生諸君、君たちの要求する民主と法制、反腐敗、改革推進の愛国の熱情は尊い。党と政府は決して報復しないと約束する。諸君が絶食を中止し、学校に戻った後、党中央と政府は君たちとの対話をさらに進める。再度お願いする。絶食をやめてくれたまえ」 # \6 d+ B' I7 q$ ^( N- [ b8 Q4 v" ?! k2 e* d$ p% j
陸超★(りくちょうき)氏の「六四内部日記」によると、この談話は16日夕、中ソ会談の写真を持ってきた楊尚昆主席の長男でカメラマンの楊紹明(ようしょうめい)氏に人民日報の銭李仁社長が会い、趙氏の談話を同紙に出すよう楊主席への説得を頼んだのが発端だった。党中央は17日未明に新華社を通じ全国に流したが、学生運動の「動乱」規定の否定を否定しておらず、「効果には疑問があった」(陸氏)。$ V- r. i) m4 F: Q! W' b
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趙氏は17日朝、トウ小平氏に面会を求める書信を送る。トウ氏に4・26社説の修正を受け入れてもらうためだ。趙氏は面談に最後の望みをかけた。 4 W' j& \1 D9 W! a% j1 ? 5 c* d/ m( p( X7 C% H& C 「トウ小平年譜」は「17日午後、住居で政治局拡大会議」と記している。その通り、トウ氏宅には李鵬、姚依林、胡啓立、喬石の常務委員と楊尚昆氏も集まっていた。 # x8 l$ K( s/ h2 }: \' m & k2 d# |% s0 e& a0 i/ K 「私が面談を要求したのに、トウ小平は彼らにも通知し呼んでいた。私の意見は聴く気がない表れだった」と趙氏は92年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」開放出版社、07年)。 9 Z- Z4 A C0 }5 G! V+ y0 L( F2 e4 F' T, V) N7 I1 U4 ^
トウ小平氏は既に重大な決心をしていた。& P# E _& V* z" S' |* z/ l- |7 u+ K
/ x1 z7 d& h% E# U(伊藤正)2 x9 f1 k4 @. k, ]- Z6 c
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◇6 B0 w/ B& A# F: }& {! B" }
3 v8 i5 Y- d |+ X5 I【プロフィル】宗鳳鳴氏 - S! O2 p# L/ g5 l% z$ S3 {2 J O8 ?5 }3 C/ B
趙紫陽氏と同郷の河南人。航空技術畑出身で、元北京航空航天大学教授。80年代に国家経済体制改革研究会に参加、趙氏と親交を持つ。趙氏が天安門事件後、軟禁された1年後の90年7月から、死去3カ月前の04年10月まで、「気功師」として趙氏宅を約100回訪問し対話した記録本を今年1月に刊行。00年刊行の回想録でも、趙氏の発言を紹介している。 r8 k+ E. [- F! T" s- @2 C2 Q: G& d) U7 |% b. g& d
●=彫の周が丹 1 `6 O/ z1 w0 S9 }5 g 2 ~! g; G9 X# A9 D★=示へんに其 % O. f1 n% g0 m+ I. H7 S7 s& p" d' z; \( t
(2007/03/08)
邓小平秘录:八大上将曾发声明反对镇压学生% p; e0 N* a* A# Q3 Q! N
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(中央社记者杨明珠东京十一日专电)“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月,当时的中国总理李鹏决定于二十日上午十时开始戒严;第二天,前国防部长张爱萍等八大上将希望透过“人民日报”发表反对戒严的声明,但后来声明遭到封杀;参谋总长迟浩田告知“人民日报”“绝对不准发表”。$ e6 Z/ |6 M! d6 N
