中央社东京十五日专电 - B" z' B! a9 p6 H) w: D/ k- v5 }% X x" }- Z( E
日本产经刊登「邓小平秘录」序言 ) I5 p8 ?3 V8 E8 \% o% D
日本产经新闻14日刊登「邓小平秘录」序言,揭开预定从15日开始连载的中国已故领导人秘录的序幕,这家日本报社将分成6部分进行连载,由分析邓小平镇压中国民众的「天安门事件」背景开始叙述有关邓小平的秘辛。 " k, U' D- k, N3 {# t5 \, k7 X& a, w7 i/ D4 L7 `$ |( m$ R( O3 K
产经在序言中简述邓小平的生平指出,合理主义者的邓小平和孤高自持的革命家毛泽东成为对比,邓小平在遗言中显示,不愿意重踏毛泽东的覆辙。他在1978年主导的改革开放政策被称为中国的「第二次革命」,毛泽东发动的大跃进在1960年代造成好几千万人饿死,邓小平则同意农民的部分个人生产,他著名的「白猫黑猫会抓老鼠的是好猫」,就是当时的名言。 / \( \3 d( a+ s. D/ E- R6 e' m6 f4 |( T! T5 i r) Q9 O
序言指出,中国在邓小平的改革开放下,以计画经济和公有制为支柱的社会主义原则逐渐被破坏,引进的是资本主义原则和手法,中国人民从毛泽东晚年时的物质贫困和精神压抑下解放,追求丰足和自由成为第二次革命的精髓。 . a) T- i# ~. a, O$ ?/ T% o3 ~* N0 O. _
文中形容邓小平是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的「一国两制」,成功恢复对香港的主权并作为呼吁两岸统一的武器。 Y1 n2 s" u6 e; V8 s! m( F
+ f% y* ^' \0 `; g 序言指出,邓小平的一贯主张是,迈向「共同富裕」的步骤是让部分人先富起来的「先富论」,这种主张一方面为中国带来急速的成长,但另一方面也造成贫富悬殊的扩大和腐败的蔓延,「先富论」产生的矛盾已成为极严重的问题。 : y, o7 [) a. z5 P$ o3 g' R# P
邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭 ; C- U+ [/ {/ M7 Q S7 V / V& S' d' [4 I; ^3 }2 h日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。 ) @% G4 `( x; f% U) a- o3 |+ \/ O
文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。 6 w! Y Q# N* D8 v% d3 P1 Q; ?* t' Z
文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。 4 ]" I; ^) c* ?7 g' q( F% @( h: d) \% O/ J0 f9 `- M% y( x
拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。3 f, k& h7 X2 A8 w% h( K: S; t; z
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胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。+ ?3 ^! g% ]. E# B
9 P3 F; R2 v# D& G% v3 ]' G9 c 「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。' A. m Z' H5 u& i$ I7 L# S" V% s
7 R4 r1 C$ j! U+ d" d. E. V 根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社1 q* X! F4 b6 o
; `: q/ R7 _ |% y' P( G, p【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ ' M5 s5 U; c! e3 t $ c# G& q* X8 O; R0 Y中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。 4 g! W, H" L6 I: m. j 0 i1 \: F; N" [ その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。 T. A) \9 Z8 s6 t$ {* P9 K
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国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。 6 R# a" W* N- D/ r 8 j6 X: s7 M; d0 \ 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。 ' W/ U7 S. H: y1 m1 c! { ! ]* b$ e- o) j2 v( G. ] 長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。3 u x2 v) O# L Q8 Q5 y0 W) u
) y, p7 Z3 U' I7 U4 K: E これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。 1 W: t& Z) V+ F, ^. Q, e8 D. w, e: e' X. K: [8 H$ y
「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」 % t/ a3 \, y3 o" H $ L9 |1 m7 T, ? 「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」( z! o0 z! b9 f! u/ [7 {; t
/ l% b- M! ^ l6 }' X" R! e 同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。; F. M/ {7 z3 {: x: M( b! H3 L2 [
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「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」( ~7 H. }1 X& i$ }; d" O
2 ^0 t1 B1 t% U) v# ]; P: q 王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。$ p+ P# A7 J8 |2 r/ k# v9 s( p" I
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≪胡耀邦は声上げ泣いた≫. s6 Y! K; x7 Q/ t/ O3 l3 y I
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)' Q& a: J! K& a( i Z2 h
& P2 Q# { b1 }* L 胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。 ) b5 Z7 E2 P& l7 m " W* X' P! m7 c% R1 I 胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。* R1 s7 U7 |* K1 U1 u; b- F
5 e3 X) v0 ^ V 「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。# ?9 o# _6 Y5 O6 I
- s' U, u, o+ |( { その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。% ^! `, g5 |' u: ]8 V* m
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「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」) # f {, E2 Q! g: j- z$ L- z4 R o6 j" W+ c6 p( A- u# `& x
趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。 ' r9 V( G; u# z O; _: m$ k! H8 L9 u 「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」)& K& @ d8 U, j# w' b5 E
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生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。 - l9 x6 O' K( }# r & ^( J9 j* X. n5 d7 w% S* w# O それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。 $ y" A# y5 m; @ M% _* q: e! i* S& L8 q& o4 S. |& b$ j* ]: o4 S
「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」 6 }8 q2 h& {5 V ! b1 e- {# |) g4 g A" R8 G! O0 B 採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正). n# |4 \1 A6 Z6 s
$ d3 ^9 ~. {5 |4 ~" J- i改革へ深謀、トウ・趙合作 3 ]4 \* H% \9 y% R `4 D' F9 P7 M h
対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。% E0 ^0 i! r) H- _/ L$ J
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党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。 0 r4 s7 _- H5 M' U* e" m$ J% X$ n ( [: G, ~, b$ A- v' d/ b/ C6 Y トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。5 T8 d, \$ V5 B( V; Z C! L: _
; Z {. X* N, B/ {1 L- n1 C トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。 . |7 \* B- K0 Y1 Z 2 O" I8 d* G+ `) |. a! J# L& c 党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。" j4 T6 R8 u+ |0 H% b/ e
5 i% G8 A: R. d/ [ C) M) i) A トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。# l3 u9 q0 u3 `, i0 x T
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その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。 & R& t5 x) m1 a' X! D# s T" Y7 k$ o$ u. M' z
≪長老たちは引退せよ≫$ M c: j: x% O, E
; j4 B; A5 l! ~$ o8 f# Z" ^: X 胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。' i/ L/ j# w- _5 H; N7 j9 V
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トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。. z$ a! Z' N9 V$ U2 F
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「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」: x* {9 t) K p( |2 z
# i- t3 x0 y: F! Y$ J3 R英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》 0 k9 R1 m+ I4 z I0 K上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。 . f+ i' D6 D# {) C, Q6 o4 L# ]- T1 y; \( q/ J
不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 " G; K" P7 ~+ T9 I, R , C* V4 P2 @; ]" |5 a9 C" ?$ C 她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 - W9 `$ F5 U' j; C. r
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邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” 5 Q& }& k; H7 T' p$ n( R9 ?$ L$ E1 _
生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 ' m2 w. j, @2 B0 x6 Q6 Q, b ' F% x; v. y1 L9 v! v0 G2 Y, w 邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 + U& C$ N0 X" [" O9 c2 X* O, C) J& w8 r
她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 4 k1 A% @8 U$ Y* Z' e, {+ J : [) ]- j- `# a! i* U 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” * V: ]+ o0 L3 @% D' u
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在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 6 o3 T/ b1 Y. b) t, E , B: h6 Y% L, q! ~7 G0 c1 k' T 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 3 s3 P+ @5 h# ]( }4 I* y7 r6 I. u8 d% _- C- s |8 e* W3 I; t& z
香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” ) P! t5 G" I# b2 ]/ B& ^3 v& Y$ |7 _: T, `. g9 D: s/ w
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他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 6 u9 f1 t8 j3 @/ z
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在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 % c9 J: ]! _* S4 G- o; `6 B) o9 r# E: H% a
邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 9 X& q1 @' ] ~7 j% L# c% j. u# h 9 W' _0 m+ a* _! S* V( s) a. g0 B \$ j2 K# P% s
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China honours man who reshaped world . a5 c8 P3 f% W' G! c7 _" }When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. : }( j( E# A- N, g {# o' e 2 F0 Y7 \, t) m; Z, G3 Q7 i' [# ~China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. : l$ D3 [6 ?' ^( l" n; l* n$ \
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But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. ; e; Y4 Y4 r# @# S: z8 {9 Q- [! s \0 V9 E6 [
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. - M* q- q3 p6 |, Q' o! L0 z ; j7 l* k$ X- M( F$ l5 o2 ~& @“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” ' [% r; h- T S# M) c( A7 ]9 a1 Y% v
8 x% B0 D- \' ?" Z& i2 Z6 W; F( E2 yMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. 9 ]$ n0 i9 h9 ~
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Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. + c" @9 r M! ~9 h4 S/ x3 R
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” . J$ B2 x5 \6 }! D
& ]1 x/ P% H' l# T+ X9 @ s2 i6 {9 lNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. % ?: H7 x9 A. C y) D+ O3 Q
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Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. % A: j' q7 h8 F1 ]) a( r# M
. a5 M6 _2 \" v* N4 o8 H5 z4 ?David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” , k) ~6 V u i8 ]: Q! Q8 N' w# L- J2 d, S% `* A
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 8 i- R2 |0 \1 E) m8 E: E
/ i0 k% d- q5 d' }1 P8 uMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 9 b7 k0 J( T9 Z3 m( J9 c & ]+ }5 ~$ ]6 n2 AMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. 3 n* v9 u) b2 m' z3 F * ^% Y$ f. [* O# O7 zBut he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. - x/ @+ W& R! y2 m5 U
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His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” & `/ S& B9 T# }9 J3 l2 ~1 p' u& t4 c2 \3 @% M
Long road to riches0 p; D$ p' n% T8 D9 l5 i
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Population in cities: 550 million ; S9 k7 w9 F( ?" j: ?
