6.4事件披露:产经新闻将连载《邓小平秘录》 $ I6 u& G) x2 R7 C& G R % S9 }1 Z8 L# B" r2007年1月27日 ( ~. {0 ]4 I. {4 u0 ^2 t- u& Y$ `" h . c. I8 H% {4 @" k5 Z自由亚洲电台特约记者南洲发自日本东京的报导/在中国总理温家宝将于4月访日之前,日本产经新闻将开始连载《邓小平秘录》中的第一部,6.4天安门事件时邓小平为什么对民众进行镇压的背景。 / k' m5 _. z7 H% N; W7 \9 t, c$ a' z8 i
1月26日日本产经新闻发表<社告>,在2月14日开始在产经新闻上连载《邓小平秘录》。此书由产经新闻社中国总局长伊藤正为首由多名记者编辑参与写作的。书中的第一部是写在6.4天安门事件时邓小平为什么会对民众进行镇压。就当时的背景分6个部份进行了编写。0 i% H h4 T. J4 K( x; j; m' \7 E
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为什么在此时产经新闻要连载《邓小平秘录》。 ) ^0 \2 m& t( \. I U* {' @; y ^% y! g+ r' A/ a1 `* a日本亚细亚大学法学部教师达希东日布向本台表示:′发表正好是在温家宝要访日之前,因为当时温家宝跟赵紫阳一同去天安门看望过当时的学生,很多报导认为温家宝是温和派,是反对镇的。产经新闻是要给温家宝压力呢?还是想让中国给六四平反?' " J4 ]' |9 ^ H" B 4 I, s3 \3 I3 C. i* l. }旅日作家、在产经新闻上发表过多篇文章的石平向本介绍说:′多年前产经就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。' - D K. U" i) \0 f2 n6 i , n, M" i% F+ ?( ~, |与产经新闻有合作关系的日中通讯社社长原博文向本台表示:′《邓小平秘录》这本书是以6.4天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始,是独裁的政治家。现在连载主要是与温家宝要来日本访问有关系。在对历史问题的认识上中国人与日本人是有很大不同的。' 4 a* {7 ^9 f) `! {0 d8 Z9 @+ S $ ^: }. e+ k( ~* p& e4 o9 Z------------------ : b1 | S! x- |9 B' `; j; C2 n4 Z4 D, R( l2 W- X" f1 n
产经新闻将连载《邓小平秘录》0 M! z9 u- o/ m; o, Z
' }& @, ]7 U" x! {1 E# K5 Q(2007-01-29) # K# d6 v$ g, s+ H8 r- r* N" | & C$ r; r* C) t! J3 K0 E(新加坡联合早报)曾于一九七四年连载《蒋介石秘录》的日本《产经新闻》,今年二月十四日起将开始连载《邓小平秘录》,并将在第一部中即探讨邓小平一九八九年「六四」决策的背景。由于中国国务院总理温家宝即将在四月间访日,《产经新闻》此举因此引起议论。 2 u( p# }+ N3 R! Y4 D4 E
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据《自由亚洲电台》网页报导,日本《产经新闻》是在本月廿六日发表〈社告〉,称将在二月十四日开始连载《邓小平秘录》。不同于过去《蒋介石秘录》使用国民党大溪档案,此书的编写以产经新闻社中国总局长伊藤正为首,多名记者编辑参与写作。 ) ~$ j( ^7 v& _3 [0 r ! w7 ^" K) v# N 对于《产经新闻》选择在此时发表《邓小平秘录》,旅日作家石平向本则表示:「多年前《产经》就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎,这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。」 * }$ a9 z3 u2 {# ]" ?( T: h# z+ _8 a& A+ m' H6 R z
与《产经新闻》有合作关系的《日中通讯社》社长原博文表示:「《邓小平秘录》这本书是以六四天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始。现在连载主要是与温家宝要来日本有关系。在对历史的认识上,中国人与日本人是有很大不同的。」 0 o, k5 N+ L: c) }7 X' h + k- f" e% L$ e" k5 m3 _6 D--------------------------! T( M+ n, M# N9 i6 `* `
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日本产经新闻 9 e0 h: n# Q1 K! A1 y8 {' c7 E/ s3 i) A1 s4 b. @& C) l( x
【社告】「トウ小平秘録」 改革開放の実相 2月14日連載スタート 6 Q5 p* U ~/ o% g3 V; f " ]) D3 O0 G0 o$ C3 ]" \7 b産経新聞の新たな長期連載「トウ小平秘録」が2月14日付からスタートします。 * v: L* u4 L2 j ) a& Y3 D/ I4 N2 ~& | 1兆663億ドル(昨年12月末現在)という世界一の外貨準備高を記録した中国。この経済発展の突破口を開いたのが、トウ小平氏(1904~97年)でした。今年は没後10年にあたります。 * `5 p$ _+ r5 p1 S* O4 ^& ]2 @: {7 y( i8 E# {. o8 G6 Y
毛沢東以来の中国共産党内における激しい権力抗争を生き抜き、事実上の最高指導者にのぼりつめたトウ氏の波瀾(はらん)万丈の生涯は、中国現代史そのものです。+ ]6 v% f/ g" U1 s# a7 _% B# ]
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トウ氏は政治面で社会主義と中国共産党の指導性を強調する一方で、経済面では生産力増大を第一とする独特の理論を唱えました。文化大革命時代の失脚を経て権力を握り、改革・開放路線へと大きくかじを切った決断が中国の驚異的な成長をもたらしました。4 h& S* ]0 L# i9 i/ @% j& {! s
0 K9 E/ s; i2 S 半面、膨張経済は都市(富裕層)と地方農村(貧困層)の格差拡大や環境汚染、さらには官僚の腐敗という矛盾の拡大を招いています。世界規模のエネルギー獲得戦略や急速な軍備拡張路線も気がかりです。こうした現代中国の実相を理解するには、トウ氏の足跡をたどる必要があります。2 O( i9 [ J# a7 S: p. H
! S+ L+ {1 [) @+ C% o, e 連載は伊藤正・中国総局長を中心に複数のスタッフが取材、執筆にあたります。第1部の「天安門事件」で、トウ氏がなぜ大衆を弾圧したのか、背景を掘り下げるのを皮切りに6部構成になる予定。ご期待ください。 7 J3 L' F) v! G, O2 k 9 O& K6 j8 r' D( b* k(2007/01/26 07:27) 3 S, X- F* G" m* W , @" k+ R0 ~9 a/ \+ p: F. d[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-15 11:39 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:48
- {. ~' |( v6 ?4 u( B1 Q一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。 6 a* g9 s! @9 U/ T0 H/ A - S1 k$ Q$ b$ I/ ^1 {- m【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死! w% ^6 [& u, ]+ [: }
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今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。$ x' y$ \4 }( v6 V6 Y
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猛然とたばこを吸った / z8 q1 V l4 C! D" I/ ~ u2 N4 u9 v9 q4 Q2 j
天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。 $ P3 R% Y- S- X$ j1 N 0 `) W8 Q5 ?" H5 t) n5 J 胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。" U/ U$ }0 N7 A! ^+ g% |" X: |
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当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。 $ ?- S! S; E& @4 @# w' t V8 t4 ]: J) X& S% N& L' T そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。5 u) x7 t$ h$ j' D# T$ y0 Y
- ^! w6 R" F5 @& O+ E 89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。( M H7 P* u+ s4 z2 y7 W# ^
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予感通りに事態は展開していく。( r" c$ A) x5 i3 @
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訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。 5 c& }' D8 o4 Y" P 8 I! C" n8 _5 ~6 l. w そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。 5 x; {1 v0 V( \ ) B5 |5 l! }' u 胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。1 P3 O1 i0 G' Z4 Z- ~5 I1 h7 m2 ?/ Y
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「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」 # {8 Z Q5 z- E2 E : q. Z. J- k8 K5 ^4 A6 n+ `" P( r2 o! u 胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。- C! n4 z7 O) U; z& }$ v5 _
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胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。& f* W) K. [* t7 C8 {
) n+ o- d9 n7 g) m: a. Y 半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。. q, U8 S$ W% Z' m% `- b. v# M0 K3 M
5 b3 V" @7 m+ Y9 M; s% Z むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。# H- V L A6 A% K% @4 m3 y
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「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。3 Y4 `0 o7 C+ D6 Q
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天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。- {/ L/ ?9 I5 z: o
邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭 ( K3 N' x+ r8 ?: R 3 P1 s' m- S' G日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。 # O2 B" E z& i; e* T' M# P X; s6 ]8 V$ C. Y
文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。* f/ E9 F3 k% h8 @
8 ~4 k \ z) T l: B 文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。* a- p9 D" E- F/ b
b0 l! w0 ~. i9 ^ 拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。 1 j u4 M) a" t2 G- h4 Q2 i / w' ^% y% b/ }: \9 r1 a, S 胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。 9 Q% b! W' \8 ~ ( `7 u+ ?0 v0 t$ S 「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。 / D, |' [# r R: }" z5 @4 S8 F* R) G8 \" z
根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社 # Z4 C2 F& v* u7 M/ N. m; X 5 a, `9 p) s) b5 k7 l( [【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ + |' i7 a: T2 C* Y8 r# R" h2 c. ?: g, e' U- i1 |! a
中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。1 }$ k$ m, z5 T& k, t9 w/ ]
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その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。4 ^: H4 ?, T$ M4 ?% P3 [1 |
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国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。 " K6 s7 C, B* m$ @/ D 6 {. _: T, P# B7 K 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。 ) f# F7 N9 x$ g( \6 Q+ n : D( C2 A% r& ?; r+ G. w( O0 j 長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。' ~" k5 M( |* H: D1 D. V2 l
