/ g ^0 m$ E% W9 K# W" Q9 m2 M が、中国は事件後ほどなく驚異的な発展を始めた。01年には08年北京五輪の招致に成功、世界貿易機関(WTO)加盟も遂げ、国際社会で重要な存在になった。事件後発足した江沢民(こうたくみん)政権も、その後を継いだ胡錦濤(こきんとう)政権も、トウ氏の当時の「決断」を評価し続けてきた理由だ。 " `" O- r$ @# \8 M0 ^ $ ` l/ u# ~. N0 k0 L2 z 04年8月22日、北京の人民大会堂に6000人余を集めて開かれたトウ氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤国家主席はトウ氏を賛美する演説の中でこう述べている。 9 O7 r; K# D8 G: `! C 6 B8 \& E& E3 Y" h3 A) m# e/ V9 h 「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」/ P( [# ^+ ]) K n/ I2 u' ?% r
8 Z* c3 ?6 |; v6 t8 D- g
同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。 / a; g c! V- ?- l$ ?8 G2 p 6 Z6 `* ?* x1 J& c& _' _1 K 中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。7 V6 e1 P. @/ P+ A
5 U" E2 H+ _/ N6 {- O
天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。9 T! S4 D3 t# K% y C
3 y% K4 i3 Z C4 s0 U なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。 x# x6 C7 a' o$ }3 X2 F; \ - n% v) u! k2 S 2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。 $ }% L7 T1 U, a- ^/ \) V( y$ R) `, @2 S8 V
天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。 Y3 A0 H* C0 c" d
! C& r5 ?, b8 y
事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。5 ^ l1 G" q2 o7 L; B9 ~2 l$ S+ ]: \) ]
/ X1 S8 N9 n5 [9 I 同氏によると、戒厳令布告直後、樸方氏が主席を務める中国身障者連合会の職員4人が、天安門広場の学生運動指揮本部を訪れ、「主席(樸方氏)は流血回避のために、話し合いを望んでいる」と学生指導者の派遣を求めた。3 a+ ^2 a- d1 ?2 o
, f9 W6 j. {2 y& G" }+ d4 U6 S
職員1人が人質として残り、ウアルカイシ氏自身が学生1人を伴い身障者協会に赴いた。 S' O+ j% N8 C& x+ w' _" V* _5 l. H! ]4 `, }- x3 _
応対した協会幹部は「武力行使は必至だ。流血を避けたいなら、主席との面会をセットする」と言った。樸方氏が会いたいというから来たのに話が違う。で、ウアルカイシ氏は樸方氏には会わずに辞去したという。 6 O# P; j( C6 z$ b6 f2 V# q% V! A3 N
ウアルカイシ氏は「樸方氏の協会職員らに託した意思は本物だったが、急に翻意した」とし、流血は不可避と判断したためではと推測する。樸方氏は何も語っていないが、父親の固い決意を知ったのかもしれない。 0 q5 J$ d( G, C, l& O * l0 U3 [' a) j& i C 天安門事件における武力鎮圧は当時84歳のトウ氏の人生をかけた決断だった。「中華振興」の夢実現に、一党独裁下での経済建設が必要との確信に基づく。97年2月の死去まで、武力鎮圧への反省や悔恨を示す言葉は残していない。 ; V6 ]5 \! x5 s2 e8 [/ m) Y) K" {
事件後、中国は経済発展の一方で、格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)など深刻な矛盾に悩む。事件で政治改革が頓挫したことも要因の一つだ。胡錦濤政権は、トウ氏の正反両面の遺産を背負っているのである。(中国総局長 伊藤正)/ D7 `7 f! p* [/ ]/ i5 X# i9 u
7 |9 t, L& B* ?$ w' R
: `4 x2 l, I4 \, W9 G
+ R+ b. b) u- t4 G
◇% c' e3 ]5 {' K& t
1 E) }- R. `! \+ b S' y) S+ q3 p, y
【用語解説】政治的風波 2 `' P; B: j4 ] z6 T2 M & I: ?* {4 K) J- l 天安門事件の中国当局側の呼称。事件後しばらく使われた「反革命暴乱」は国際的イメージが悪いため、90年代初めから、鎮圧が完了した日付をとった「六四(事件)」が一般的表現になり、当局側では「政治的風波」が定着した。「80年代末から90年代初めの政治的風波」は冷戦終結やソ連・東欧の社会主義崩壊という国際情勢の激変も加えた表現。 3 n' n% _. o2 ^' B/ @" ~! ^3 K Q B' m+ Y9 H
0 ^* I' e% w: b+ E トウ小平氏は16歳でフランス留学に旅だって以来、四川省広安の実家に一度も足を向けなかった。49年の新中国誕生前後は同省を管轄する西南局の第1書記を務め、中央に転じた50年以降も5度同省に赴いているが、家族でさえ89年に三女のトウ榕(よう)氏が訪れたのが初めてだった。 " H I. ]2 B2 b( Y7 Q O 4 S+ z% k. u+ P2 ]9 } 仏留学時、「二度と戻るな」と命じた父親の言葉を守り抜いたとの説がある。頑固な性格から出た説だ。 2 ~9 c# M0 S. x6 m# k: l ~7 d: ?4 M! A$ i
トウ氏は個人崇拝を嫌悪、「公平、無私」をモットーにし、出身地の利を図る傾向を批判してきた。だから地元政府からの故居改修の申請に同意せず、各地から相次いだ記念館や彫像を建てる申請も拒否し続けた。 9 s% v9 `; b, f 7 ~4 G4 Z6 o2 ?: [, d7 @. E しかしトウ氏の死後、故居は修築され、広壮な記念施設に変わった。彫像や記念館が各地に誕生、江沢民(こうたくみん)前国家主席が看板などの揮毫(きごう)をしている。/ L4 v2 x. {4 L. d5 m2 `5 u" R
$ d% x w$ T% I5 d, f トウ氏の生誕100周年の2004年、胡錦濤政権は盛大な記念行事を挙行、大量の文章や映像が発表され、「偉大なマルクス主義者」との賛美一色になった。一党独裁を堅持し、経済発展を図る正当性を訴える上で、トウ氏の理論と名声は政権に欠かせない。4 W; D* D- g. W8 [2 {
+ R- |3 J7 Q7 i5 ^9 X: ~
だが、家族や関係者の証言からは、家族を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。 7 _1 W; I, T3 a5 B v - s* n0 F$ a4 }" O5 | トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにする理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。' c0 j. E- E6 l. o, |$ u
: I1 J0 h$ \9 U: s; A6 P: X7 Y4 a 共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名な言葉はその時のものだ。 ( R4 l. K( r. V% f, M3 q/ q" m0 ], s" ^4 M \" t3 l
改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみる活気を回復した。+ C" L( u/ o6 J% e
7 ~2 c! R; E! ?" j/ n 豊かさと自由-だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だった。0 W$ W0 r1 q5 `! T
$ y/ ^4 b' q3 E" G
6 l7 D, M$ O$ u6 Z9 l% { E7 K1 l; n) _4 P+ R
矛盾生んだ「先富論」 ) A. p+ E& B' {5 k* ]7 ?* ?2 p9 L4 n: r9 h* R8 L
トウ小平氏は着想力に富んだ現実主義者だった。改革・開放の初期、深センなどに4つの経済特別区を設け、市場経済の実験場にしたり、19世紀末以来、英国の植民地だった香港の制度など現状維持を認める「1国2制度」というアイデアを打ち出し、主権回復に成功したりした。 - G; E3 J' T2 M3 J* y. T- R9 Q8 U. l1 P: Z
それは、台湾への統一呼びかけの武器にもなっている。 7 {9 c- L! f# j, O/ { 7 |: Z$ L6 y6 z3 d7 f% u) V 1993年9月、トウ氏は弟のトウ墾(こん)氏と会話している。トウ氏は、天安門事件(89年6月)後間もなく引退したが、事件後に保守回帰が強まると、南方視察に出て、改革加速を号令する南巡講話(92年)を発表、経済を成長軌道に戻すのに成功していた。 : J4 O, F/ x6 q' o 8 E2 H: H, R4 V: A4 w トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。 X' w1 N6 ~" l$ r . S3 W2 y( S( K% A7 E 「富をどう分配するかは大問題だ」 1 i2 S0 R* E2 P- G, l0 P& P/ f/ V, |
「この問題の解決は発展を図るより困難だ」3 {# C2 R0 b ]* u8 }5 V
7 s2 n! H8 Z7 F/ e" r! B" R 「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」; S% G a% f$ F. ]6 G0 ]4 J, ]0 G
8 Q v! P. j2 z0 @! U0 P, ] トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。7 R2 f5 d8 z/ B7 ^+ J" n1 ?
& b, C- ]% ^, }1 m
トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。 ! E* k! D5 |0 E: S2 E$ K+ r6 f3 f, Y4 q6 x
経済に関しては、社会主義の枠を突破する革新派だったが、政治に関しては確固たる保守派だった。理論面にとどまらない。トウ氏は、路線上のライバルだった陳雲(ちんうん)氏(1905~95年)を含め長老との対立を避け、長老政治の頂点に立って権力を振るった。政治改革を志向、長老と対立した胡耀邦(こようほう)(1915~89年)、趙紫陽(ちょうしよう)(1919~2005年)両総書記も切り捨てた理由だ。# `" i9 @3 Z, n; U1 I
1 K/ ~9 {6 [" z1 @4 G
毛沢東と違い、トウ氏は元気なうちに現役を引退、江沢民氏を総書記に指名し、92年には江氏の後釜に胡錦濤氏を内定した。両氏の使命はトウ路線の継承だ。 2 m1 [8 W, ~2 r$ O- g. N9 m$ A1 @ ! [: s( C6 l/ ~4 Y9 C/ n& \ 中国ではいま、矛盾を拡大した改革・開放への反省が起こり、毛沢東賛美の声が上がる一方、政治改革や民主化要求も強まる。「トウ小平」は依然、現実政治の中心にいる。; Y |) T2 G( f: A0 ?7 h( z
" m N" n- g* t% A5 o) P
トウ小平氏は戦争、革命、闘争の中国現代史を生き抜いた。氏にとって人生最大の危機は、天安門事件だったろう。それは、文化大革命とは違う意味で、現代中国の矛盾の爆発であり、大きな歴史の転換点にもなった。. W8 ?+ D8 `7 H7 H& z( o; k
+ t# l7 n+ T- g4 d; r
(中国総局長 伊藤正) J2 Q: w( f8 P8 {
+ I; {5 V: B0 K' u2 p2 s
■トウ小平氏(1904~97年) 四川省生まれ。若いころにフランスに留学し共産主義革命運動に参加。中華人民共和国の成立後、副首相、党中央軍事委員会主席などを歴任。生涯で3度も失脚を経験したが、そのたびに復活、78年以降は事実上の最高権力者として改革・開放政策を推進した。89年6月の天安門事件の際、民主化を求める学生らの武力弾圧を決断、国際社会の批判も浴びた。 - M3 t) v3 W+ R* t, x2 { ; ~- Q a7 _4 s* h ■4つの基本原則 (1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想-の4項目のことで、トウ小平氏が79年3月に堅持すべき原則として打ち出した。共産党規約や中国憲法にも明記されたトウ小平理論の核心だが、市場経済が進むにつれ社会の現実や国民の意識と乖離(かいり)、政治改革の足かせになっているとの批判もある。 ; f) L) L2 e; K7 p" F. r2 G, I' V( S8 K; C' z
(2007/02/14 06:13)
( M( T! g( m1 h5 F4 A, x一九七六年一月,毛泽民未出席周恩来首相的追悼大会而引起民众的怀疑,发表追悼周氏演说的邓小平被迫下台,同年三月底开始,追悼周恩来的活动遭到镇压,发展成为第一次天安门事件。中国资深记者指出,不仅是邓小平,所有领导阶层都想避免一九七六年事件的重现。 3 P) X' i. o; {) |3 [; ]" p$ Y! R' Z. Z3 t! y1 i* O, P% D
一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。: O& u; H4 @+ d& v# E
6 H" ~6 C, R6 n& {2 e【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死9 A0 K, `) C; |( y! k( z* L' V4 {
; N' q* L$ K1 J5 a7 i, R. k G6 a
今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。7 _- C! P; S$ \( Z0 V5 S; Y8 s
0 O4 J$ h2 x7 Z0 E9 n# i猛然とたばこを吸った # X: k, ~1 W6 ? " e( O" x* C. ~天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。' D- j; U5 r2 Z4 O) k
3 p m/ W6 `; ]0 m" l
胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。- \$ i4 d5 t1 l! [- Y
* A( d) ^0 l# U" X 当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。& r/ G9 b" \% F0 {; O8 B, b6 j
. }% J& @: m# o7 m1 ], E" ]
そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。: o! X/ d7 t# M/ Q' k9 X6 l' U( R
) W5 B1 b5 P. P1 ? Z" k
89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。) s9 R3 U) E4 T/ W% q' `) u
! q2 A6 V2 l" Q) C. m$ V 予感通りに事態は展開していく。+ Y! }5 A' J7 J0 [" L
) A5 S; f; l7 E6 M W& m7 K
訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。# b) u( J& v6 c4 Y% [
4 i+ G" Q6 M2 Y" j" c7 w そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。 * w; g" `8 a/ C5 n2 [ ! _3 c5 P1 M0 \8 g+ s 胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。 p: M: O& ]( C* ]8 j, w4 j# f 5 L o% n3 b5 U& W t7 z 「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」+ S* j+ B( v- `( N: [
v/ T0 v6 }; w. d8 H- M
胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。 2 @" u$ \, F4 }: P5 n3 h0 f x+ J" q( g+ }- v6 t- n+ t7 f
胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。 0 ~) }' W: G" d* c 8 x+ ~7 m6 M) N 半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。; w& A. i7 c: Z4 \/ k
/ x E: F# P2 v9 `3 W 第2次天安門事件(89年6月)と第1次天安門事件(76年4月)の違いは、76年には獄舎にいるか、骨抜きになっていた知識人が、89年には運動の一翼を担ったことだった。$ F' L% }8 o- o( _& t$ N( N" ?