{2 R; D( B7 B1 t, o! }1 W秘录指出,一九八九年五月十九日晚间,李鹏在党、政、军的干部大会上,预告将发布戒严令的画面,从二十日凌晨起在国营电视台播放;在这项干部大会上并未见到总书记赵紫阳的身影,许多人察觉到赵紫阳的异变,也渐对李鹏起憎恨心。后来,李鹏在国务院命令上署名,戒严令将从二十日上午十时在北京部分地区实施。 : S1 [0 b! G; u. }0 ]2 ^ ) S4 C, {; M4 x$ G! N- {. E二十日,北京军区的第二十七军、三十八军先遣部队装甲车多数遭男女老幼包围之后折返。对军方颇具影响力的前国防部长张爱萍等八位上将于二十一日发表声明说“人民解放军军队属于人民,不能实施镇压、不能对人民开炮引起流血事件,为了避免事态恶化,军队绝不可进军北京”。 9 E; m) h# t1 `1 Z1 N: `. G/ P 6 ?4 j |$ ^2 F8 i1 X7 C这份声明由张爱萍的女儿透过中国社会科学院某研究院传给人民日报,该报副总编陆超祺告知迟浩田,但是三十分钟后,所获得的回覆是“绝对不准发表”。/ ? @2 q7 D; [7 F1 J# ~3 e' ~
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秘录指出,不仅年轻的下级士兵反对解放军对人民开炮,杨尚昆发布进军命令的五月十八日,曾发生了第三十八军司令官徐勤先抗命事件。杨尚昆的胞弟杨白冰(军总政治部主任)在八九年十二月的全军政治工作会议上曾表示,天安门事件作战中,有一百一十一名将校违反重大军纪,一千四百名以上的士兵弃械逃亡。4 b4 e. p' \8 L
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秘录引用“陈云传”一书的内容指出,邓小平说:“问题的根本出在党中央,党中央变成有两司令部,在此事(指将学生示威定调为动乱)的处理上,人民日报的社论是正确的,到底要不要让步,让步的话,中华人民共和国就亡了。”; ^0 _- r/ m4 ~1 Z3 y+ k! {
邓小平秘录:民运对万里的期待遭到出卖: b4 i* K# L2 Q5 B/ [* H; U
中央社& B0 `9 V& _. w$ |; C! Y( B% O- t
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日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,中国大陆民运人士曾对全国人民代表大会常务委员长万里表示期待,结果遭到出卖而落空,一九八九年五月二十日,中共宣布戒严令后,全无同意学运要求的气氛,使用武力的可能性日益增高。 5 Z+ y, A; @( L6 k% \7 D9 M" ]6 D2 {3 e ! `+ n: E9 k- B, f- A& f 「秘录」报导,新华社当年五月十七日报导在加拿大访问的万里发言肯定学运升高了社会对他的期待。万里谈话被报导的当天,北京有一百万人示威,谴责邓小平和李鹏的强硬态度,声援绝食学生达到高潮,中共宣布戒严令之后,民运对政府的抵抗色彩更趋浓厚。2 l9 L5 E6 D$ @. b" Y
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张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳于五月二十一日经由秘书鲍彤要求万里早日返国,社会各阶层和学生对万里的期待升高,学生计画二十五日热烈欢迎万里返国,但是,这项期待遭到出卖。 z/ K0 I% R, z2 v: k, S( B. b% Q& W
- P) v" n. Z/ `( a) X8 r! u0 M 万里虽提早于二十五日凌晨返国,但是并非回到北京而是上海。没有人相信新华社所报导的,万里是为治病,两天后万里表明支持党中央的决定。万里的返国问题显示元老主导下的强硬派正在控制局势,加强对各方面的取缔,并着手准备对天安门广场进行清场。8 j! l8 h" x3 V# L
0 v8 k; i! y4 e! t9 e 彼は文革以来の豊富な運動経験から、学生が撤収を拒否した段階で、武力行使は不可避と読む。しかしこの運動の主体は始まりから学生だった。彼らの意思を尊重しないわけにはいかない。( X. J+ V1 r% C% Y9 A6 A1 c& h
/ A* i" y+ Y2 }4 }. P \ そう考えた王氏は、最後まで責任を果たす決意をする一方、武力行使後の弾圧に備え、主要な学生指導者らの国外逃亡の手はずに着手する。$ k2 f4 S+ y2 d; j% i* k. m" S" ?
