; u- D. t1 _& L' p2 ^5 d 改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみる活気を回復した。) M" _1 q* A! H/ M6 g
8 N/ \4 T4 d* f g2 n4 P! f 豊かさと自由-だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だった。 : g6 p8 ]# ?+ t* _" U3 V1 f0 w 7 j# ^. O- {+ Y% U1 K , a' {6 D$ S/ i2 q8 U- T- w0 o
" y- m: K y! p' I+ C+ L. `
矛盾生んだ「先富論」 $ D% c$ g9 ~. e$ H3 o ) d; y! W7 j9 L4 j" d- k トウ小平氏は着想力に富んだ現実主義者だった。改革・開放の初期、深センなどに4つの経済特別区を設け、市場経済の実験場にしたり、19世紀末以来、英国の植民地だった香港の制度など現状維持を認める「1国2制度」というアイデアを打ち出し、主権回復に成功したりした。 7 |1 a2 G# U: y) s! f 0 H6 i5 b2 @ w: w! k { それは、台湾への統一呼びかけの武器にもなっている。3 B: {9 j. k, m+ e' W
3 E3 U# V- b8 t9 T9 W* R 1993年9月、トウ氏は弟のトウ墾(こん)氏と会話している。トウ氏は、天安門事件(89年6月)後間もなく引退したが、事件後に保守回帰が強まると、南方視察に出て、改革加速を号令する南巡講話(92年)を発表、経済を成長軌道に戻すのに成功していた。 : Y+ j! o! L' @ g* i% F# S . H+ F! F: q5 C5 f トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。 ) _6 T' [% M2 Z6 P2 G8 O2 o + O* v7 k/ h; w3 R5 B 「富をどう分配するかは大問題だ」 0 ]9 i4 N7 b% r$ o4 `) c7 b: Q' y2 g# Q5 j7 A$ {
「この問題の解決は発展を図るより困難だ」7 c5 g) ?7 l) B: c1 p& u
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「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」$ t* J1 F' e4 \+ _) w# \
- c& J8 @& C* _4 R; \) W; F% j トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。; J! a. `( S* u$ `/ w3 g
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トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。2 e2 @; s% e3 F
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経済に関しては、社会主義の枠を突破する革新派だったが、政治に関しては確固たる保守派だった。理論面にとどまらない。トウ氏は、路線上のライバルだった陳雲(ちんうん)氏(1905~95年)を含め長老との対立を避け、長老政治の頂点に立って権力を振るった。政治改革を志向、長老と対立した胡耀邦(こようほう)(1915~89年)、趙紫陽(ちょうしよう)(1919~2005年)両総書記も切り捨てた理由だ。 2 R6 i) n; W5 h5 t' P3 A* S + [2 s3 g* \. |- v* `. `0 G 毛沢東と違い、トウ氏は元気なうちに現役を引退、江沢民氏を総書記に指名し、92年には江氏の後釜に胡錦濤氏を内定した。両氏の使命はトウ路線の継承だ。2 I) r5 t$ x' j% f3 g4 X
邓小平秘录:老邓听到胡耀邦去世猛抽烟' d' h/ `3 j2 p
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日本产经新闻今天连载「邓小平秘录」,报导一九八九年四月十五日胡耀邦由於心脏病发作去世,邓小平听到这项消息熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,但片刻后开始猛吸烟,想必他警戒的是民众对胡耀邦死亡的反应。- U. ?( t D$ [6 n6 I/ ?0 V
9 l* B) {4 f/ ?" {0 L/ K文中指出,今年一月十五日薄一波去世,他是曾在一九八九年天安门镇压事件采取强硬路线的八大元老最后死去的一位,他也是在一九八七年一月积极支持将当时担任党总书记的胡耀邦解任的一位。后者由於对一九八六年十二月安徽合肥学生民主化示威表示应放任无产阶级自由化而和保守派元老对上。 0 _% M- W$ }8 c- x) t7 F6 \: m) z5 }# \' [
秘录指出,「亚洲周刊」曾报导,当时担任贵州书记的胡锦涛曾针对胡耀邦被解职一事对部下表示(处分)相当不公平。学生和知识份子很多人虽也都有相同的看法,但并未发生抗议事件,改革派的赵紫阳被选为胡耀邦的后任也是原因之一。2 f! s6 x n i( I- r
' @7 [8 {. x! b S% ]. v1 `胡耀邦去世消息传出后的十五日晚上,北大等部份大学贴出追悼胡耀邦的大字报,十六日,大字报扩大至二十所大学,批评元老政治的内容也增加,一般市民也开始追悼胡氏,十七日晚上,中国政法大学等学生在天安门广场的示威揭开各大学竞相组织示威并扩大规模,由追悼胡耀邦而转为攻击保守派。& x b+ H% d" M* z) }3 G
1 S( y! T( B# M$ R胡耀邦的突然去世带给中共领导阶层冲击,据「中国六四真相」报导指出,赵紫阳总书记接获中央办公室主任温家宝的报告后召开政治局紧急会议,决定讣文内容和葬礼程序并於午后报告邓小平,邓氏由於已接获报告而显得相当平静,但政治秘书王家瑞事后透露,当邓小平得知胡耀邦去世的消息后熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,片刻后开始猛吸烟。9 A3 p3 J/ I3 Y* I: V
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邓小平针对胡耀邦的去世同意赵紫阳报告提议将胡氏定位为党卓越的领导者,对由於主张「无产阶级自由化」而被迫下台的胡耀邦来说是异例的待遇,邓小平对胡耀邦去世保持戒心的想必是「民众的反应」。 ; K: `( _1 a% N* f' y " V9 q& B6 h' p+ t一九七六年一月,毛泽民未出席周恩来首相的追悼大会而引起民众的怀疑,发表追悼周氏演说的邓小平被迫下台,同年三月底开始,追悼周恩来的活动遭到镇压,发展成为第一次天安门事件。中国资深记者指出,不仅是邓小平,所有领导阶层都想避免一九七六年事件的重现。: o/ h" f8 C- s% h$ c# s( Y
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一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。7 g6 E. I" m) s( V5 ^
- \6 x" @$ B6 {1 b8 n5 _6 S【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死 . i* {$ l/ z' p9 w. C7 s+ {/ @% x: Y* w1 T: W% o
今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。. W V1 S1 U- y
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猛然とたばこを吸った1 u" I7 r6 e( Y2 h
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天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。# O2 \) ]4 z* l' G
/ t1 u/ p ]9 Z5 X- m: C 胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。3 H7 M1 O0 e& I& h5 H! k
, g1 O# G/ L& o1 o2 y 当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。( B( R( ?" d% P+ R2 G
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そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。 & W4 }; z" l0 d4 P% b0 c& ^# O1 K+ S- I8 H; }# T" q* W6 e# K
89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。# f0 t+ Q- h/ u' O1 _0 [0 M8 a
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予感通りに事態は展開していく。 8 }$ ~% S5 S) D+ a { h % r. m+ I4 `6 G! a% ?, L" U1 N/ @ 訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。 0 U, G* r1 K6 m5 n9 I& {- ~+ u3 ~ 8 N" p3 T" X8 d/ { そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。$ t5 Y0 z& A0 t0 t- Z
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胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。' C$ q! w' m# [4 M G: Y
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「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」 J6 m9 O/ z# G1 {
; P9 o+ g) D* J6 ?3 w: A 胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。$ X: Y# y2 P; n9 z9 x6 w
. k# r" R* V% b 胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。& x! h, B! x0 ?/ Q$ e1 h: f
/ J: I/ I; d& S: s 半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。 # v4 W, ~2 ~: H6 Q) q# e) R0 E% X
むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。$ V! L& `# K/ ?8 H
1 T( Z2 |3 {) c, n$ }+ d& n( `: E 「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。 8 c' A2 R$ x% y) Q. _* ?+ J! a4 _3 i' K4 w5 S+ ~
天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。" J, t! L" p! v M. q" x! F
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さまざまな立場の人が胡氏死去に不穏な予感を持っていた。学生のデモが始まると予感は現実に変わり、悲劇へと向かっていった。 # N* C5 s, U4 {: n ]7 ^: h. g& J1 f6 O* v6 ^
その経緯を追う前に、事件の背景をみていきたい。 $ M+ m% Z- z2 L9 t! M# l ' c, Z: N1 P/ q. V, s (中国総局長 伊藤正) " e9 U0 N# m3 \3 H7 \8 a" w ; U. }% I5 C* C* C) @/ D◇& V9 z! e5 @, Z) k
; u/ h8 h7 j3 r0 x【用語解説】8大長老 . ~7 G( Z5 `4 O9 u" v, V& u4 L8 Q) `( x8 t
トウ小平・中央軍事委員会主席▽陳雲・中央顧問委員会主任▽楊尚昆・国家主席▽薄一波・中央顧委副主任▽彭真・前全人代常務委員長▽李先念・全国政治協商会議主席▽王震・国家副主席▽トウ穎超・前全国政治協商会議主席(周恩来元首相夫人)-の8人。いずれも革命第1世代の共産党幹部で、党内で大きな発言力をもっていた(肩書きは89年6月当時) z6 U8 x- z% H( I: Q7 z+ n$ d3 g3 P ! o m, R \2 p7 u7 h(2007/02/16 07:48)! {9 b. }* u0 F# O2 ^) i
4 ~0 A6 {6 N2 ~# X; z. ?' ^# U' s) ]2 V1 b' @ a3 P
' E8 n1 f8 I/ E ) z8 q) e b1 }! \! z反党活動の証拠収集 6 E* I1 C- ?5 L 2 M, T F- r" j# l 天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。* ]8 R* b5 t i: s6 z# M
$ Y/ D2 e% v, t1 e$ u7 a) M' L 方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。 * A8 E! Z& d, [8 q/ Q * M( }" E- F7 D: t 「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。 ! X; ]& }" E% r. o* T% f & k- p/ c* G! I5 s# `2 |: X& n その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。 n' e1 B5 G( N! R5 Y0 y( H 3 Z) g% V' F6 } A$ \0 f 天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。 4 b! q0 D/ B" Z- Q3 { + \+ w6 N- O9 m( x7 `+ E8 [2 V1 i/ Q 陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。 2 W; @ ^5 s. L; }4 }! @ & I; F; O8 E2 d. T 「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」/ F8 @/ k. O8 L$ E& s% R1 d* S3 T
( J0 O1 g$ @+ k- |
「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」/ Q& ? |* n2 b
邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭 ! `% C; N7 z5 a, J8 S7 W4 J% H# o. a3 G x* q* ~8 d% u( V# H- u
日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。% L" o \- k- Z6 h, S
- Y' l: Q; Q4 ^4 ^' S; X
文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。 # e4 P9 @1 \. ], F2 L 6 q4 j; w+ T& D* ] 文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。; `4 `8 p7 x& s. F2 M4 N