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これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。+ s, b% e, b9 Z1 l" M
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「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」8 P" ]0 G* ^% Q0 v. H$ S
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「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」& c" H0 k% U% E
% }* a; @( Y: x) R7 B* x- ^ 同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。! y6 ^. Y- |5 b
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「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」 1 V6 [: w% l9 \" S' y/ r: s' e/ H# |. v) }+ | M0 c
王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。: r* o, [( p" \; v0 Q- L
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≪胡耀邦は声上げ泣いた≫ ( I6 m J* t+ ~; j9 s" d6 e6 j: @! W4 N3 n0 N) o z V/ ]* S
外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市) " g1 p7 Y1 F5 w! w9 t% K& A & B, O/ ]" w" |! s; b( w1 ? 胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。3 X$ S" k" e+ e) z
# a3 M- \ ^% n, M5 V9 f 胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。4 X, w5 Q o" o s+ [: c8 q
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「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。5 G8 e2 Y/ \( p- k, z
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その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。! n+ H% X! v7 K
+ E8 t: ^ }( D% Y% r 「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)9 e1 D0 }, q3 U% s6 e9 A! k1 k
& L$ }" D8 ?5 d$ n1 }! X 趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。 5 L' \. p. ` \/ U7 l6 o, j8 o, r! L6 q9 Z
「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」) 5 I1 _3 c) ^0 `) B, A1 D + o" g+ |) [7 p. I/ }( ^, N 生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。: o. d* E0 g2 @# E7 H) D
$ v: l. v7 b$ s5 q それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。) c) [' J! u/ Q% p+ ]. e4 {
8 c3 t+ f4 G9 ?/ U* i ]$ A ; ^; O: N8 c% Y) @5 r% a/ k* ? . P- @0 H/ S% u+ j& M■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。1 Y# H# v. S! ~, [
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)9 J: L$ Y0 y. b
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1987年、北京・人民大会堂で行われた日中国交回復15周年記念レセプションで乾杯する左から竹入義勝・公明党最高顧問、王震・中日友好協会名誉会長、宇都宮徳馬・日中友好協会会長、田紀雲・中国副首相(共同)=肩書きは当時
/ w4 B; \3 {2 b' i 対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。 0 E' k: k9 r# U9 q, a/ D& a7 Z* e - \/ p' M! M- o9 B 党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。( K& Q$ H+ B/ P. V' t! L, R! }- G
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トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。 . q: v; g& h5 ^$ e 9 y$ c/ ?. v" o _' Y& X; w. F トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。 7 u$ q8 _5 L; f& i" u, Z - A/ F" K; T/ u1 M( u9 C 党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。6 ^& t5 n; M8 O, x/ ]: c
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トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。/ G+ ?1 x2 {$ j6 C/ S8 n
% Y( N. ]7 h3 C# `" v) C/ E その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。; m8 M- Z* O t! B
' F9 k m6 y$ ]6 D) c5 C ≪長老たちは引退せよ≫ 9 e# C7 c7 Y- g; w# K1 q 5 N! }, N" T; s4 u5 k; S 胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。8 o+ J( v0 _- p) ~* o; n2 t
3 r( x$ z+ D/ C) s5 {
トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。 , H4 m9 X7 S) P% X5 _ 3 b# w% S: _- s% T' J& h 「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」 * r% ~8 K- _( N& B8 l$ h7 |1 k1 i. R/ m, G, Y+ W5 X' I4 Y
趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。 3 M6 j% s4 a' A& ^" |. G# x + T4 t2 U1 A3 R R7 a& v 「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)+ p2 f* ^& }) ~7 ]' x
0 H: V. n$ n+ Q1 ~* ?3 o; r( f
13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。 * I$ i( Y: @0 x6 M% R" d5 u/ ]) U e' Q# }# p
新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。8 u5 ^$ e. N, `3 w3 r8 I
$ q- L5 U8 r( F2 k) Q, J" w& Y 「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。 ) G# C' n8 X! f, [; N7 R" h5 b z0 Z2 U: k! n- p
これについては田紀雲氏は04年6月、北京の炎黄春秋雑誌社の幹部との懇談で、こう話している。 8 n& E9 i9 Q4 D/ Y$ D0 W & K$ S* T& p) a9 S" e" H 「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」 % n3 E9 R0 W$ m4 p' a8 O4 b" \3 [8 B4 A0 G
トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。 ! s1 D; s7 K6 ? 1 _/ p0 o) @1 w+ {! [3 c! R" c トウ小平氏は「富強の中国」の夢を趙紫陽氏にかけ、改革実行の環境づくりに、83歳の力と知恵をふり絞っていた。(伊藤正) i5 O- X6 ^1 ?5 K2 q4 m" M4 u$ F
. F$ G( T5 f( H ◇ ! y9 i2 S6 B; L% ^ ' E! {( {$ ~: e. m 【メモ】 / @# k. u& U% t, \$ J( ~4 N 9 P9 t* o# h7 ? 中国共産党の基本路線は5年に1度開かれる全国代表大会(党大会)で決定され、少なくとも年に1度開かれる中央委員会総会が具体的な政策と方針を決定、指導する。中央委総会閉会中は政治局および政治局常務委員会がその職権を代行し、党の最高機関となる。このシステムは、第13回党大会(1987年)以降定着した。 ( h8 w8 C6 M ?6 u9 q2 Y2 k8 k( ]7 L- N, n2 I t( U+ F7 T' U
中央規律検査委員会は党規違反や汚職などを摘発。中央軍事委員会主席はトウ小平氏以降、事実上の最高権力者のポストとみなされている。直属機関には中央宣伝部、中央組織部などがある。: @7 ^& Q. ]. r. k5 V: I- E3 g" ]& N: ^
, ~ M" @/ z% Q+ Q: G 中央顧問委員会は1982年、トウ小平氏が老齢化した革命第1世代の古参幹部を引退させるために発足させ、長老たちを受け入れた。最盛期には約200人の委員が就任し、党指導部に対して大きな影響力を与えたが、92年廃止。* r/ f1 Q% J4 ]/ E$ D
, a. n0 a* V3 w) T& \ 不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 1 f& K/ W6 T' x. h3 T7 U) E% R$ X: z# k
她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 % o6 i' W8 c+ h7 g+ f/ u; d 3 v! a) h4 A4 G& q7 H邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” ! Z! J+ D0 `5 U . H1 [1 ~* P* ~3 R6 c1 _4 l 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 1 f& S7 L9 Z' V& c f ' `5 P9 S" v2 n. {9 J 邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 2 C% N! }# B4 {/ Z& H* u* c- U; o( t1 M1 g! z5 _
她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 6 s7 V+ W# A, Y$ [7 O3 u2 R% q; V7 p1 k. O7 c0 j
她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 0 x9 i, Q+ V! _3 u% x 6 O) l1 z- J" ~6 l2 M) r6 Q 在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 ( Q$ M# {/ ?- i5 t% `8 }* Z4 W1 z9 G
邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 . ?2 A9 T8 A1 d8 M* q- S
$ e" U3 `/ X0 ^* V 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” 4 ~! r: s/ ]7 g. w. W: n b3 S/ ` # M: u, ` e) f) [6 u4 x1 I: D/ l% i/ n: [8 J, d% E
他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 0 }. x# T4 Y# Z9 O ) d, ]) K3 v8 x2 E J8 P 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 $ p, t+ e' |- m$ B7 a8 d+ t' d / {; @4 M& g* h7 E' t 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。4 ^3 A& Y k- p* y
5 Y' Q9 t. N# }6 ]
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6 Y4 s6 }& n1 C8 Q+ |( bChina honours man who reshaped world I* H+ K8 \' ], r9 C
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. u6 G. x. _9 |+ k
) m5 D3 u' f O: t* AChina might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 0 a( A6 t2 x5 L( L8 l. U% k' R2 M2 U
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But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. 7 B4 {. ]0 U k) ]' W' E$ f# e0 ^8 M
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His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. 7 M9 Y6 P8 Z1 X! m
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“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” J5 N2 W) @: B1 ^