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Gross domestic product: $10 trillion 6 E, l, ?' T; C+ e2 j - ~- Y `3 |5 V4 o. d5 r. TOil consumption: 6.5 million barrels a day - D8 B; C0 @" ` % t) I: c+ L' ]Exports: $954 billion % W( d% C) H ?; G5 d ; E9 e3 E/ E: O2 F' D2 iPopulation below the poverty line: 130 million . w7 G% R( |7 L* o' }# H9 H( N+ M3 y# N/ B! h1 N) H6 [( r
Ten years ago; F. Q6 z! h4 i
* `; o* g7 z, K6 l 2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。 % D8 c& |9 X M! v, Q8 G . p, w5 v/ q) C, u' K) N3 n' _ 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年) & ]- k2 A8 C) T7 R4 ~ 8 I0 A' r9 C: Z( h. W V9 Y この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。3 Z) `* ?# E' Q8 d/ I
7 v$ q" Z# E r$ Y3 ~ 趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。 J+ R% L4 y) p* p' M9 q) L/ D3 _1 x
中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。' P, a/ V! a% g! S3 O
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しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。/ S& t: l3 o! ~0 _
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この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。) ^: M, j e+ y. {; h. {
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しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 2 [5 Y6 R6 l4 O o1 m! N . o/ A% w. Y [; j3 V$ I ≪パニック買いが起きた≫# r3 S" ^3 R; Y
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ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。 M$ @* H& W* I# S5 Z
# B$ M3 C f" t1 r! k 趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。* p' W- f' Z' \$ x
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「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏)- Y8 r, |" a! |" X9 `8 g$ ~5 A
# _0 N6 _( h3 r9 i3 S$ o トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。6 y# E, Q4 L9 B; b; |
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当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。 ( j; |7 o' o& R. V3 Q7 S" T9 J. J' e9 I* _( Y$ q; P
5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。 ! ~% Q+ e& r4 ]( t1 t/ G7 p: \* m3 m- ] l
当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。 & N! ~+ m' k& a6 S. u5 M 9 M$ @0 n9 ?4 f9 g% H6 m その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。 * v/ V4 @% Y2 _ & R1 F9 w9 W! t( ^7 Y/ \4 Z ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 $ Y5 O% N5 f6 [- [8 q8 Z 8 P0 r& S& ^4 n/ H 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正)( {" w2 A/ y$ L: ~9 ]
& L" h6 L+ j: V: g ◇ - J' d$ y: O( M2 `( S1 s, ?5 A# g$ E; j; g8 ^" Q
【用語解説】3自1包 # t- ]1 y+ ?( M' B* ]3 m0 l5 X, j4 R; \- O: Q, _/ u
自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。 ! z0 j1 Z V d1 t) y 5 ^0 v ?5 X7 @: X0 b ◇ & w& o: W0 s3 w5 x+ q) ^0 `4 e( U. X* o+ B7 W9 n$ ^) W
【用語解説】北戴河会議 - Y. V% [' F$ Y! k" @7 J/ Z* J1 l- G0 l$ n0 L0 B. j
北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。: M- e2 z M B0 A
改革风波造成赵紫阳地位动摇 ( Q1 ~" E( r- ]) S5 x' h1 ~ 9 I8 ~( c, ]4 H, `(中央社记者张芳明东京二十三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八八年夏天,中国实施价格改革引起的风波造成党总书记赵紫阳的地位大为动摇,保守派展开把赵紫阳赶下台的行动。 ) C: s; a |: p. f 5 W" P }- u5 ^文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。 8 W1 a D0 C& Y9 l2 z8 T当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。, `+ F, S; {1 K( S' N- d
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“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。 4 t' ^- x; m( x8 P7 b8 w " I" [5 s3 n( G赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。 $ d. ~( A0 `' E8 o4 W. b, { 5 v8 }; ^! |% E1 q% A7 \5 ~“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。8 `5 i4 s* h2 c: G
?4 b$ R9 S. \/ h. t【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点 ; v i% B4 M3 |- [2 \' ?4 ?0 f1 s/ m% `! |, X- k( h
1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。 6 x9 j; E3 n% S % s5 g$ W5 y" m; W" H 「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話). H' O7 b' Q6 r( |
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「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で). b' x W( \* o, V2 E& v
6 ^0 s" g& Z. ?# e/ |- d \/ {5 n 「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に) 4 P( |) j5 D7 j% _/ F; b, p3 M& h! Q
価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。1 B$ i8 y8 N( o: t& J* o
n* Y; Y) m1 e0 c/ `, C* T それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。 " V2 ^9 K3 b5 Z! E. X8 l* W$ u; F/ k+ V( s3 u2 f
「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。6 `2 g3 x- | n- K/ o
+ S# G C/ ]7 Y 姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。 ; R/ f9 f# k& H3 q7 V$ e: l" s8 d) e! ]! n, [1 I3 ]
「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」# U) D& p% E/ _' }* S0 H& l4 L
1 w' k! q% f% d4 } u" }' P" J 「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」4 a) P3 y! Y& z5 O8 M5 ^+ S& g; Q
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10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。/ e, d; X6 |* U4 o2 S0 m9 X
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「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。 8 d6 f( h+ @0 C i6 E X/ k% g! h" R2 Q& m# [( w
改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。 ; d: [9 w8 N2 U' s O ' b; Q( L# C5 t" d: U# r6 O ≪空白の2カ月半に何が≫$ ^) z$ ^9 p1 [( G% ^1 R: N$ {) l
( u* n j3 x+ a' E
「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。 " ~( b. E$ I4 X1 \1 ~ 6 W$ E( v% X! H$ ^2 Z% T5 O, Q, Q8 f この間に何があったのか。6 l8 ?- `& K: [2 U2 ^( ]& U7 v
' ^* \- j' B2 R I' ^, Z9 o2 e. i トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。3 a/ V5 L: t8 b, t2 C
5 r! y4 I1 {8 i2 I( b( [ R 趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。 + E) ^8 ?' v- i0 ?* P+ P ; @9 u* G6 q9 |) j* u$ p 新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。" W | K% G# x1 h7 E
. J! ~9 ~* `- k7 W 学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい) 7 N4 n1 u. _4 T9 q( m8 a3 j 9 O% f3 y7 a" I2 I1 n5 ~ トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。 ( G! |3 {# i `/ d" k 0 y- _# l. B" ?& N このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正) 6 h9 {2 A u/ y1 {( E, p ! ]: B* ]1 s3 l, _ ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。- i1 f* }! L2 v
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(2007/02/23 07:54)
/ E ]/ O7 y2 `5 j这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。 5 B. Z6 l1 F5 | 4 i: A9 U. r4 Y2 z当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。& h2 \% q& l! Z6 {
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十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。 " ^: V. y# k. t7 L+ ` : W/ w4 l0 ~. A( T( l【トウ小平秘録】(12)第1部 天安門事件 悲劇の序曲■マオタイ酒瓶が問題に 5 z/ ~! h$ M* u F/ J% t1 ?2 R. R8 u1 G( ]1 c: R
1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。 9 }5 ]' N7 `9 T5 s# S9 t$ g7 ~+ @. P* |) i* U" s
胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。 8 P5 n. m& m8 [; e; l) v) V7 n: E7 @: N ?