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拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。3 M( ], O) u& ~! |9 |& U& R5 m
) ~, V& `6 W% j 胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。+ P2 R K1 Z1 n% h2 O2 D$ q
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「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。 - y8 P4 o. r0 ?4 l ) R+ X0 X( K. x& x# L) w0 G E 根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社. K( |2 H: R3 k3 m* j1 b
+ s/ `5 h! q) z% G6 o' T【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ+ |4 Q. ~) {! |) Q) R+ u
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中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。 0 a8 S( ]( M; \; c! ^: D- s1 n( h6 N& H' N1 P
その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。% ~" {' V s) H# @( F* |' s
' f1 r& ?; I5 O/ O 国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。 : b8 u2 }1 j" [" |& C% R# H, ~ ^ # e3 s# ?' g1 ? Q& W4 y 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。 ' E. s9 M/ c" q! ] 6 n6 Q5 R% D( w 長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。9 E% m9 M3 O* M* J; x `* j% M
' a7 B9 c4 x7 X: l" t これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。3 T* l# Y+ c! \( o* g# E
4 k x) U, d) k& E: ] 「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」; D f! e+ q+ C9 [
0 f B! L' z' d& G3 x 「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」& g% Y5 `( I# q3 r, S' l
" E* K+ n. V+ V: r. m& P- y 同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。/ |9 ?* C [) n
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「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」 + J" g* ] ~& H1 i q 5 G4 I( b# x t3 a 王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。5 Q) K O5 I8 Y( @
2 w9 k3 g4 ]. P0 n A I1 V$ \ ≪胡耀邦は声上げ泣いた≫* I' u' q$ U1 C8 X: N5 _
4 _" G8 W# O$ h外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市) 6 X6 x* H4 V4 b, U* b$ O e. A+ P0 ~' Y0 E/ H E% R. |
胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。 / n$ e8 n6 X4 n: h& ]- m) R' ] 0 ~# J9 o3 Z& c2 K1 C& }# k- m 胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。 , S7 J* G5 b. ~$ p) `! }4 W 7 W) U4 r2 h O6 ~ 「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。# h i8 N6 R4 x# ?5 e
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その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。' ~) Y* E8 v+ g9 R+ c4 B' U/ T' H! S8 V
8 ~9 J$ a- L i* O
「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)5 ~$ y' z9 l9 W2 ~6 w F, H
3 [+ z/ W( ~! |" o' w) q/ M" @7 f& d 趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。 ! j$ V9 J$ s0 w- y1 v( u) b' N. @+ e% O; a' Z( H6 \8 T
「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」)* o/ k, I$ K4 J7 G
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生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。# R+ O% c/ h- r- b. u0 z
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それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。 0 l) L, o1 O% a# t9 z5 q* a. {) A! T4 U
「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」 " T& S6 h+ |& y5 p: b b; L3 m0 f0 ~6 I( O
採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正) , Q1 g9 p9 V+ S3 }0 O' U) U& y * F6 h0 v x$ h+ @! T0 V& n0 X$ R [/ b + w6 o3 k* i! E, a + l( l7 w9 g, m8 J5 c/ T4 A4 a & ^& A. y, H( ~) t■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。 # K1 g- K9 Z' z' ` + V, B1 a( y- s9 |' @ g7 R5 ^( V2 e$ ?
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( B* H; _* d, |$ }/ Z: }1 [外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市) " S$ [* h9 Z* P. ^ * X l( h! y( g3 E: c! F0 l9 C- E z% ~2 h6 J- K
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" Y3 |9 D( w+ S! Z8 c7 B* V , y1 S% S7 K' m4 `( ?. H" u . v+ W& [' K; \0 E( RChina honours man who reshaped world: D8 U: x8 {+ e6 Y8 E% [! R; G
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. 8 t% R6 E0 J1 u; `+ X& R1 J8 I6 ?1 \: h6 x+ A
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. + N* x- c: i* M& a& z) i
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But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. 2 |0 j5 Y6 I5 e 9 L2 W. N2 H' D7 XHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. ! k- {9 S) ?- z6 ?& q- C
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“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” 5 X7 B1 G& S n/ g8 T1 v ) E4 f. c& E6 aMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. 5 {6 @$ G/ w" O: u
7 {3 E) [0 M) }4 h# Z& x( B# QMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 8 E' N' R" r S. D$ j* I5 {7 Q" R
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” ( ~; |2 o: |& ?2 P8 k1 c9 Z3 f, `. K" E
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. . {3 r" [" D, K4 V6 c
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Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. % f, n& ~7 U9 z( P! f8 S& E
9 q5 v/ ?( l' p( d) J9 g
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” , e8 V0 E4 `8 K# B. |' q! C+ Y, N, s
0 r2 l/ B* m |
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 6 {1 A, T# t. D' k W1 d( |( ~0 L 5 A& E3 E2 `( p0 a9 M$ \5 \1 I2 xMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” * ~# b6 K" H5 z) u3 O
4 q1 ~$ v: m* D0 @9 L1 AMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. ' U' U3 e- x- s* D" J 2 e6 I# E' f; D, s9 A2 @But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. # |9 t+ ]2 v3 g, q+ u5 Q5 w
8 _7 M z8 x8 E& t+ e2 ZHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” ; J' r; z6 T1 _4 I# P2 F# M
4 S- g# z* y% ?! ?5 Y5 J+ p `* SLong road to riches + c. l3 k- I3 D# W% Q2 x ' L0 N' h1 ]0 K7 Z3 c% L- cNow 8 s' R! E `6 f; K3 G
( g' p: u6 u+ j6 D( I
Population in cities: 550 million 9 [5 P% e4 k4 v) C1 C# h+ o% ^% V) K- i0 V9 K5 c: R; k
Gross domestic product: $10 trillion ( A6 J; G6 G3 z $ S4 I; B) I8 g2 \$ [/ k1 `Oil consumption: 6.5 million barrels a day 6 T& C8 ^8 J- r
0 \9 J6 S* R& c/ w X$ ?9 I0 SPopulation below the poverty line: 130 million 4 g" C6 E4 v7 P
5 y1 a, D5 r* K. ^/ L- W) r
Ten years ago0 z( X1 Y; c$ ^5 I7 _
; T0 c# T% o! x; r6 l$ d8 pPopulation in cities: 370 million ( ]$ t2 }: j3 `) x) G k
4 t R Z# D2 \; d3 t0 b W
Gross domestic product: $4 trillion + z1 k# Q: J5 T& j2 O" F, v" C7 N' D& G% H) s, _
Oil consumption: 3.9 million barrels a day 2 `/ E- J! n1 t7 i) N- q& }8 U& `7 p+ H( t! Q9 k2 x/ U" _8 M
Exports: $182 billion 1 @/ J( V! c- r! j- ^0 S- ~; n : ?# J2 e4 z0 K& g5 L4 pPopulation below the poverty line: 120 million 4 H: a# z! V. b8 P( _4 d
. ]' X0 l ?# m9 L5 X* e! B* @% |Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies ! n0 k' L7 V% B/ i- t1 K 1 T* Y M9 M5 P' Z4 ? * w2 N! R( G8 k0 Y1 n2 t: O“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。4 j. H" \( T6 w/ X
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
评说邓小平 难避六四和“先富起来”- a) u9 s; Q% a9 }. y* N' O7 k
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今年2月19日是中共领导人邓小平去世10周年,北京官方没有大张旗鼓地纪念,胡锦涛和温家宝也没有对邓去世十周年发表任何讲话和评论。+ Y0 J# s$ h4 C) _0 E
* Q b1 e5 }/ P 日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。* m' A+ v! u3 l. `1 B8 M! e
/ }* @: X; v- X5 M: M; N 文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。! A$ l$ r6 a& V' L G
% \. X# }/ W: j4 s+ @; t 根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。. w/ ^ h) d* ]3 a
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两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。 % V$ D! O- k% L& {8 w* A) D( e' s. j' k5 ~" ?