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≪王軍濤氏は、血の鎮圧2日後の6月6日、王丹、包遵信両氏とともに国内で逃避行に入る。3氏とも10月までに別々の場所で逮捕されたが、多数が国外に脱出した≫8 a1 [0 r* U2 o4 H) n2 U
p4 K1 y$ I, V/ i 王軍濤、包両氏の主要な罪状の一つは、5月27日の「首都各界聯席会議の十項目声明」に反対しなかったことだった。 9 e- R) T6 N; J & ~& t0 @9 B0 B* s 声明は、学生、知識人、労働者など9組織連名で、学生運動の過程を総括し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を支持、李鵬(りほう)首相らを非難した上で、全国人民代表大会(全人代)常務委員会開催予定の6月20日まで運動を継続すると宣言していた。 ( p- ^2 O% i8 ?, k3 [; T3 d" c; ~% f0 ^. q7 r
連合組織では過激な意見が通るのが常だが、知識人グループがそれまでの主張を変え、天安門広場占拠継続を支持したことは、運動の主導権が体を張っている学生にあったことを意味していた。1 H5 _ I: E T6 f! p8 W
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この声明には加わらなかったが、当局側が天安門事件後、反革命暴乱の「黒い手先」と名指した組織に、「3所1会」があった。中国経済体制改革研究所など3つの研究所と1つの学会を指し、趙紫陽氏のブレーングループとされていた。; e8 O/ A f, z5 ?* b2 f% @* g
: S( J, X% L2 a& M" L% Q 直接的罪状は3所1会が共同で5月19日夜発表した声明。それは戒厳令が近いことをにおわせ、政府部門のデモ参加や全人代常務委の早期開催を呼びかけていた。 3 T& F7 F) \! A* E1 I& Q% C. J2 {6 K4 P Z0 z7 Q$ `: O
3所1会は、官製組織で、趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏と深い関係にあったため、鮑氏が戒厳令や趙氏の窮地情報を漏らし、政府に対抗する動きに出たと断定された。鮑氏はその容疑を一貫して否定している(回想録「中国的憂思」による)。 7 [6 A( W2 s. `) _# [) \' r$ r- f( W. x4 C
鮑●氏は5月28日、突然逮捕され、北京市北部の政治犯収容所「秦城監獄」に送られる。それは、トウ小平(しょうへい)氏ら長老や李鵬首相ら保守派指導部が、武力制圧を決意し、具体的作戦に入った合図でもあった。(伊藤正)1 m _( d" j# F- L3 O
6 `3 F9 \! d# V/ z1 P6 P O ■3所1会 中国経済体制改革研究所、国務院農村発展研究センター発展研究所、中国国際投資信託公司(CITIC)国際問題研究所と北京青年経済学会のこと。いずれも1980年代に設立、改革政策を研究するシンクタンクで、鮑●氏が支援していた。文中の北京社会経済科学研究所は84年に設立された独立系シンクタンクで、出版などの副業を収入源にしていた。いずれも天安門事件後、解散。6 z c, j6 g' P6 d/ L
3 _" | h" D4 o4 T9 M* x) j* o ●=杉の木が丹 0 n- C, v. l3 S+ l$ P* g6 _7 w 0 A {: k2 z8 G9 L5 j( a(2007/03/14)
邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态 : p% S9 S8 X7 }5 h" C% r 2 v) R7 r, F @/ _ k& S(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。6 u7 e' \! X, f6 X) I8 e
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“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。3 t3 g- v; F, P5 I% }- s" J; R0 i [
但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。 * Z, k: K: [4 Y) T: l5 ]. O, G2 k# R' o% _. q( x c) w* X# U. L
这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。 9 d4 j! H& u6 L0 l( p' c6 ^5 z) |: S5 A4 h" c/ n
三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。1 I: L% l$ Y( W) d% S
: M% Q" J s0 q* ^张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。 ) e/ \: ^9 Y) ]' b! ~0 _ 8 W0 h- I* S! C N7 X! d“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。 ! l2 r, X' i0 c8 S, ~2 B" n. P6 } c q$ q$ f' x$ W
三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。 # J( R$ A; N# {: @3 D" E3 Q% Z- `% k; S! i5 r% {1 M& U
就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。 J4 Y4 r: }3 c" Y) g1 ]5 [1 |( h
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【トウ小平秘録】(30)第1部 天安門事件 軍の発砲7 s1 U8 ?* F, ~, i, X: Z) q) F
9 i4 l7 m: C/ l1989年6月2日夜、戒厳部隊は「清場(チンチャン」(天安門広場の占拠者一掃)作戦に入る。しかし北京市内への進入路は何重ものバリケードが築かれ、市民らの抵抗は必至だ。強行すれば流血は避けられない。 0 @$ G$ U" S' |8 c1 O3 b/ T+ D 5 ]7 {! e; u" n) [) P* Y; Aこれは本物の戦争だ1 I# n9 q+ n H* Y" Z) m0 {
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そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。 5 J$ `) d# D) p) a1 q! _' R' V. Q2 A9 C! q B8 V8 Z1 s
それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。 " r! `) E) k+ z2 ]; S( E' W . X6 u) {0 G9 b, _9 N7 l, L0 E* M9 n 3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。& o! T: X6 M7 `