4 Z8 _0 A% L1 {) }2 k. T: ?9 g 前回書いた、北京市党委員会が警戒した「一部の下心のある者」の多くは知識人だった。事件後、当局側から名指しされ批判された知識人は著名人だけで約50人に上る。その代表的人物は、86年12月の安徽省合肥の学生デモを扇動したとして、党を除名された天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏だった。 ! w/ |" |: v0 ]' C1 T4 `% ] $ [% C# r, r9 \7 G' |" { 方氏は李淑嫻(りしゅくかん)夫人とともに、除名後も精力的に民主運動を続けた。北京大学の「民主サロン」や、北京初の民営書店、都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」の設立に参加、知識人と学生の交流を促していた。 7 D9 Y/ V/ J9 l$ n7 p5 `) v 3 j4 k! ~; w) H5 J4 R7 r 私が88年12月に北京の自宅に方氏を訪ねたときも意気軒高で、トウ氏らを痛烈に批判、民主化は必ず実現すると話していた。それから間もない89年1月初め、方氏は行動に出る。服役中の民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を求めるトウ氏あての公開状を発表したのだ。7 X* j/ u( [) L0 H% o
- l* t# w. g/ X
方氏の要求にトウ小平氏は激怒した。それは翌2月に訪中したブッシュ米大統領(現ブッシュ大統領の父親)主催の夕食会に、招待された方励之夫妻が公安当局に出席を阻止される異例の事態になって表れた。魏京生事件は、トウ氏にとって特別な意味を持っていたからだ。 # V) Z6 ~3 R; b7 B5 I! { , ^# F6 }9 t4 G9 W+ F$ }! m0 F攻撃の矛先 民主運動へ4 ~- Z: o, V4 k
胡耀邦氏が1978年に開始した(毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする)「2つのすべて」派への攻撃は、青年層の強い支持を受け、民主化要求の壁新聞運動に発展した。それは同年末の党中央委総会(3中総会)で改革派を勝利に導く「院外活動」の要素があり、トウ小平氏も当初は壁新聞を支持していた。5 i+ z% x% w* y8 [" l
ところが、当時、過激な文章を次々に発表していた魏京生氏がトウ氏に批判の矢を向けると、トウ氏は逮捕を指示する。 2 g O) ?5 u7 E2 Y1 ~ $ c1 O! Q( t1 ]: w 当時、胡耀邦氏のブレーンで、毛派との理論闘争に活躍した阮銘(げんめい)氏(台湾在住)は、魏京生事件について、産経新聞の取材にこう話している。0 T: K; l8 s: t( w V2 ~
- c* O, T# C6 l, m* a
「魏京生逮捕後、胡耀邦は厳罰は望んでいなかった。懲役15年の判決と聞いて驚き、胡に問いつめると、資料は直接、トウの元に行き、トウ小平自ら(量刑を)決めてしまったので、なすすべがなかったと言っていた」) [) j% ]# Q7 O: D R
6 v9 l S7 U) c) C) h/ Y! Z# ^0 U トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。 ) g8 o, }% O; g2 |+ T! b# F1 N! q7 y9 b0 s6 g
天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。! c+ c5 S3 L4 G' ]" s8 C
+ n6 V1 ~3 N+ N6 V# u: w" z それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。/ w7 J6 y/ M* T4 A
5 p; C* x2 f1 J" M5 x8 L1 O9 m
中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。 7 u/ n3 R' `* D" `5 b% |; n2 G1 ~% ?; h, ]2 ]: e
中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。 $ M+ u1 ?; k2 y- E . ^# O2 W$ a' i6 H, C) O9 N これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。 T& E4 J- x3 Y9 }( y( |
$ ^/ l! t8 B1 s- }& [6 m: o
中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) . t: |7 g- D, o3 [; j) i◇8 e) _4 s# N3 [' M! \) r. }3 u
【用語解説】文化大革命 6 Q" o* X1 B9 p3 V2 G. C0 K4 t; J2 C0 G$ c; w7 U
1966年、毛沢東中国共産党主席の主導で始まった政治、思想、文化闘争。古い文化を破壊、理想社会を目指すとのスローガンを掲げて大衆を組織し、あおられた学生や労働者が古参幹部、知識人らを迫害する弊害を生んだ。毛死去(76年)に伴い終了。81年の党中央委総会で「災難をもたらした内乱」と位置づけられた。 & D' w' x8 [- v- V, v. { |6 `: e" Z" z! ]
◇$ X$ D% ?4 q$ A7 D5 z
【用語解説】魏京生事件 0 }& E9 o0 q1 j1 H1 ]/ Y ?) @" R7 l0 _/ Y; v 1978年秋、北京市西単を舞台にした民主運動の旗手、魏京生氏が79年3月に逮捕され、後に反革命扇動罪などで懲役15年の判決を受けた事件。壁新聞による極左攻撃が主流で、トウ小平派を援護したが、トウ氏が権力を握った後、魏氏は「毛沢東と同じ血にまみれた独裁者」と批判、トウ氏の怒りを買った。魏氏の逮捕で運動は下火になり、壁新聞もその後禁じられた。 4 _. M+ O3 e) K" v+ ^% c9 z9 S( S1 S2 n& E2 \. S
(2007/02/17 08:18)
邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭5 T3 r5 N' M0 W2 R2 i
) p# x4 u0 L+ Y( L
日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。6 O; i3 A8 T/ ?2 e+ u
# e% y2 k, M. q# x* N" g/ H" X: b 文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。 ) c$ c L/ }) z( C* m4 [7 i0 ?9 n8 K) d' g
文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。0 l& w- f/ U# k5 c# l
6 ^* z4 x* f e3 V- v 拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。+ U9 s- W8 [8 g' g6 s
邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利 4 ]/ [: ~/ F; I9 d8 u 8 v8 C! q8 E- W0 C* _' u' {' V5 l+ i) z8 L. s; c
根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。 . j0 O) a4 J7 e: D$ C4 l7 B* e9 L3 t( r( H9 @' v N4 I
文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。! r. t' q7 D W; V6 g
[. p I# f2 K' F& l
当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。 8 ^' q7 Z9 g# q. U F3 B# H, d" E# _# x9 D
秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。# @+ w5 k: @0 Y: k; e( z
! g) k, F. g8 Q: @6 T; O0 M u, X 担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。" x+ u! b" d2 a9 n& b
! D& h; G0 Z7 p. T& R. \
李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。 * W1 j3 Z8 V! ], F6 V1 ]8 }, e; k- A5 q B- l$ D6 C6 |9 q
在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。中央社 ) h/ Y5 l3 M0 | | L3 F: p( `: I; {# H【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない9 x# a4 x8 F" V& o. g9 c; h) U
( e: G. S2 ^# B6 H
胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。 / A8 ]# {6 z7 W6 z0 `0 U7 Q ) [9 L. {3 J1 _9 p その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。 % {' E- f& O5 F- { : k+ E. m% H! t' F' @9 M' m/ T 「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」 . Y& y, j6 ~ B& H0 r6 K , p3 r+ T1 u3 b: y4 c J 弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。, U4 K4 n! B$ W! f/ R
+ E0 J" E& ^5 [! y* v- D
胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。 ) J* T; Q: q# Y% S3 x- ^+ n/ R, @( x6 G1 \' e& S
かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。+ o$ `! z! `/ }0 ?+ B/ H
4 i" W& Y2 x; Q8 `, V' F+ o2 |9 ~
朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」 6 Q1 M- X( }% C/ p " Q* ^. l$ _; n4 U トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」 9 x5 K7 G4 k* d9 \0 [2 |; Q/ e# U& _7 u; w) i( u* q
しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。! l' Z, H( V/ o# |; m
; @! V: s/ o: T" |! V M9 D8 m
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。, [. B2 v! @5 N8 t. j7 X1 o/ g
9 w3 H8 V$ H% {* W9 O. Z6 D 「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」)7 O8 c0 P# K$ b
% O5 K1 g9 z. o4 y
一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。- D& E1 Q$ Z" i+ C& L
2 i7 x ?, J% Q 「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」 . c) o; c! b8 ?6 a3 W }7 F j; _ K. G8 {( R' L: X4 L) i, E8 w
それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。% ^! j' m: ^" Q; n
) X) e6 R9 t8 G3 X, [ 《ひっくり返った党人事》 t" f7 T0 n( b/ N3 L$ g0 z0 a' S" n% v" l
思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。- g) [ V# v9 \4 z9 b h
' i# U7 h, ]$ g6 s 保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。 ! ~0 f! [% V \, S5 ` 1 y/ I6 R5 i4 P5 [- L2 } 5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。 . E S- O Y' s3 @3 r( S9 H( Y$ A& f + s8 w0 f, l; {; }( w# a l- X! r 10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。 & b" z0 k! S' p i0 r7 j' J2 q0 D7 o* v- p
「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。6 c% i8 ^0 L* }" W, L! O5 g8 C$ e
& F( B5 a% n! I# \) W その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。. V- O% O0 M% e4 F I
, I) a: K) B7 b) {$ V) U 趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。 + @" a! e5 d3 O# z, q, z. i P" c* Y3 T% j+ {9 H このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。' l' k6 N7 I4 D0 f
, ~/ R, R- r5 D5 k, Z( x( Y1 W
陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正)& _: _1 j0 M: i' r
, p) c* o3 j @$ a. ^1 C
■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。 - y' r" Q3 L! Z' `' n ) V- H1 X; y7 g: K( w, p2 f ■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。0 x# S4 ~7 }3 g3 B- \! H$ s5 I
6 P [) ]# _9 \7 j! { b2 q# f
●=彫の周が丹! v0 Y$ u& D3 K* Y) M- P3 [
- y5 F& t5 t, W& \$ ?) m2 d# `(2007/02/20 07:26) - O8 T* P7 [: |/ J2 E \4 r" e4 z9 N9 B! S7 O; A& I3 C
5 P( L. j- o2 f' {, N9 H, v
' z. U0 ?: n M; O+ M1 [' S, @
9 a1 X) K) \: v/ [% g+ Y5 m
2002年8月、北京にオープンした蝋人形館。トウ小平氏と並んで陳雲氏の蝋人形(左)が展示されている
& v: E- E2 d- y1 Z7 t) h& L- _, I 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 ) z1 D# k& p+ A8 e' \; e# L* w+ T; W: n
她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 1 y1 W/ m2 a, q& o4 c
1 O% m4 w0 B L# j: n
在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 6 x! U1 ]3 q7 p% T- w, j6 [8 \/ k% b! w6 n+ Q1 N
邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 1 S; \( G+ Y) x- @. l$ n' o1 P v0 j! R. E1 \3 |0 `8 \
香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”9 ^4 D' M- i) B( m6 R! `& y" m. C* b9 w
6 r5 s" ]0 [) z1 n& [4 v& K7 h. k" n% X+ ~6 |/ S
他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 ( b* n0 [, @" A8 X& g+ y1 F6 f) @
( O3 q/ u1 |5 d- D q. D
在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 ; h% S& K' @2 p, Z; l: e2 r# i: \3 W( c" @, @/ k, Q
邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。" p: r: c8 \8 A( c: F! w. `3 p