「やりたいんだが、難しそうだ。前夜から呼びかけてはいるんだが、本科生の多くは尻込みし、中にはわれわれに空き瓶を投げて抵抗する連中もいるんだ」: V# W" ]+ k# @" t; m: _
* n6 }" ]6 c! L9 w 当時の大学生は全国で1学年60万人前後、現在の10分の1ほどしかいないエリートだった。世の中は「向銭看」(金銭第1)に変わり、政治のにおいがする動きは敬遠する傾向が強かった。 0 w" r5 w+ E% }3 G: i1 r5 y$ ^6 w/ A. I' J$ I# w) |. A
トウ小平(しょうへい)氏がこの年2月に訪中したブッシュ米大統領に「絶対的多数の学生は安定を支持している」と述べた通りだった。(このくだりは「トウ小平文選」にはあるが、「トウ小平年譜」では削除されている) 5 u& h3 \4 h& `8 G( I/ N1 c % D& S9 Y; j; D それが翌17日に中国政法大学の職員、学生による追悼デモの後、一変する。デモを組織した1人、呉仁華(ごじんか)研究生はその経緯などを2004年に出版された「浴火重生」(明鏡出版社)で明かしている。8 k+ P4 T7 T2 r
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「胡耀邦の訃報(ふほう)に悲しむ若手教師の間に、天安門広場に献花する考えが生まれた。16日に花輪をつくり対聯(ついれん)(哀悼の対句を書いた掛け物)に『耀邦千古』(胡耀邦は永遠に)と書き、マオタイの小瓶をつるした。それを校門に飾り、『献花参加希望者は17日午後1時に校門に集合』との無記名の張り紙を出した」 , \6 L7 f6 { U0 j% I3 O: b! l/ X3 Q. c. R0 N
六、七百人が徒歩で天安門広場に向かう。「途中、インターナショナル(革命歌)を歌い、シュプレヒコールを続けたが、胡耀邦追悼と民主と法制を要求するスローガン以外は禁じた」という。沿道の市民らが列に加わり、5時ごろに広場に到着したときは四、五千人になっていた。' O) }6 m3 X, x* e* y+ W5 d
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呉氏らはトラブルを回避するため、人民英雄記念碑への献花後、インターを合唱して解散する。後にこのデモは「反革命扇動」の発端とされる。「英霊を祭るため」花輪につるしたマオタイの小瓶が理由だった。小瓶は小平と同音で、トウ小平氏を侮辱、攻撃した、と。5 d- _1 z* }3 M8 W9 O5 u1 b
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「その夜遅く、北京大学構内28号楼付近で突然、食器などを打ち鳴らす音がし『デモに行こう』との叫び声が聞こえた。三角地に行くと、1000人ほどの学生が集まり、熱気であふれていた。28号楼の上階から巨大な対聯が下げられた。『中国魂』とあった」 * E4 A9 x% W4 L* @" }& j) X1 @: R* {3 A5 d8 K+ t* I4 R7 Z
当時、北京大の博士課程研究生だった李進進(りしんしん)氏は、「浴火重生」に同大のデモ開始時の模様をこう書いている。 ) D0 t7 @% A; @" c6 n! T: h* s/ t* R; b/ { H0 a" ~/ ^$ ~4 J7 C$ r
北京大の1000人は真夜中に出発、天安門広場に到着したのは18日午前4時ごろだった。途中、人民大、清華大の学生も合流、数千人の規模になっていたが、大半はほどなく当局側が用意したバスで順次帰校した。4 v7 h x m) F( ^( ^/ K3 ^! v
* y# q: a$ _3 I |6 r* k" Y2 w しかし200人ほどの学生や研究生は残って、今後の対応をめぐり熱心な討論を続けた。その結果、全国人民代表大会(全人代)常務委員会に意見書を出すことになり、胡耀邦氏の再評価など7項目の要求がまとまる。3 M, i4 ~2 J: I$ h
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そのとき、学生代表に選ばれたのが、以後学生運動の最高指導者になる北京大生の王丹(おうたん)氏だった。王氏らは18日午前8時すぎ、人民大会堂に入り、全人代常務委事務局に請願書を手渡すと同時に、常務委指導者との面会を求めた。 V* I; A' h! l+ x# q" N
9 `5 h+ Z+ J1 I% u 面会が実現したのは18日夕だった。劉延東(りゅうえんとう)常務委員(現党中央統一戦線部長)は請願書を受け取り、「全人代に手渡す」と述べた。 6 Q) `9 d3 Q/ k' R7 D, W: i 8 Z8 P1 M' F$ e" D5 E% ]1 ^5 V 「それで一段落したと思った」と劉氏と面会した李進進氏は書く。しかしそうはならなかった。 ( \, S% t; B+ s! Y0 c6 g1 Y/ D/ \/ ^5 t
天安門広場には続々各大学のデモ隊が押し寄せていた。やじ馬も加わり午後9時ごろには2万人近くに達し、人民英雄記念碑の台上は人でいっぱいになった。4 S( w- U7 y3 t$ o" ?0 m
& |; N$ B+ k, {& R9 U+ D" V 北京の動きが地方に波及するのに時間はかからなかった。上海、天津、西安などで胡耀邦追悼の集会やデモが18日に始まる。特に西安では学生デモと警察との衝突事件も起こったが、北京では混乱はなく、スローガンも胡氏追悼が基調だった。 & q0 I$ Q1 q! i2 D # a% |+ T5 J4 I2 y& _$ b' g それが変わる最初の事件は18日午後11時前に発生する。約2000人の学生が中南海の正門である新華門に集合、李鵬(りほう)首相との面会を要求して突入を図り、警備側と衝突したのだ。悲劇の序曲が鳴りだした。(伊藤正)' P4 g1 i" ]- r3 P' s
/ N6 o$ h& q8 c" r ■7項目要求 (1)胡耀邦の政治成績の公正な評価(2)「反精神汚染」「反自由化」運動の否定(3)国家指導者とその子女の資産公開(4)民間新聞の発行許可、報道禁止の解除、新聞法の制定(5)教育予算増と知識分子の待遇改善(6)デモ規制を定めた北京市条例の廃止(7)今回の活動の公開報道(要旨)0 C0 S, }: w" i# w/ {/ h
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(2007/02/25 ) ! k. @5 d/ D+ p2 P* r, R i7 j2 t R$ D9 V! a z2 L" G
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邓小平秘录:赵紫阳对学运乐观未防备保守派 8 X, ?+ _ p6 q& G. g$ g9 o) ~, }( [8 V' l
日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。 & F' d4 _; D$ ?# b- }7 h) S! B& E- X" M Y# p+ P4 S/ ~
文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。 % K0 d4 y5 m) P/ N1 P - l! n* _* l9 Y( \8 Y; x 根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。 W( z7 y# s$ @6 l2 f* t! j5 [
' u$ |) i. `! `6 |1 J 两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。 8 W `8 K s! Y3 t " M% A3 f; K4 c2 t 十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。% q/ \; D) \1 M# V' }4 v: ~
3 y U6 C; a5 E9 k 十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。 * V1 o- h2 j( K3 W2 c d. J o! N \: y- H5 U& R' `
二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。 2 _8 g7 O8 _9 @& S/ Y+ a T- F$ }. \! `' N' [
这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。+ J4 ^9 E, K3 y9 C, n4 w$ ^9 q' S3 ]
9 N* L$ i7 |# u* U2 ?, L. P% e 由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 3 q6 ^( Z, W6 d1 w$ U0 K3 j
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! R1 T H' P/ s2 m3 X0 ]" {【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件% l2 p5 M6 g+ T+ a0 }8 g
1 _, u1 S1 Y2 |. L8 A9 w8 n T■下心ある者を警戒せよ # |# @- G( X& h" N / Q# A7 c" W% c! i4 f( e. c 異変は、新華門事件から始まった。 ' T+ |5 w' T) F3 _& N& Q/ C" F9 i2 l4 T9 K: N! O% m
1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。, M8 e! T# W; r1 H! v
7 C6 \% k) m8 x7 u それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。+ q) t# ]% m! T6 s
& @6 V; c) f) l8 \( e8 U2 f7 X いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。 3 p% `1 m B5 P* v! I$ V7 _5 m8 R 8 B* S0 a. q( x; f" p( I どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。- R. ^" P4 M# R4 n. o
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当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。 & S* D, ^3 \- ~' q6 h9 } & U2 V, a. M o& `. u0 k% s 楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。# u& f9 _6 z: ?& |# k8 N; t9 N
' g$ Q# m/ G$ K2 w/ z g( C まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。 & k( I# L# Z; V 9 m+ z" ^; Q/ e B D 党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。' s6 _( g9 S3 I( l8 q m. k* S3 I6 A
`, T" u( l$ I# [8 b7 s% k& _4 m 89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。 f }6 w, L) R6 }' h
6 c: g. J! d& | Y; K 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。 * X1 |# \$ W, z8 t9 _ : u. R# A d% W/ I; u& X( {7 T) W) ^ 4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。$ r' X5 N5 ~+ ^2 ^2 k. {+ ~' Z
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この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。 ) `2 ^7 b8 X4 |, o ! u1 J$ i$ s3 `2 i" X 「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。 3 V$ M+ \- d/ h4 U$ S9 H# M $ ~ J! W7 E/ z) z F. m 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。 4 C8 q. {; F- J6 h& Q2 H4 j( n N1 o( j5 m0 I6 u f( g