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「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」 v( z0 H; ?0 `, A7 @* U, I
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情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。 ; o5 g5 j4 F/ L. z # ^; Q0 m2 W* t5 Y$ t; X9 e 3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。; |9 W( P: o5 d5 Y5 E Z$ Q+ N! x
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新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。! F, R- f' n+ v, u ?$ s, V9 f8 u
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3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。 # h/ {. [0 f0 L 6 J* J4 `+ q3 I 張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。 9 R! d$ J0 K8 m# b/ b+ z% E ( Y! V; }. k3 L% a, f 李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。 % a! l: ~6 X7 \. ? 9 S" i$ H8 `$ v5 N: f 「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」 1 R$ q( G) \7 Q9 u) p& S- Q" P+ z- ?' ~4 E( x. y( c# t3 o1 u# n
楊氏は最後にこう念を押した。 1 P. o) x) P4 m O# g6 j 3 p- s( q1 Z3 z7 @6 o 「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」+ z' q1 K, L+ z+ l" W# y
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会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。 & o! I! ? d& y8 }2 ~% _8 Y( y& x- o! b( j
3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。 ?2 Q4 N9 R" \3 d! q
: E u+ a: K9 C* B9 L0 a 当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。 5 B% e& j. n- y9 \7 R v' w+ `" n7 i U. \2 q- E' C. ]
そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。 , l& D4 l* V6 e4 ]$ G* @( z; Y5 C. [/ C! c
午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。 O, s' v2 X: a0 a3 O3 E# {1 c + l# h* c: p1 c; r 支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。9 x* C7 Q# u! u( N6 s5 M
! D; I) P8 R. K% G 「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」% {; H2 ]( ~, K' a9 R% T: ?' F
# r0 L. u/ O0 z/ @1 a8 W% C) Y$ ` 記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。( i n0 m4 M; b. t i% u
" D+ ] M: a, b
「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」- X/ K b$ ]* |, T' h
' Z$ B- g) ?& `0 ]5 P その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。8 r& b3 V) k# l( U+ Q, V! v1 k
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「これは本物の戦争だ」(伊藤正) 9 S! u+ B; J! P/ w# R, K* {, a! ]' p: \4 K2 z5 R
■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。+ C" \5 n, H3 M* G1 f
) T" O/ J3 G" k( x
(2007/03/16 ) ) s& H% t2 C* W2 N' G
2 l! S7 U2 B+ D0 j0 G& n: `2 U; L# A4 F 前回書いたように、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は6月4日の日記に「本物の戦争だ」と記した。爆竹さながらの激しい銃撃音を耳にした人なら、同じ思いをしたはずだ。ただしこの「戦争」は、正規軍と武器を持たない市民との闘いだった。 & M Z2 H) J9 G: b' C4 G1 a4 B / K8 `8 o, o7 X7 {% l0 j8 O 張良編著「中国『六四』真相」によれば、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席(肩書は当時、以下同)は「武器の使用を極力避けよ」と指示していた。それがなぜ発砲する事態になったのか(以下は各種資料、証言による)。 & i5 U) O/ V8 @# Z ) g% `" w) x' d( Z9 M 第38軍(河北省保定)を中心にした北京軍区主力が、装甲車を先頭に天安門前に1番乗りしたのは4日午前1時すぎだった。3日夜9時すぎ、西長安街西端の公主墳付近を出発、天安門までの約8キロを進むのに4時間を要した。激しい市民の抵抗を受けたためだ。% [* F- t0 x0 x6 s7 e
) _7 v p. O" n/ v3 V9 Z7 j 最初の「衝突」は公主墳の東2キロ余の木●(もくせい)地で、市民側はバス、車両を並べてバリケードにして放火、火炎瓶やレンガ片などを投げて抵抗した。 ( q: o' f. a1 m, v- H4 g8 l Q- @ U) ?, a
部隊側は、午後10時20分ごろから発砲を始めた。以後、復興門、西単、六部口で市民側の抵抗を受ける度、発砲を繰り返し、天安門前でも同様だった。 ; m+ R4 i, n/ p5 n5 _& J, _9 i 9 ~% z$ T1 g+ N% g 一方、やはり激しい抵抗を受けた南部方面部隊(済南軍区第54軍)は、空に向けての威嚇発砲がほとんどで、市民に向けた発砲は少なかった。北部方面(北京軍区第24軍)や東部方面(瀋陽軍区第39軍など)は抵抗に対し発砲せず、入城を断念している。 ) y" p& I( G) I v+ A4 A" M0 k* K. f* u, y" i