# U, b! i7 w0 z$ ] X3 t) Q* ?
- T% t- n* Z/ @- l
0 z; ~. A# k8 P5 f, o* GChina honours man who reshaped world: L3 D. ^ r- y1 ^
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. & x8 N+ y4 d F9 C H
1 Z+ U! @' P9 P4 l) p
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 1 U, g, m0 f5 ~* J
+ B2 b) a0 r3 j# B0 E1 cBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. 0 q% o6 g8 N. r1 m
1 s' E/ W) |/ L h) }# W/ _His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. : p* [; G& e) h3 O 2 q N8 a( T5 o7 m( J. e7 k# `- O“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” , u2 y" a4 D5 C9 W) W. R+ [) f: M2 n5 v) b
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. 9 U9 n. N2 ~8 e' m( V2 N # C# Z. P5 L" B7 ]; T ?' b4 pMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 9 j6 g# M: d" [
3 z+ O5 U6 C3 t$ |( T! ]/ `! z/ _8 oShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” : w: H& c5 b3 ]3 x# v$ P, x . [ ]9 U$ k* q# [Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. # ?& @1 v1 U: v% d% h# y/ v& r, I6 F4 J- J% t
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. 0 q% L% Y) D# B9 Y1 P6 V# \5 a W$ |* X Y! j9 K( s
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” ) M* @ s/ s0 u4 J* d" ?" K
/ _ C1 B: A D' B/ H
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 0 I1 J, u' C) s2 X5 D
8 w; H5 L" n' C% l5 {Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 4 e% [& ?) C# m- @
2 k% U; ]: m8 ?+ ]/ M6 Z6 h+ v
Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. 7 m/ o% R4 M p! ~- T. J * r* a. i& H) F dBut he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. / a9 v+ C/ s3 _" Q2 }8 k# q " p- u( H: p# J5 A+ w4 u4 xHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” % f. [; J- P! C6 D5 C5 S1 H0 D u
) k8 G: p- Y" Z, FLong road to riches! P# w% M: I5 r3 A1 F$ y
; }1 S- A' [3 A3 f! l# S* INow , S, M" N* j5 s: J5 A
+ |7 d6 K6 E8 X2 \3 w0 R; LPopulation in cities: 550 million % W$ Z; j$ y4 H( n , l" a. e( u# p! t. c2 qGross domestic product: $10 trillion @6 M4 `) `' j+ C6 F* E# P9 i8 ~
: i5 P$ d- `( ~
Oil consumption: 6.5 million barrels a day & X" a9 n+ B* ?( j+ \- y0 d' U: o 0 X: F: J" B; f4 P* ]- R7 ~Exports: $954 billion + }7 h+ p1 p# q" L
0 u/ g _! r. i$ X2 w8 uPopulation below the poverty line: 130 million - @7 o. f( R$ P1 ]' v, F5 U N- t5 f5 {2 e" Z* ~
Ten years ago( V8 J! v* E" C! b t3 Y
7 K! `- [, R& d; w# X) M
Population in cities: 370 million - [. H. X; [+ a" e/ d3 c( F1 r4 U' y6 H2 E m" V( t5 s
Gross domestic product: $4 trillion 2 O% |; c$ d" h/ w0 U4 D7 S6 ?. R' E( t
Oil consumption: 3.9 million barrels a day 3 i4 p6 k+ S) X1 a* }3 b
U: |- z2 K0 I9 L1 TExports: $182 billion : ?* D( p- D2 d, l" D" B' t
' c. [; s. v& O; Z- N( y
Population below the poverty line: 120 million . [! ?2 G- Y z' d% U- H: u& d3 `& F! B
# n& Z3 ~. s! {0 T+ o9 Q
Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies ! y9 e# F+ X( A" D' ~ # w# `$ u% y6 K; }2 D" z$ v4 |5 | * R: O' p s3 k& z+ o& W“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 2 S# x4 g: G% p! V3 ]0 ^. W5 {: E* I& E) z
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治1 y2 C$ D. z0 D, c" }. A
) @/ ]2 ?0 v- t8 c7 S, p- A(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?”# A3 Y8 e1 d! n+ \% {) P8 M
$ f3 m+ S% Z+ i K% X6 B
赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。 * t) t. i7 \) s6 p3 f3 ]& w0 s8 f8 \5 j, F1 x5 n! T$ M
赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。- M/ u1 J2 ^( Q- D' C: e# p4 o
2 ] N& v) V `2 N
鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。! t! S: ?* I& I: ~
3 a. { I$ M( ]
鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。 $ [/ |( U- `! D 3 q A$ W' q( s4 s' s赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。 : O) ?8 `- b7 b7 O$ @" ?# q6 c }
一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。) J( i# Y3 r# Z% k% Q, ]' r, P
5 j" A# Z, e+ R* Q# n0 s2 R6 P" r未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。 h. F( i* j& @( V, Q0 {: j+ B1 Q- L
, W6 h# x4 n4 ^+ W5 E
【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」 ) t, R+ f4 r0 p9 E! Q& f, |, I2 K9 H0 z8 N2 g
趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。1 r; M: z A# {3 V' m$ z/ K
$ W1 K3 }! ^. z' Y( O8 v
2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。* O1 c* w; f! N8 o
4 C7 [7 V7 I6 z. Q& r
「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)! L' E7 p9 ?9 Z) M3 ]/ S
N" l. {/ I" | この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。% z s- r+ d4 ?; g, `
" T6 v: G9 C& u* t( Y, g, L; _ 趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。 1 r% R1 n& I" K% X / G; K$ d' f% Z/ k3 `& h. S" X% Z 中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。! { f6 H6 ^5 ~8 A( {
% p2 a1 ]1 q5 r' u! F0 g' t: C/ S
しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。3 B- o1 c2 |' Q+ F9 j* y9 @
' h7 S3 T1 T( e" d: C& ~
この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。- a8 C {! T2 q2 }/ O
评说邓小平 难避六四和“先富起来”+ q$ c) q& G2 Q: y5 b% L5 F
& q1 h, y4 M) G1 A) ~
今年2月19日是中共领导人邓小平去世10周年,北京官方没有大张旗鼓地纪念,胡锦涛和温家宝也没有对邓去世十周年发表任何讲话和评论。 , k* u/ q5 a, a7 S1 ]$ v * W) ~6 ~5 u8 [ n7 }2 ^+ Z) K邓小平一直被中共称为中国改革开放的总设计师。他的最著名的口号就是“让一部分人先富起来”;另一个无法回避的政治难题,就是六四的枪声。 9 b4 x" G! w" D; y, w*“让一部分人先富起来”是祸是福?. V. j A8 }1 ^ c) x
# ]. L- x4 {4 F8 t# B' i美国之音报导称,邓小平当年的政治口号在今天已成立中共官方禁忌。邓小平在1970年代末推行中共经济改革政策的时候提出的一个最响亮、同时也是让现今的中共最高领导层感到最难堪的口号:“让一部分人先富起来”。 1 B$ t8 p" u. d5 Z. [) i( [) ~+ p2 Q6 {4 ]1 C8 h- g" u
将近30年过去,中国的公众普遍抱怨,邓小平所说的让一部分人先富起来,实际上是让大批执政党和政府当权者及其亲属通过强取豪夺富裕起来,中国大众则不得不承受住房难、上学难、就业难、看病难这些所谓的改革代价。 # B1 b5 J" B# ]. F4 n5 |& S: _7 \% ]
住在北京的中国工人网编辑严元章说:“谁富了呢?他们是通过勤劳的劳动致富的吗?我看很多老百姓不认可这一点。他们认为,那些人是通过权钱交易,通过自己的权力,通过权力腐败而获得的财富。” 1 h) `; W% l7 C- F6 c4 | . Z. m, W4 t2 m2 x2 ~6 E严元章说,这些年来,他多次到全国各地跟中国老百姓交谈,交谈中他反复听到的一个说法是,现今的共产党比1949年之前的国民党还腐败、还专制。中国迫切需要民主。 # t; w# p$ h ^3 A1 [% F; ]# |( T( G. n% a
人们普遍认为,共产党的专权导致的腐败,是邓小平“让一步人先富起来”的经济改革政策给腐败官员大开方便之门的话题。 i5 N% g( F `. Q% A) j8 M+ { 5 ~+ G+ _% l c! V, O*六四血案 无法回避的话题 " v9 V! } ~" v+ W/ V * t- A/ o S& h+ ?% a! L谈论邓小平的是非功过一个无法回避的话题是他在晚年下令出动解放军镇压学生民主运动,血溅天安门,这段历史至今是大陆政治上的最大伤口,虽过去已18年,仍不容任何人触碰。2 J% o# R2 u% I
4 S5 p& Y! O6 y: n) D! _4 I
前中国社会科学院政治学所所长严家其分析说,评价邓小平,躲不开对六四事件的评价。他说“我认为,对邓小平的否定主要是要否定他对六四的大屠杀。首先要把这个问题解决。当然两极分化、贫富分化的问题也要解决,但是,要用新的思路解决,不能简单地回到毛泽东的平均主义的老路上。” * W! Z7 v+ |2 ?0 V+ g" j : ?4 ^0 m$ ~' s2 a8 [) M" c# W) a中国网民在严酷的政治监控下无法公开发表评论,在大陆互联网一些论坛上可以看到许多被管理员删贴的痕迹,论坛上的发言区上面许多地方贴着一行字:“该用户发言已被管理员屏蔽”。 8 I# o. ?+ e, n- w% Z0 h + d% Z% p- a" c/ w0 e9 i有一位网友巧妙地表达自己对邓小平镇压六四的看法:“如果非得说(邓小平留下)精神遗产的话,那就是我们对枪杆子出政权有深刻感受”。! ^: v0 j! ^* H
7 J9 H( A* W. U7 c3 L& }$ D9 F p
*改革开放的功过是非/ C, W: L, R2 w$ w6 ^
$ [; y8 N, c: n4 I- m
中共一直称邓小平为中国改革开放的总设计师,有网民发表意见认为,“没有总设计师,80年代力主经改政改齐步走的胡、赵二位恐怕(会)将中国引向比现今更好的方向”。& T# C9 u3 L1 R Q2 D, d
, i. ^' T1 B5 M- U; `, o“邓的改革,使得甚至是最穷困的山区农民也在生活上改变了在毛时代的悲惨命运。但是,他作出实用主义的努力,又使得中国人走上了另一个歧途,那就是物欲横流、道德败坏。” 7 j/ D7 a& h1 B: G4 [2 @4 T3 I O' Q q- P
中国问题专家严家其对这个观点表示赞同。严家其认为,沿着胡耀邦和赵紫阳确定的经济改革和政治改革并行的路线走,中国的贫富分化问题、贪污腐败问题当然不会完全杜绝,但是绝对不会有今天这样严重。" {! R }( x/ M, ?$ B
; ^; o. r' n0 |6 W美国之音报导说,在美国的中国问题分析家认为,胡锦涛没有高调纪念邓小平逝世10周年的原因并非要否定邓小平的路线,而是试图在一定程度上从邓小平提倡的“让一部分人先富起来”倒退回毛泽东的“平均主义”。还有专家呼吁中国现任领导人客观全面评价邓小平的功过是非,为“六四”彻底平反,回到胡耀邦、赵紫阳倡导的经改与政改同步前进的道路上。 2 m5 |/ |3 W+ }8 C3 ~: U # N, @9 |* [: O+ v5 R/ ^日本产经新闻近日连载的“邓小平秘录”则披露了中共内部权斗的许多鲜为人知的史实。. S/ ]8 P" \5 B: ?" w _5 w# |
' q( K. l8 Z% V. x: V7 B$ i. j+ K* r
邓小平秘录:邓对赵紫阳发警语说中国不能乱; ^) ]+ U8 y* e1 @1 ^ }+ p( Y; Z
(中央社记者杨明珠东京二十四日专电) + e3 e' ?) E G0 y 5 D* e* q ]9 O$ ^日本产经新闻正在连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年三月四日身为中央军委主席的邓小平与总书记赵紫阳会谈,其中提及「中国不能乱」一事,等于是邓给赵的警讯,这也成了邓、赵两人的最后对话,四十二天后改革派前总书记胡耀邦猝死,引发天安门事件悲剧。 5 j. l3 ?: a! ?0 h9 |3 b) e' `( I# [3 a2 B/ f6 ?
秘录中提及,中国前外长钱其琛于二零零三年所出版的「外交十记」一书相当出色,其中透露了一九八九年天安门事件(第二次)之后的七月初时,美国总统特使史考克罗密访中国的内幕。文中指出,美国总统布希盼邓小平理解他所承受来自国会的压力,要求邓小平能软化强硬的姿态。 ! t$ H% ?7 J0 q4 ?- r( ~4 J" d ; P1 U6 L0 p |# t' _但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。& ]. W5 W5 H, g F$ F9 ]
! C3 \+ c; d" f- j {
产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。 & z$ H5 b( |) h2 M1 Q% l$ v . K1 T0 Q( H t' s1 l秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。* A- @- ` H2 R2 a6 s8 X
: u7 H$ _1 ~& d, ?
秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。 3 ^0 ?! l. ^4 y u( S0 Q: ` ; M0 E3 m, U* b6 z7 m% p& u秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。 % U8 G) x) h4 z7 J2 V) S 4 Z' e! E' s2 B3 R# _ o }秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。 . S" Y% L" v& ` f7 z& b7 E ) y" ^! Z& m! ?秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。 ; j% l0 J* r. S# K- `1 {; T $ f9 G, \5 p, K【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。 + M. k. }' B# U8 L: @ + q- O C& p2 f/ d; Z, n& I その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。 3 {6 R. a% q, }' } T# F7 Z2 L 8 J5 @4 v `9 l' Z" Q# u8 D2 c/ Q" [. }) v8 C
「中国は乱を許さない」6 Q- b6 [7 H' ^: p' s6 _
7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。 " U+ X9 [4 y P- [4 P( n- E 1 S/ Y, M% r8 s, ` h8 P# A 「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」 & ]8 x2 H& t. N/ |- h4 {, g! G2 ]2 P) v5 B4 j
「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。 ' g- z3 o$ ?' Y 1 m: `# u; w9 i$ Z9 e. I% u9 t" k 88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。' h- L) ]: v- z7 ]3 K4 g6 [
1 `0 ^8 n* P6 s6 U) U8 S" T+ F 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。! g4 b6 @. e5 Q1 [5 x4 k
' W- t8 Q7 l. X9 j `
「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」 8 J9 B" w9 ^- ]6 z# s ' C! [3 R" }* k9 [! A+ }+ ?& z- T 私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。 ; ~' C, V7 }$ A: I, \2 d8 A" d6 g& c' Z& x& `
それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。 7 `5 ?2 c8 i: E9 \/ j# } " R$ S4 ]$ ]2 y1 W. A6 a* | 当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。7 Z2 a' G8 p1 }* d8 U6 }
+ m0 N% L1 M: A. v. C2 e2 b }. Y
トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。# q, i- J6 S6 `; s, v' D7 v
# ^$ y1 f1 M6 h" H3 R, r ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。 5 J$ u2 m) g V: {2 A; ~% j8 L. o4 [8 P6 ?- l
「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。 3 R' m' Y, l' t @8 a5 Y/ ` 6 w2 M6 h1 o+ ^ 89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。. {( g$ N: E" Y( C
, b' K4 J$ V% h7 g# S
夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。 9 N4 b# f" }" [0 U6 n% ]8 s {: A) O, S* \: j0 T
その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。% t" A! w; M6 w# w. x5 O7 ~' |9 s
' D G% B1 u% y" b4 h7 y1 g
それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。3 L& T- P. H3 H, O2 Q- j1 n- C0 m
+ U: f, E7 ~. a, u i 3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。 X( r X- W- K 9 z2 M- S+ u3 D$ B# i7 ` 「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」( j Y3 Q4 l" R" U1 a/ y& N
" a: v: `2 T* F0 p6 I4 V 「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」 ; t0 F% N) I1 H2 e3 L 9 |8 S: A$ E( J それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。 / h' X5 _/ b o0 u8 G: ~/ a / K& ]9 y6 f/ b2 ~& q2 p9 B その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正)5 L- x& s& A) o# R) G; l9 v
5 k1 w* K, s* ] n) T9 Y
: |+ B$ A7 s$ q# r/ `! k! H. [" u4 Y
◇/ q& Y7 y4 N+ X( t6 ~
; B% x0 t0 t, h9 X) C: k1 d9 m f' Y【用語解説】抗米援朝5 w5 n5 F4 U% h( h' u& b j
( E2 J. C& r4 N# K0 \
1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。 & D8 M' B" J. S6 p, W 9 e6 a `3 J A u( J4 | ( `% ~7 z+ w" V: i$ H% ] z$ j; I! o; T" ~# x' c. l5 I6 g; A
茅台酒瓶问题成反革命开端: \% |8 }: N& {! t! _+ S7 r
(中央社记者张芳明东京二十五日专电)日本产经新闻今天连载中的“邓小平秘录”透露,一九八九年四月十七日由中国法政大学主导,为追悼胡耀邦而进行献花行动中的茅台酒瓶问题,被中共当局作为“反革命煽动”的开端;十八日晚上前往中南海要求与李鹏总理见面的学生和警卫发生冲突,成为天安门事件悲剧的序曲。6 n/ _4 M ~; z4 [& m
! I8 E0 ]$ \% B
文中指出,一九八九年四月十五日,前中共党总书记胡耀邦的死亡升高中国国内政治社会情势的不安,造成许多人预感可能引起某种骚动;但是,想必没有人会预测到后来会发展成为那么大规模的运动。 2 k5 ^- }/ g4 c' u胡耀邦去世第二天的十六日,北京大学出现大量的大字报,不过学生很少;但是,十七日中国法政大学职员学生发动追悼大会后情况为之一变。十七日下午,先是六、七百人迈向天安门广场,沿途市民加入行列;傍晚时广场上出现了四、五千人,大学生对人民英雄纪念碑献花并合唱革命歌后解散。 ( c# u: s, Q, K, G4 H1 n8 f$ d7 y5 f, e1 F; P
这项示威行动后来被作为“反革命煽动”的开端,原因和当时在挂在祭祀英灵花圈下的茅台酒小瓶有关。中共有关当局指出,“小瓶”与“小平”同音,示威份子的行动是侮辱攻击最高领导人邓小平。 # S+ c5 g# Z5 g' K7 T* T 8 R4 ?- [5 U6 ]6 R: f+ p十七日深夜,集合在北京大学“三角地”的近千名学生出发前往天安门广场,十八日凌晨四时左右抵达广场,途中,人民大学及清华大学的学生也加入而增至数千名;其中大多数在有关当局劝导后搭车回校,但是有近两百人留下,热烈讨论今后的对策。 7 u- b5 t. [" t# {1 T$ ?5 X4 f* ]( g6 w. Z, d
这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。2 q8 _4 y1 L& H* v+ f
5 k; y1 `/ F. R4 O! f- d5 p当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。: l% C' y9 O' W# k/ v7 E- x; f6 l. h
* n& ^8 t. E' T8 X+ ^* m十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。) B4 r. ]7 k, y5 S( M" x/ i* s
邓小平秘录:中共掌握王丹与李淑娴「谋议」 6 t- ?. o/ C$ n5 [9 K8 t中央社8 _. k& n6 m, D6 z: T8 ~9 R1 U
. R* N/ G# y8 R9 ^ 日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,中共保守派在学生发动示威至爆发天安门事件期间都一直认为学生背后有黑手在操弄,计画颠覆社会主义政权;中共资料显示,公安当局严厉监视学生运动领袖王丹的行动,并掌握中共宣称的王丹与方励之夫人李淑娴之间的「谋议」。 + |) w% R' \- ^* F3 ?* P, O* C% z2 E: Q, ] u
连载文中指出,在一九八九年四月十八日示威学生与中共警卫冲突的新华门事件后,中共保守派元老对学生极为愤怒,他们的不满传至最高领导人邓小平的耳内,邓氏虽告诉当时的总书记赵紫阳将出席胡耀邦的追悼大会,但视情势变化有可能缺席。结果,邓小平后来现身二十二日上午在北京人民大会堂举行的追悼大会。 5 l& q, i- ~) W }: Q7 D! g, `9 m8 j; T
中共保守派在学生展开示威运动后至六月四日的天安门事件期间,都一贯认为学生背后有黑手,有意利用学生来颠覆社会主义政权。但是,被指名为「黑手手下」的知识份子中有许多是在五月以后才参加运动的,而且是为了要求学生停止绝食抗议等行动,他们的行为和主张「有关当局捏造(不实指控)」大致是一致的。 * [- X2 x( a+ R0 c( V! |% m2 j% o, t. |. E
秘录指出,四月二十日,党政治局员宋平和副总理姚依林面谈时指出,过去数天的学生示威已有明显的征候,天文物理学者方励之的行动非常活跃,学生的背后有部分另有居心者在操弄。* G# T4 S$ u+ J5 v
4 z. G! r' _: X) h8 \' |) y 文中接著指出,当天为止,方励之并未有与学生示威直接关联的行动,公安当局掌握的是方励之夫人、北京大学副教校李淑娴和北大历史系学生王丹「谋议」。; b' c3 A5 s: m- A1 h
2 ]/ g% ~$ J5 n/ w4 K0 Y 北京市党委会在天安门事件后发表的「制止动乱纪要」中指出,胡耀邦死后两天的十七日,李淑娴在北大和学生讨论,呼吁发动示威,示威组织的中心人物是王丹。王丹于十八日上午在天安门广场演说,拟订包括恢复胡耀邦名誉等七项要求交给中国人民代表大会事务局,这些要求是事前和李淑娴商量后才决定,且事后王丹和李淑娴还相互联络。 $ l- _2 h @; C. U$ _$ p ) e( V% n8 q) Y( f 秘录指出,王丹和方励之夫妇的交情很深,包括一九八八年设立「民主沙龙」等,王丹受到方励之夫妇很强的影响。由「纪事」可看出,王丹受到有关当局很严厉的监视,但是,他并不在乎,继续发表演说呼吁示威、罢课和成立北京各大学的联合组织奔走,而成为学生运动的领袖。特别是二十日以后,随著大学之间的合作而提高保守派的警戒。9 \; s6 N( Z: Q4 R F( {) S
8 ~0 d# X: V* P$ E( a
赵紫阳和保守派相比则显得乐观。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳的改革同志田纪云副总理在二十日上午和赵氏见面,指出不仅北京,连地方都有不稳定的情势,建议将预定二十三日的北韩访问加以延期。! W J/ I( k& d% p- i
; }, z0 m1 c% _: E1 E I f
赵紫阳回答表示,他虽曾考虑延期,但若改变日程,将会让外国怀疑国内政局不安定,因此决定照原定计画访问。赵氏于二十三日下午如期搭乘专用列车启程前往平壤,到三十日返国期间,中国国内情势已出现重大的变化。- `! G7 K5 ]2 b2 y
% c' S0 v+ {1 Q. i6 A5 @1 a【トウ小平秘録】(14)第1部 天安門事件 追悼大会2 j/ _" |, w: X/ z- v) w
9 S( P7 W p3 V. , [7 \0 I- M0 |. A4 D/ u, t+ J! { 8 P9 n( q# Z1 q. S: f7 Q 1989年4月22日午前10時、北京の人民大会堂で故胡耀邦(こようほう)氏の追悼大会が挙行された。トウ小平(しょうへい)氏はじめ党、政府、軍首脳や各界の代表ら4000人が参加、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席(肩書は当時、以下同)が司会し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が追悼演説をした。- d! ]: h- n! `3 [: }
" I! ~5 T' W2 I7 K" e; I
演説は胡氏を「偉大なプロレタリア革命家」と呼び業績をたたえたが、「偉大なマルクス主義者」は使わなかった。2年3カ月前の解任事件にも触れず、学生たちが要求する胡耀邦氏の名誉回復はなされなかった。「ブルジョア自由化」の罪状は重かったのだ。 - z- l" k# `# X; h: k& j$ J 8 ~) p; q+ A' g* H9 v: ]% U. c+ i 北京市はその日午前4時以降、天安門広場への立ち入りを禁じていたが、学生たちは前夜から数万人が広場に入って座り込み、胡氏の遺体への告別を要求した。当局側が大会の実況放送を流すことで折り合ったが、胡氏のひつぎは学生たちの待ち受ける東門ではなく西南門から八宝山革命公墓に運ばれた。. q4 n/ O3 c; ~# C