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Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. ! ?; F4 e$ `/ y# H0 V2 J& c% |5 v j3 D
Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 6 _% t, m: \' W3 ]4 w0 d 8 @& o! m7 T0 g2 I _5 tShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” . d8 L9 T9 X& X t: }, e( e6 V" w1 E6 I$ w+ q0 |1 B8 H6 ~8 P
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 7 g7 A1 V7 `+ U
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Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. 9 |0 A; O) Z) a" h _
6 O C2 \! n$ k4 Z1 q) O: b0 fDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” ) i0 h6 r0 D3 ~& k9 P$ l2 J2 W' ^
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 4 s3 y [/ l3 p; Q4 ^6 M# k, N* [
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Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” * U3 T) W; H0 Q; S1 Q# L: F2 j' a, n5 w0 _. U! \( E+ K
Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. 3 b. Q8 ~0 F" J6 a" s/ i 9 z- p+ k2 A) C. }But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. + H3 T8 z# u2 M3 s+ \5 i {& k1 m; h+ F1 l8 | R
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 8 |9 [% ?- I* X) ~ a3 S& d; C/ _4 S4 k; C' n2 ~
Long road to riches. U! W/ A" t3 i. @+ y/ z
! x6 q( A- K \( ~$ vNow 3 `# q; J. X$ M6 Q! v, s8 L G ) X, E! @$ i" j7 J; j4 _9 ~$ ?Population in cities: 550 million 8 L4 Y, I0 ]0 R1 g4 y+ g: B2 B4 K& T
Gross domestic product: $10 trillion # r. B. S7 X! B
$ d* ] o, _5 V OOil consumption: 6.5 million barrels a day 0 ~+ S# l5 I" G& p% P & @7 s* M- d/ z% x# v1 {2 RExports: $954 billion - F$ X' e" H/ q 7 v* P) v$ J( N+ L, ^Population below the poverty line: 130 million , z& {4 b+ S: q5 v% d! R : d& P) i' C7 v5 KTen years ago" q6 j* o; _0 w8 T) m
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Population in cities: 370 million 2 t4 R6 y2 m$ C& Q n# `+ m/ s6 u" i/ X8 B" H; l) ?# M9 q: o+ k
Gross domestic product: $4 trillion , }. A! }- s' Q' o4 x! p" ~3 Z7 n9 q
Oil consumption: 3.9 million barrels a day ) l4 w% Y+ `' P& G9 J
5 y v% p* f/ m# V9 TExports: $182 billion ; n3 g5 I3 P, m; m8 `( a3 _* G1 z6 H3 _; Q/ C" g2 O
Population below the poverty line: 120 million ! e4 v) M$ z$ ?" i ; V9 T0 u$ H" ?3 m6 M" [Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies; D- q [1 a; W6 S0 L( @
' O& \5 N0 N5 R/ \+ q ' |+ c& ]3 O1 f/ x3 g“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。2 Z( P5 R `5 N& c. i
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治 / z$ M4 w# e3 g$ y* |- L: v ( M }# a) a, b. v2 G$ x0 @+ `(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?” 5 H% ?* v8 I3 }3 V) ]8 R& \. R + U; c8 [2 M8 h! U2 n# P赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。 $ I0 Q: v: K4 J2 ?! w 0 \$ `" ^& T4 S6 ~4 k2 t1 R/ f, Y赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。 * f9 g' @1 T6 {, U $ X& U! b0 S( E5 W, Z' v鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。 ' K" s2 a3 E' B 5 B0 i/ M; `/ c. ~ d鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。% y' @' n( U" C! \; d& [
) c4 S: t* C+ Q4 C! b m* o5 }% {赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。 2 U. @3 Q0 R% Q+ Z( p7 ^% F% _5 F. ]2 H/ g
一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。 % Z) a" d9 C1 ?* y4 k u% W# P( _' ?- M
未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。; m" K/ y- _! V" n. a( N
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【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」 - D( [$ g5 G# e' p; [ * ]0 t5 t: u! b. d2 o( \& i趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。 6 S' G- z2 j+ n. {% \* N) W+ T J x0 C8 F6 B' Y( F
2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。$ c/ X- u4 ~( l! d* v& {
C% ~4 v. X5 f& c9 `/ j 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年) 8 `, M3 j) G& L/ V! d, ~$ v: l% l- i
この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。3 u; A% a! q6 m; {
改革风波造成赵紫阳地位动摇 / y: U3 _8 J0 z9 g. a' ]# j+ \0 ^- r- |: ^+ ^8 h$ O& r& W
(中央社记者张芳明东京二十三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八八年夏天,中国实施价格改革引起的风波造成党总书记赵紫阳的地位大为动摇,保守派展开把赵紫阳赶下台的行动。 ' _4 x+ z: Z: w: w. X7 P6 H$ a) z+ q, p: \
文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。9 C3 |% J3 a' @$ J" j" w
当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。$ a& N- ~( B k- b, H h
0 }+ A! f s% L0 E/ Z- }“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。, ^8 V) h8 L4 v
. h" F* Y8 v- [$ h8 c) g2 e赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。 C+ Y2 f3 K8 V9 K 9 T! ?; R! s7 J! g4 [- O4 b y: Y) x“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。) o" z( `) M8 l2 r& q A
2 s/ [9 o* v! }, F 「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で)- y" c5 i! C" Y2 F1 ^7 D) ^7 H
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「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に)( C2 b9 |9 W3 b3 E3 X
; A% c! d8 ]0 E% d 価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。 + p5 C; A1 h+ r! a/ q5 K- l " ]( \" R3 Y3 T& V' s$ h それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。 9 ?+ p* G1 m* j( A 2 v: a. s/ J+ Y5 F 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。 2 [* I, S0 D+ `+ H. g/ z a; \- P % p w' V# \$ ^; W# W$ g# Q- C' E 姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。% W& ]' r s$ y" Z8 I- j6 B; j
2 T; k& h W- ~, g! U 「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」4 C8 a, E" W. U- _/ B3 C
7 S' h7 N+ h# {& w6 ]5 R U& _ 陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。 " W3 k5 a& X C8 n5 v. D0 m6 v3 Q* N, I/ f6 X1 \! f
88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。% r5 h/ O' m0 n [1 a5 U$ y2 [
# e; P4 l D7 L4 v4 Z/ q% z 「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」& m1 h: D K" i+ o
; \2 _! ]5 P6 Z, X0 Z 10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。 8 Y! `/ v+ ~" j1 i- H) m t" |1 X& s# P# J
「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。8 Z. s" E2 b, r6 x$ D
/ Q1 J. l6 ]$ D( W 改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。* t. M: }; p( `9 @3 r! k
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≪空白の2カ月半に何が≫4 @* J7 T8 g/ A7 q$ r/ k
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「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。 / P! M6 h- w9 A4 ]. z0 g1 Q% m- E' N3 @( ]
この間に何があったのか。 & p/ D* n$ m3 r$ J 5 g, u' ~* ]: V9 x3 a- |" @ トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。* ^2 _# A( G/ O; J
! f' d3 b2 t0 O1 z% z 趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。 ( }; }# @ V- u+ u7 y 1 u* [! s5 p. U: _& i! G* s+ b 新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。3 ~; K9 X0 n7 f
' F0 a' ^" v. T$ D1 Z
学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい) % c! n8 l& h4 z: n. D# H & U- j1 u- g6 B- }+ v S4 B トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。; q8 _6 O0 y" ]- D/ `
; F8 a4 S% ?1 q; q
このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正) ) m: z7 e/ [& d0 a7 _+ ~9 ? 4 H6 S2 Y) v0 s8 |& a( O7 V ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。; e1 g- N/ G' I0 A, q