第38軍など西部方面部隊に発砲許可が出た経緯は、今も分かっていない。「万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよい」とのトウ小平(とうしょうへい)軍事委主席の事前の指示があった(「真相」)とすれば、現場指揮官の判断が各方面の対応の違いになったとみてよいだろう。6 T% V3 I ~( d m. @1 ~
, ~; M& {3 v$ E; Q& Q) s4 u: E$ V 天安門広場とその周辺は4日午前3時までに、戒厳部隊がほぼ制圧、午前4時には「これから清場(占拠者の一掃)を実施する」と最後通告を発した。しかし学生側総指揮部のある人民英雄記念碑壇上や周辺にはなお地方の学生を中心に3000人以上がおり、決死の覚悟で頑張っていた。! S( ?' D9 \) l% g4 A
8 e. [0 u# b- V; h それより前、広場で2日夜に絶食行動に入った歌手の侯徳健(こうとくけん)氏、北京師範大講師の劉暁波(りょうぎょうは)氏ら4人の知識人は学生らに撤収を呼びかけたが、激しいやじに遭う。4人は相談し、侯氏ら2人が戒厳部隊指揮官とひそかに交渉、無抵抗撤退への安全の保証を得ていた。 % ?: q5 N5 |; o" r ' V6 P- @/ w8 y9 P& l" C( M b 午前4時半、いったん消えていた広場の明かりがつき、銃を構えた数千の兵士が記念碑を取り囲んだ。侯氏が演説、学生の同意なしに行った軍側との交渉結果を明かし「もう血は十分だ。これ以上流血はやめよう」と訴えた。 0 v) q9 d' F* ?$ }( `/ S9 w: _5 A( L& F- w1 x4 b9 }: L+ \& ?
学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。 ! Z9 i/ v6 o/ F4 i7 L; u& | ( h; o) {+ S2 r5 _+ A7 |/ R2 Y$ I 「裏切り者!」 * L2 M4 u0 K8 t; q! D , p7 V7 h7 h8 g6 t 「さっさと消えろ!」 : B7 R4 @: M, M 9 A, ]$ {6 W4 R 劉暁波氏らの演説も効果がなかった。ほどなく数台の装甲車が現れ、「直ちに退去せよ」と実力行使予告がスピーカーから流れる。侯氏らは発声投票を提案、賛成多数で撤収が決まったのは午前5時前だった。% @/ i4 T. u9 m5 H: p
: J' O7 w' W1 U) a. s$ P7 _ すべての学生がインターナショナルを歌いながら退去を終えたのは午前5時半。学生運動の発火点になった胡耀邦(こようほう)氏の死去から50日目だった。 ) _' J1 G5 u# u/ P1 W ; w- o( E; { x7 |3 x 天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。 4 S2 E. `8 f0 ^8 ]0 F) P ! T/ s" f8 |: M# \( U0 J A' c5 c- v- P 「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。) U# A6 b3 W* ]2 n0 g' T
7 d' G: p$ P/ S: L) x. j/ r$ U
天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。% N8 y! K# |8 F" e4 A& [
$ o; O4 k+ _3 v 「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻)2 r9 k2 G9 U, h# t7 d5 x
3 ~& w! X. R3 U* @
その結果、「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。, K; f) S% d Z5 _
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トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。 $ S6 n- r* n2 n( _. S8 \4 m% }6 \% \1 h4 ]: a
「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」% j0 Z* h2 _' R, L
& x. ?" y5 e6 D; T" R% T4 \6 M* d' A 「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。- Z3 V& w2 S' ^3 a [* R- V5 M
* m; p; i7 x3 @3 q% s: ~4 _# c
89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし、一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。 % f4 N5 j2 k0 o$ b/ j9 n: x + _; p' e! z4 _4 t トウ小平氏は先の李政道氏との会見でこう話す。 4 ]8 o( s9 j4 x) T- S, ^7 b o/ M% C0 Z3 I9 G m) Y 「過去2人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。4原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」! A A7 _! j2 f8 \
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. u' Z. U$ U4 P- l/ j2 {毛沢東遺制は守った + t+ v! o! u8 O6 T$ q) }& D 7 |- d3 I4 W6 _ f7 q/ l トウ小平氏は天安門事件(1989年6月)後も、87年秋の第13回党大会で趙紫陽氏(天安門事件で失脚)が読み上げた政治報告は一字一句も修正してはならないと強調した。報告は、中国の社会主義を初級段階と定義、経済建設を中心目標にし、改革・開放と4原則堅持を基本にするとのテーゼを打ち出した。これを「1つの中心、2つの基本点」と呼ぶ。9 H( L4 j! }( K t) K- p4 u4 _
+ T1 m4 r( I* e4 D( ?% e+ a/ z9 h 改革・開放は市場経済化と国際化を基本に経済建設を図る方策だが、それは毛沢東路線とは相いれない。ところが4原則は毛路線そのものであり、トウ氏が4原則の核心として挙げる「共産党の指導」、つまり一党独裁は、毛遺制だった。相矛盾した2つの基本点を並立させたことが保革抗争の種になった。 9 N& ~) J+ e5 K+ m6 C; }3 o6 ^ ; k1 n: ]* N" s 張良編著「中国『六四』真相」によると、学生、市民のデモが「老いぼれ独裁者はやめろ」と叫んでいた89年5月19日、トウ小平氏は楊尚昆(ようしょうこん)氏にこう話した。 ! A) ^% z7 ^5 Y; Y8 H' ~& ^* {4 g0 i
「わしは年を取った。老いぼれといわれてもかまわない。だが、この年にしては思想が保守的だとは思わない」 % ~$ ], s( W! L4 z# Y' b0 V* f4 b v
今日の中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。9 ^8 H$ {7 Z8 Y$ k# \, f/ \1 {4 t