十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。 1 {/ q, B% W' q/ D' t" a# X, e8 ]5 u+ D b) w5 D
十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。3 q( F, Q3 t0 _5 n' Z" x
3 B# m( Q0 `8 n. B5 H" ?- B 二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。 * O6 \+ S" x: n' @" T* B- f 1 s4 g: m5 w% \* R 这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。 % ~3 q. |, s2 D- u' ~0 V0 f % F9 ^+ r* M w7 h6 Y 由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 0 a3 n+ X) g. { n5 T; S4 p) p3 ^9 v9 X
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【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件 L8 k6 i: {( `4 g
0 C. h' S: A7 ?/ y■下心ある者を警戒せよ. [/ N+ F p6 h, u8 O
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異変は、新華門事件から始まった。 & U! `# |% \4 @5 f3 }9 i& D/ A& X! p + I2 a4 Q2 o1 ^! d, ] 1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。 B6 r$ \8 j J, \+ O9 E6 P
1 x) E% `1 @8 c- v それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。 , W, c- o; w/ s+ z! L9 Q7 p$ K; F! ]' }# R: c
いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。 F5 L1 F* s: v% B $ b5 I! l$ x6 D" Z, q4 G どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。4 p" H( T5 r1 q1 k9 e
. W# {9 U1 a v6 `/ ^2 t 当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。 - U& R+ d# I/ ^5 D/ S' M% E# x& a2 `1 U# M' k% w/ b$ v$ v' s
楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。7 j2 [& c6 K4 E
1 l/ g3 m9 h, r l5 A
まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。 % @' u, x) M& ^ U 8 K) A: n$ Y9 N. \2 s: S0 @+ h a: ? 党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。 + h# x3 |, Z) T) b $ F* {( L j' [1 e 89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。 # B$ i( p! C8 J: [8 x2 e/ C0 c. W3 W) f* O) C- g
4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。0 P+ m9 v' t2 ?# t, E- Z
( E- S; X- u, y, c. g& @1 X
4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。, H* I! n- t/ C5 @- \3 m$ a
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この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。( N) C3 V2 ~+ N% s# d
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「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。+ q) |7 v0 S8 L9 c
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「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。+ `8 e4 |6 j9 ?) y6 C$ s% e+ G
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全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。 1 k: f) y7 H; f, R* n- k( n( E5 l- d- i; P/ K" w: ?
この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。 - [8 I4 \( b, D& Q3 R7 P5 [9 U& {, Y j
天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。 ) V% I& v- S8 C3 P* h |( G9 g/ m/ J0 \/ Y* }3 K& Y7 s
保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正) . E; N7 o5 {" Z D ; x" ?) O7 a/ _4 ?5 a! c% S. ]9 q9 ]1 L ■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。6 O" @# U8 d# n* K
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(2007/02/26 07:41)* c. N9 h1 V! G0 e) P4 X" Y1 \
0 {4 s) }( f% x$ ]* e" C& M渡过无数权力斗争考验且深知邓小平等元老保守思想的赵紫阳何以作了危险的选择?文中引述赵紫阳于公元两千年五月接受新华社记者访问的发言指出,公安人员针对四月十八日学生前往新华门示威事件拍摄的录影带显示在队伍前面的数百名学生遵守纪律,且二十二日的胡耀邦追悼大会,虽有数万名学生聚集天安门广场,但整体而言是守秩序,并未发生任何事情。 * t* v X6 S7 _- X1 o( U* s. F; |: G. ~) O. ]4 a& \
“秘录”指出,赵紫阳对学生示威情况的看法和李鹏等保守派形成对比,他私下一定认为学生运动是针对保守派而有利于自己,提供挽回一九八八年秋天以后所失去实权的机会,若访问北韩期间,事态能够加以收拾的话最好,否则将是轮到自己表现的机会。: P( @4 N( T9 }. r& T, N5 m6 L
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赵紫阳的误算是他出发前往平壤不久,李鹏总理等召开会议,决定采取强硬方针,封锁学生示威运动,当时最高权力者支持这项方针。$ R4 O; D0 B1 M$ {
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【トウ小平秘録】(15)第1部 天安門事件 危険な選択 E' r. I0 _$ j; r! y5 W+ u
& }/ ?/ U5 @: d- y9 B; v3 `- P見通しが甘かった # o; d, G5 z: b K. j5 _% ^2 I9 ^, a + ?+ N, _" c e/ j6 C 「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」) U- i, d! q4 r, @! M4 Q% c# v/ x# g
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天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。 . e( f6 _- m7 O- U ( e) r. S r& v) r, g8 F2 Y 「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。 , y/ h" [' q( j; J 8 V+ }4 x/ F8 H 張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。6 i8 |- T" R$ q: r1 c
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趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」0 |2 R6 Z! F7 q
2 i' e. g2 S- q) h トウ氏「金日成(朝鮮労働党総書記)によろしく伝えてくれ」. y8 Y# Y! @- y X4 \0 `+ g; S% H
" w& r4 i' P+ m 趙氏「今回の学生運動については政治局に次の3項目の提案をしました。(1)追悼会終了後、学生デモは断固阻止し授業に戻らせる(2)破壊行為に対しては法に基づき厳罰に処する(3)学生に対しては指導を主とし各レベルの対話をしてよい」 d, h! t8 {2 ^. j4 U+ O* S
) y9 m- I; E, a$ `- [. P0 H トウ氏「結構だ」1 j2 c3 W- z( j1 G5 V
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趙氏「私の訪朝中の党中央の仕事は李鵬同志が責任を負い、何かあれば報告させます」 ' M/ c1 J7 x4 v, N# G Z6 U- j 4 Y% [, N, c+ d! a+ N. a その後、李鵬首相が趙氏に言う。そばには同じ保守派の姚依林(よういりん)副首相と李錫銘(りしゃくめい)北京市党書記がいた。 : C, H# D" z. e- L- A X! J; m$ i( F: Z3 x( @( {' o 「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」 ; `8 b6 Z- k1 G, Z, |: B4 h! a! Y$ @+ Q
北京市の李書記が続ける。5 D5 o8 @& z) D; z+ o- u
7 c f# F+ ]& N9 f1 D8 |/ p4 n 「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」0 D8 N' z3 W, {6 Z
# \/ T) K: C1 P g W& e, J) O それに対し趙紫陽氏は言う。 9 A3 x3 ?6 A5 g! K( f# B4 e % {" l) G: K; Z n r 「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」* Q# ?7 g* I* z& w8 {
邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对 ( F6 i% r4 G+ O. L 2 _+ h6 X/ K$ W6 x7 \4 X9 F2 D(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。 ; W& M \( r" C3 [3 Z w+ A/ E, y; F: X: W由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。/ Y3 P* N: {' ^) v, U4 e) o5 t
“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。6 X' [$ K( l! R5 R8 L7 E% N
/ C( M/ r+ j$ Y. A: O t0 G“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。 0 v$ W ~: L- M & N! E, c7 ]5 G6 o' P3 {7 [ ?另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。 7 J: z/ \8 y" B' x# l - [7 @) l4 v- \4 N3 O“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。 # s) ?) L3 [* b [/ r4 u/ T u( |. T$ O
“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。- }0 U) ]- Z) W( c( B5 A1 ^
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于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。1 J9 j) z8 i! _% U9 f1 o/ a1 N
3 t F6 O J) P5 _# h" F0 R6 k不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。 : u3 R! j" c1 f9 ^2 k1 o : z) y W$ r5 I q4 m( p“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。1 H3 r0 m8 [; {# T4 M/ e
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【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 4 ^) F3 R! M& G# c0 V. v6 Z* b( k 0 D( o$ t9 f8 O# x) k7 A6 s