/ G4 I- C$ o" X$ m( f# |6 \3 W しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。7 j5 |% m( S t) f: X$ I% B2 V
& S. b0 I+ t5 C/ N! }1 s& t- S 北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。 5 H! f+ u. y- \% M! D0 I# b- D3 k& A1 ]6 a9 ^# T
王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。) k* D/ V. X: `' O1 Z M$ I- a. j
6 s, d3 B, D$ R! e0 G1 e$ N 王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。4 u, v% j5 Z7 t* {3 N
9 V9 f( S$ w' Y7 o2 m: y J7 G
それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。3 U; n# l$ @" Q/ {
! X) x. p! c( F0 @+ M8 i それに比べ、趙紫陽氏は楽観的だった。「真相」によると、趙氏の改革の同志、田紀雲(でんきうん)副首相が20日午前、趙氏に会い、北京だけでなく各地が不穏な情勢にあると伝えて23日に予定されていた北朝鮮訪問を延期したらどうかと進言した。それに対し、趙氏は言う。 3 d l6 z6 t5 a7 h# y1 m : V. V" w$ M+ ^* [, W) S 「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」) ~" M# H% p K0 u) d6 d
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趙紫陽氏は23日午後、専用列車で平壌に向かった。30日に帰国するまでの間に、国内情勢は大きく変わっていく。(伊藤正) ) [, N- y! U1 I% k' H! p& c) t & z K0 x# _. T◇ - {1 F. q$ G$ @ g2 L+ Q0 `4 C; f- L$ {3 R: Z4 p
【用語解説】八宝山革命公墓7 E y# e2 H2 P: [1 k) D k
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北京市の西郊外にある国立墓地。新中国になってから革命功労者を弔うため、明代創建の護国寺を改築し革命公墓と名称を変えた。指導者や高級幹部が眠る。1950年代に火葬が法令化された後、遺骨は納骨堂に置かれるようになった。火葬場を併設、胡耀邦氏もそこで荼毘(だび)に付された。. X. t& A& H; T+ U; p y
7 d/ R4 p% X2 N4 G就在那个时候,知识份子也展开行动,背景原因是上海最进步的报纸“世界经济导报”遭到镇压。 # T0 h t$ e* ]0 W9 s - N J0 W1 m+ g( q【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説 $ k+ l! ]& ~6 h! f, a: g* f- { V) o% P0 g& C' ?8 ?" R" I
■反応は86年の逆だった & y# N6 _8 i, J+ A" B2 c" J$ a! O8 ^ \& |( h; f: i
「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」 7 h3 j' ~2 ?4 \+ i& L. O1 k. \1 z* B/ M6 D
1989年4月26日付の中国共産党機関紙「人民日報」は1面トップにこう題した社説を掲げた。異例の朱色印刷された見出しに、文化大革命の否定表現である「動乱」が使われたことが人びとを驚かせた。4 G. G" M7 Y. i7 s
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社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。 5 w4 L; `" q8 f# m& o/ c3 m% ]( i$ }5 D
人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。 " W: v6 t- _3 c" c& Z& c/ ^ 9 ~* u0 g; E* |7 F5 E' F& X/ P4 z 「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」 1 z3 i2 p! n0 M/ p' X $ ?$ B$ z, ]. p. ^6 B* G" t その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。 1 }. u# e- T, e+ u0 H! s; g& g! _* ?2 Y$ _
陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。 # r2 v8 I+ G6 h7 d B, t: g# A o' d! `- G
社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。 + `) [; o( Y6 O8 F7 c* ~* x T5 N+ G: z* _9 u3 n. U% D0 T
93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。1 n D5 Z- o" l+ y4 {
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トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。 ; g- y: `6 B9 ?( h" j7 B ! N6 e4 m/ J7 y7 h/ q しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。' C+ i. K8 c6 q+ p& V( H! M1 E
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北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。7 E Y3 q/ S/ Z: ~
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当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。 . K) Z6 n* r$ H6 g3 O- _! \) ^ ' K: D- S. T/ A% i3 t この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。* e. R% y9 A7 M
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新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。 5 }4 u5 R/ F3 b3 \( e6 J* o, u7 i z0 N$ m0 U2 J それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。* P0 T" b; E3 Q- q# I0 Q7 m
4 T2 @9 S+ o' _ _ 《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》# [; c/ [/ y( c# T( h# c
+ _" }2 ^) E q+ k 各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。8 t" a* Q* Q2 z8 u! R
9 H9 X& S0 B5 M* F これを機に、知識人層も動き出す。その背景には、上海のある事件があった。最も進歩的な新聞「世界経済導報」への弾圧だった。(伊藤正)$ |: I4 j- H& y! g% ?8 ~( G; k
邓小平秘录:邓图以社论阻止学运是误算 $ q# X# E3 Z: i - d, ]/ S6 W( F(中央社记张芳明东京三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平在一九八九年四月二十六日以人民日报刊登指控学生运动社论和解除上海周刊“世界经济导报”总编辑职务的方式企图阻止学生的民主运动是项大误算,反而使得学生和知识份子联手,使事态更趋严重。 m/ d3 b! A' C$ K# G% f
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“秘录”今天报导,四月二十六日人民日报刊登社论,把学生运动定位为“动乱”,引起学生的反弹,次日出现数万人的示威游行。当时学生高举的口号是“拥护共产党”和“维护社会主义”,令采访的中国记者感到困惑。4 Y Q: M2 M* [( r0 B6 K# g2 w) n
+ X! k x7 M- s0 Y8 k) |其实这是学生方面针对人民日报社论的指控采取的高级战术,表明并非反体制运动,而是要求消灭腐败和确立民主政治和法制,这项口号获得不关心政治的学生和一般市民的共鸣。; ]( l2 B- H( W
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天安门事件后被以“反革命阴谋的黑手手下”罪名判刑十三年的“北京社会经济科学研究所”主要成员王军涛在二零零四年刊登的专文指出,他虽避开直接参与追悼胡耀邦的示威,但应北大学运领袖要求提出建言,忠告示威运动保持行进的秩序以避免镇压。5 ~8 \$ F7 L* ]+ ^* Y: d$ a
; J- Z$ w/ j& i. j+ b/ Y+ _: @6 z王氏所属研究所的成员也在当时由“观察”学运转为“支援”学运,背景原因是被视为当时最进步新闻的上海的周刊“世界经济导报”遭到镇压。由已故的当时总编辑兼社长钦本立负责的这份周刊于四月十九日和月刊“新观察”共同主办追悼胡氏的座谈会,有二十多位著名知识份子出席,并计划于四月二十四日在追悼胡耀邦特集刊出会议内容。 4 R0 ^8 n- i' E- R- Q8 c 6 p( a- R# \2 W8 {' {! n& B& U造成问题的是“中国社会科学院”前政治研究所所长严家其和“光明日报”记者戴晴等发言批评党在一九八七年一月解除胡耀邦的职务,要求恢复胡氏的名誉。上海市党宣传部在特刊发行前一天下午获知内容,当时的市党书记江泽民指示将问题部份删除,但钦本立拒绝,上海市决定禁止这份周刊发行,但已印好的一部份则已对外发送,江泽民于人民日报问题社论同一天的二十六日将钦本立解职。. a* Z. j* _- j) Z4 I
1 X" |7 e8 o+ d& t+ h' Q2 `江泽民由于这项表现赢得邓小平等元老的信赖,是使得他在天安门事件后被提拔为党总书记的重要理由,但是,这项事件也引起知识份子和媒体界人士的强烈反弹。严家其等三十三名知识份子和北京的媒体界人士数百人连署对上海市党委的抗议文于二十八日发表,知识份子的危机感和学生要求报导自由结合在一起。 ( c& y" q3 l3 U: V) r & m4 m. n& x" Z( A中共党中央意图以人民日报的社论和世界经济导报事件来收拾学运,未料反而造成事态的扩大,对邓小平来说是一大误算。赵紫阳在二零零零年接受新华社记者访问时指出,在一九八九年五月十七日决定发布戒严令和他本人事实上下台的政治局常委会会议上,邓小平向李鹏表示,不要再度出现造成他发动戒严令的事态。 ; Z$ O& D/ v6 n, L9 X. p0 t. q1 f/ I) j, k3 }9 q! ]) \
人民日报刊出问题社论后的情势令元老们感到不安,前全人代常务委员长彭真电话指示党中央办公室(当时的主任是温家宝),要求党中央自制,不要扩大矛盾。中共当局于二十八日改变态度,同意和学生对话,但是,二十九日,国务院发言人袁木的作法对学生造成刺激,因为获准参加对话的四十五名学生之中,有四十三名是与政府息息相通的官派学生会的成员。 - Q i( |9 v- y# G J. z( D6 _% R' t
正当李鹏等保守派被迫处于守势之际,赵紫阳结束了访问北韩之行于四月三十日返回北京,揭开了保守派和改革派激烈斗争的序幕。6 S- R# M7 S$ s2 P
$ q9 X7 J6 p1 G( G+ J) n% x【トウ小平秘録】(18)第1部 天安門事件 発行禁止$ [/ _) t. \& K1 u, s" O
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故胡耀邦氏に対する学生の追悼活動を「動乱」と決めつけた人民日報社説(1989年4月26日)は、学生側の反発を招き、27日の数万人の大デモになった。デモを取材した記者たちは学生たちの掲げたスローガンに戸惑う。「共産党を擁護せよ」「社会主義を守ろう」が前面に出ていたからだ。: A6 _- M a, X& |( ^8 f
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これは、自分たちの活動は腐敗や不正をただし、民主的政治と法制の確立を求めているのであって、反体制運動ではないと訴え、「反党・反社会主義の陰謀」とした社説の逆手を取る高等戦術だった。そのスローガンは、ノンポリ学生の動員と一般市民の共鳴を得るのである。/ w7 K" ~/ K+ M$ C3 l" a, r3 H! R: N8 K
& z' K$ U F1 \ 後に「反革命陰謀の黒い手先」とされた独立系改革派シンクタンク「北京社会経済科学研究所」の中心メンバーだった王軍濤(おうぐんとう)氏(天安門事件後、懲役13年)は2004年に刊行された「浴火重生」(明鏡出版社)への寄稿文で、こう回想している。5 Y1 m: d X0 `' H5 M
" A. Q5 H* ? U1 e+ P+ T 「当局側が強硬措置に出、政治的粛清になった86年のデモのときと同じ事態は防止しなければならないと思っていた。胡氏追悼デモには、直接関与を避けていたが、27日のデモの前、北京大の学生リーダーから求められ、アドバイスした」. B! z+ G, @' P# w
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王氏は「運動の秩序を保持して鎮圧を避ける」必要を指摘、「スローガンに注意し、ピケ隊を設けデモ行進の秩序を守るよう」忠告したという。それを機に王氏ら研究所のメンバーは学生運動に対し、「観察」から「支援」へと転じていく。1 y) C* G6 `8 L' L8 _: o, S4 v
h6 q) G1 }6 h3 w その背景には、上海の週刊紙「世界経済導報」弾圧事件があった。- i! i0 q( o3 U3 T; G4 k) y
. _9 T( E G- A 老ジャーナリスト、欽本立(きんほんりつ)氏(故人)が総編集長(社長)を務めていた同紙は、当時最も進歩的な新聞として知られ、北京の中心部にあった支局には、改革派知識人や外国人記者が自由に出入りしていた。北京社会経済科学研究所との交流も深かった。$ V6 D' o" l; O4 i" h0 M
" {; f2 l# U2 U p, r 同紙は、4月24日付紙面で胡耀邦氏追悼の特集を企画、その柱として19日に月刊誌「新観察」と共催で、胡耀邦氏追悼の座談会を開いた。著名な知識人20人以上のほか、胡氏の長男、胡徳平(ことくへい)氏(現党中央統一戦線工作部副部長)も参加して故人をしのんだ。3 a% x J; m% S3 n- r& A& I+ I+ {