' o+ \9 [3 m) e) D F& l しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、4原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。" E1 y, y, Z% {$ R6 e. `2 w1 z
+ [% `& Z$ R; K- C その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。$ i' |" p) e7 i) e( Z
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89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。 ( ]) m% ~4 O1 R# q* e 5 | r9 N, U# ^+ x6 O 天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない。 2 M, y8 z; D4 c1 G2 ]3 p _ % x" y8 v, }+ q% I( f$ t+ z* i トウ氏がなぜ武力行使を決断したかは、まだ検証すべきことがある。第2部以降の課題にしたい。 9 V0 H& I$ }& h9 B ~ # x4 r" G4 v- b& r (伊藤正) 7 q; f( T% u: P3 l 0 _; C' m8 U! C& E! `+ N# ? =第1部おわり * Z8 b& u1 y% u6 u! U( i' f' P% m$ U2 Z2 k2 M) d
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■伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。 1 R7 f! k6 M! ^; u2 k: E l1 ]+ K8 f; }3 K+ s# D/ b: S
(2007/03/18)
【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行 3 |; m' n1 y6 @ I
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春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。 + S2 t C( W# `% H5 p3 V; s6 g+ a; i& d. r, m5 W8 B
1 w- e2 V% j7 D期するものがあった3 n) Z0 r. T D. k$ ?) {
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普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。 ( y% `+ n# _: y2 n3 ~ . P+ s# r3 {; m' Z9 q$ S: U8 c0 P% \9 p8 L9 ~ 午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。+ ~, a) I# h8 n$ Q* ^, F% ~
) u' R' @# e9 |0 N 緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。 * Y- r8 x9 |3 M; ]2 P" A/ Q5 _ G( c ~( _7 K 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。 6 E2 U3 H- r4 K6 H 3 j( i- C' x4 d6 E6 L9 a+ {6 f( h: D 「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」 ' I A Z& A1 ~- V8 m- x _0 y. I1 q; s; m トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。 . B: `( R& `4 I2 b; n* t( l% @% ^# E" E* K
引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。 1 q& }5 ]% B/ l" b& E " G3 d. R7 E3 ?* n# Q" O+ J: { トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。 % l3 I7 g" J E4 g* [0 V 0 T3 x0 l; v. X- k& O2 ?6 `, X* ` ≪天安門のツケがきた≫ 7 B. M$ R- A8 l/ E3 B D: P0 P& e: H) O' l3 b
元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。$ [0 Y" L! O( |8 ~- I) J
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「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」5 m- I8 @" w; v% M7 t; r- K9 r
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広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。& J, D8 R, y+ a6 }* D! `
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「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」 / y# E( P3 z9 C n: m6 N' E5 B" S7 u; y! E1 S {( Y: O: k
1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。8 w0 y+ o! M& K7 U/ ^
+ L% z6 P, d+ A5 j/ s+ K# x 身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。. X" W0 Z' n5 Z8 H# X# a( U7 s$ b
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しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。9 r7 v/ L& x2 m
2 L. `5 v$ L1 a& I4 M トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。9 f9 n# C2 E: n/ p2 s
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天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。. Y1 v7 K3 @8 I0 Y