■指導力 試される . |; N4 M0 c# Q1 _7 x! g, t0 [" I/ W* a( N$ L- ]9 j3 z
1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。 6 P3 B- J% J) }! c5 w. i6 h" S! r! [4 D, G* i
23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。7 p# E1 T/ \( n% M/ x( {- J
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「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 g: H1 g- n/ w4 g
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「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」 3 @ y3 ^% O ?& Y' U, n/ U7 g/ h5 G+ k. R; z. p9 {* ]5 R
5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。; O4 M4 [2 B1 A* w4 x; B* x
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趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。% N% }6 J. Y, h3 }6 t( ^
& o" p0 r2 n1 e# Y. k9 K0 P# e 会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。 8 q; _! W$ \: u2 \# x! K* R$ I 4 ?, V; D: `, Q2 i7 b 一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。 5 `. w& U( C1 H; E* t0 T, A* d f, b+ r4 f; ]3 m1 l* u& `4 s1 p1 ]: W
政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 8 D) B; G* e2 N" ^4 d# {& l7 g7 h* c7 b0 h$ Z5 Y! c! ~4 g/ u8 b9 M( i
趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。 + c9 e; r8 ^. z $ j$ l9 z8 v; A! l! B; M 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。9 [+ A# p% f/ j
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「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」, \( E/ ?3 G4 Y+ k
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中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。 5 M O: k/ c6 L6 k% f 1 z: w0 _4 J/ v 趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。" v- I K' F5 Z' r9 {9 [ E
+ N' }# e I+ o( j 「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」" u s; t) `& w
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学生たちの要求にこたえ、党への信頼を回復する考えだったが、学生デモを「社会主義制度に反対するブルジョア自由化」とする李首相は、「一部学生は4つの基本原則に反対し、自由化を叫んで小平同志らを攻撃、非合法活動を続けている」と激しく反発する。% ?7 w8 |" Q; h5 ^& S3 @8 T5 P
/ X+ E' ?. V- h! W4 C 趙氏は「一部にそうした連中がいるのは事実だが、大部分の学生の要求は党と政府の政策に合致している。何よりも今は事態を早期収拾し、安定回復の必要を学生らに理解させるべきだ」と突っぱねた。 7 R8 j- V. s# q5 p) }) N( {8 n7 l! I n [8 G, N
会議は、趙氏と李氏が激突した後、閉会した。両氏の間に敵意が燃え上がった。 (伊藤正) 6 f/ V+ H! }* p9 n$ M9 Z. x3 C, I2 q" `. U( r5 x$ j
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$ F9 J/ x; a, _. t# @' J+ d 1919年5月4日に北京の学生らが起こした反日愛国運動。第1次大戦後のパリ講和条約で、山東省の旧ドイツ利権を日本に引き渡すことに政府が同意したことに抗議し、学生3000人が天安門に集結してデモ行進、親日派官僚罷免や日貨排斥を要求した。これを機に各地に運動が拡大、学生や労働者がストに入り、政府は講和条約拒否の声明を出した。 * a |5 @9 a5 J6 F: H1 X
6 U$ r D4 |, c. Z4 n3 P4 x ■厚い壁、立ちはだかった' i+ _1 Z: a& Z. q, n
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北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。 / P, b S* {( H- V6 c8 E & [/ G2 B- u. \9 ]# L E1 O この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。- O! V' B2 c. o% m6 r' Z
) s- w5 v Y' N4 _ 趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。- {" A9 P0 ~" t9 P$ v; ?
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学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。 0 P' ?" i; C7 J/ b% ^, M9 {, ~: b4 h; u$ ^3 c
学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。: R: y# @, }. ~; b
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「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」( U& H1 x% M: i
0 D/ J% F/ N! X7 f- ^! z$ j 天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。" ~& s1 w: @, R* J, W B% W2 Y, D
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張良著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、李首相自身、趙氏に「すばらしい講話で、評判は申し分ありません。明日のADB代表との会見で私も同じように話します」と語っていた(実際、李首相は5日の会見で同趣旨の話をした)。 ! B* P9 w4 m5 ?* k0 K" @( G9 W ! h/ _! l$ Z. _( j その際、趙氏は「柔らかいトーンにしたのは、学生デモを収束に終息させ、外国の資本家たちに中国の安定を確信させるためだった」と話し、人民日報の4・26社説の見直しを初めて打診した。 & n7 z8 o- ?- g" {# }" d 7 D3 b# c+ u& I; P6 A( c* `# p それに対し李鵬首相は「政治局常務委員会の決定とトウ小平(しょうへい)同志の講話に基づいており、それはできない」と拒否する。 * s: N# T2 P3 Y7 B / d5 E t/ P5 q4 x 趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。/ Z; J: G+ |: B+ g
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許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。 0 ~. z# c( R3 u0 U- y2 D8 c# z: I 8 l2 `5 q2 q- X* z 趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。' ]) d, {3 {- |* z( W
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翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。8 A( }. S! C6 j3 C$ U, j
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「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」 5 Y3 c( a- p! |% I! h( M # A6 P0 \! w3 Z2 s# ` 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。 j6 K" }+ v6 I9 C! f2 y( O9 p+ P
3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。( A, o7 ?( V" i
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許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。 3 `- J4 e" n; W" ^4 C7 \3 X, Y ^9 |: i# O7 v4 x
趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。 # c# e) B1 y4 r5 s- y0 A% y $ P2 s2 I( ] d) ]7 C6 D) i 前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正)0 f% w& \* l9 L9 S- S; K
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●=彫の周が丹2 ~: Z/ k R7 l4 E/ h# ^6 C
+ _5 m) ?# `; A7 Y: G ■新華社香港支社 国営通信社新華社の香港の出先機関だが、1997年の香港返還前までは報道機関としてだけでなく、中国共産党の対外工作部門と政府の在外公館の機能を併せ持っていた。許家屯氏は83年に党香港工作委書記兼香港支社長(中央委員)になり、香港返還交渉に活躍。趙紫陽氏との関係を疑われ90年に米国に脱出、91年に党を除名された。 ) f, q+ ~( A" K h5 D; o2 o+ p" u m4 e, G+ A+ j
(2007/03/05 )作者: 日月光 时间: 2007-3-6 08:05
邓小平秘录:邓氏曾为民运对策态度犹豫 5 g H+ }2 H7 S2 x' `6 u+ A" n" l' e0 D% d# t8 `& L- |
(中央社记者张芳明东京六日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日党总书记赵紫阳对出席在北京召开的亚洲开发银行理事大会说明对大陆民运的看法后,拟以对话来收拾事态,邓小平对民运对策曾态度犹豫,学运领袖王丹等采取绝食抗议行动使得情势为之一变。) y2 \; i, P5 F, Q
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“秘录”指出,一九八九年五月四日亚洲开发银行在北京召开理事总会后,党总书记赵紫阳有意经由对话收拾学运。中共于八日和十日分别召开政治局常委会和政治局会议,决定促进与劳工界、媒体和学生的对话,早日召开全人代常委会及检讨处理腐败和民主政治建设具体案。全人代常务委员长万里决定六月二十日前后召开常委会。 ; v' d+ j7 @! T+ D3 M) B0 j5 J) q! S5 _
中共党中央对民运改以柔软路线因应并非未遭到保守派的抵抗,且在社会各界引起复杂的反应,多数学生回到教室,五月八日时,只有北大等少数学生继续罢课,反应最敏感的是媒体界和知识份子,五四以后,要求“表现自由”的气势增高。 $ _$ ?. \5 i% }' D. q/ F3 u+ W, b/ q6 u- T7 q U E
五月九日,中国青年报发表千名以上新闻从业人员要求和政府对话的信函,新闻报导和社论也出现很大的变化,支持赵紫阳路线的色彩升高。人民日报高层在内部达成共识,采取慎重态度未像中国青年报那样积极报导,主要是担心这种作法会提供反对赵紫阳讲话的藉口而挑拨激化邓小平和赵紫阳之间的矛盾。 5 l6 C7 M# U) h6 t$ V, F5 v0 P3 o' g- `! q5 r2 c x+ I
张良编著的“中国六四真相”指出,杨尚昆国家主席于五月十一日和邓小平见面,指出王震虽反对赵紫阳五四讲话的内容,但是这项讲话确实有助使得示威趋于平静。邓氏则指出,李先念和王震等元老曾来电话要求他留意赵紫阳讲话。他接着指出,数天来一直思考到底是柔软对策还是强硬对策有利于解决问题。 4 @3 u. g. k% ~! s- a- h, x; j0 y( P6 j, q( z
杨尚昆随即向邓小平试探修改四月二十六日人民日报社论强硬路线的可能性,表示赵紫阳希望能稍微淡化社论的语调。邓氏只回答表示有意了解其他政治局常委的看法,并未表示反感。* P& a' L! V" i7 x: N2 ?