* H8 s2 `9 | W# @/ D) {. N( ^ それを上海市党宣伝部は23日午後、校正刷りで知る。陳至立(ちんしりつ)宣伝部長(現国務委員)から報告を受けた江沢民(こうたくみん)同市党書記(前国家主席)は、宣伝担当の曾慶紅(そうけいこう)副書記(現政治局常務委員)に、問題部分を削除させるよう指示する。/ N1 C( j3 g# P+ h! m
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しかし、欽本立氏は拒否する。輪転機が回る中で、やりとりが続いた末、市側は24日付同紙の発行禁止を決定したが、既に一部は発送済みだった。江沢民書記が欽総編集長を解任したのは、人民日報の強硬社説と同じ4月26日だった。 & }" a" Y5 q: M* J5 y 2 O% }' @2 C* I/ Q1 r; e4 Y7 I この事件は、江沢民氏が天安門事件後に総書記に抜擢(ばってき)される重要な理由になる。トウ小平氏ら長老が解任した胡耀邦氏の名誉回復を決然と拒否する措置を取ったとして信頼を得るのである。 + P# D+ m2 \3 J( O. a& f + W' g* g1 K( J" j" f しかし欽氏解任当時はそうではなかった。知識人とジャーナリストの強い反発を招いたのだ。厳家其氏ら知識人33人、北京のジャーナリスト数百人がそれぞれ署名した上海市党委あての抗議文が28日に発表される。, u8 ?! d, E2 L" d, X( E
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そうした知識人層の危機感は、追悼デモ報道に不満だった学生たちの「報道の自由」要求と結びついていく。人民日報社説も世界経済導報事件も、事態を収拾する意図に反し拡大させてしまったのだった。 u: t1 E, P4 j
/ Q6 u0 u# `9 |1 ^9 x6 t それはトウ小平氏にとって大きな誤算だったに違いない。, N2 h$ b. V8 t b: ~3 U- G. w" }! _& h3 `
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趙紫陽氏が2000年5月に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者に語ったところによると、戒厳令発令と趙氏の事実上の失脚が決まった89年5月17日の政治局常務委員会で、トウ氏は李鵬首相にこう話したという(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。' Y" l4 J3 n. I8 d
! z) C" H5 U$ `/ [2 V; h 人民日報社説後の情勢は、長老たちをも動揺させた。趙氏によると、彭真(ほうしん)・前全国人民代表大会常務委員長は党中央弁公庁(主任は温家宝現首相)に、「党中央は自制し、矛盾を拡大することはするな」と電話したという。# l+ ?* s5 T5 O
' \# f5 b/ Q0 t% x2 {& S* P 当局側は28日、学生との対話に応じる姿勢に転じる。しかし29日に袁木(えんぼく)国務院スポークスマンが行った対話は、デモの主体となった学生側を刺激しただけだった。参加した45人の学生中、43人は政府の息がかかった官製学生会のメンバーだったからだ(陸超祺(りくちょうき))著「六四内部日記」) 5 U; g: [) _# o( H7 o 8 Y. i' `7 ?8 s' [7 S5 x( \ 李鵬首相ら保守派が守勢に追い込まれる中で、趙紫陽氏が北朝鮮訪問を終え、4月30日、北京に帰着する。そこから激闘のドラマが始まる。(伊藤正)4 l" I: r- e: [1 q3 J
+ O" L8 k8 \/ F f+ @8 v◇$ m' j0 p' _: L; i- k% D$ u5 l' l
) U; ~4 h' C7 [& T- w* `【用語解説】世界経済導報; Y% Y! U9 K; L2 b D
3 q. c4 b8 }& c' B, E |4 N 上海社会科学院世界経済研究所が中心になり1980年に創刊したタブロイド判の週刊紙。当初は経済専門紙だったが、欽本立氏が総編集長になった85年ごろから、政治改革主張を強め、中国の知識人層や海外メディアが最も重視する新聞になった。88年の平均発行部数は18万部。天安門事件後、「上海における動乱の拠点」と非難され廃刊。 4 d( |( h0 L+ x0 x * M) O# x8 s( [- u(2007/03/03)
% O. R3 O- z5 @2 [(中央社记者张芳明东京五日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日北京学生举行的反日爱国“五四运动”显示出四月底人民日报主论的强硬路线出现破绽,中共转向总书记赵紫阳柔软路线明显化,学生运动出现和平终止的希望,但是,随后由于保守派的反扑,赵紫阳路线成为梦幻。9 `2 t* Y6 I, Y, l
- Z' ] e% E; z) L/ }, \; a M ■厚い壁、立ちはだかった4 z' W" i3 @* {) u* E
1 @: N% L; o- M4 S8 ^ 北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。: @& _0 D+ J- D. q/ g
6 E( ^) \6 `( c/ S この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。; ~* u) ]0 i1 R, u1 k
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趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。7 r/ l) d* K. p: D/ }
2 L$ Z `- B# z# u z 学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。. x5 g6 ] d0 t+ y( t/ ^( q
& x+ k1 D4 W( y5 B1 ? 学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。 # T& h/ q W3 G* J$ \4 B- r# T# a& V( Z7 S+ H
「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」: s# \" R0 Q6 L j0 @ @6 {
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天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。0 @) s# X2 J0 }' p; F
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張良著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、李首相自身、趙氏に「すばらしい講話で、評判は申し分ありません。明日のADB代表との会見で私も同じように話します」と語っていた(実際、李首相は5日の会見で同趣旨の話をした)。 " B7 W( s& e _! k2 }5 r$ Q' q D( L( \% `& P% [; b. ~ その際、趙氏は「柔らかいトーンにしたのは、学生デモを収束に終息させ、外国の資本家たちに中国の安定を確信させるためだった」と話し、人民日報の4・26社説の見直しを初めて打診した。 / h3 G8 u% V8 Y/ ?0 T; H8 X3 b2 q4 \0 @
それに対し李鵬首相は「政治局常務委員会の決定とトウ小平(しょうへい)同志の講話に基づいており、それはできない」と拒否する。 ( \# ^/ U2 s8 q, z- N2 h; O# k/ r1 b9 |! Y9 G
趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。 % j/ n" O, a) O5 G% S# u: @ " _7 g8 v1 y; C3 Y 許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。* K8 Z# y% ^8 T0 A! ]
b4 |# Z. K2 K0 K8 z# j2 a- J. r 趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。' D- p( z# L8 n1 [5 K5 c+ N+ h
' J) y. w5 A7 n! H1 v# y 翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。$ S2 V* Y- j: V4 V7 [
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「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」 9 h3 O, G2 ?, p. a, R& `9 Z. F9 {" _9 L
人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。5 `# C8 Q" } h o9 \2 B5 w6 v
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3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。 4 N0 N. J9 t8 f- H& [5 n" V5 s 5 m+ C. ]8 C/ Z! p: W7 m 許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。 * }3 K/ E0 T! y8 Z) G* p e/ \ 4 z$ H1 L# Q! t8 F! T/ h' [3 B 趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。 3 h! B0 D' i# ^) _! O- V 8 [ @, r/ [ v+ u ]5 y! W. i7 S2 U8 i 前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正)0 Z7 G. G1 P$ K/ ?5 x3 [
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●=彫の周が丹 + f, e+ V0 j$ a( H( Q, |% V9 [- V6 `' F/ W
■新華社香港支社 国営通信社新華社の香港の出先機関だが、1997年の香港返還前までは報道機関としてだけでなく、中国共産党の対外工作部門と政府の在外公館の機能を併せ持っていた。許家屯氏は83年に党香港工作委書記兼香港支社長(中央委員)になり、香港返還交渉に活躍。趙紫陽氏との関係を疑われ90年に米国に脱出、91年に党を除名された。' }# F* k$ X( X& o# j5 @( R8 W- r
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(2007/03/05 )作者: 日月光 时间: 2007-3-6 08:05
邓小平秘录:邓氏曾为民运对策态度犹豫: Z& K! G6 Z- g& R1 D k
7 x& k' ~7 Q& o(中央社记者张芳明东京六日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日党总书记赵紫阳对出席在北京召开的亚洲开发银行理事大会说明对大陆民运的看法后,拟以对话来收拾事态,邓小平对民运对策曾态度犹豫,学运领袖王丹等采取绝食抗议行动使得情势为之一变。0 ~6 i2 Q; c! B
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“秘录”指出,一九八九年五月四日亚洲开发银行在北京召开理事总会后,党总书记赵紫阳有意经由对话收拾学运。中共于八日和十日分别召开政治局常委会和政治局会议,决定促进与劳工界、媒体和学生的对话,早日召开全人代常委会及检讨处理腐败和民主政治建设具体案。全人代常务委员长万里决定六月二十日前后召开常委会。 ?0 P5 a9 I1 E 8 Z- G3 ?5 l1 w) G中共党中央对民运改以柔软路线因应并非未遭到保守派的抵抗,且在社会各界引起复杂的反应,多数学生回到教室,五月八日时,只有北大等少数学生继续罢课,反应最敏感的是媒体界和知识份子,五四以后,要求“表现自由”的气势增高。& ]; A# }, ^) k/ o1 G$ @
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五月九日,中国青年报发表千名以上新闻从业人员要求和政府对话的信函,新闻报导和社论也出现很大的变化,支持赵紫阳路线的色彩升高。人民日报高层在内部达成共识,采取慎重态度未像中国青年报那样积极报导,主要是担心这种作法会提供反对赵紫阳讲话的藉口而挑拨激化邓小平和赵紫阳之间的矛盾。6 X- b l, r/ y, H
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张良编著的“中国六四真相”指出,杨尚昆国家主席于五月十一日和邓小平见面,指出王震虽反对赵紫阳五四讲话的内容,但是这项讲话确实有助使得示威趋于平静。邓氏则指出,李先念和王震等元老曾来电话要求他留意赵紫阳讲话。他接着指出,数天来一直思考到底是柔软对策还是强硬对策有利于解决问题。 " M9 |) O2 X7 T; r* \) i2 a$ m8 M+ ?; l& [
杨尚昆随即向邓小平试探修改四月二十六日人民日报社论强硬路线的可能性,表示赵紫阳希望能稍微淡化社论的语调。邓氏只回答表示有意了解其他政治局常委的看法,并未表示反感。 ; s4 A. |- d/ B# s2 F: h2 X- N+ U e, b+ f* b7 `' v
当时邓小平脑中最在乎的是四天后苏联共产党书记长戈巴契夫的访中,他和杨尚昆有相同看法,认为历史性的中苏和解不宜在民运示威中进行。 ; U. g) O7 g7 p& n 5 z+ j/ a8 [: g" I就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。% c1 u; W; a; O. ^$ Y5 o
$ k* f0 g0 f5 a6 W6 d5 ~* Q3 ?【トウ小平秘録】(21)第1部 天安門事件 内部分裂8 Q+ V/ O: W7 v' w% n3 b% c
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0 L7 R( G, {1 h9 K* Z* ^ 中国共産党の前総書記、胡耀邦(こようほう)氏(1989年4月15日死去、肩書は当時、以下同)の追悼がきっかけとなった北京の学生たちによる民主化要求の運動は大きなうねりとなり、事態は予断を許さなかった。8 l9 D3 O3 W- i0 \& n l8 |
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89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。 ! b+ ]$ ]5 K" D& W. `# ^: j9 @3 D: x" z" ] @7 g
5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。. c2 ^! }. p# X! I p4 M6 C
2 v1 C) O# G1 F! c) b これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。 3 {2 p7 n* s/ L( Y0 s* y% g. F/ m! i) x, f
柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。 8 G8 l, S) {- @6 Q5 C8 a2 P. C) x/ C, |# h+ P6 m; k