+ n4 x1 d( s8 h6 L2 h 追悼大会に参加した人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は著書「六四内部日記」の22日のくだりにこう書いている。 " y/ {% Q3 g& X5 o3 K- f( L 1 T. @: B2 v; |5 o$ D. L! f7 O$ v 「(周恩来(しゅうおんらい)追悼大会に欠席した毛沢東のように)トウ小平同志は来ないと思っていたが、トウ小平は毛沢東ではなかった。夫人や子女たちも一緒で、とても上機嫌に見えた。が、大衆の間の声望は以前の高さには遠く及ばなくなっている」 " _$ j# y4 i; ?; @: I' n; g: z+ x& A 3 k+ ?, d% o2 S' w3 E9 c トウ氏は、追悼大会出席の意思を趙紫陽氏に伝えていたが、その後の情勢急変から欠席する可能性があった。張良編著の「中国『六四』真相」(明鏡出版社、以下「真相」)によると、学生デモが拡大するきっかけとなった4月18日の新華門事件以降、保守派長老たちの怒りはすさまじく、その声はトウ氏の耳にも達していた。 * v! [8 k2 `6 @+ Q& D; X) ^! W6 u$ j! F5 ~ y) G: @1 y; `
長老たちは「学生たちの背後に黒幕がいる」(彭真(ほうしん)前全人代委員長)「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」(トウ穎超(えいちょう)前政治協商会議主席)などと、学生運動の背後関係に注目していた。姚依林(よういりん)副首相は20日、宋平(そうへい)政治局員にこう話している。 8 T8 x t! @( m) {( p0 z 2 U7 l3 {/ u% _" T+ } 「今度の騒ぎは一部のブルジョア自由化分子が早くからチャンスをうかがい、(社会主義政権転覆の)計画をあたためていたものだ。彼らは学生の愛国の熱情を利用している。ここ数日の動きから、学生デモが動乱に変じる可能性がある」2 p8 n7 x+ p1 u: C$ `! W
& z* d/ Z; i+ {( E# a3 z7 o これは、89年6月4日にクライマックスを迎える天安門事件の全過程で保守派側の一貫した認識だった。事件後に当局側が主張したように、社会主義政権転覆の陰謀はあったのだろうか。) C2 d4 J4 P( h& _3 ^+ Y' E. D
8 T1 J* ~6 n0 d, {; \: T! ^ 「黒い手先」と名指しされた知識人の多くが運動に参加するのは5月以降であり、それも学生たちにハンスト中止などを説得するためだった。知識人たちは「当局側のでっち上げ」との主張でほぼ一致している。 % S: K& H& Y% {4 E . O( e5 S% G& o) L3 F5 b この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。 5 g0 Z. G: r: s- d8 I1 m7 p \ i; A9 y `' r+ n) {9 {$ n7 \ しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。6 o) @7 P+ ?. {) J- B2 f
6 o2 w( ^; V: C* d9 y
北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。. Z- C5 q) S9 x
$ N7 J3 `0 m: R! Z+ Y7 J 王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。 3 N4 }% W; H8 O x) r- _2 R0 S; a# N6 r0 m
王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。9 l, p5 J/ a {6 Z/ a
$ }' k- J3 n5 I それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。$ _% ~: d7 y% Z5 Q) H7 p9 [/ @- |
9 j8 v# W, h+ O2 P+ i* `
それに比べ、趙紫陽氏は楽観的だった。「真相」によると、趙氏の改革の同志、田紀雲(でんきうん)副首相が20日午前、趙氏に会い、北京だけでなく各地が不穏な情勢にあると伝えて23日に予定されていた北朝鮮訪問を延期したらどうかと進言した。それに対し、趙氏は言う。3 z) H! d' {* V H+ I
" |0 l; j& k1 \4 ?7 K
「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」+ T. h& A; P9 E( }6 ~( I9 a
! t6 w0 C( |+ Y/ w
趙紫陽氏は23日午後、専用列車で平壌に向かった。30日に帰国するまでの間に、国内情勢は大きく変わっていく。(伊藤正) 9 S5 K2 ]) j8 B# s6 f/ ` 4 ~( X- V' ~+ g◇ 5 S; g( P# V! F, q; M* l ; a' c! T# s/ h1 q【用語解説】八宝山革命公墓6 l5 K: O3 j$ U8 H% u2 F
2 `6 v: v% x; f' @: ~* i
北京市の西郊外にある国立墓地。新中国になってから革命功労者を弔うため、明代創建の護国寺を改築し革命公墓と名称を変えた。指導者や高級幹部が眠る。1950年代に火葬が法令化された後、遺骨は納骨堂に置かれるようになった。火葬場を併設、胡耀邦氏もそこで荼毘(だび)に付された。/ }4 [, l4 @4 ^! y5 Q+ m4 Y; M
# _9 B9 P7 k1 `
(2007/02/27 08:08)作者: 日月光 时间: 2007-2-28 10:46
/ f4 P% w- Z5 _ 4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。3 _- u; {/ [- y) n: s
+ Z/ X( O/ g# U! [
「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」" j3 M" e! Y, L5 ~7 T
9 f% D* F) ]0 A" K. y O
学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。% J+ \; O7 B( x( u
?; Y) y, A1 y3 F) e% [" h 数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。( y' U% {& W. l; q4 M8 u& K
j% Y, W* E" S# ^ 「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」1 j# y4 E9 P6 H; L. A9 X
, x# O, i. S: D(中央社记者张芳明东京一日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,中共党总书记赵紫阳对学生运动向党提出较具弹性的对策后,于一九八九年四月二十三日启程访问北韩,随后,学运的情况出现变化,留守的李鹏总理等保守派掌握主导权,在获得邓小平的同意下,决定对学运采取坚决制压的手段。6 g1 v4 r6 g! m/ _7 ^# _5 g
$ B; A/ d% }) K- o7 O( L! D5 o
“秘录”指出,党总书记赵紫阳于一九八九年四月二十三日搭乘专用列车由北京启程前往北韩访问后,留守的李鹏总理等保守强硬派就掌握了主导权。赵氏出发的次日,学生民运的状况一变,北京二十一所大学的四十多名学生在“圆明园”会合,决定成立“北京市学生临时准备委员会”,商议罢课和派遣组织干部前往地方的事宜。 $ |$ b+ N# x5 e, U7 k: Y' F* U " _8 ^, z5 w9 o# J2 W! G北京市书记李锡铭和陈希同市长获知此一情报向中南海报告有必要尽早采取对策。张良编著的“中国六四真相”指出,李锡铭报告,学生运动越来越严重,已有三十九所学校的五万名学生参加,最凶暴的是北大的一部份,由方励之的太太李淑娴下指示,方励之则扮演学生与外国媒体之间的中间人角色。 3 H! Z- ]! w& g 0 _+ ]& G) j( }“真相”指出,万里接到此一报告非常吃惊,前往和李鹏见面,李鹏当晚召开政治局常委非正式会议,听取北京市党委和国家教育委员会的报告,由于会上是清一色的强硬派言论,改革派的万里和田纪云只有默不作声。 0 ^7 ~' Q* [. M* S8 G ) V: q" D1 O) ^天安门事件后的六月三十日,陈希同在全人代报告时指出,四月二十四日的政治局常委会上与会者一致认为学运是由少数人操纵与策划,党面对有计划有组织的反党反社会主义政治斗争,因此决定由党中央成立“制止动乱小组”。- w% k& D# U$ [& O; E2 F; M
|1 U# \+ G$ N$ [“邓小平年谱”记载,四月二十五日上午,杨尚昆和李鹏拜访邓小平,报告前一天常委会议内容。邓氏表明完全支持常委会的决定,并发表讲话指出,此非通常的学生运动而是动乱,需以强烈手段加以制止,不要担心国际的反应,中国发展实现四个现代化才可获得真正的名誉。 & V& j$ f! w, f" C3 [# z2 Q" [( \( A U9 [* v. {
邓氏接着指出,有必要坚持四个基本原则,使用人民民主专制的手段,刊登社论,并有必要立法,准备全国性斗争,坚决制压动乱,这次的动乱是完全性计划的阴谋活动,重点是否定共产党指导和社会主义制度,背后有黑手及其打手,方励之夫妇是典型。! n' y. P# g/ r+ ]5 ?
# |$ M4 |- D; q. L* K& D/ e6 V: a邓小平的讲话和前一天晚上的常委会决定在二十五日当天晚上转告人在平壤的赵紫阳,这项决定是与两天前赵氏提出的“三项意见”完全相反的强硬路线,赵氏于二十六日早上回话表示完全同意。 ! V I4 F4 V( D( W# K2 a( m. }. n) ?7 ]! ]7 T$ J2 r. N$ w& K
【トウ小平秘録】(16)第1部 天安門事件 状況一変6 K9 T* I C: j# q" L' T0 W& f8 U
' H# E( n2 b* D$ M0 @# h( C& V+ G7 b. % M1 x. F3 Q. v ! a& V; \9 c0 l ■断固動乱を制圧せよ c( ` H/ u. o7 @; t* n: w8 K& a9 T3 R+ t% e) u
趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は1989年4月23日午後、専用列車で北京を離れ、北朝鮮公式訪問に出発した。その直後に、留守中の総書記代行を託した李鵬(りほう)首相ら保守強硬派が主導権を握ってしまう。 # p) s/ K5 U7 P/ S 1 {' c* `( p/ h* [& ^; m; x7 g# O& \ 趙氏はのちになって、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビューで、訪朝前、政治局常務委員会内には4月15日の胡耀邦(こようほう)前総書記死去後に起きた学生デモへの対応で「意見の食い違いはなかった」と話している(2004年出版の楊氏著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。 6 y3 g: c8 u6 p4 _& x/ j% ^- ^# E U9 U. N/ c% N1 S; e- C' P
その根拠の1つには、胡耀邦氏の追悼デモが始まった後の常務委員会(4月18日とみられる)で趙氏の分析と方針が承認されたことがあった。 / i3 J( o! F3 F5 Q4 L+ _" t ! j8 {% p0 T" q$ }8 o/ m% d! t 趙氏は学生デモの背景を(1)清廉潔白な胡氏のイメージは高く、腐敗への不満と結びついた(2)87年の胡氏解任のやり方や反ブルジョア自由化闘争への不満がある(3)88年秋以降の調整策で、政治改革や経済改革が停滞した-と分析。6 P: V# j* s9 f# U0 }% p7 T" b$ U
& G! { E; m6 m" _. s( P その上で、大半の学生は、胡氏追悼の形で改革深化への願望を表現しているとして、追悼デモは規制せず破壊行為だけ取り締まる方針を打ち出し、常務委の賛同を得た。19日にトウ小平(しょうへい)氏に報告、支持されたという。1 \ \9 l3 R/ s' r! b
/ ]7 K' c" h0 w0 w" P& ?1 U8 N 22日に胡氏の追悼大会が終わったのを機に、趙紫陽氏が打ち出したのが「3項目意見」だ。指導と話し合いで学生たちを教室に戻らせるという柔軟策だった。 4 Z7 M, v# e. ~& j9 X) U! d0 D8 s0 p1 X h
北朝鮮へ出発する際、見送りの李鵬首相から「何か意見は」と聞かれた趙氏は、3項目意見を改めて伝えた。李首相はそれをトウ小平氏に報告、トウ氏も「紫陽の方針でやれ」と指示したという(以上「楊書」による)。 7 [. C1 r+ w1 z0 c* k3 a/ W U$ [$ K+ X! N
ところが、趙氏が出発した翌24日、状況は一変してしまう。その前日、北京の21大学の学生40余人が市西郊の公園「円明園」で会合、「北京市学生臨時準備委員会」結成を決議し、授業ボイコットや地方へのオルグ派遣などを相談した。* h/ R( @: `7 N, D
. C5 f8 j- E8 q2 L* v7 z. W それを聞いた北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記と陳希同(ちんきどう)市長は、中南海(党中央・政府機関)に報告し、早急に手を打つ必要があると判断。陳市長のテニス仲間の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長に相談する(張良編著「中国『六四』真相」。以下「真相」)。- b( D% v8 X' c) a; e) R" Q
3 }+ L1 c3 I7 D* _7 K! _ 「学生運動はますます重大化しています。既に39大学がストに入り、約5万人が参加してます」(陳市長)「最も凶暴な北京大学生の一部は、方励之(ほうれいし)(天文物理学者)の女房の李淑嫻(りしゅくかん)が指図しています。方励之は学生と外国メディアを結ぶ仲介役をしています」(李書記) % Q; C& L2 Z! H( K+ }1 ]1 S! G2 S$ {) c
報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。 7 I, y5 T. q" F5 ~" P ! N' x* i; S1 {; W. W 天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。2 b8 ~9 @: p9 C' z6 M8 I5 v1 ?