全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。; |1 a/ n3 a4 d) Z/ C9 q
- `( [) P6 X( R この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。1 _ `/ ]& Z* d: u6 u& R+ B
8 L1 v; X1 [; l2 y" X: I 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。 - Z& |+ {. z7 H8 s) z+ t) k% |" l* h e
保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正) 9 S- Y" j& w# ?8 U8 k1 m: W( @/ I5 w. b2 C
■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。 6 X- _! k$ K% H' F 2 x" \! a# i9 Y: _* r1 U(2007/02/26 07:41)- j0 q% ~* k$ }% h7 U
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$ [0 [2 f5 L# G v& a 3 C2 N: f$ |2 \1989年5月9日、北京市内で「新聞(報道)界の良心を声援する」との横断幕を広げる学生たち
邓小平秘录:中共掌握王丹与李淑娴「谋议」( D6 J: O+ q; m8 z! o! u
中央社 1 m" m1 Z% {( V + i- e& ~# h( ?9 f* E$ Z. S 日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,中共保守派在学生发动示威至爆发天安门事件期间都一直认为学生背后有黑手在操弄,计画颠覆社会主义政权;中共资料显示,公安当局严厉监视学生运动领袖王丹的行动,并掌握中共宣称的王丹与方励之夫人李淑娴之间的「谋议」。 6 ~4 s( K4 ?/ D' q* b, O( B/ G7 P" \# }/ c1 q$ f/ ~/ J" L
连载文中指出,在一九八九年四月十八日示威学生与中共警卫冲突的新华门事件后,中共保守派元老对学生极为愤怒,他们的不满传至最高领导人邓小平的耳内,邓氏虽告诉当时的总书记赵紫阳将出席胡耀邦的追悼大会,但视情势变化有可能缺席。结果,邓小平后来现身二十二日上午在北京人民大会堂举行的追悼大会。 ; G: W& T% [* E7 f! @9 d4 ~0 Q4 B$ D r8 c, E' x1 O
中共保守派在学生展开示威运动后至六月四日的天安门事件期间,都一贯认为学生背后有黑手,有意利用学生来颠覆社会主义政权。但是,被指名为「黑手手下」的知识份子中有许多是在五月以后才参加运动的,而且是为了要求学生停止绝食抗议等行动,他们的行为和主张「有关当局捏造(不实指控)」大致是一致的。( M' q, H' B' @3 f4 g* R
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秘录指出,四月二十日,党政治局员宋平和副总理姚依林面谈时指出,过去数天的学生示威已有明显的征候,天文物理学者方励之的行动非常活跃,学生的背后有部分另有居心者在操弄。 , k" ^! I5 P8 { / \( ?: e. o/ j+ x; c [3 M 文中接著指出,当天为止,方励之并未有与学生示威直接关联的行动,公安当局掌握的是方励之夫人、北京大学副教校李淑娴和北大历史系学生王丹「谋议」。 ; Q! i+ E" b' e2 E 3 z* A9 n' `3 f! h; Y0 N ` 北京市党委会在天安门事件后发表的「制止动乱纪要」中指出,胡耀邦死后两天的十七日,李淑娴在北大和学生讨论,呼吁发动示威,示威组织的中心人物是王丹。王丹于十八日上午在天安门广场演说,拟订包括恢复胡耀邦名誉等七项要求交给中国人民代表大会事务局,这些要求是事前和李淑娴商量后才决定,且事后王丹和李淑娴还相互联络。 + J. e" `8 k$ w( x5 b( q( m: i( R7 D" [1 g8 u0 L# s
秘录指出,王丹和方励之夫妇的交情很深,包括一九八八年设立「民主沙龙」等,王丹受到方励之夫妇很强的影响。由「纪事」可看出,王丹受到有关当局很严厉的监视,但是,他并不在乎,继续发表演说呼吁示威、罢课和成立北京各大学的联合组织奔走,而成为学生运动的领袖。特别是二十日以后,随著大学之间的合作而提高保守派的警戒。# f% ?3 e6 k% r. U9 m
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赵紫阳和保守派相比则显得乐观。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳的改革同志田纪云副总理在二十日上午和赵氏见面,指出不仅北京,连地方都有不稳定的情势,建议将预定二十三日的北韩访问加以延期。! `( p* n9 }- Q" u6 z
" w3 m* H) ]6 T. Z 赵紫阳回答表示,他虽曾考虑延期,但若改变日程,将会让外国怀疑国内政局不安定,因此决定照原定计画访问。赵氏于二十三日下午如期搭乘专用列车启程前往平壤,到三十日返国期间,中国国内情势已出现重大的变化。 " M+ c( X0 E. W4 C( G3 g2 e% D" m% g. _1 D4 f$ m% ^0 Y
【トウ小平秘録】(14)第1部 天安門事件 追悼大会! y# m) y2 G) f8 E G3 K) S
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1989年4月22日午前10時、北京の人民大会堂で故胡耀邦(こようほう)氏の追悼大会が挙行された。トウ小平(しょうへい)氏はじめ党、政府、軍首脳や各界の代表ら4000人が参加、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席(肩書は当時、以下同)が司会し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が追悼演説をした。& w, p0 _' B: H, q A# `( r
3 k* [3 d& t7 ~9 l. M 演説は胡氏を「偉大なプロレタリア革命家」と呼び業績をたたえたが、「偉大なマルクス主義者」は使わなかった。2年3カ月前の解任事件にも触れず、学生たちが要求する胡耀邦氏の名誉回復はなされなかった。「ブルジョア自由化」の罪状は重かったのだ。 1 {) F! j- C# }" |1 a4 m2 F, X+ t2 s% i4 c$ Q- f& T
北京市はその日午前4時以降、天安門広場への立ち入りを禁じていたが、学生たちは前夜から数万人が広場に入って座り込み、胡氏の遺体への告別を要求した。当局側が大会の実況放送を流すことで折り合ったが、胡氏のひつぎは学生たちの待ち受ける東門ではなく西南門から八宝山革命公墓に運ばれた。 $ I1 k, s, M* S- p ( I1 z5 {1 D S/ e* T. j5 H4 z0 z 追悼大会に参加した人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は著書「六四内部日記」の22日のくだりにこう書いている。 J% t2 Q; k4 A' \# y
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「(周恩来(しゅうおんらい)追悼大会に欠席した毛沢東のように)トウ小平同志は来ないと思っていたが、トウ小平は毛沢東ではなかった。夫人や子女たちも一緒で、とても上機嫌に見えた。が、大衆の間の声望は以前の高さには遠く及ばなくなっている」! M6 }/ Y% z( [, U+ _7 ^' l
9 [: P+ _( p1 L6 n' r9 d$ V- r トウ氏は、追悼大会出席の意思を趙紫陽氏に伝えていたが、その後の情勢急変から欠席する可能性があった。張良編著の「中国『六四』真相」(明鏡出版社、以下「真相」)によると、学生デモが拡大するきっかけとなった4月18日の新華門事件以降、保守派長老たちの怒りはすさまじく、その声はトウ氏の耳にも達していた。 . p( t! @7 Y' q# Y6 s+ [$ N. ?7 ~: ]( Q4 J# H# J2 T! R
長老たちは「学生たちの背後に黒幕がいる」(彭真(ほうしん)前全人代委員長)「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」(トウ穎超(えいちょう)前政治協商会議主席)などと、学生運動の背後関係に注目していた。姚依林(よういりん)副首相は20日、宋平(そうへい)政治局員にこう話している。 ~8 p7 Z8 J/ W: h ( I0 J. p& K D+ x8 [" I n# v* c 「今度の騒ぎは一部のブルジョア自由化分子が早くからチャンスをうかがい、(社会主義政権転覆の)計画をあたためていたものだ。彼らは学生の愛国の熱情を利用している。ここ数日の動きから、学生デモが動乱に変じる可能性がある」% i+ {2 Z1 r, p5 j8 M9 m. h
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これは、89年6月4日にクライマックスを迎える天安門事件の全過程で保守派側の一貫した認識だった。事件後に当局側が主張したように、社会主義政権転覆の陰謀はあったのだろうか。 0 H% O5 V4 U6 A8 c, j( C$ M6 g, y6 E! Q
「黒い手先」と名指しされた知識人の多くが運動に参加するのは5月以降であり、それも学生たちにハンスト中止などを説得するためだった。知識人たちは「当局側のでっち上げ」との主張でほぼ一致している。 $ h2 g; p0 L# O& t# P % J" S9 H' N3 k R' {2 t& N& B1 t この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。 , L# P4 l% Q: p. j/ T. B( W. M0 Y, i, K/ Q" ]! o3 N% l
しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。 , k R1 A" I* I) e3 P; u# f9 M2 j
北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。 : Q0 C; W ~0 g- g3 |+ _0 S# B: O* H" Y* y
王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。& e; F4 N" w7 n9 _9 k& `
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王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。 5 B+ Q% W# i3 \$ A$ Z* S' f/ t 3 k" m* O( A: i5 t* u9 X" n2 h それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。* u$ f* H: H8 T% s
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それに比べ、趙紫陽氏は楽観的だった。「真相」によると、趙氏の改革の同志、田紀雲(でんきうん)副首相が20日午前、趙氏に会い、北京だけでなく各地が不穏な情勢にあると伝えて23日に予定されていた北朝鮮訪問を延期したらどうかと進言した。それに対し、趙氏は言う。: \9 N5 l6 B9 V+ z
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「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」5 q: R6 F% V- _8 S1 P: G
) Z0 N) Q, d) e# Y 趙紫陽氏は23日午後、専用列車で平壌に向かった。30日に帰国するまでの間に、国内情勢は大きく変わっていく。(伊藤正) ; y" {$ R; R+ |3 l. } 9 ], H$ b7 {3 ~/ r: j3 I, l◇+ ^7 y- ?& o* v/ O3 |& M- t
邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对+ u, h. R0 p' _9 `, N5 b5 c& P3 {1 H
4 E; Y$ d- E! O(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。" Z, P' `8 i+ R Q2 ^3 ?
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由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。1 c( k/ p& W* h/ B6 A