「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」' l! u( z6 [/ J/ B" v7 {
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張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。5 d+ q- w: {6 H! X6 l8 r; d* g
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党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。' R1 r$ e* t5 ~$ v6 a4 L# h
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最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。 4 S/ S9 G* H" |& X1 w 0 m* O5 K: x0 S/ L' J 9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。$ A* j s7 t- x8 b
3 W8 U% w2 u1 x: ~1 Y 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。2 d1 o% V* g- `1 M( ^: e
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しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。; S& R# X. _( W3 q, M" }8 I
& v- ?& g n- u4 r4 d 陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。 ) M" J( V# G1 }1 F7 \ * `0 D* Y: i7 e そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。 4 K/ ^0 I% k/ ~& e/ H# I7 ?+ X5 C " m3 g u/ }% f' ?: L( Z それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。 + X* `4 e' ?4 \) b7 A/ I, e0 ~: L- ]5 T) R! N. P/ t# d9 Q3 C
「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」 0 L& o8 l7 k( u/ c% R3 A8 A# ^3 ^7 x* O# o; m! d
そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」 % [% m) p: ^6 Q' W& [: F# F1 S' Z: p q4 j+ F* U
トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。& T& g* c- }7 E( w5 \- T! r
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トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。8 ^ ?( j$ V% X7 K$ f2 R
/ M" u' k* r2 S% \/ k* v) } 《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》 + V" ~0 }# c( j% y6 {) x9 }+ E. [0 }$ S" n
トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。 ^# ]+ E# m1 V1 ~9 a, c9 ?3 B( l/ h% |! A" `8 {7 ~4 r
彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正) 2 Q$ L1 d* ^ G J4 Q 8 l1 S& q0 z3 z- s L3 B◇ 1 f1 L: l/ p' C8 i ' Y( }# G: Q4 G7 T" u1 s 【用語解説】中国青年報 i8 |* N" [1 A" [ j% B8 t: D
9 T3 N! O/ e; _8 W 共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。0 R+ j% B4 M. ]; w5 `; M( v
9 i, a2 a) w+ p1 v7 n: C2 ^6 y(2007/03/06 )' t7 L) V7 C3 R$ R/ B7 C
; s5 U/ n8 ^+ w! |3 v* K 作者: 日月光 时间: 2007-3-7 10:31
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口 V7 c9 a: _7 E9 ]0 x
中央社! {. B6 l' M4 v* Q" k& A
$ K/ W% q5 y! i& O8 J( a 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。 ! j3 m' V+ I- n1 y5 P* s2 r& D. H: t, J' ^1 {- I
「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。 : ?# y, r) h/ D + v- Y. u( w# E/ ~& J 「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。 : d! R, u5 Y" Q# V# r' i# S% k) ^2 k9 Y0 R
王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。 ; m" M# M$ @" g1 P5 R. B3 p7 _' Z, X: W0 A; x0 q# o
# @# J9 }" K f. ?3 e+ y 但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。 . D# i1 U& m1 n* h _; b+ v6 E! M+ o! {5 R& B3 L; }% ]& P 王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。/ h |+ p- P+ d
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十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。 6 _' k% q6 h9 i$ ]6 U9 n 0 h ~5 `. \) J c* H8 x- I4 u 就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。! {0 ^% C8 H! S# x3 [
" k* h$ I0 Z- ~; w+ ` 邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。( e1 B. C4 ?/ w4 {" k
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对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。8 G( f# i7 f& D0 ~+ f' z
1 u' X% B. D7 w$ z" Z4 {1 J
学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。 $ a D, b& Y* p+ J$ \' y, d, _& A4 t' r6 L% _ b+ [
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【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言% z% s ]: `2 _5 @" q
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■急進派が押し切った7 H$ s, q7 f' b$ V$ e- z) R8 F" r
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1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。5 R' A4 o! [5 |7 f+ b9 V7 k, |- q
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戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。 . z0 m. C0 a7 A/ h( V9 A1 U) h+ [" J, U" b* H$ Y, ]
同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。 6 B+ ^( e8 I3 l3 {( Y$ b # x) _) v/ z& D しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。+ m5 Y! ~( S- b2 K, ]7 |
; l+ ?# I% p. ~) y 絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。. L0 W/ R: f# @+ e/ _3 H
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それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。 ' J; o6 j5 Z9 |* E $ B8 K: I+ M+ |' E( M 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。 - _/ U9 C1 A3 N# E) T& K! [: M% V
王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。9 h2 l* z& m6 i; x- ^/ P
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在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。; d: C& Q3 f8 W3 M
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李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。4 Y+ t% f* g8 S8 Z: G
: z a5 ]( K# D' u 14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。$ N; `9 I! L. r9 f) B. u
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政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 3 o4 o+ ]: ~; n8 _7 H) C+ g* E0 P: t" _3 e" _5 P- r# j6 V, D
13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。( D6 _1 z% b1 Y) {) J0 z" [: P
4 t) G( y/ D4 Y3 [ それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。 8 l5 ~1 m# X1 w4 M( b, n& m L" F/ K3 }: C) R0 J
趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。* K C, y$ E, L' \& @ F
* X4 V$ [, w( L& \5 ` 14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。9 p C5 z; k' T' l9 w x5 c
( C1 i% v- M7 i# b+ L, Y% z5 T
絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正) 7 y0 a+ F0 v7 C5 [5 d$ x" E1 e8 U) E) h+ [- J( W
●=彫の周が丹 : J9 w, T+ h$ E9 P; j" | |1 I$ f( l
◇ ) o& z! g0 @' m \. Z8 i: W4 H& m
【用語解説】中国社会科学院 % k4 s- n4 ?4 t9 s0 T, F& _ / X& e) Q( z7 S8 I' P) Y) O; p; p 中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。 + f9 V+ L% P8 f! ]+ A) K, J a2 h& M2 |' \/ {' t$ r W
(2007/03/07 )
4 U! Q2 l, _$ T: z; t3 S% y$ k$ Q/ o赵紫阳向戈巴契夫说明理由指出,一九八七年十月的第十三届党大会,邓小平虽退出中央委员会,但随后的“一中全会”决定最重要问题需由邓小平掌舵,自那时起,重要问题的处理都必须向邓小平报告,请示他的看法。赵紫阳的这项发言重大,后来成为赵紫阳的罪状,李鹏等指摘赵紫阳泄漏党的秘密决议,把斗争箭头对向邓小平,造成情势更趋恶化。 }1 L `0 A, t
0 N+ H1 p* z& @# ^ s新华社记者杨继绳在“中国改革年代的政治斗争”指出,许多人听到赵紫阳对戈巴契夫的说明之后,都认为赵紫阳潜藏让邓小平背负局势恶化全部责任的意图,赵邓之间的关系为之破裂。赵紫阳的发言经报导后,学生开始攻击邓小平,反对“垂帘政治”,要求老人引退。 5 p5 ~0 T& j( t' s% f& N5 @, c0 ~9 x R6 A) ?5 V
赵紫阳和戈巴契夫会谈后的十六日傍晚,党中央统一战术工作部长阎明复在天安门广场呼吁学生停止绝食,约两千名绝食学生接二连三倒下,王丹和吾尔开希两人提议要求停止绝食,但是绝食学生精神高扬,学运已经失控。 ( A4 W/ q7 g) g/ O% y0 |0 V c7 Z, s- n3 p
十六日当天的示威达五十万人规模,劳工、文化界和新闻界人士参加的人越来越多,大学中大半学生再次罢课,赵紫阳主导的柔软路线走入死胡同已是明显可见。当天晚上,在政治局常务委员会上,赵紫阳和李鹏等激烈争辩,赵紫阳仍主张修改人民日报四月二十六日的社论来解决事态,但是,连过去支持赵紫阳的乔石和胡启立都表示质疑,列席的杨尚昆和薄一波也反对柔软路线。 & z7 N; K! J- u4 p' U, a, l 9 a6 a% x, D. z3 R) _; W" D) a3 r3 E' I赵紫阳和学运一样,逐渐失去退路,欲情势逆转唯有即时中止绝食。赵紫阳在十七日凌晨代表党中央发表书面谈话,肯定学生的爱国热情,承诺党和政府不会进行报复,要求学生中止绝食,回到学校和党中央及政府进行对话。3 Q6 W# B" c" i
邓小平秘录:赵紫阳向绝食学生抱歉来迟了 / S- i, D8 w5 t6 ?2 I中央社 0 V9 f3 c' }5 s e; W1 a3 L & J' u, l0 n: l# d2 V4 {/ l7 ]/ d 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。" @0 c- d3 U- w2 ]3 Q4 i; w( T, ^8 x