7 r( X6 z& [8 }/ S |9 I そのとき、李首相が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に「小平同志に、常務委の報告を聴いてもらい、意見をうかがえないでしょうか」と言う。- P+ x6 ^1 }- k* X9 Q1 {2 v
2 h5 `8 S- H& o9 u$ {6 s* {& M 楊氏は「小平に話して、明日午前中に彼の所に行くようにしよう」と請け負った(「真相」による)。9 g+ Y K! J" a$ S, J2 @
7 L: S* T6 U# B# i0 C8 r8 @5 p" x2 t 25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。 + q$ A% P- h# b & n" f" E) \" s# P. n. C 「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」 # p9 }. j6 L& L* O& K3 |" `" u " u& {$ ^/ e4 J 「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」 l C3 V* y5 B2 p9 @
# Y+ C0 E2 V6 H, d$ Y4 N+ i 「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」" W* W8 C- l- `. h" W8 g& G" n
+ A3 P( I9 r6 L y
トウ小平講話は前夜の常務委決定とともに、同日夜に平壌の趙紫陽氏に伝達された。2日前の「3項目意見」とは正反対の強硬路線である。だが、趙氏は26日朝、「完全に同意する」と返答した。 # p# I5 E/ v; ~3 @ 1 |! H/ }! Q% f# [ これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。* S$ v7 R2 [8 x
1 ~# S( t1 k* w* a( S 油断したのか、権謀だったのか。いずれにせよ翌4月26日、人民日報に問題の社説が出る。(伊藤正) . k% \% Z: M1 a* K8 C. a a' V* s
◇ 9 p* O7 Z$ h, y: l& q9 b: l& p' Z0 E) F) Q: R6 O
【4つの現代化】 i/ G+ h. }2 m7 q5 u- J
; |& o' M/ {" l1 a' d/ D c
工業、農業、国防、科学技術の近代化のこと。周恩来首相が1964年の全人代報告で提起、75年にも再提起したが、極左派の妨害で頓挫した。文革後の77年の第11回党大会で最重要課題として復活。トウ小平氏は79年、21世紀中葉に中進国レベルにする3段階発展構想を打ち出し、82年に改正した憲法に明記された。作者: 日月光 时间: 2007-3-2 10:08
邓秘录:人民日报社论反使学运全面化' V" ~" k0 q9 p. i1 P
9 Y! s* b5 T" z. H(中央社记者张芳明东京二日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,人民日报于一九八九年四月二十六日发表谴责中国大陆学生示威运动的社论不仅未达到威吓目的,反而促使一度呈现分裂情况的各大学学运迈向全面化,加上,上海“世界经济导报”受到中共当局镇压,知识份子也展开行动。 5 u L, Q' w! V! z# {) u . o- C3 \, V; [' O9 l! t“秘录”指出,四月二十六日,人民日报刊登标题“反对旗帜鲜明的动乱”的社论,断定学运是有计划的阴谋动乱,是少数别有居心者利用学生反对党的指导和社会主义制度,表示坚决反对。这篇社论完全是邓小平二十五日谈话的内容,未反映三天前赵紫阳的“三项意见”。赵紫阳后来接受新华社记者访问时指责李鹏歪曲事实欺骗邓小平,诱使后者发表镇压学运发言。 ! \' a& e+ U3 _邓小平曾于一九八六年十二月的学生运动对胡耀邦等发表内容主调相同的发言,次年一月六日,人民日报发表“反对旗帜鲜明的无产阶级自由化”后,学生示威运动趋于平静。但是,一九八九年的学运情势相反,社论一出来,反而重新点燃由于内部意见对立而一度失去目标的学运,并得到社会的广泛支持。 2 Z$ {0 }/ B$ p% x+ h6 Z 1 v, c! u1 J; q( I' n( Z! O! d人民日报刊登问题社论前夕的二十五日晚上,中国中央电视台先行播放内容后,王丹在北京大学召开“民主沙龙”讨论对策,各大学的学运迈向全面化是在社论发表当天的二十六日,学运人士呼吁二十七日一起前往天安门进行示威,北京市内有数万人在市内示威游行至傍晚,市民沿道欢呼,送给学生饮料乃至于捐出现金。1 M" ~* {+ t3 j8 N$ t# A3 r
7 w( }7 Y- E8 f" E, Y( }【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説 7 ~$ J# P. r6 J' F6 f' x # ~/ S! _5 S# y4 G+ Q■反応は86年の逆だった 7 r% g8 M6 Z g; X! \9 P; \0 |$ D; t4 r8 z
「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」 - a" E% @* s. K4 S" B% B% W0 A; a, I # _3 g2 p* H: X' j6 w 1989年4月26日付の中国共産党機関紙「人民日報」は1面トップにこう題した社説を掲げた。異例の朱色印刷された見出しに、文化大革命の否定表現である「動乱」が使われたことが人びとを驚かせた。0 ^: O/ X1 B) a
3 o- w G! c2 R/ c) n" E4 u 社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。+ {" X. a! ]1 q. B% u6 L7 c
- U8 X2 p+ Q5 ?: G2 c L4 a! L 人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。 2 k! \0 r- l% D5 m( u6 [2 Z \3 h8 j1 F4 s
「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」 ' z+ ?4 P0 B( A) z) e u( p" \4 N4 R) x/ _
その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。2 j' H9 U2 p8 Q1 t2 W& m
) V2 J5 \. p" k+ u- d2 `, K$ r0 A 陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。1 B1 I4 M' D) k6 h& u
, Y# n% u+ s( x: I0 I8 M 社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。 4 ^- X: x# D& h4 n. e) E 4 y1 e6 ?/ M; h$ R; l- l1 Z 93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。 : C% z* b$ M/ `. @+ c, o # d5 F: j: a; T6 y0 ~0 A トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。" M; C& E6 ~5 c( D) Y) R
) K0 {; H2 m* p, x
しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。* N! R! C7 c1 ] e1 u
R9 V# @' e& Z, S0 b- r( b 北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。 ) u; i4 }# f8 i2 ?5 w0 [ " D7 @. A0 ^& M5 b% k6 N, Z! F 当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。6 _' @! g4 r# @' [/ c
) X" x- E- @2 u- ?. |. r この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。' R9 m% X$ [: [6 A
$ R8 ], J8 Y& G$ Y5 Z 新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。0 m% H0 v- I5 ^! h ~3 r7 u
' d7 G7 ]5 H0 x) x2 X+ r
それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。 + _" G& Y, A, L+ g; @ * W- @& x# H: E) z0 w! ` 《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》 " `$ h$ V# ~+ @4 \7 f1 m & ^) Y% ]4 q$ p0 p 各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。% [ h. }( ^5 J. \
`( Y' F4 \( C9 D- z
これを機に、知識人層も動き出す。その背景には、上海のある事件があった。最も進歩的な新聞「世界経済導報」への弾圧だった。(伊藤正)% ~7 q, T4 d5 {* N, |
# `" Z2 K4 }6 M/ f◇% d5 |" ^) j) Q
/ X. S4 B/ C' c0 O! _0 t G【用語解説】トウ小平文選 . l# x4 u" s* ~0 z. R ~) A ; o. A$ p! Q, |* E! z3 K9 H トウ小平氏の発言や報告をまとめた公式文献集。1983年出版の第1巻は75年から82年9月まで、89年出版の第2巻は38年から65年までの言行を収録している。93年刊行の第3巻は82年9月から92年2月までの主要な言行を収録。第3巻に未収録の89年4月25日の講話は2004年刊行のトウ小平年譜で初めて一部が公表された。9 a" g$ Q2 W0 D% M& D1 H* W) C
6 B D6 V- t& d1 c) V7 `
★=示へんに其 - X9 \" K! B( a5 U, U8 s$ V9 f2 n7 p$ C
(2007/03/02 08:13)
f5 f8 V8 B! m8 Z; x(中央社记张芳明东京三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平在一九八九年四月二十六日以人民日报刊登指控学生运动社论和解除上海周刊“世界经济导报”总编辑职务的方式企图阻止学生的民主运动是项大误算,反而使得学生和知识份子联手,使事态更趋严重。2 H9 C8 k i/ P. o. x/ J
1 _5 A9 q2 u ^6 s 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。 2 x! @$ |! |& z i7 @) @- T, l6 Q3 J3 v
「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。 & G7 m9 J9 @& M z 0 D" K# e4 T& c( {% Q. j 「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。8 E' @9 A5 T% q1 c* @. l" u8 P# n
5 h R S2 y/ \/ W& R7 P
王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。$ N% w0 j. d' ~1 C
* U5 |: Z, k7 |; _1 J, _7 p! M$ D( a
, \$ |0 Q2 e, z; f* x. T
但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。1 L$ z- S- T' w# ]% v9 ` @
- s' K. R, ~& F. O- m# l5 b! c. p 王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。8 a1 M1 Z0 m" k; D* J. G
. K) P' Q6 u2 y) J3 {9 q
十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。+ j* [+ i5 D0 W5 Q3 s
& @; C1 q X3 M$ H& j% C
就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。2 K9 R W D; n' s
$ ~( b& g7 ~ o$ R1 z9 F赵紫阳在一九九一年对友人宗凤鸣指出,他的辞职是不想在历史上留下丑名。他的发言显示已看清楚戒严令势必造成动武。他后来在接受访问也承认,向访中的苏联共产党书记长戈巴契夫透露“邓氏是最高决定者”的党秘密决定是造成北京下戒严令的导火线。 . m) C. t# f; h! c" s) I X# M) v) R2 J' w
党秘密决定暴露后,知识份子和学生对邓小平的攻击一天比一天激烈,邓小平想必重新忆起文革时代挨红卫兵批斗的恶梦。毛泽东指出枪杆里出政权,邓小平也示意经由枪杆来保护政权。* r S$ @5 M8 T. W2 }1 L
7 N# }: ?& `; M% B) A+ D, Y【トウ小平秘録】(24)第1部 天安門事件 趙紫陽の失脚7 ]/ l5 E3 w+ z& N2 s. c
4 P- G; I/ B: |' C6 J, s
北京の戒厳令と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)失脚が事実上決まったのは1989年5月17日午後、北京中心部にあるトウ小平(しょうへい)氏宅で開かれた会議だった。「トウ小平年譜」は政治局常務委員会拡大会議とし、こう記している。$ t# i$ {% K; n- {* [' j
" y, ]/ u5 ?9 [ 「席上、多数が当面の情勢は極めて重大であり、決して譲歩できないと認識し、譲歩を主張する趙紫陽の意見に反対した。会議は北京の一部地区で戒厳令を実施することを決定した。トウ小平が講話を発表し、常務委員多数の意見を支持した」 , d$ c+ r! p( C" \ . i) w8 s' @7 S 文中の「譲歩」とは、学生運動を動乱と定義した4月26日の人民日報社説の撤回ないし修正を指す(以下のやりとりは各種資料による)。 6 q# K& m8 S* p! z9 [0 A0 w- T; i5 C+ h A% u+ Q( ?' Z( O3 i% z" H
会議では趙氏と李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相が激しくやり合った後、トウ氏が口を開く。 $ i3 _# h+ f* j$ S: ~% q ( R: Y! |5 t# c+ f4 T2 o 「紫陽同志、君の(学生の民主化要求に理解を示した)アジア開銀総会代表への講話(5月4日)が転機だったな。あれから学生の騒ぎがひどくなった。本日討議すべき問題はただ1点、われわれは引くべきか、どうかだ」) y' @! G3 m( N a% o. X
/ V* M' j% }% x' ~1 D4 J8 H
それまでは趙紫陽氏の柔軟路線に理解を示していた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「ここはダムの最後の堤防だ。譲歩すれば決壊してしまう」と発言。他の出席者も同調する。5 E5 r( Q* m1 B
. n! b0 [6 Y' X2 m& B1 E
トウ氏が言う。% @, O/ X# d/ _+ C, I, g
" m1 l. Y# d4 F3 ^) { 「このままの状態が続けば、われわれはみな、捕らえられてしまうだろう。引くことはできない。戒厳令をやるべきだ。みんなに考えてもらいたい」 ' o) M& g! e+ o8 t8 z 9 j2 T8 Y4 ?+ C( ^! G' ~ 沈黙していた趙氏が発言する。 5 u1 A+ R. B' D. L) k 1 r$ K% c$ i1 l G9 K4 p 「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」. B" b- E& H7 g4 E. H
1 ?- l+ g; d+ i8 j) @
「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。 ' r$ B+ G: ]2 A+ U I, o$ a- ]- A3 t8 K
その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。 : f0 }$ u3 v/ t8 w+ X) u 7 A6 o& e2 W, B5 ] C2 t. V トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。, I6 D1 R: [2 k