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計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。 ^! m! F8 A9 x/ X1 b. W8 {% U % s8 o2 d; ?$ L; l. y4 X x その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。0 @9 L n! p% u7 U' M
5 b* {6 ^0 w' K* s* H7 x このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。 * y. D. f2 R# B, \/ _- F 0 w* Q/ D! l# k 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。 0 `6 s- h L& r) M8 l2 u' ~7 N8 F- e3 W# u4 Y
毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。 ) _) g; y7 i% }; t" m $ Q( B+ Y+ }* ?: a# y 林彪事件である。 / e4 u' o1 O. x2 S4 R8 M2 l5 k# Q. b J$ O- P
$ O' p2 s6 u3 x9 g- n冒険せず何もできぬ6 f) L& s3 k, d B9 E
6 w. c7 g7 V3 t! ]* c トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。& m" C3 f% N) m# g9 a. }0 b
" B; s7 f M3 t3 U トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。 3 a9 D2 e1 a$ O& r: v8 E ' Y+ I7 ~$ r' { {7 B v0 ~ トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。! Z y$ F* ^, h" r, T* N, S0 q: B
6 B1 j. g4 c$ h j0 x, r 劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。 " Z; b2 K" ]2 G. _) \# n 3 _- P& ^& Z8 j# M" U 天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。; D8 C% [$ W+ V0 y
. C8 t: E) \! x2 J0 m6 N しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。 & ~ Q0 z: H2 C4 I - K, l+ I |) v: F& {/ m トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。3 o' l# |# P2 L: z; L: R, I
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それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正) + n& y* E, v/ g( i2 g% I$ ^' ]% J) b8 H8 N4 y- W) m
■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。作者: 日月光 时间: 2007-4-21 09:51
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 6 k' ?7 R( _% Q1 E) ]! e; e S1 U8 U5 S: R6 @1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。 . [& B/ n: k" @2 t" E& L" G1 Z# B5 p. J; Z& Q4 J7 r6 D8 `/ B
米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。2 K4 T4 k/ s) |! z ?! A/ O& @
! q/ b- A( P# ^3 l/ F 本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。 ) Q* `; m: R) U' o+ G8 ]0 o) D7 t; ~; q4 N6 V$ T# f3 Y
しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。 - f0 i6 m% S* O7 y) r9 M6 z/ T! R$ V. \* Q: Z. f) }
6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。3 o# H" E0 u- e: R Y# \) J
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私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。; C% H4 O% l- v+ T4 H3 h# X P
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その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。; S$ A1 Z6 |+ t$ n/ n* y
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そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。 / g9 X$ r0 M9 G7 G% \+ ~5 L/ g ) g2 z( I0 z$ {" u4 k 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。. Y$ a. n( B( Z, ~( W% @3 K& T
- T+ h5 W1 j+ } べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。 ; Q% d# f, e5 |0 Q! c % A4 U! J2 B+ ]2 h6 O1 S7 i' ]$ |9 g. M トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。# q' q/ Q- [( A; j% y. _6 C
; E, d1 N; F" \7 U8 U9 q7 n7 q" O1 x% D% [2 E5 x+ |; O8 B
0 y7 n" c6 a6 g# S◇ . N4 h3 f9 s5 p A/ }+ l4 ?7 r. {; y6 j0 x+ T 1 z; [' l* c; ?5 h3 M3 F2 A8 Z. f$ T$ t
米特使が秘密訪中した4 E0 z& |/ l" R& u* d, y9 s0 p
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天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。 / _- G* A. T; ~3 P8 } a , U/ y' i( i( b しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。7 l) k, i2 {9 C& g