& S: m5 a7 V$ w9 d, A( s当时邓小平脑中最在乎的是四天后苏联共产党书记长戈巴契夫的访中,他和杨尚昆有相同看法,认为历史性的中苏和解不宜在民运示威中进行。 2 H4 A( B* [: ]6 V$ _$ W & a" Y' t. S) z* \0 S7 C" ~$ G _就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。 # g X7 p$ o+ N/ A + u* [5 K% F; `7 z7 {* Z" k8 e【トウ小平秘録】(21)第1部 天安門事件 内部分裂1 \' g6 Q/ C t, e& {
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中国共産党の前総書記、胡耀邦(こようほう)氏(1989年4月15日死去、肩書は当時、以下同)の追悼がきっかけとなった北京の学生たちによる民主化要求の運動は大きなうねりとなり、事態は予断を許さなかった。7 s9 M- W' i. M# @8 s; V2 N% I7 |! d
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89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。 - p1 S0 b+ `4 F4 c5 H6 N [* w+ G) i/ V! B
5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。 ; y- }8 D4 n g1 Q& S, p9 R4 T. j- z# }4 Z$ f
これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。 ; W9 l+ [! W+ p6 m2 A; F5 J8 d) s( o ! \& E$ e$ m# w8 L- ?% y3 C7 j 柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。) W' h) }4 E2 i- m
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「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」 ! h$ S6 l, C* `9 V' ?& E! k# p& _" ]: l8 H+ `/ E
張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。. {) W1 I/ L1 g+ r
2 J( S$ {" q/ F0 S9 K5 ]/ ^" @ 党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。 . ~' k! e' K- m; T0 g+ v2 f9 O ) d5 A+ K( L9 U& T3 R% Z2 @ 最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。 ) P) l+ H( ]* R/ \' v( Q 0 K9 n4 d: P1 Q7 i" B 9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。 ) ^/ Y+ |) {. G. x' D) J( S7 I7 j , R% e1 ^ U( U 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。 2 y' |2 s! } T+ n# O2 s & q* X; A1 N, l; D. B0 t4 {% O, b- } しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。 & e) H* A5 E- x1 U+ v% c. \/ t, k4 Q+ Z5 w
陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。1 i. x- v" t0 E% B2 q8 a {
+ [, |" q! W9 A+ G そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。! Q' i, w+ N* ]2 f( U
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口 N: h: {6 g5 ~: z8 O6 f3 W, h中央社 ; c6 D9 C2 d+ Z6 R- g+ W) } q9 d8 p2 S+ S: w1 E4 I# N 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。7 S( a) b2 Y. j, A' }; r
) x" ]. C5 f7 W$ h9 z 「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。; C( A2 |; K# V% p# Q: f M, s, y
8 _+ A( b$ x+ F9 {/ N 「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。 ( Q4 a: s" a! G) |6 r ]8 X( |' Q/ @) G
王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。; Y4 y( r8 [- h$ a( E& m
邓小平秘录:赵紫阳透露中国仍由邓掌舵 $ H6 x) m- e$ W, i6 P9 e% J/ ? " K/ v1 _0 b5 u0 K. j4 g U(中央社记者张芳明东京八日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳于一九八九年五月十六日,在和访中的前苏联共产党书记长戈巴契夫举行的高峰会谈上透露,邓小平虽退出党中央委员会,但中国的重要问题仍由他掌舵,这项发言后来成为保守派攻击他的罪状,也造成他和邓小平关系的破裂。2 y9 j1 @ S5 N2 l7 W. W4 H
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“秘录”指出,北大学生在天安门广场进行绝食抗议的第三天,五月十五日,前苏联党书记长戈巴契夫抵达北京访问,由于天安门有五十万人示威,欢迎仪式改在机场。戈巴契夫于十六日上午和邓小平会谈,下午则和赵紫阳会谈,赵紫阳在会谈上指出,邓小平是最高领导人,中日关系在上午的会谈已关系正常化。 % T- K p! Y, Z t$ w G+ G' d# B" \( \) K$ D8 ]6 f
赵紫阳向戈巴契夫说明理由指出,一九八七年十月的第十三届党大会,邓小平虽退出中央委员会,但随后的“一中全会”决定最重要问题需由邓小平掌舵,自那时起,重要问题的处理都必须向邓小平报告,请示他的看法。赵紫阳的这项发言重大,后来成为赵紫阳的罪状,李鹏等指摘赵紫阳泄漏党的秘密决议,把斗争箭头对向邓小平,造成情势更趋恶化。 1 ~, Z/ G% B# ] P7 `% k7 a+ s, _* t新华社记者杨继绳在“中国改革年代的政治斗争”指出,许多人听到赵紫阳对戈巴契夫的说明之后,都认为赵紫阳潜藏让邓小平背负局势恶化全部责任的意图,赵邓之间的关系为之破裂。赵紫阳的发言经报导后,学生开始攻击邓小平,反对“垂帘政治”,要求老人引退。6 d! y- f& @; \, e
8 R1 @+ d* o8 ?赵紫阳和戈巴契夫会谈后的十六日傍晚,党中央统一战术工作部长阎明复在天安门广场呼吁学生停止绝食,约两千名绝食学生接二连三倒下,王丹和吾尔开希两人提议要求停止绝食,但是绝食学生精神高扬,学运已经失控。3 k2 E( W1 q: @2 n1 s: i
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十六日当天的示威达五十万人规模,劳工、文化界和新闻界人士参加的人越来越多,大学中大半学生再次罢课,赵紫阳主导的柔软路线走入死胡同已是明显可见。当天晚上,在政治局常务委员会上,赵紫阳和李鹏等激烈争辩,赵紫阳仍主张修改人民日报四月二十六日的社论来解决事态,但是,连过去支持赵紫阳的乔石和胡启立都表示质疑,列席的杨尚昆和薄一波也反对柔软路线。! g3 I7 P, c- L! y. q0 e G: o7 r
4 H$ y ^' n8 k" U% J赵紫阳和学运一样,逐渐失去退路,欲情势逆转唯有即时中止绝食。赵紫阳在十七日凌晨代表党中央发表书面谈话,肯定学生的爱国热情,承诺党和政府不会进行报复,要求学生中止绝食,回到学校和党中央及政府进行对话。 + S7 D7 p1 {; u, b2 n P $ A; L$ N& h9 R, u" r6 Y! A陆超祺的“六四内部日记”指出,十六日傍晚,人民日报社长钱李仁和拿着中苏会谈照片前来报社的杨尚昆长男杨绍明见面,拜托后者说服杨尚昆让赵紫阳的谈话刊登在人民日报。党中央于十七日凌晨透过新华社把赵紫阳讲的话向全国报导,但由于并未对学运定位“动乱”予以否定,效果令人质疑。# s- G% U4 _7 m
! V) _. `4 E# ^9 ~7 @: ]5 E赵紫阳于十七日早上送函给邓小平要求见面,希望邓小平能修正四二六社论,他把这次见谈视为最后的希望。“邓小平年谱”指出,十七日下午,政治局扩大会议在邓宅召开,除常务委员之外,杨尚昆也出席。 7 x/ s% |" b, j. e+ k3 Q' v: j u) o: t, `/ W6 t9 U7 F u赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。, b) H* [# t: P- U* h: c
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【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談3 `0 N5 V z3 d
. w3 Z/ q8 j% w9 o北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。 6 O8 f: }, O0 r 6 _( H; L n2 v h! i 宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。$ `0 } O; L7 x+ {