# c9 K. Q6 \" A8 ]' }0 J/ r オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。+ V4 E5 I4 F* w$ ]2 R6 l
. U5 D( `& b4 |' z2 ^
賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。 A, S4 v, o! r0 C$ Z8 O& i T, p& F7 f% R. q( A
趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」 ( C4 J: b8 `( t2 G& w9 M- y / R- w% U& c" O ]1 f5 Y0 W 薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。 * p- j/ i8 P& k* s2 T: Y) d- I9 C( H# G; E( Y; D6 z
趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。8 x: J, P5 f5 ~6 k5 u
1 T! W1 ~* i* P- }/ z
趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。 [' Z) ?7 ?0 P! r I ' w5 R# ]2 s6 c5 S8 z+ u 「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」 4 g2 z2 Q2 T: [' {& j A1 y! z " u7 x- R9 @1 s 戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。7 }+ _3 i% a7 m0 o* q/ W
" C( x/ _2 Z; Y( W; m- q# V さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。4 u% J; ^. M* U- ~$ w
! I: K3 e! m( i! C 権力者の通弊として、トウ氏も自分の評判には神経質だった。趙氏によると、84年10月の建国35周年に、行進する人々の掲げる「小平、ニーハオ(ご機嫌よう)!」のスローガンを見て、トウ氏は非常に喜んだという。トウ氏の人気絶頂期だった。 k, k9 @4 T7 p! c u }. t7 ? L2 T1 E2 G9 n* k
秘密決議暴露後、トウ氏攻撃が始まり、日々激しさを増す。特に17日昼に発表された知識人グループの「5・17宣言」は強烈だった。中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏が起草した宣言はこう述べている。" \/ l2 u F# w' B6 U; M
2 }( A5 P6 R4 H$ M5 D$ L: [) ~: K 「清朝滅亡から76年、中国にはまだ皇帝の肩書のない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる。趙紫陽総書記は昨日午後、中国のすべての重大決定は、この独裁者を経なければならないと公表した。老人政治は終わらせねばならない。独裁者は引退せよ」 & U* O* a% A O/ X1 j% U; U& n" o; N/ s1 z: v
トウ氏には文革中に紅衛兵につるし上げられた悪夢がよみがえったに違いない。趙氏によると、文革で身体障害者になったトウ氏愛息のトウ樸方(とうぼくほう)氏は「われわれは外出できない。学生にミンチにされる」と話していたという(「中国改革年代的政治闘争」)。 ( d: Y5 E. I' s6 Z7 K : l) ]$ Z3 `5 h4 J 「政権は銃口から生まる」(毛沢東)1 C$ }9 u7 z7 D, _" ?( P6 W
1 |; f1 F- V/ o5 o) h9 V( L
政権を守るのも銃口であることをトウ氏は示そうとしていた。(伊藤正), u0 M1 e0 ?0 L5 T( r
m g1 P1 P; H" l" O: f" g 絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。2 I4 E3 E: z x- I: ~( l) Y& B
. L3 S _7 C1 j- L4 P' `/ j 新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正)3 c) F L6 \6 S! K
4 t' t4 d2 }. f& p' E( N
◇ . C5 ?3 }$ |- n$ A5 A' H) [- I$ O: Y, G3 j/ ]2 L2 j
【用語解説】中央軍事委員会 ; F. Q* E0 @# D& w7 G 9 |9 z. V K+ _1 X 最高軍事指導機関で、トップの主席は軍統帥権を持つ。党と国家の2つに分かれているが、実質的な違いはない。トウ小平氏は81年6月、主席に就任。当時は党副主席で、それまで毛沢東、華国鋒と党主席が兼任してきた前例を破った。87年の党大会で中央委員を辞退した際、党規約を改正し軍事委主席を続投、江沢民氏も中央委員引退後約2年間、主席に留任した。戒厳令布告は首相権限だが、軍動員命令権は軍事委主席にある。 - A, c6 T, E4 `8 }2 o/ u2 b9 T4 k8 d5 M" h
(2007/03/10 ) 9 ~9 h% |* u1 v% i7 u& e) P8 B# R# ?) V* S6 H! N, z7 [
5 E: |( L7 j' T3 \+ D* z# p6 }& Z3 h9 m0 |& |6 T
1989年5月19日未明、北京・天安門広場で学生たちに絶食の中止を訴える趙紫陽氏。右後方は温家宝・党中央弁公庁主任(現首相)
邓小平秘录:八大上将曾发声明反对镇压学生 7 G+ b) ^3 u) q/ O & B7 O% v. x) t; c4 _! `(中央社记者杨明珠东京十一日专电)“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月,当时的中国总理李鹏决定于二十日上午十时开始戒严;第二天,前国防部长张爱萍等八大上将希望透过“人民日报”发表反对戒严的声明,但后来声明遭到封杀;参谋总长迟浩田告知“人民日报”“绝对不准发表”。8 M) R. K x7 l8 }" G0 |" w
% A, w$ m" i f1 Z0 j秘录指出,一九八九年五月十九日晚间,李鹏在党、政、军的干部大会上,预告将发布戒严令的画面,从二十日凌晨起在国营电视台播放;在这项干部大会上并未见到总书记赵紫阳的身影,许多人察觉到赵紫阳的异变,也渐对李鹏起憎恨心。后来,李鹏在国务院命令上署名,戒严令将从二十日上午十时在北京部分地区实施。 7 J; B. x# c5 C( j) i5 b. J4 c% K$ C0 [4 S: X; {
二十日,北京军区的第二十七军、三十八军先遣部队装甲车多数遭男女老幼包围之后折返。对军方颇具影响力的前国防部长张爱萍等八位上将于二十一日发表声明说“人民解放军军队属于人民,不能实施镇压、不能对人民开炮引起流血事件,为了避免事态恶化,军队绝不可进军北京”。 T* X* y6 a6 Z9 _- H5 p" O# `
邓小平秘录:民运对万里的期待遭到出卖1 \5 q+ Q3 X* j
中央社 4 u( z O* o+ U1 k6 i* i; j4 _0 O# l- {& A7 t$ n: e
日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,中国大陆民运人士曾对全国人民代表大会常务委员长万里表示期待,结果遭到出卖而落空,一九八九年五月二十日,中共宣布戒严令后,全无同意学运要求的气氛,使用武力的可能性日益增高。 ( |. X6 l8 P* l# A9 d" I- E' }* @! r4 X1 R; t5 u( h: F& {! e d5 d
「秘录」报导,新华社当年五月十七日报导在加拿大访问的万里发言肯定学运升高了社会对他的期待。万里谈话被报导的当天,北京有一百万人示威,谴责邓小平和李鹏的强硬态度,声援绝食学生达到高潮,中共宣布戒严令之后,民运对政府的抵抗色彩更趋浓厚。 0 h. W p% @( [7 i, R# f6 t, g- n% k* O" T6 U( d( A2 p( q7 F
张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳于五月二十一日经由秘书鲍彤要求万里早日返国,社会各阶层和学生对万里的期待升高,学生计画二十五日热烈欢迎万里返国,但是,这项期待遭到出卖。) E" J$ z9 E: y! w
" E& O1 m- ^: s u 万里虽提早于二十五日凌晨返国,但是并非回到北京而是上海。没有人相信新华社所报导的,万里是为治病,两天后万里表明支持党中央的决定。万里的返国问题显示元老主导下的强硬派正在控制局势,加强对各方面的取缔,并着手准备对天安门广场进行清场。 R* x" \8 e0 q3 a. f' M+ k
: J* U* G$ g) n5 V& {9 r5 c$ l
五月二十三日,北京出现戒严令之后最大规模的数十万人的示威后,中共有关当局下令各部门和工作场所禁止示威,二十四日以后,参加示威者急速减少,中共元老们的动向也逐渐明显化。大陆知识份子预感党中央行使武力的行动已接近,继续说服学生撤出广场,学生也曾决定撤出广场,但是悲剧仍然发生。! K/ G( i/ q {+ f: z. P
# [5 r [3 g4 Z$ {( ]# B8 z5 ^天安門広場での座り込みは続いていた。1989年5月20日の戒厳令布告後、学生側は北京市民とともに軍の市内進駐を阻止していたものの、政府が学生の要求に応じる気配は全くなかった。むしろ政府が武力行使に出る可能性が日々増していった。! a. M$ z9 O2 H* Z% Y
) N1 `" e6 p( T# D" B 2 l' c( y9 Q" }7 J2 R/ @
期待は裏切られた. H, ~! N2 g2 V* M, `+ G n
' _* F' f P4 A9 U ^; X そうした中で、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長(肩書は当時、以下同)への社会の期待が高まる。きっかけは5月17日の新華社電が、万氏が訪問先のカナダで、学生運動を「改革を促す愛国行動」と肯定する発言をしたと伝えたことだった。 / f0 C" G2 M) Q: l# ~$ c ] ; p% A- l ? B" R/ H5 F2 N1 q 万氏の外遊出発前に、6月20日前後に予定していた常務委会議を繰り上げ開催しようとの動きが常務委員を中心に始まる。 , V: R/ @" h3 C' c' G1 C5 j: e9 Z / k# L& [9 `1 d N6 }" D5 X 万里談話が伝わった5月17日は100万人デモが行われ、トウ小平(しょうへい)氏や李鵬首相の強硬姿勢を批判、絶食学生への声援がピークに達していた。政府に対話を通じた事態の平和的解決を促すことが、緊急会議招集呼びかけの当初の狙いだった。7 H: q% d9 }, _& o
/ \- K1 Q/ u% v 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月下旬,中共当局企图武力镇压已迫近,当时避免流血的唯一方式是学生撤出天安门广场,但是要学生撤退困难,结果学生拒绝撤退,中共血腥镇压成为定局。1 w }) B& }1 c# U3 c
' Y" V; ?( n$ X 「秘录」指出,五月中旬学生开始绝食后虽发展成为整个社会的运动,但参与运动的知识份子领导能力有限。二十日宣布戒严令后,大半知识份子主张应撤出广场,结果却未能如愿。 7 ^3 |" c' ^- M9 ` L' c; w; r& S# F8 w( z( J
中国社会科学会历史研究所副研究员包遵信曾在天安门事件后为文指出,北京社会经济科学研究所副所长王军涛本有机会说服学生撤出广场,但负责广场总指挥的柴玲突然改变心意,拒绝月底撤出广场。柴玲的先生封从德则在「天安门之争」一书中指出,五月二十五日晚上开始的民运领袖会议,九成七对撤退投反对票,柴玲只是加以宣布。 ; R8 ?4 ~5 o# R4 l f$ q p6 n+ o* A0 w; j1 B
在学运扮演军师角色的王军涛认为学生若不撤出广场,中共行使武力已是不可避免,开始着手学运遭镇压后,主要学生领袖逃往海外的准备。天安门血腥镇压后,王军涛、王丹和包遵信在国内逃亡,三人在十月底以前都被逮捕,但多数民运领袖逃到海外。 + l j* q0 M8 s% `- j! N 2 \4 n2 l. V; ^ 中共当局在天安门事件后指出反革命暴动的黑色打手「三所一会」,包括中国经济体制改革研究所等三个研究所和一个学会,它们都被视为是赵紫阳的智囊团。「三所一会」直接的罪状是五月十九日晚上发表的声明,中共断定它们和鲍彤关系很深,后者泄露戒严令等情报造成学运对抗政府的行动。但是,鲍彤事后一贯否认这项指控。5 {( X( U6 `0 u2 {. }, p7 }
- F; n& w& C T
鲍彤于五月二十八日突然遭到逮捕,被送到北京市北部的政治犯监狱「秦城监狱」,这是邓小平等元老和李鹏总理等保守派决定武力镇压而进入具体性作战的一个信号。 3 n$ L% p& W0 [# _9 j: T
% z2 [+ h6 W* c9 c) L3 Q% l% X
【トウ小平秘録】(28)第1部 天安門事件 撤収拒否 7 B3 r; Z: E; f6 t- i* s: S0 }+ s9 [: `
■必至だった血の鎮圧 $ n, q9 P4 K9 S6 X7 T6 I 6 e# T* j8 k& Y3 z 「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。 ! o4 m* e( I% q f6 g1 e0 W7 V& s+ q; W: b( \' Q! z
5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。! o0 f6 |3 }- G; A7 b
# Y2 ~, i% n6 [, L
5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。% L2 a5 V1 S! Y: Z& ~
3 N$ B1 A# a+ C- g
包氏「何とか学生たちを撤収させないと」 7 ~. O6 d( k7 Z7 W) v ! j* N" s. c1 l; G 王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」 1 A) G7 x/ r8 a7 y$ b0 U# n( ?7 d& Y$ i7 o3 q
包氏「(撤収は)いつ?」7 ~3 x, u6 \9 w& f3 v4 Y
2 _4 s7 t: o$ N8 S" |$ ?, x 王氏「今月末だ」2 `, e* a" \: a) ? d# n$ x
3 A# d% `8 ^3 d# ~ 王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。 0 j0 e8 T1 k' B. D6 ~# \0 ~/ n' \- K9 y3 x1 v1 ?3 Z7 s3 _( d
ところが、広場総指揮の柴玲(さいれい)氏(北京師範大生)が突然変心し、月末撤収を拒否したと包氏は言う。# ^: W E/ L' C5 Y2 N/ d* z& h
) R/ p3 W. W- H. S 「柴玲の変心についての伝聞が強く印象に残っている。彼女は撤収の主張は、知識分子が広場の運動を左右しようと企図している表れだと話したという。(それは違う)撤収は学生の身を思ってのことであり、全くのぬれぎぬだ」 ! s; s) o2 @9 O; w ) _. k- @# m( S+ S5 D% Z$ T 柴氏の夫で、北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏の著書「天安門之争」によると、25日夜からの広場占拠グループ会議で、97%が撤収に反対票を投じ、それを柴氏が発表したという。数千人の座り込み者の8割は地方大学からの上京組が占めたことも影響した。彼らは強硬派だったからだ。/ r5 `, p; k7 ?( |
6 ~6 I3 k6 X2 m6 k
高自連内部は方針の違いや多額のカンパ資金の分配法などから対立が絶えなかった。5月27日、柴玲、封従徳両氏は、高自連から資金が来ず、運動継続が困難になったと王軍濤氏に訴えたという(陳子華ら著「浴火重生」への王氏寄稿文)。1 e# Q) G/ P& Q* V* I0 o4 l
9 E4 S/ J0 {3 h1 a5 r$ T r/ G( q4 ~ 王軍濤氏は2004年に書いたその文章で、自らの運動経験や思想遍歴を加えながら、89年の学生運動とのかかわりを詳述している。その中で、広場の学生たちの撤収拒否を受け入れた点が最も興味深い。 6 a: j* ]% ~4 A, c& b6 { O* ^% ^' K; O5 _1 ?5 d
彼は文革以来の豊富な運動経験から、学生が撤収を拒否した段階で、武力行使は不可避と読む。しかしこの運動の主体は始まりから学生だった。彼らの意思を尊重しないわけにはいかない。2 \* g% ?4 m9 }2 @" O% ?