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「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。+ Z) p6 N. Z' B
9 f5 a* O" A1 Y x 张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。/ p7 E ]# s& T- d' h4 f% u
: g% y; `; U6 {+ a! e% w5 C( b' f9 O 天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。2 ~3 R, d" g$ m" q' p
: z" E( G6 k; v/ I& M6 q! z7 t 学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。& m. Q$ p B6 o6 H6 P. b) s
- H+ P6 M6 j/ a' ^2 D 「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。 / X; m) J# l) K1 f+ O& k+ r/ b" g" V& `. J: v6 J# z
担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。 7 J6 i+ \; x1 o( R/ ` ! P$ |2 C d/ e' V) t【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令 ) U" L9 o; Q" F- ], p , w' b& {6 c0 e4 p' _3 W `1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。 1 i+ V, u- P H, z2 r$ Y $ E- |) N: X$ c; a; r- y( W- ?% b「来るのが遅すぎた」 1 R/ a4 O3 r( h: m4 t+ m) q: |: C3 _* f, Z4 N. f" M
四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。 5 L2 [: I) h& y9 M4 ]" M6 @1 t. a) H% k x" f3 i- u
張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。 * ~; A5 N- u B( e( a) d+ F. f; C0 U( Z9 c) R
長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。 % f' v0 H8 j! c1 ^ ) M, R3 t9 ^6 l q, ]+ s A7 I 「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」 ' A) U6 t9 y1 ^ , Z1 o1 X5 u5 V 数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。 , ]0 ?2 J) {( v5 H8 R5 @: m! K$ j
「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。- Y P! Z& a5 S# l- {3 U6 T
# w! A3 g9 s/ ]; D8 p; Y8 v' D. J
文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。9 Y0 z. e7 C i% u& E+ e
6 `. N7 N) f3 m0 | 「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。 8 o2 w% L- ]* t 7 L9 O3 ^$ @8 A* b トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。. \) L. x7 r$ G0 n$ Y
# G0 X; y" I2 I; ? 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。2 ~3 H- b* A/ }0 h& S+ d
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19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。 ; K d u; L$ X# f5 D) t1 u. }1 F0 n+ ?- T# A6 S1 ]7 ~. Q
「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」/ O/ {* [9 K1 G
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学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。8 |# v; [* U7 q) i8 q) A
# w4 ]2 Y( D+ @2 E 朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。 0 C% c& R) c# D- S) h) }8 M 7 w) r ?7 ]9 x 「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」 W1 I; o3 E6 R. P
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楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。 7 K' s' Y" B/ k( B" ]3 C 1 x+ ?1 _- h" I" t: q" o0 }& X: b7 U 李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。 ! V) o. h/ V% R& u% y3 Z 9 W. d* Y1 R0 k S" e 趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。: |: w% O, E, w* | a. \
- U Z" x% n: s& T 絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。 - F. _5 n: ~6 [8 ~) M- O& p% x & i, z2 b8 M. j$ Z( ^ 新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正) 8 ?( s1 z4 T8 u $ O B: D. T: w' S5 T5 o3 n( L: [& D7 } ◇ y5 t3 A1 ~8 `+ H" v
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【用語解説】中央軍事委員会6 y4 L$ \6 U; B8 O
: \9 N+ `) p9 s. M; N) r 最高軍事指導機関で、トップの主席は軍統帥権を持つ。党と国家の2つに分かれているが、実質的な違いはない。トウ小平氏は81年6月、主席に就任。当時は党副主席で、それまで毛沢東、華国鋒と党主席が兼任してきた前例を破った。87年の党大会で中央委員を辞退した際、党規約を改正し軍事委主席を続投、江沢民氏も中央委員引退後約2年間、主席に留任した。戒厳令布告は首相権限だが、軍動員命令権は軍事委主席にある。 / i, @. H( ]# a4 @ H % l* J( @% B6 Q/ P& I; S(2007/03/10 ) 5 N/ B+ v G2 V
7 J ]$ T k/ S ) b- m j9 a# X8 V3 D: V 8 g) O" H3 Q5 _1989年5月19日未明、北京・天安門広場で学生たちに絶食の中止を訴える趙紫陽氏。右後方は温家宝・党中央弁公庁主任(現首相)
邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态 ! O& M! f+ ]5 `( I! S4 _: r- U 7 @9 a5 H7 P8 u$ E, u, W1 S(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。 % v$ M' ?0 i: Z6 P0 E ' i9 x: l# m ?“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。 4 k& F: l% |$ e3 p2 z" t但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。 + S# c% v+ B0 Q0 i5 e, O3 ~' G) e- d- h5 H
这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。 ; Q: g4 e& y) E6 g* \# M3 @7 m* t/ G, ]
三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。 1 n0 k( x& r& w, {5 Z2 k& A: C6 {9 T; b3 b
张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。 % S |( {6 _% G: l! S' o2 F7 q; e; B Z/ d- n/ R f9 s+ h
“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。* W- y: [. x. H. T0 h: s
s; I9 e: B4 M; v( a) P; V( Z% |2 Z% m
三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。* k) q7 W; b) g4 H8 n
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就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。 \4 P+ e4 @" U- E6 Q1 Y- F7 c& ~& x1 E* }( _/ x3 L
【トウ小平秘録】(30)第1部 天安門事件 軍の発砲3 g. ^! a* m9 g) P3 N
N8 e% c& w$ P! ]. r
1989年6月2日夜、戒厳部隊は「清場(チンチャン」(天安門広場の占拠者一掃)作戦に入る。しかし北京市内への進入路は何重ものバリケードが築かれ、市民らの抵抗は必至だ。強行すれば流血は避けられない。 0 }' h2 ]/ b9 E. n, J& l3 c) k q, ^0 {& V u
これは本物の戦争だ : Q( Y' n6 z$ G; G. v* ]# V* R F. F& F6 {$ o# x7 ]
そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。 3 F! P$ ?' \' M2 ~4 i. G# X1 g) h( J, V
それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。' `, Y, B% \7 S+ ]. S$ G
4 l5 ~" N" Q8 F 3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。 8 e$ {8 A- U! A( Z0 f) N / l. l9 w# K0 r' s 「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」0 E Y# | s2 Y7 F
2 ]) H8 i( }, v, }1 p 情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。 2 ^' k; ~4 @/ I# ^4 D6 [3 V3 _- t2 u+ Y2 k. n
3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。 - _5 g1 P: T$ `8 `2 O2 M6 C+ c7 L \$ p+ t0 b0 @/ H/ |6 Z
新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 - R2 R( f8 N( g; G* P& j. g9 c* y, p3 ^) t2 N/ r. p
3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。 7 i2 W# F3 m5 Y( [3 j/ u$ ] 6 |. i3 k5 c! h2 v+ ` 張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。' [* I0 [2 g R) r+ F" p
& G( d6 \" _! K* {8 r4 X2 o0 J
李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。 8 o( c. O+ ~+ n1 c6 [6 W0 x0 V, P- o* Z! ~
「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」5 _# a0 ^3 ?% y- v
( x8 ~% V2 B! s$ }! R" X; M- Z* L 楊氏は最後にこう念を押した。 $ U/ g; `9 t: V0 ^ ) W) I8 H4 M0 q' l 「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」 ' y/ e$ r, X7 d1 L % L8 X7 X; R4 l. {( e! @ 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。 4 p* ~. ^; j7 v1 o# M) ^1 ?! N, Q' x3 {' K3 r% A3 i! s( l7 P2 h
3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。 8 b: |! B+ K) l9 G O4 ~9 R9 I" G & p% K2 A+ `# X4 v0 A8 e0 o 当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。4 Q" E/ J. L1 q* U/ U: r5 ^9 Q2 a. L! L
【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行 , X8 o, x- K0 ^. z+ Q) p( B; B; q" Q5 n) X
春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。6 Z/ H# i. `9 Y& g: U. s7 b
: ?7 ]8 O! t. d3 z, k
/ O @$ O+ }, e9 c- P8 Y* A期するものがあった( y; B5 B8 M) @# Z8 B9 J y; o J