: g/ L) r! }0 ^+ }$ V ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。2 H- p+ d5 e, e# e3 q, r/ z$ ~) K$ o" B
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「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」 " g3 E" U0 z; @+ J5 D0 ?7 R5 `3 k, s( |. e; g5 @
重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。 ]- X. E0 d, v. d ( s; r& E. D X7 S, P# s' Q5 K 趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。 % C& n$ P9 L7 a2 N 0 y8 D0 ]7 I, T7 N# z& G* Q! Y 鮑氏は「李鵬は(学生デモを反党的と断じた人民日報4・26社説の)『動乱』規定はトウ小平講話に基づくと言いふらし、とっくにトウを前面に出していた」と趙氏を弁護したが、タイミングがいかにも悪かった。 8 u& n" o* o) h" B" {% n * ]8 v1 j v m7 M: o 新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は「この談話(趙紫陽氏のゴルバチョフ氏への説明)を聞いたとき、多くの人は、趙紫陽には局面悪化の全責任をトウ小平にかぶせる意図が潜んでいると考えた。これでトウと趙の関係は決裂した」と書く(「中国改革年代的政治闘争」)。% J: t4 N' |! `$ G
* a6 S& [, v( ]* h その報道の後、学生が「垂簾(すいれん)政治反対」「老人は引退せよ」などとトウ氏攻撃を始めたからだ。 9 ^4 ]( D/ {9 S, B 8 I6 f0 j u2 t* } 趙氏とゴルバチョフ氏の会談が終わった後の16日夕、天安門広場では、閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長が絶食中止を必死で訴えた。約2000人になった絶食学生からは病人が続出していた。 4 z+ ?4 j$ ^8 h' b" L" f* T: P # o6 F: V2 P% h" B1 H: w 北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ両氏は動揺し、絶食中止を提案したが、拒否される。世間の同情と支持、メディアの注視が集まる中で、絶食学生らは高揚し、運動は統制力を失っていた。 : R6 o5 a+ h2 t7 W/ N & N% v7 V) u! o この日のデモも50万人規模になり、労働者や文化人、ジャーナリストなど、参加者の広がりが目立った。大学の大半は再び授業放棄に入った。 ! {' k1 r/ @4 O1 D7 w g- f/ J- s) X. u6 Y" p% Y+ P7 T
既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。3 S; ^* B R" h' b& s4 ~/ T* y
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しかし、それまで趙氏を支持していた喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)両常務委員は疑問を示した。常務委にオブザーバー出席していた、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と薄一波(はくいっは)中央顧問委副主任も柔軟路線に反対した。 ) B6 m) z# h s+ ^- D9 U% ^$ Y4 W9 ~# w: j
学生運動同様、趙紫陽氏も退路を失いつつあった。形勢逆転には絶食の即時中止しかない。趙氏が17日未明、党中央を代表して発した書面談話には悲痛な響きがある。2 y! }8 n6 @7 Q8 X/ |9 w
* l5 C, t l2 ^5 N0 O2 t/ Y 趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。& L3 h s( w# y) w) ~* c; h% [
+ T1 g5 x8 a% L3 g: B 趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。 ?; Q: L2 ^/ A: m5 C: S9 q( G/ G
- i: X/ ]+ Q8 s- F X9 O9 `. c 「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」 $ U; A' {$ b2 p8 f5 S. @6 q; e- Q- Q( c
戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。' T C% n- |! a1 b
; |! f; U; |0 u5 w4 v さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。4 a2 S9 X d1 d X. W
邓小平秘录:八大上将曾发声明反对镇压学生 ) ]7 J; S; |& G6 D8 g5 ~% b4 H8 U. S8 z6 Y8 T8 f
(中央社记者杨明珠东京十一日专电)“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月,当时的中国总理李鹏决定于二十日上午十时开始戒严;第二天,前国防部长张爱萍等八大上将希望透过“人民日报”发表反对戒严的声明,但后来声明遭到封杀;参谋总长迟浩田告知“人民日报”“绝对不准发表”。8 u: B+ @+ ^ l
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秘录指出,一九八九年五月十九日晚间,李鹏在党、政、军的干部大会上,预告将发布戒严令的画面,从二十日凌晨起在国营电视台播放;在这项干部大会上并未见到总书记赵紫阳的身影,许多人察觉到赵紫阳的异变,也渐对李鹏起憎恨心。后来,李鹏在国务院命令上署名,戒严令将从二十日上午十时在北京部分地区实施。5 g/ N: Q+ }% k" `2 P, J" }
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二十日,北京军区的第二十七军、三十八军先遣部队装甲车多数遭男女老幼包围之后折返。对军方颇具影响力的前国防部长张爱萍等八位上将于二十一日发表声明说“人民解放军军队属于人民,不能实施镇压、不能对人民开炮引起流血事件,为了避免事态恶化,军队绝不可进军北京”。 9 c6 k' G q8 h- C! \0 N9 S5 Q2 s) G/ o
这份声明由张爱萍的女儿透过中国社会科学院某研究院传给人民日报,该报副总编陆超祺告知迟浩田,但是三十分钟后,所获得的回覆是“绝对不准发表”。; @! G) m, a1 d/ c& X( O% R) p) d
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秘录指出,不仅年轻的下级士兵反对解放军对人民开炮,杨尚昆发布进军命令的五月十八日,曾发生了第三十八军司令官徐勤先抗命事件。杨尚昆的胞弟杨白冰(军总政治部主任)在八九年十二月的全军政治工作会议上曾表示,天安门事件作战中,有一百一十一名将校违反重大军纪,一千四百名以上的士兵弃械逃亡。 M' R: m; d V% W& x; C* i2 A
" V$ W! `! g. y% p8 Z秘录引用“陈云传”一书的内容指出,邓小平说:“问题的根本出在党中央,党中央变成有两司令部,在此事(指将学生示威定调为动乱)的处理上,人民日报的社论是正确的,到底要不要让步,让步的话,中华人民共和国就亡了。”0 q k5 K7 `; u. m, u6 e
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秘录指出,就此,党中央统合成一个司令部,接下来只剩如何平息动乱的问题。但另一方面,民运人士这一方无领导核心,对于如何让中央撤回戒严令缺乏战术。在这段期间,正在海外访问的全国人民代表大会常务委员长万里的动向备受期待。 4 q9 N6 a# `2 z3 g' h6 Q % z( d& V' F& K; h2 f% y( R【トウ小平秘録】(26)第1部 天安門事件 将軍の声明2 \/ I7 s# W$ K
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■「絶対に発表するな」 + m: z6 s, T7 f( R" m; \+ r: N5 O* a6 o# u) S' d
「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」 9 R; |: D: j# i& D n& K8 h ]! O& S
1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 0 l# F6 U; t: v/ s+ Y7 S; m* }2 ?" D% L/ E/ b }, s
この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。# t3 F0 C1 U& u6 T' \) p$ l1 F
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李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。) r( X2 V2 u; v; [0 C' o2 c
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≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫ & t l6 t+ F+ Z ' Q% p* u; i" O/ K# K9 O. X: v その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。 6 j. W3 i' w/ }# t- Q1 A) ]& ^! d" z! h9 S0 k) _& {# b: ?