“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。6 f+ j. G s6 V* a/ a4 A
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“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。: g% ?' k' c( D: s/ j+ V
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另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。 * y2 V. K1 C5 Q; C' ~/ C; N) b9 R+ \! n+ f8 c/ W* \1 ^) k; d3 v
“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。5 C0 }& L2 |: }& n
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“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。 0 F5 N4 L: s, }7 y# Q/ }. C. A 4 c$ h6 x$ `" b; T5 I& R于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。 1 L. x D. m) t : F Y& Z0 M% n9 j6 J& s不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。2 q! `) c m+ l$ m0 h0 t
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“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。 % Z2 ^) |3 W I! y( }% ~1 l7 x+ i3 c6 @% ~$ u
【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 ; F& R% f, z8 g
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■指導力 試される " K3 u( Z% u% v: \" ~) h* T( L+ Q' { ; y* b& ^- W. A 1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。 ( w1 b& G0 W9 o8 d. ?) M' H 3 e$ ]) P: D+ w3 b* n( W9 Y 23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。 . J8 @' Z3 G! O, `4 e4 W8 u7 R& s5 [5 N4 [0 P9 {8 ~
「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 + D* \/ C7 _, e# m
. ]* x3 C3 D- Y1 o, c( E q4 w2 m 「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」7 p! m* A% e/ D l9 t0 L
, R# I0 w7 v5 G' M6 w; U$ X 5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。: Y, D) C4 h$ C" R1 W
9 c3 `0 y/ A% P5 N6 L' a 趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。 ; Z+ c4 h% z2 [9 i9 a' e& ? ; @- c' B# g4 e 会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。" Y$ G9 T( }, f& |1 F% O2 C9 M+ g
9 @( W: l: R. x. | 一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。 ! N1 K, \1 ~ w0 r4 F ' ?# {$ L7 G. Y% m; }/ r) Y1 ~ 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 " `& o. Z$ o+ ]/ c: f0 A, C* r1 V% y2 w5 ~: T
趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。. D) z3 \! D/ b4 Z! ~/ d
% C: b6 u* d; y8 M
「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。 $ ^9 V4 L! N: ` 3 s$ H2 E, E6 D6 ~7 ?+ g 「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」 / T* J8 x( e% @9 v; \) d& i2 p+ e9 f. ~! a
中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。 5 z" ?' Z* V2 \& I+ u% T , y0 m" v% {9 M9 \7 l0 F 趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。5 y& |8 O z+ ]: U F
" }; z# B+ `: c3 c' [
「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」4 _) h( i% a/ e4 A2 F) Z7 ^
8 t, l5 N$ }/ y/ z* }5 @% t 「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」 3 R m, M( n# q5 W8 @7 d% Y; A( q; ~" {" o
張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。 , m o* S9 x6 @6 K1 h! E8 o2 w1 \& A
党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。$ J; a: q, h4 c9 s: p* ]+ l9 s
7 b7 @4 j1 i: z' c
最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。4 U2 d# D8 }) T4 ]/ X7 L; ~8 F
# }* a" O0 l; a, Y 9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。8 a3 {2 c& @" O- X
, }$ M9 m, Z4 B
人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。1 m, @( F* r+ o1 x# B! ~+ \
: [: N: q$ f) A# G1 [) F しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。 / Q6 U/ O: U" ]6 } ! b+ A0 o$ t9 I4 `* v$ Y) ? 陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。; L+ I- {: z0 t+ h0 f8 I) H! i
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そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。4 o! A1 ~8 y% k, \: G0 O7 r) k
7 F( V; z5 C$ j0 x
それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。% f. p$ f: W5 H
+ y9 a; H+ h( @0 M! Y, {* d* F: r 「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」 4 i/ _' [3 J+ d" T, {8 `- \* Q . C& H/ A% g7 L. K そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」; v: O3 Q; i) u7 R$ G5 f
; y7 r* `) \! E# S. M
トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。 7 v2 n. e! F& p1 V 1 ]& T& Q# [, l' _& } トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。. p' V8 y! N! r2 \9 X3 M8 D* e
1 G( @) N' ?$ E* W5 ^. u4 s3 V/ [ 《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》 2 _4 K. f0 y+ ~3 K 5 F1 _, y. V6 |: n) K トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。& g+ v$ D+ A5 `! S/ F
( X8 n. _; a7 f; V3 v. ~" S 彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正) , y1 y# \5 ^3 _+ L+ S8 G' E3 l9 v: J, ^6 \* v1 A# R! D
◇ 6 P' O% _- e( N. D2 n2 H) J$ m8 J$ C9 s5 S3 c
【用語解説】中国青年報 + X% e& }) A! ^ V! W) W. C. ~1 L8 W6 W7 _2 {6 M
共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。( J, I; ^: S+ U& W% N
9 Z; ?; n% S# B3 }7 l) u2 G
(2007/03/06 )9 Z* v' t, C% _4 p7 T7 j- `
2 _) J, X, N4 X- i' I+ s 作者: 日月光 时间: 2007-3-7 10:31
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口+ ^6 Y2 Z! P( {0 h1 c& B# t
中央社 6 ?) G$ e A7 p: n& O# } 0 J: m0 B$ x# M3 d- U 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。 2 T) O. k2 u6 R- E8 Q6 U, n- u% d4 T" ?8 l2 s) Y) M
「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。 & F7 U7 H5 i6 g( y1 j, T( m; R; y& K J
「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。 3 w+ d1 P4 M8 m/ v/ Z) F ) L' n$ o5 @- u) S 王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。 ) w) ?3 ^ y8 c, W0 \# { 6 L" i: o% C+ q v+ |8 M- R6 E4 p$ N% R1 u6 J) F5 X
但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。2 a; R* ~$ @5 k" Q/ E
: ]7 V) _ h1 `5 ]
王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。, M& E! T7 t3 m5 D3 ? ]: a( j0 l' v
w% J; n l7 L8 T# m. w# H# g$ z. f 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。 , R; u9 I3 v, O2 k4 l; D) F% Q7 o* T) y- C2 r e: q
就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。% }: @" x7 p2 c' @" y/ c& Y% t