: T! @2 o3 q9 L1 v1 t. g
そう考えた王氏は、最後まで責任を果たす決意をする一方、武力行使後の弾圧に備え、主要な学生指導者らの国外逃亡の手はずに着手する。 ) p5 K8 s( U& S. s 0 v- V$ o" M) r. X0 N8 ?5 i- ^ ≪王軍濤氏は、血の鎮圧2日後の6月6日、王丹、包遵信両氏とともに国内で逃避行に入る。3氏とも10月までに別々の場所で逮捕されたが、多数が国外に脱出した≫8 B& m+ x& N I+ R. V$ m e
- Y% e b* F5 Q3 b# l 王軍濤、包両氏の主要な罪状の一つは、5月27日の「首都各界聯席会議の十項目声明」に反対しなかったことだった。 % T" I* I& v+ i5 Z3 a; O& i1 v, x+ D5 J9 e0 |- N/ \5 T! r6 A
声明は、学生、知識人、労働者など9組織連名で、学生運動の過程を総括し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を支持、李鵬(りほう)首相らを非難した上で、全国人民代表大会(全人代)常務委員会開催予定の6月20日まで運動を継続すると宣言していた。- u/ [' ~- I: X+ v1 I Q& e
5 E' q" g E' h* p; i& N5 Y8 q 連合組織では過激な意見が通るのが常だが、知識人グループがそれまでの主張を変え、天安門広場占拠継続を支持したことは、運動の主導権が体を張っている学生にあったことを意味していた。 ) [8 @, E! L s. S & ?. |' w2 U @% n* i7 k この声明には加わらなかったが、当局側が天安門事件後、反革命暴乱の「黒い手先」と名指した組織に、「3所1会」があった。中国経済体制改革研究所など3つの研究所と1つの学会を指し、趙紫陽氏のブレーングループとされていた。6 N9 O: o; I' u6 _; \) e
: i+ y1 \/ o3 W* [0 R 直接的罪状は3所1会が共同で5月19日夜発表した声明。それは戒厳令が近いことをにおわせ、政府部門のデモ参加や全人代常務委の早期開催を呼びかけていた。0 w' ]1 X+ V3 M8 n
2 W6 b [- q+ S+ d# H; f' C
3所1会は、官製組織で、趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏と深い関係にあったため、鮑氏が戒厳令や趙氏の窮地情報を漏らし、政府に対抗する動きに出たと断定された。鮑氏はその容疑を一貫して否定している(回想録「中国的憂思」による)。 8 ?' B, M: t: }/ T1 S' y. ?+ H. ?+ t1 P. ~
鮑●氏は5月28日、突然逮捕され、北京市北部の政治犯収容所「秦城監獄」に送られる。それは、トウ小平(しょうへい)氏ら長老や李鵬首相ら保守派指導部が、武力制圧を決意し、具体的作戦に入った合図でもあった。(伊藤正) ' Q' z# w$ `+ Q ! r1 K Y7 l4 M/ } ■3所1会 中国経済体制改革研究所、国務院農村発展研究センター発展研究所、中国国際投資信託公司(CITIC)国際問題研究所と北京青年経済学会のこと。いずれも1980年代に設立、改革政策を研究するシンクタンクで、鮑●氏が支援していた。文中の北京社会経済科学研究所は84年に設立された独立系シンクタンクで、出版などの副業を収入源にしていた。いずれも天安門事件後、解散。! }4 z) {7 C, [0 f+ |7 D7 V
邓小平秘录:邓已无退路 天安门清场+ n6 g. d* a' R& d. {2 T
(中央社记者张芳明东京十五日专电)日本“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平面对天安门广场的民主示威运动表示已无退路,指示在一九八九年六月二日晚上由戒严部队开始实施清场计划,在两天之内完成这项作战。 # i* C# ? N+ a6 u( F0 s6 I- v i% u/ G/ i- d
秘录报导,“邓小平年谱”并无记载一九八九年五月二十一日至三十日的行动,张良编著的“中国六四真相”指出,五月二十七日,中共召开元老会议,决定由江泽民接替下台的赵紫阳就任党总书记,除江氏外,李瑞环和宋平也升任政治局常委和李鹏、乔石及姚依林构成六人体制。江泽民于五月三十日被叫到北京,三十一日被邓小平任命为下任党总书记。# I ?3 W Y# `" U# V; ]1 L
元老会议两天前的二十五日,新华社香港分社主任许家屯在中南海和国家主席杨尚昆会谈。杨表示赵紫阳后任尚未定,但不会是李鹏。他并指出,邓小平表示已无退路,决定选择戒严令,动员军队平定动乱,希望许家屯支持。许一时不知如何回答,随后表示即使动员军队也不应流血。杨立刻表示,不会有流血事。: a* M, P i: ^' N
+ m& l. P. n+ I
“真相”报导,二十七日的元老会议,就平定“动乱”作战讨论实施时期时,杨尚昆主张不宜再拖下去,但绝对应避免流血。陈云主张虽应极力避免流血,但五月底宜解决问题,邓小平也表示不可再拖下去。* \* N7 r& S# u
2 H$ |& D9 y) H; b, k2 D
五月三十日,中用美术学院学生制作的“民主女神”树立在天安门广场,受到市民瞩目,但是静坐的学生已减至五千名,在大学重新开课之际,学运由于内部分裂而逐渐消失。北京师范大学刘晓波等提议展开接力绝食的持久战,) b( N0 \) s) Z0 y
9 h. Y3 M, g+ o* W% f
包遵信在著作“六四的内情”指出,他本人反对刘晓波的建议而王军涛则表示赞成。六月二日傍晚,刘晓波和台湾歌手侯德健等四人开始绝食,广场恢复了失去一段时间的热烈气氛。$ f# y2 S7 [6 }+ c
: B/ b8 H3 x" ~2 H" w' v1 y“真相”指出,二日上午,邓小平等六名元老和李鹏等三名政治局常委召开会议,李鹏说明天安门广场的现况后,元老们激怒,首先放炮的是王震,要求逮捕反革命份子。李先念也强调一刻都不可再拖,提议当天晚上开始清场。最后,邓小平表示赞成大家的意见,提议“戒严部队指挥部今晚开始实施清场计划,两天之内完成。”4 ^+ D, r. F+ d% h
/ N1 m+ @$ E$ R( e$ i' `【トウ小平秘録】(29)第1部 天安門事件 平定作戦 % b. _6 p6 [" b, X F& h/ u; U■既に退路はない ' A8 c3 Z0 e P& X- x p7 A" a" _; B4 i
トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。( f8 }6 |# M2 c: E; g l5 s4 C& c
" H5 o+ h% F: ^0 O* [8 x% m' e 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。 ( H7 v* E G4 \3 W" z/ F; \9 k. X# |. T# L) N
そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。' R3 Z0 Z7 ^9 o+ K) b$ x$ M
4 ?4 |3 t8 }$ W! M" L5 x 政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。 9 e& a% s9 O% m1 Q1 L9 f- ], J6 ?1 D' c6 |% Y* u9 N# d: l
この会合の冒頭、トウ小平氏はこう話している。 ( N% c7 c* x/ W6 T3 C# z6 c8 [, B/ t* J8 o- Z
「新指導部は改革・開放を真に実行し、人民の信頼を得なければならない。改革・開放を堅持すると人民が認める人物を大胆に起用し、われわれが誠心誠意、改革・開放を実行する気だと人民に感じさせねばならない」' V1 y: T+ g$ @7 p# c, k
/ t7 Y1 i9 ]. L% ?. O
トウ氏の頭は既に、動乱制圧後に飛んでいた。改革・開放を継続することで国民の信頼を回復する。それには、不人気の李鵬氏ではなく、「新しい顔」が必要だった。 . O! u; O% d' V ?) j, V ' ? `2 o% T2 i4 f3 m 江沢民氏は5月30日に北京に呼ばれ、31日、トウ小平氏から次期総書記を命じられる。トウ氏は続いて、李鵬、姚依林両氏と会い、改革・開放を徹底、腐敗を撲滅し人民の信頼を得るよう話した後、次期総書記に江氏を決めたと告げ、一致協力するよう指示した。3 f5 x( j$ R) Q) C
, g8 q6 i) u/ J" I k5 Q3 y J* o3 g- f 《「トウ小平年譜」は、李、姚両氏への講話を掲載しているが、江沢民氏との面談の記述はない》) n6 n5 i, c# |
邓小平秘录:六四悲剧是学运卷入权力斗争 1 H: T8 x# j8 i, Y+ A1 s2 q4 _5 e+ n) K
(中央社记者张芳明东京十八日专电)日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平推动改革开放,但坚持共产党独裁的毛泽东遗训,天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败运动被卷入中共保守派和改革派之间的权力斗争,而招致最后的血腥镇压。8 |7 z/ l" `' D
, B- A6 Y, r. g$ | \. o) K" Y. T
「秘录」指出,一九八九年六月的天安门事件今年将届满十八年,中国不知道「六四事件」的世代增加,北京市民也将当时的体验关闭在记忆的抽屉里,中国媒体在上个月刊登邓小平去世十周年的特别报导都未提「六四」,有关人士指出这是中国报导管制的结果。2 l' S2 o' ^9 R( O O) [4 ]2 F+ @4 A
# }2 N0 s% }" Z: V" g0 y& g0 j6 a邓小平在天安门事件后的一九八九年六月九日接见戒严部队干部致词时指出,这次的风波迟早要来,那是由国际的大气候和中国本身的小气候来决定,不是人的意思可以改变。 1 M4 F3 f( }) p7 H( p: J% A ; C* k6 N* y- |7 x( M3 ~邓小平所提的「大气候」是指一九八零年代后半,戈巴契夫的上台加速苏联和东欧的民主化及政治变革的潮流,「小气候」则是指中国自一九七零年代末期改革开放以来,政权内外升高对同样改革的要求。" z6 D: D( M6 m' e, I% d# I
& C6 o k, y5 T! [
一九八九年东欧的社会主义政权相继崩溃,一九九零年苏联也放弃一党独裁,次年苏联瓦解,但是,邓小平与内外潮流背道而驰,以武力粉碎民意坚守一党独裁的社会主义。他在接见诺贝尔奖得主李政道时强调,中国包括共产党领导的四项基本原则,指责胡耀邦和赵紫阳未实行而犯错。& m- s( J- S' R0 X1 w, J# Z
9 Q- ^$ I( o! u) Z' x s B
邓小平推动的改革开放政策是以市场经济化和国际化为基本的经济建设,与毛泽东路线是不相容,但是,他坚持的四原则就是毛路线,特别是核心的「共产党领导」的一党独裁是毛遗训,成为保守和改革斗争的种子。 / N4 e* J1 V4 {6 y/ B ' |( ]* d: ~, i. o1 |! g* S) f一九八零年代,中国的经济和社会出现激烈的变化,人民意识思想倾向欧美,但是一旦发展成为对党的批评,邓小平和保守派联手以四原则为盾牌展开镇压,为的是坚持政治权力和生活特权的金字塔型党统治制度。( n; M5 O) t( e' E# b4 o
4 J6 Y' R8 G' t- u0 w) T 1989年6月の天安門事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。 / Q, {; c/ m9 C2 I, j2 y/ S4 ? n/ A8 y
胡錦濤(こきんとう)国家主席(党総書記)が2004年8月のトウ小平氏生誕100周年大会の演説で、「80年代末から90年代初めの内外の政治的風波」発生時に、トウ氏が果たした貢献を指摘したことは本連載記事で既に書いた(2月15日付朝刊)。 ) ~+ X& t4 M0 G6 c& q 5 Z( _% \3 o/ T" E6 c: s H2 q トウ小平氏自身も89年9月16日、ノーベル賞受賞の米国籍物理学者、李政道(りせいどう)氏との会見でこう述べている。 8 x6 s0 a }& k) M1 R 3 I3 [ A M+ Q2 r, D$ o8 P 「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻)4 d1 U0 ^0 b3 o3 e
6 n' r( L1 a' U! K5 @
その結果、「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。! L I7 _8 M# q
+ X) \6 {6 @' r3 r* } m
トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。9 n* \# u' J- ^" W* ^
6 K* |2 ]( |7 C: t5 {. A. v3 Y
「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」 . j! }/ ^+ r$ s8 Y; K% W5 Y- I. Z! ]" B+ U4 ^- @
「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。& B5 B( f4 n7 @- B _# ~: G
0 O2 i! `' o! B" h" ?+ R, E$ q- N& P, m 89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし、一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。* t/ }" R' ~ B/ Q; b, v& `
5 Z7 C; m8 ~) C6 p
トウ小平氏は先の李政道氏との会見でこう話す。 $ K7 D$ ~. ]1 f 7 i% o$ ]8 u/ t( }1 Q7 e$ u 「過去2人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。4原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」6 H4 z m5 i5 U/ v1 P1 [( S1 o
( @- x9 W- w- ~& L* b; a! z, v◇ 3 R# I" Z2 _" r9 v ; t) G& e% c8 F3 p毛沢東遺制は守った0 ?. N" _' ?4 Q) i. N4 a
U ^* h# D: d! _
トウ小平氏は天安門事件(1989年6月)後も、87年秋の第13回党大会で趙紫陽氏(天安門事件で失脚)が読み上げた政治報告は一字一句も修正してはならないと強調した。報告は、中国の社会主義を初級段階と定義、経済建設を中心目標にし、改革・開放と4原則堅持を基本にするとのテーゼを打ち出した。これを「1つの中心、2つの基本点」と呼ぶ。 0 J/ S# j# K' J+ i& v- K' N8 e. F- {. H9 I8 E
改革・開放は市場経済化と国際化を基本に経済建設を図る方策だが、それは毛沢東路線とは相いれない。ところが4原則は毛路線そのものであり、トウ氏が4原則の核心として挙げる「共産党の指導」、つまり一党独裁は、毛遺制だった。相矛盾した2つの基本点を並立させたことが保革抗争の種になった。, g0 q% y( C6 M- G
* Z7 M7 |) m# d/ B7 C) A3 E: H 張良編著「中国『六四』真相」によると、学生、市民のデモが「老いぼれ独裁者はやめろ」と叫んでいた89年5月19日、トウ小平氏は楊尚昆(ようしょうこん)氏にこう話した。 : a; i/ j; d4 D: {1 Y& o$ C8 x, f) ^/ ~: G6 C5 _4 p& x2 A
「わしは年を取った。老いぼれといわれてもかまわない。だが、この年にしては思想が保守的だとは思わない」 8 Z; f1 p6 N2 y0 O, @0 P# O8 v/ Z& E
今日の中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。 6 R1 N' p( ~: ]8 ]9 b4 ~# p* ~. H0 s# R
しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、4原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。6 m; m+ S! d# L- L8 K
% e& i* p' o6 ]- q" v0 }/ c1 b その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。7 F9 b |, A3 J3 H" I5 [+ Z# E
# b: p+ P0 e e, q5 s
89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。4 P4 `" L7 T+ B, x+ A
8 c6 `& R8 c: D4 h3 Z 天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない。1 A Z7 d4 M3 E1 g8 L
/ R: {3 S$ N$ f9 R トウ氏がなぜ武力行使を決断したかは、まだ検証すべきことがある。第2部以降の課題にしたい。2 Q. g, S b5 i: W: s/ J2 Q$ H
]& p) D) s1 u: f9 e# G
(伊藤正) s/ E7 V3 S0 A
: C0 b- _8 z5 w1 N" |
=第1部おわり. S" t" Q3 s% ]5 P. ^5 n1 d" V/ j! Z
# m* `& r' U2 W5 ^; v h
◇% y8 o3 _$ z/ A8 e
3 |9 x U. i: ~% i
■伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。" K. g# W% C' |% y- \$ }% ^
) {2 p: l2 T# n# N4 B9 j8 {
(2007/03/18)