# l4 E3 f" ]! F% d 普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。 * y4 y( y) h' }* w" y7 p1 N1 L 0 A2 z- s1 h; q% h6 d, w$ m- [; V 午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。8 g7 P' e; o3 q; F ^0 c" W
H! \- S% E; L( J6 { 緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。/ t& R( p" X& L. C! K) F( }- K
, q- P* [, h- w6 [; s. j, r1 H- i# f 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。! {- f8 i# E7 E- u! S
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「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」) X* N, ?* _- x+ C" e: j2 F7 @
* O: e7 a4 x, m0 [" a トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。 * d4 z: B& B9 D' b+ r5 U( U9 z6 E! U+ `3 G k' b
引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。 - x9 N0 d1 {! Y* ^& p9 T9 B! X( D- x- _) j
トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。 $ D- P2 }& d3 d6 `+ L" U5 X: l, R# N8 T
≪天安門のツケがきた≫ ; a G: f; n" A0 K( Z4 X- o0 k/ y+ e" R
元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。 7 u% |* b+ ?+ | A% Q ' ?* K* m! X @$ |. E v 「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」 & W# P& [$ L. u+ s! K! \ 7 i! N: M0 j/ D4 L& Q' \ 広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。" E; Z8 B$ p2 M$ m) u0 ^+ S: {7 ^
7 h7 _9 v- M/ C) W& ? 「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」# F- N, |- `2 x4 ]3 w2 Q
/ ]- Q' n, A% v0 K 1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。 " { A$ V+ V- o) t+ o' Y: u$ y, c! e5 v+ ~4 L, a& Z' Z
身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。. [+ D2 K# s/ y9 [
5 x( Z' J; g2 |5 S- _) h" \ しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。* G! Q7 y, f0 O K5 C
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トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。 ' \' P* W' D1 q( `, W+ o6 y- _7 s/ |9 r- c
天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。7 _! h4 O& X# Q. |& G
/ C Y; B$ ^( i- Q 計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。 4 x1 H- b) z7 ^0 e$ B5 k ) \1 G; [; P& w5 }; ?, f" v その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。 9 s$ Z4 X& D# C* Q2 w# v, O5 U2 f
トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正)5 G6 A/ `# f" u! W+ d$ C
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■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。0 K, L; }4 K, C4 X0 }6 y
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0 K9 l s3 |* m3 u6 }第1部あらすじ 0 G1 L$ M) ?/ p - X8 _( }, W4 p$ v$ V6 Q" G 死者が少なくとも数百人にのぼったといわれる天安門事件(1989年6月4日)は中国現代史の大きな分岐点として後世に伝えられよう。 - [) S. a! K0 N5 k6 ` ; _! ^- s" L; F 「トウ小平秘録・第1部天安門事件」では、トウ小平氏が、なぜ人民解放軍を出動させ、デモを続ける学生や労働者らを武力で鎮圧する事態に至ったのか、背景を掘り下げた。 - }$ a0 k! x9 c' N% z+ m& d6 N# I: \# H$ z
89年4月、急死した中国共産党の改革派指導者・胡耀邦前総書記(肩書は当時、以下同)の追悼集会を契機に、北京の大学生らは天安門広場で集会を繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。党指導部内では強い姿勢で臨むべきだとする李鵬首相・長老ら保守グループと、対話による解決を主張する趙紫陽総書記ら改革派が対立し、深刻な権力闘争に発展した。' w) S, z! B/ c% y8 ^0 g7 T
- j% t) M/ \" _6 W4 y/ S 改革・開放を推進し、国民に豊かさと自由をもたらそうとの思いを抱くトウ小平氏だが、天安門事件で自らの路線の執行者である趙総書記を切り捨てる決断を強いられた。改革・開放のためには国の安定、つまり一党独裁の社会主義体制堅持が不可欠と考えたからだ。 " G1 q0 s' ?2 m0 P o4 z5 X) ^: R- X7 ]5 w
第1部は最終回(32)で「天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力抗争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない」とも指摘している。3 k9 Y P4 Z& H- }6 D1 Y
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-18 11:40 编辑 ]
9 K8 D; V1 @# ~- B8 |# U1 f& N2 S トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。 ; J: |* }' F A# m, S* M2 D( c 2 V2 G- |0 c; A+ M) H6 n$ j0 Q トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。3 o( \0 S! N/ `1 h5 K( j
2 w- r% R% r0 e& G% l) x 劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。 9 t; k) X- [: U, G6 D! a8 q# Z' C1 R ^7 }2 T
天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。 $ D- |' }2 F& m6 C8 r9 L: u" e3 q- U& y
しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。: ~7 P9 b# W9 z3 ?
5 Y+ D+ D+ @) D6 K8 _( F0 S トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。 + @( m$ F7 C( T; }6 a5 z) d $ i& Z9 }% \/ o! r5 P それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正)! o+ `) K2 v5 v2 D/ Z
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■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。作者: 日月光 时间: 2007-4-21 09:51
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 . c3 U. g# X+ n
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1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。 . E6 n: d0 b1 S4 k) H2 E5 S9 [/ \4 d7 a
米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。1 G( w' l8 O+ x& U8 w3 s
# P/ X8 N, M5 \3 p1 \; R' F 本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。 9 B6 H% q2 n4 F o' m; T1 k* F, `) N. q: V* R( _
しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。% o- R7 K& D7 D- i: \2 {0 t
+ l! ]- M& M9 V 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。 - \ @' f# Z; V3 W/ f: i f$ l( L A; P+ F2 V" C
私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。/ C- v# @$ d: b. P" k9 s
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その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。3 B u* q; e4 b3 T7 j# B
. A+ w8 X7 Q7 I$ ` u7 e そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。 ) M# S0 h. [& T5 y 9 ~, f# Z# ~4 Y; e+ X! b 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。4 G/ e+ {9 g. G
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べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。$ \; l' W* r7 H4 H% B) a
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トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。$ l* h6 @% O) p) f' r; ~
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) w) z3 B0 S& ~2 b4 c 6 y7 X; b; U7 H; O; N; X$ O/ Q; I◇ 2 t* c" R: T& B9 |- G7 N7 m 9 Y9 n* Y' ^. u) c 6 H& l- U [( L. m7 X& q8 R4 M $ `! U8 D, w- u' A! }+ y' c米特使が秘密訪中した 2 w1 z( c. Z/ P! |: ]; R- L& j 9 E4 W! m0 T6 z& l 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。4 d( _! [1 g4 P! n$ f1 f& R& d/ {' `! Y
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しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。6 R/ |. \$ U/ u' _ S8 l% ]1 J! Z2 F
) u9 e' m* V& b) P ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。, V, I& u2 H y) i# R
* O8 ?, @/ h8 C7 Q" s" N ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。8 _7 h5 O8 }/ T
0 L5 p1 P5 O& r! t 「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」% h/ }3 I& }6 L$ p4 Q
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中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。 0 d* S/ S$ R% `, A s! A, Y) ~1 M' u& ]
トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。' O1 A3 W: q0 F6 g1 J6 ?1 r
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「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」 1 d' s9 k2 S6 _& X 7 q$ ^1 K! T3 h3 x 米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。 2 O4 X b( Q l \0 i# Z" C) r) ~" n8 |: Q, ?
北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正)" \9 G* Q$ L& a
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【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。 / c* g5 ~/ P/ d 2 ]% ?9 q/ Z2 Q6 G" D8 i ●=深のさんずいを王に : |( N( c B U; r8 ` % d3 z% z4 S# m% F 8 x# Q: ?1 c9 c# d # v0 U6 S. H2 x! |/ w天安門事件の直後、「トウ小平氏毒殺」「軍はすでに内戦状態」といったデマを報じた1989年6月7日付の香港各紙 + k$ D- I" f) r0 Q3 m+ k; m I" ^8 G7 {+ U! Q, g$ |) ]