; ~8 j7 c( H$ R& ] 邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。 ) |) A9 T. r0 a( H9 X) k y& B 7 `- [% r, S* K! b3 \& I2 t 对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。 ; X, `4 u) x$ v A' w! I7 s& H1 J4 |) U; l9 s! G* M
学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。 / `9 z; b( x. a/ j4 }1 Y , V: g, x3 R8 p- J # [8 [+ y0 w, e& ?: r7 ]【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言 v+ s2 U6 C0 g0 m; e
( \4 a: A1 D& F4 G- ~, r■急進派が押し切った ; S( h3 k/ V, k' `5 {$ X, g; n' T) C' s4 P. S0 m: d
1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。 # R' ]( |# y; d! d4 m# c. c6 _5 y6 I8 ^4 a, D& F
戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。1 Q: x4 U! {* D. V! I2 h
1 V. M8 F3 Q7 l7 S1 c/ _0 ]* X 李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。" B; I; ~" B$ L6 O8 z
8 N8 g! ^2 H9 K% L, g, S
14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。 ' a6 f' B- [+ q( M 1 u# {$ {0 @# @: B7 Y! K 政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。3 Z% ~/ j( t) Y0 V' w
0 c' e6 \ M) k 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。8 F8 C0 e3 O0 T% s" c
' w+ ^7 z( q- l G* |! y それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。 * i. Z1 O- A4 V* H. p1 B! L, w: ?+ x" S8 Z5 E# }' v
趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。 4 N0 O; ?8 h) { ?. Y% G$ j4 }' K2 l * |" u: g' j2 i- o* } 14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。" A S) t4 w8 y; O* a3 _# h# i
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絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正) / E7 P3 R5 ^" ^+ Z. `$ S/ e. c& W# {/ ]) \. `- u+ k
●=彫の周が丹 1 p6 J+ b2 t3 T$ X7 I, \* ], z& ~, p5 y! b2 q* T) c
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【用語解説】中国社会科学院# E/ W6 z" V7 @* D3 U
5 t4 Z% S+ b. L1 g& a! m- d$ ?. e: T 中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。8 z' \3 e3 h( D7 {. C) P% ]
邓小平秘录:保守派主张不能对民运让步 % ^; |# r/ y) N: ~- i& p , n3 y: y, }8 U/ a(中央社记者张芳明东京九日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月十七日下午在邓小平家召开的党政治局常务委员会扩大会议,事实上决定了北京宣布戒严令和党总书记赵紫阳的下台,赵紫阳在会上反对戒严令而表达辞意,显示他看清戒严令将导至动武。 ; {0 M2 @/ z% i7 q! Z4 \7 V& y/ b6 p
“秘录”指出,与会者多数表示,当前的情势极为严重,绝对不能对民运让步,和主张撤回或修改四月二十六日人民日报定位学运动乱的赵紫阳的意见对立。会上决定对北京部份地区实施戒严。2 G/ m6 {) V( Z8 x$ E
" c; G9 d( D5 y. T3 s+ H对赵氏表示理解的国家主席杨尚昆在会上指出,若让步将造成堤防溃决。邓小平表示宜下戒严令,并征求与会者的看法。以观察员身分出席的薄一波提议表决,结果李鹏和姚依林两票赞成,赵紫阳和胡启立两票反对,乔石弃权,邓小平的一票具有了决定权。1 j( Z8 s+ d2 C' @# p4 w6 Z: I2 E
6 \8 v O; M5 i赵紫阳在会上突然表达辞意,薄一波和杨尚昆表示慰留。十八日上午,赵紫阳和李鹏等前往市内医院探望绝食学生后,赵回家写辞呈,但杨尚昆仍然慰留,拒绝收件。 ' p* a7 H- z3 ~; H N h2 g: l0 s
赵紫阳在一九九一年对友人宗凤鸣指出,他的辞职是不想在历史上留下丑名。他的发言显示已看清楚戒严令势必造成动武。他后来在接受访问也承认,向访中的苏联共产党书记长戈巴契夫透露“邓氏是最高决定者”的党秘密决定是造成北京下戒严令的导火线。 ( k3 v- z( N2 m: ]. N* O/ m0 ~- [- J- a2 d1 h6 x
党秘密决定暴露后,知识份子和学生对邓小平的攻击一天比一天激烈,邓小平想必重新忆起文革时代挨红卫兵批斗的恶梦。毛泽东指出枪杆里出政权,邓小平也示意经由枪杆来保护政权。 " i1 c: j. h: Q- ^ # i- j7 a. v* O6 [【トウ小平秘録】(24)第1部 天安門事件 趙紫陽の失脚/ M7 e. j; a) Y3 i0 w
% j2 ?0 Q4 ]# g' C6 ?9 @9 s L
北京の戒厳令と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)失脚が事実上決まったのは1989年5月17日午後、北京中心部にあるトウ小平(しょうへい)氏宅で開かれた会議だった。「トウ小平年譜」は政治局常務委員会拡大会議とし、こう記している。7 f4 \# b" I& o& a' W0 r) B1 o% V; x' R
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「席上、多数が当面の情勢は極めて重大であり、決して譲歩できないと認識し、譲歩を主張する趙紫陽の意見に反対した。会議は北京の一部地区で戒厳令を実施することを決定した。トウ小平が講話を発表し、常務委員多数の意見を支持した」 g. x/ t1 K9 S0 Y/ {& @
- ]" @8 R, ]+ u7 y+ k# q2 s
文中の「譲歩」とは、学生運動を動乱と定義した4月26日の人民日報社説の撤回ないし修正を指す(以下のやりとりは各種資料による)。 ( R5 Z6 d2 @3 C0 t2 g1 L$ A1 h! y2 k+ i9 U0 p W+ T
会議では趙氏と李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相が激しくやり合った後、トウ氏が口を開く。 & X! D* d1 [$ M/ [; M3 t1 j 8 Q" q4 s: c: f5 ?6 p* Z( v 「紫陽同志、君の(学生の民主化要求に理解を示した)アジア開銀総会代表への講話(5月4日)が転機だったな。あれから学生の騒ぎがひどくなった。本日討議すべき問題はただ1点、われわれは引くべきか、どうかだ」8 m7 N, G6 H( G3 w
9 I" N" P$ K0 e3 ?# C4 Q( H5 c
それまでは趙紫陽氏の柔軟路線に理解を示していた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「ここはダムの最後の堤防だ。譲歩すれば決壊してしまう」と発言。他の出席者も同調する。 # u# e7 v% b- E+ ]2 ?3 r " O0 ?5 h. Y2 k+ h トウ氏が言う。2 O! h& y: X2 [+ n' u! X
5 u6 I; [+ y2 ~( W, z 「このままの状態が続けば、われわれはみな、捕らえられてしまうだろう。引くことはできない。戒厳令をやるべきだ。みんなに考えてもらいたい」6 d }- {2 k+ k: L( q
3 M% b3 q5 x8 p6 ]2 _# N
沈黙していた趙氏が発言する。 ; p; P: C9 z' [1 E4 h; n 6 R+ m0 ?% D; p( p- f# \3 C- V 「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」1 z: u" p' u ]3 a
0 z, p- R3 K' t/ D* ?/ L 「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。9 ~" A4 O* e, }& J$ V, G! X8 j: _/ J
# Y: J$ s+ M- D, F3 E4 |
その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。% @, m5 R7 h" f$ t* s8 m6 q4 v: T
* M# y" P1 ^1 U. X" d
トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。 1 u: q# J7 @% H( b) O4 \) w1 |4 ^, P! |) H5 m
オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。# j a2 L. l3 k2 C/ I' e) h
; S8 ~2 i/ r |: o6 W8 K! y
賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。 ' e" [% J- j% @7 k K, J+ r# b# s, S& @! }4 k0 f) D T7 \8 z
趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」* T& i* U3 ~. L
3 z3 @$ ]7 b4 i* z! K2 e
薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。 / A8 i! _6 f' U9 t1 n/ M9 {3 z3 d , ~; S1 _! O' \! W" {) K 趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。1 |/ K' n* J8 U* b: U
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趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。' `9 ?7 {( F( A7 U7 U- W& N3 y
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「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」 , N( j+ {2 P0 P( B# Z+ L: D' {/ q; f5 s( H! E* l
戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。 ; N6 t! l N1 F0 a4 g; d; G& {/ c 3 b' e$ o0 ]% b" E! R さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。, F/ E* ~! s5 y
邓小平秘录:赵紫阳向绝食学生抱歉来迟了$ B5 V! E% O! @. R3 w F
中央社8 z; f: ?% B+ d1 y0 _
! x4 B! i% r) |* | 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。 7 t$ w$ P! J7 P% j% ` ' {1 A: g& U3 ~7 W7 g4 W 「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。 1 ~$ C& G, ?' @9 o) q+ a / S5 e |+ t4 ^- e4 s# g. ]1 H% E 张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。% b w+ A- d( T! W' E: _ a
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天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。 - R5 f2 O( F" |: | ; u2 U. Y/ M, m+ m; T% C 学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。( u& w2 C+ V) @, ]6 L
& C. s) Q$ Q2 V! Z Z 「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。 % T$ b4 [- o' i; a5 a. b3 q% T/ @: D. a6 {6 f, j
担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。4 @$ z4 b _9 j# `
邓小平秘录:邓已无退路 天安门清场 - v: d3 R) L1 i* J(中央社记者张芳明东京十五日专电)日本“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平面对天安门广场的民主示威运动表示已无退路,指示在一九八九年六月二日晚上由戒严部队开始实施清场计划,在两天之内完成这项作战。8 f7 L" K5 o! j* U8 V
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秘录报导,“邓小平年谱”并无记载一九八九年五月二十一日至三十日的行动,张良编著的“中国六四真相”指出,五月二十七日,中共召开元老会议,决定由江泽民接替下台的赵紫阳就任党总书记,除江氏外,李瑞环和宋平也升任政治局常委和李鹏、乔石及姚依林构成六人体制。江泽民于五月三十日被叫到北京,三十一日被邓小平任命为下任党总书记。 L+ S1 D! C5 T* D& y7 W2 [
元老会议两天前的二十五日,新华社香港分社主任许家屯在中南海和国家主席杨尚昆会谈。杨表示赵紫阳后任尚未定,但不会是李鹏。他并指出,邓小平表示已无退路,决定选择戒严令,动员军队平定动乱,希望许家屯支持。许一时不知如何回答,随后表示即使动员军队也不应流血。杨立刻表示,不会有流血事。 & m, c( y; |# Y% g9 u" M; z 2 j; x& h/ ?* L1 R# O“真相”报导,二十七日的元老会议,就平定“动乱”作战讨论实施时期时,杨尚昆主张不宜再拖下去,但绝对应避免流血。陈云主张虽应极力避免流血,但五月底宜解决问题,邓小平也表示不可再拖下去。 * K+ s3 P) {5 H- B- J% r0 U3 K0 G4 g
五月三十日,中用美术学院学生制作的“民主女神”树立在天安门广场,受到市民瞩目,但是静坐的学生已减至五千名,在大学重新开课之际,学运由于内部分裂而逐渐消失。北京师范大学刘晓波等提议展开接力绝食的持久战,3 u% `/ M9 s% h. y1 s2 S
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包遵信在著作“六四的内情”指出,他本人反对刘晓波的建议而王军涛则表示赞成。六月二日傍晚,刘晓波和台湾歌手侯德健等四人开始绝食,广场恢复了失去一段时间的热烈气氛。 ; _( @& O& P' o- _ 6 x$ W6 ^! t- I2 F* s& ~$ t* H# d“真相”指出,二日上午,邓小平等六名元老和李鹏等三名政治局常委召开会议,李鹏说明天安门广场的现况后,元老们激怒,首先放炮的是王震,要求逮捕反革命份子。李先念也强调一刻都不可再拖,提议当天晚上开始清场。最后,邓小平表示赞成大家的意见,提议“戒严部队指挥部今晚开始实施清场计划,两天之内完成。” 8 T- K$ I6 ? k- B$ i0 M ( |; ]* u( l8 @【トウ小平秘録】(29)第1部 天安門事件 平定作戦 4 f2 z# g* V" v% \! u5 w. t: ]# ~■既に退路はない 7 D# X/ _8 p5 U: }
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トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。# \& Z0 k, `" U3 D9 _: l
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張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。 ! H/ S# L! x/ ~' ]' a4 ^ 5 J- b1 k) y5 \* D( @( j そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。" ~' v5 G& G- ?! T
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政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。 / m; G8 \! ^0 z' l 8 I/ U' N* K! g' V この会合の冒頭、トウ小平氏はこう話している。# L' C" ~7 f) I
& b: U8 L; R+ H. |7 d, k& X 「新指導部は改革・開放を真に実行し、人民の信頼を得なければならない。改革・開放を堅持すると人民が認める人物を大胆に起用し、われわれが誠心誠意、改革・開放を実行する気だと人民に感じさせねばならない」 / K. b1 k4 Y- a: }& x3 F, N, R* |' M @' V" q/ F) N& y
トウ氏の頭は既に、動乱制圧後に飛んでいた。改革・開放を継続することで国民の信頼を回復する。それには、不人気の李鵬氏ではなく、「新しい顔」が必要だった。) G* w; G, D- {" u% l. a
8 |! k! j, |4 O T 元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。 9 `3 f. Y, k! V q8 R& f; ~ ( ~# C2 B' l+ r& Q2 U 「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」( L# M8 w& T# X; j3 s4 b; T6 g* u# k9 Z
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広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。 . z2 C6 U% a- d* I) o/ q. w/ ^. F4 Z! ~
「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」 6 m2 C- I4 Z: |6 i1 ]# _ / ^$ h- f6 C1 _; _ 1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。! E8 Z6 x \; h6 V0 \! }3 U3 @
; i3 w7 ^( h: N% F% C 身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。3 }1 c7 c. E9 g* |8 J8 T2 g `- q
% Y- Y G" Y9 u0 _+ c1 W しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。 0 N* W: c+ {8 s, e; e, B* k ~( I8 X+ m; g5 k1 x4 L0 K5 H
トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。. ?. v4 s6 D" H; X) e' a p, u
, X! E9 S! E) D$ q0 X6 g. [* e+ k1 v 天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。 5 e9 k Q4 v6 I2 V; {8 `$ ~ ) S4 O; D$ V7 B- p8 E3 S- }4 l2 O 計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。) }2 k$ F. L6 c' v3 @* Z
4 P* N) n4 U6 [8 N3 T" G その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。! U4 ] \( z4 A! Y y# }
3 S [1 W. P1 O3 A3 M トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正)" I6 o# K: y2 q* J% |
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■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。4 m1 H# Y. o9 _. e3 A3 X+ s. ^
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, x9 O4 }# f" M! x# r) @$ F0 o第1部あらすじ " b) y& v: P" U2 F8 F ( c' O* V7 C; M& t. S; `% z 死者が少なくとも数百人にのぼったといわれる天安門事件(1989年6月4日)は中国現代史の大きな分岐点として後世に伝えられよう。 4 |0 U$ p i2 m' ~; @. x6 z , \6 b# r( v: B 「トウ小平秘録・第1部天安門事件」では、トウ小平氏が、なぜ人民解放軍を出動させ、デモを続ける学生や労働者らを武力で鎮圧する事態に至ったのか、背景を掘り下げた。 ; U. G0 R' c r& ]9 p; I: P2 S2 C+ H) ?6 m5 l
89年4月、急死した中国共産党の改革派指導者・胡耀邦前総書記(肩書は当時、以下同)の追悼集会を契機に、北京の大学生らは天安門広場で集会を繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。党指導部内では強い姿勢で臨むべきだとする李鵬首相・長老ら保守グループと、対話による解決を主張する趙紫陽総書記ら改革派が対立し、深刻な権力闘争に発展した。 7 L& h" d" E, H0 c, i! j; k 6 c7 C- _& |! G6 m" l 改革・開放を推進し、国民に豊かさと自由をもたらそうとの思いを抱くトウ小平氏だが、天安門事件で自らの路線の執行者である趙総書記を切り捨てる決断を強いられた。改革・開放のためには国の安定、つまり一党独裁の社会主義体制堅持が不可欠と考えたからだ。8 T) P/ G4 f" {* w+ D
) P0 M/ f1 s* M; ` 前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。4 }: z7 Q; z& _$ f3 z
2 `# J2 E. e% v4 |6 E6 e6 z 「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」9 j" A" ^6 ?% X8 D% M! S: N) B8 d* b
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「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載)# B( L d% _. [. U
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天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。 X6 M7 o- T- V: |, q! d
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雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。$ @3 d7 r6 F, P/ r/ X6 \) M. T
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しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。/ u# w/ A- @, T
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その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。 2 z7 }: f- p9 t! I% d1 @* Q$ m0 b' C! D
米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。. [8 R' j3 l9 a/ k5 |* P
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米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。+ k, z8 `6 Q* H. T) G& `. O) q3 k6 U4 ^
& A0 S7 `5 }6 |/ ]% }4 Z" A 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。 1 ^) e/ D8 ^5 O, e1 V1 d# W& V6 M0 S( u; C. V
79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。9 u+ L( q4 `3 o8 p
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7 c0 H6 I' {) E/ x1 n! W% r. K弾圧も正当化される % K0 P: k$ ?7 K/ t - e; `. |1 p2 v- Q# \ 外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。9 X1 s5 l4 v5 r2 h
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後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。 - G2 z0 h2 T: {- G3 X9 [2 A/ }" h 4 n: `6 W9 ^# r" k' c+ p 理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。5 U8 o% D; F) `8 l
' d% z$ J! D) v6 e 「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。3 T7 ~ v. j8 A9 N
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そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。$ T; h0 ?: ~7 {, b
6 ?" y6 R0 b7 D0 d3 R3 n0 _ (1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。 i8 g3 T" j- G
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これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。 6 [, ]1 |; l$ v: L% o, {- c# q2 Z: _* ^) _
理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。7 ]; p/ n0 ?, Q5 Q) C
# a, t3 B+ J9 l2 ?9 P 天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正) - c" U# n2 v) D0 w! @. V e9 U( Y% R; d9 O
■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。 - p4 E9 A( M u3 ?( t 7 E! ?' S" q7 r6 S0 w- C8 Z) S+ Y+ l4 n# \2 s; P6 o+ T- z
●=深のさんずいを王へんに , W d2 e# n" b# v8 w, w M 1 k) R, G4 @1 i# ?$ ]* D9 y' i天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時) ( p# {) H5 W& S" v: _" V7 T2 Y8 H* G! A3 l, ?+ y
# d V( [3 a! l" Z1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した
【トウ小平秘録】(37)第2部「南巡講話」 米中秘密外交 3 j4 U& v/ D7 |5 `- l. [5 f2 Z 3 M( Z" F- y' |. d■へたな妥協はできない ' A1 ?2 F' X3 L. }6 i" R7 r5 N& g+ B* { M3 H; p( O
米国の対中政策は、ダブルスタンダード(二重基準)とよくいわれる。1989年6月4日の天安門事件後、ブッシュ米大統領(現大統領の父親=肩書は当時、以下同)による対中秘密外交も例外ではなかった。共産党政権による最悪の人権蹂躙(じゅうりん)を声高に非難しながら、その政権と陰で手を結ぼうとしたのだから。 8 @- T9 ^/ M, Y 7 G ]! v2 Y' P* E8 @7 X3 [9 K 当時、中国外相として対米折衝の全過程にかかわった銭其●(せんきしん)氏は著書「外交十記」で、89年7月のスコウクロフト米大統領特使訪中に始まった秘密外交を詳述している。3 h9 Z) y3 T Z6 F3 R8 d; r
9 @; {" `3 @ t% S/ } 銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。 0 j- q; U) r4 ]/ X- x8 P( l0 o+ K X/ X
スコウクロフト氏とトウ小平(とうしょうへい)氏が人民大会堂で会談したのは7月2日午前。トウ氏はその直前、李鵬(りほう)首相と銭氏に「今日は原則問題だけにし、具体問題は話さない。米国の制裁は気にしないし、われわれを脅し倒すことなどできない」と話す。 - v5 `4 ?# p! v6 u. D% |* i* K2 k0 {3 Z E' E& C) }
銭外相が、7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)でどんな制裁が決まるか分からないと話すと、トウ氏は語気を強めて言った。 4 V% \2 {. [2 a) L* o! B; d# L" Y: Y) g: K3 V! i8 w0 \5 W! a
「7カ国といわず、70カ国でも(制裁は)無駄だ。中米関係はうまくやらねばならないが、恐れてはだめだ。中国人の気概と士気を持て」, U u7 p, i: O
5 s( W! D! Z( M トウ氏はスコウクロフト氏との会談を極めて重視していた。対米関係の修復なしに、改革・開放の未来はない。しかしそのために原則問題では絶対に譲れなかった。 7 H3 X' g* g K7 w3 T: ] ! x. J; ~: D( V5 u# t& h トウ氏は、会談で「中米関係は危険な段階にある」と切り出し、米議会の強硬な動きを「米側にはそれが破滅的方向に発展するのを止める兆しがない」と話す。% Z7 H( E* m5 p9 T: M& e
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トウ氏は、「幸いにも米側にはブッシュ氏、中国側には私らのような冷静な指導者がいる」とし、双方の利益に立って主張し合い、決着させようと述べた。だが、「問題は米側にある」と指摘し、こう続ける。2 _3 K) m9 _3 B" T3 G4 w/ r
( D W8 j) Z/ d* L 「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」- M8 B4 \, m; l4 f; Q8 A% n* H% g
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「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。 3 M' s5 ~" h/ P" b 9 J% J* W8 b1 G5 a 中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。9 f. C* q D4 u$ I: S
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「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」7 ?# ~9 Y, g8 K4 B
. [" {; q' g: e% d# f; X; x トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。2 @' E! g, Y) S, m0 G) y
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≪3度密書を送った≫ 6 D% K" y, y9 u7 H4 ?; T& J" q+ s
1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。 - x+ o7 R8 N4 ^* c- h6 R " j+ y: I8 P! S" Z8 h# g 「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」 $ M! `7 q+ V3 |6 M/ D1 M; ^4 e" A- ]7 V5 l& Y
関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。- P& y, C8 p: r q
0 O- _9 ~' N7 a$ d I( I 「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」 * ~9 M$ b$ Z$ u! H9 e 8 B9 @8 r0 H4 M F9 O, `. K7 e 大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。+ a2 E" h0 ^( X
4 T( n& }1 k' R \2 q5 u. z6 E% J" { それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。+ N( T% b% T N6 S
; v W, g5 }0 C( t0 ?$ o1 \ この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。 ' J6 K4 w. R# U& J4 L1 k/ w- R9 d' L6 G3 C+ E, Y! B# f
その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。$ Z3 u2 L: |, }; ]: n
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「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」( y- W: }) O, d2 ?; p; Q4 u% B
4 `, P3 g. l+ ~% c/ Z- p1 S しかし、トウ氏にすれば新たな「鈴」が付けられたにすぎなかった。ソ連・東欧の変化が顕著になる中で、中国国内では強硬派が発言力を増す一方、米国も「ゴルバチョフのソ連」へ接近、米中関係の危機は続いた。(中国総局長 伊藤正)1 d, o% C9 ^5 t W
. V" a: | q i, I) [9 C- H ●=深のさんずいを王へんに; T7 L9 @3 m" p2 M8 {
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【用語解説】アルシュ・サミット ; M0 b$ n2 B4 \( p/ n t( a% I. l# v 5 b; C$ I; G6 O# I# A, \ 89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。- f7 ], w% K. Q9 ~& d
3 A" t( z6 t8 e 1 f% I0 j3 ~8 D( w天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月# y1 D% v8 d6 x( T1 ]% d7 b
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1989年7月、アルシュ・サミットの記念撮影に応じる各国首脳。左から4人目がブッシュ米大統領、その左はサッチャー英首相0 P# T7 r9 ]: j, r/ ]3 a
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