若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。$ N0 a! m, F, ?8 v
0 r; t$ V' f& |3 ~& W 動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。 " B* \9 E% w) g- i3 z1 ` 0 T: M# ^0 o! D3 ~& g 楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。/ A3 m- t. u- L% l0 t
7 B0 h8 ~; L) v$ O6 M 戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。0 C4 H) U$ C- M8 y
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「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」 % N1 b. b% }4 n 3 X8 q0 j; K: \4 E; \4 j 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。3 c$ {; B K0 x6 H1 w
( E! _& Y, ~; a# o" o/ ~" q 8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。3 }! [0 y; i) l( }
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掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。 6 Y3 w" A" l. O, U3 C1 t7 ]: u% S" B2 m/ @
同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。4 G3 {1 E' f& c9 c$ c$ J4 d- k: p+ w
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その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。 ' W3 }! j( `2 w! D / D% h& O. o9 H: y- P3 `* H 市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。 . K( K- {' L# }/ [8 }9 U' a 2 s. B2 ~2 d; E2 o, J) y2 K4 Y 「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。 8 G& _7 a' X. g7 [5 K $ R/ {5 R- y) m7 E! _ 「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。 6 m/ F" q5 k( h* w0 Y1 t5 D# _. L! C- N: B' n0 j- e+ t/ }
「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。 6 {& k) W( x3 v* N: r 7 T2 T; Z1 x6 V1 D 「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」( e; y* J; Z, N, d \6 f9 Y( K
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党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。. J. B2 _- L2 Y8 K$ b2 g
& L! m. p& F/ X 一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。1 b: |/ Q1 I1 W. Q* s+ Q$ M
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そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正)+ s9 E5 a5 }2 S' V+ O" C% @% P
" r7 H' x# Y n, r+ w天安門広場での座り込みは続いていた。1989年5月20日の戒厳令布告後、学生側は北京市民とともに軍の市内進駐を阻止していたものの、政府が学生の要求に応じる気配は全くなかった。むしろ政府が武力行使に出る可能性が日々増していった。3 n) T g6 d- j5 T: N C# j g# K
; ?) u! `) w, a6 |7 ^5 n' _ 3 _6 n# y- V( `4 u- d& o期待は裏切られた ! M/ G" |& |, {( d. f# i * a: E2 T0 W# J0 y# k- ~ そうした中で、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長(肩書は当時、以下同)への社会の期待が高まる。きっかけは5月17日の新華社電が、万氏が訪問先のカナダで、学生運動を「改革を促す愛国行動」と肯定する発言をしたと伝えたことだった。 + m8 v4 d/ G {' g: E/ `2 S4 x* a; a0 e6 n6 a
万氏の外遊出発前に、6月20日前後に予定していた常務委会議を繰り上げ開催しようとの動きが常務委員を中心に始まる。 ! o, E$ X7 G6 k$ s/ k: S* B% N0 h, m, S7 D. P
万里談話が伝わった5月17日は100万人デモが行われ、トウ小平(しょうへい)氏や李鵬首相の強硬姿勢を批判、絶食学生への声援がピークに達していた。政府に対話を通じた事態の平和的解決を促すことが、緊急会議招集呼びかけの当初の狙いだった。 % i0 E& U/ L2 x5 R+ o/ o/ D/ v% S 8 X% f' Q9 g$ w: F しかし戒厳令後には、政府への対抗色が強まる。例えば21日に胡績偉(こせきい)・元人民日報社長ら40数人の全人代常務委員が署名、発表した緊急会議提案書は「法的手段を通じ人民の意思を反映させる」と述べていた。某常務委員は「李鵬をクビにする」と語ったものだ。 1 E* c( l+ z* y/ W1 L ! ~8 N, s7 d8 X 党中央の指導下にある全人代が党の決定を覆すことはあり得ない。が、万氏が帰国して全人代常務委を招集すれば、戒厳令反対の声がさらに強まり、形勢を逆転できるとの淡い期待が趙紫陽(ちょうしよう)総書記周辺にあった。 3 F- r" y- m2 A: f/ G% E" F9 ~+ c) ~- s( b6 C5 N. z
趙氏を支持するコンピューター会社「四通集団」傘下の四通社会発展研究所の曹思源(そうしげん)所長が、緊急会議招集を胡績偉氏に働きかけ、自ら各常務委員の署名集めに奔走したのはその一例だ。* i. V" x; l2 }
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また張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、趙紫陽氏は5月21日、秘書の鮑●(ほうとう)氏を通じ、万里氏に早期帰国を要請したという。万氏は趙氏の長年にわたる改革の同志であり、外遊前には趙氏の柔軟路線を支持していた。 , D1 U0 z+ D5 j5 Q7 \ ~ - U/ c& b, j# K' ?3 \4 y 万里氏への期待は社会各層に広がり、学生たちも同様だった。学生たちは25日に万氏の帰国を歓迎する大デモを計画さえしていた。$ J* F; { g# e
邓小平秘录:民运人士拒撤退血腥镇压成定局 / }5 `: t( D7 K2 c中央社) i+ h. Y. z3 u5 H: E5 W N5 e* v
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日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月下旬,中共当局企图武力镇压已迫近,当时避免流血的唯一方式是学生撤出天安门广场,但是要学生撤退困难,结果学生拒绝撤退,中共血腥镇压成为定局。 6 j) C3 `: h. a 7 v' m; J* g B1 g$ n 「秘录」指出,五月中旬学生开始绝食后虽发展成为整个社会的运动,但参与运动的知识份子领导能力有限。二十日宣布戒严令后,大半知识份子主张应撤出广场,结果却未能如愿。3 V- t0 T4 e. {. C8 e, W& [* r# O* _
, Q1 X+ B; [ P7 N- ?' A, x1 L 中国社会科学会历史研究所副研究员包遵信曾在天安门事件后为文指出,北京社会经济科学研究所副所长王军涛本有机会说服学生撤出广场,但负责广场总指挥的柴玲突然改变心意,拒绝月底撤出广场。柴玲的先生封从德则在「天安门之争」一书中指出,五月二十五日晚上开始的民运领袖会议,九成七对撤退投反对票,柴玲只是加以宣布。 6 a2 r1 W" _; i- I/ `/ d6 e" _+ J3 h" R, l+ h4 T# w6 G
在学运扮演军师角色的王军涛认为学生若不撤出广场,中共行使武力已是不可避免,开始着手学运遭镇压后,主要学生领袖逃往海外的准备。天安门血腥镇压后,王军涛、王丹和包遵信在国内逃亡,三人在十月底以前都被逮捕,但多数民运领袖逃到海外。! D' q3 _, g8 }* t7 @
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中共当局在天安门事件后指出反革命暴动的黑色打手「三所一会」,包括中国经济体制改革研究所等三个研究所和一个学会,它们都被视为是赵紫阳的智囊团。「三所一会」直接的罪状是五月十九日晚上发表的声明,中共断定它们和鲍彤关系很深,后者泄露戒严令等情报造成学运对抗政府的行动。但是,鲍彤事后一贯否认这项指控。: p9 [3 j0 Y2 t- d( L" t( j S
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鲍彤于五月二十八日突然遭到逮捕,被送到北京市北部的政治犯监狱「秦城监狱」,这是邓小平等元老和李鹏总理等保守派决定武力镇压而进入具体性作战的一个信号。 9 j( u- s- i- b* F; u% H: H: ?, c3 @+ X; b/ v4 }
【トウ小平秘録】(28)第1部 天安門事件 撤収拒否 . ` p$ L! }( t& m4 c' R5 D - l# W3 a! F _& }■必至だった血の鎮圧 9 t C: J% [ I. ?. B" D K" l- a: ~# T# E
「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。, r2 ^% _3 N' J T v! U" ]" [, ]
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5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。 3 p1 t2 Y. D. f2 G' a6 N U 3 }3 N; O3 @6 ~' j+ `' h 5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。% g. X% l9 E; {' l) @) h# s$ E
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包氏「何とか学生たちを撤収させないと」 j* f6 L; F! Q6 ^
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王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」 ' ~# j) Y3 ?" m* W% Y" P J$ ^ + ]# l `7 @0 E( A7 t/ c) c5 ? 包氏「(撤収は)いつ?」 ' [7 Z; a$ I, ^ ; w9 O; d. K7 x# i 王氏「今月末だ」9 `+ |) e6 z- R0 J8 l+ A( }! [
9 s9 B' y) K! T: ?" c& Z0 T 王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。 / n% b) r9 C! [. O& N# B w$ } - L$ ~9 d- u( B+ m; t0 ` ところが、広場総指揮の柴玲(さいれい)氏(北京師範大生)が突然変心し、月末撤収を拒否したと包氏は言う。 # V9 r6 F, e4 H X; a6 V8 j, C6 d! N$ E4 ~- H* y* V" F1 _
「柴玲の変心についての伝聞が強く印象に残っている。彼女は撤収の主張は、知識分子が広場の運動を左右しようと企図している表れだと話したという。(それは違う)撤収は学生の身を思ってのことであり、全くのぬれぎぬだ」 1 l/ S: @4 y+ Q! p, ~" [9 W3 P; `* o3 @% u& t3 K
柴氏の夫で、北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏の著書「天安門之争」によると、25日夜からの広場占拠グループ会議で、97%が撤収に反対票を投じ、それを柴氏が発表したという。数千人の座り込み者の8割は地方大学からの上京組が占めたことも影響した。彼らは強硬派だったからだ。 - p, |* O& ~5 F% Q# \3 X% ]+ W $ c* j- }2 e! T; \ 高自連内部は方針の違いや多額のカンパ資金の分配法などから対立が絶えなかった。5月27日、柴玲、封従徳両氏は、高自連から資金が来ず、運動継続が困難になったと王軍濤氏に訴えたという(陳子華ら著「浴火重生」への王氏寄稿文)。 * s0 t/ h" o6 }/ G& q' O/ S 2 ^ l5 c$ K- O+ }4 C0 e$ o! ] Y: I 王軍濤氏は2004年に書いたその文章で、自らの運動経験や思想遍歴を加えながら、89年の学生運動とのかかわりを詳述している。その中で、広場の学生たちの撤収拒否を受け入れた点が最も興味深い。4 w9 v w3 y/ u g- D3 l& h( s* f
0 G* q. K9 }6 H$ v: L トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。 # f& a. f: m; E/ K( [- z4 p 6 U) A' q" Y/ _9 u4 R% I 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。$ \% F e* Y9 R1 j
邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态 . u" y" E2 M8 z H ( \. w1 I% G2 t$ p" }8 d3 P(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。 * J$ [8 \. v6 |7 Z- f: Y1 G0 w6 _. g3 q- \7 u
“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。. V6 v, p3 y4 Y3 }3 d" V
但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。 $ G, ]8 f, d( p3 c6 ~( M7 o7 r* F$ U
这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。 % Q$ ?' l7 c. _8 ^8 _+ g( I9 N" }0 Q( I4 m4 N$ C. q
三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。5 q' e0 o- i7 r5 t( p* ?6 E$ F
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张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。 : ^% S6 ]% ^, j8 S( g2 ~7 F7 u* D4 m
“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。 ; e% A- P3 p; c: C" C I $ v0 q) J$ ]1 |三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。 ! L% K8 E/ Y% _. _ 4 d2 K+ v* {% Y) _! W U就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。 / e2 i7 N4 h* L$ A8 L& J+ ^: K p7 b' Q: e& H$ U
【トウ小平秘録】(30)第1部 天安門事件 軍の発砲2 x$ x p. A! Z: A5 [. E; z/ ]1 P
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1989年6月2日夜、戒厳部隊は「清場(チンチャン」(天安門広場の占拠者一掃)作戦に入る。しかし北京市内への進入路は何重ものバリケードが築かれ、市民らの抵抗は必至だ。強行すれば流血は避けられない。 / ?) z$ f9 n& n# d1 {3 \ / [; D1 ~2 M3 U& @( Pこれは本物の戦争だ - s0 X- @4 x6 Z. v9 G& R, t" i" {9 A4 X- R8 `1 H
そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。* d8 c5 t2 i6 Y! G7 d
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それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。 * y/ Q6 y; d9 M' e6 \1 J+ Y$ B& L: h8 Q
3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。# m8 D1 L2 _- B; W, ~: C5 k. k" o
& P# {0 ]2 ~5 f* C3 y O; u& M 「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」 ( |+ A$ {- B9 h% Z4 s& I 6 S1 H1 t* D2 r 情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。' I9 ?4 z9 N- z0 h( d7 n: m3 C
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3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。; _! p, ^! i' F& q! p: F; [
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新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。" N f1 ?9 X- p3 j# P1 ^0 z/ ^) c- v
* T; q( `& ? K* G' L8 Q# H W* M 3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。+ T; r a- `2 Q, W% D
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張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。 - X- x9 T- a P7 x& C' p - q& ~$ [2 r3 D 李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。, N4 i% [$ e% z" ^; r- d3 q
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「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」 - N, B& u; v& \( O9 O. e/ H0 T- T
楊氏は最後にこう念を押した。 ' Z% a' b% _/ F8 L& M% P% _ ' ]4 X: n; z, l# C6 x" A/ \ 「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」: a& o3 T4 t% ?; A6 s* o) C
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会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。7 D/ H2 T. {7 }' z5 t6 p4 @
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3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。 5 Z% Q _$ p5 ] D( W0 O) K2 B( F" T W4 B4 y0 \
当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。8 i* t' I2 M( e* m* d* v7 v# ] |
2 o6 N) @6 I v' m, ] そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。 ) k' p T% c. h; ^# V' V6 r! |* f# l3 ^. i& `7 f, P
午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。6 U Q. l+ r- E3 ?' _
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支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。- O% z4 q6 H2 K A# m* ~
8 e) T7 j$ N3 G! x0 X) q 「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」 9 A$ T! i' E" e L* L+ Y3 Q! c5 I. a1 l% @' e5 |/ ]: u$ a
記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。 6 B5 a& K- n. X0 k7 t) @% w- W 2 K ^/ y% g, E" i& |) p! e 「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」 # c. V1 s1 u E5 g3 n1 ~$ j 8 y7 T4 j, B" J+ w% P2 H+ ]- E, g: w その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。 + V( p7 R" { z9 N: j - {) B3 v8 r+ w# E# N, U 「これは本物の戦争だ」(伊藤正) 7 {( _( S( I% Y; ?' }( l9 `; ] 2 ?' ~" L2 a8 `' _6 i; r b ■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。. T, {! n! U. I0 U
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(2007/03/16 ) & ~! u2 W% `/ c1 z4 D0 F6 `& L' ~
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-3-16 08:43 编辑 ]
8 e+ [* s. E. s: T w 午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。4 c/ B. F! I( m7 {
% `2 U: t h1 [ O7 t 緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。 ' d* z n' M+ |0 y2 i6 ^ ' A% n* g: X5 J2 w- {! d 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。- E6 X4 ~' C4 T: M; Z \& O0 T6 E
' O/ G! p# Z O/ S p 「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」 3 p# D+ [3 f, P . b9 f) M" x, w0 H9 ^0 [ トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。 4 }7 D$ c- J, P7 n6 z/ q, c/ K3 {, E( e' f
引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。 8 \/ @6 @6 R& \$ `* O( h% B) ]* A8 X* b
トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。8 E% [5 k; O3 | O
) o5 H e5 Q0 d" y5 R& x6 | ≪天安門のツケがきた≫, e4 u+ `; ?1 j& ~, W5 M
8 o, D% o# b) h- i0 F
元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。 . c, j: |& a3 H. X$ ? , o" V4 C6 C: O' G/ T2 I" v }4 y) R- u* \ 「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」) \3 `6 Y4 i( J; L3 H
' K# S+ u k4 p5 X7 t+ g 広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。 2 [+ h! q8 Q: P3 F, O: }1 t 6 {" y1 I5 @" _ 「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」 7 V' G7 b% J% q X, W " \, D3 R6 t; M7 u* y 1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。# ?9 j f. S0 Z% O' J$ d( }
7 D1 O# g+ E: v9 | w 身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。3 [& t. B& ?5 U6 p6 s
( M5 q% s1 H$ i; I$ o しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。0 Q4 _7 }. ?3 i5 S
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トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。 # z9 M- M5 |- L / n4 i o" X3 S" P( n) } 天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。 # p+ ~ b& @1 c z" f9 x$ h9 M" h7 u: i2 {" e* d
計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。4 r2 W& V) |% t/ q0 E, O
$ n: w( `& z7 L f6 G その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。 4 r' }! \- ]9 i1 A: d. c0 C) A$ p2 B4 P: M0 w$ @. ]; X! ^
トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正) ; Q1 ~& R, R9 n! e. Q, v+ k) `6 `" P) P( K; D- v7 w
■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。' o) K* x, Z0 P* r9 Q
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* r2 n0 U7 z1 n0 l+ M! G# }第1部あらすじ' b! J7 ~7 u2 g! |& n! g2 o
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死者が少なくとも数百人にのぼったといわれる天安門事件(1989年6月4日)は中国現代史の大きな分岐点として後世に伝えられよう。 $ I, H* T4 k: H; i9 D4 |8 j' ` $ m# P; w+ j8 R 「トウ小平秘録・第1部天安門事件」では、トウ小平氏が、なぜ人民解放軍を出動させ、デモを続ける学生や労働者らを武力で鎮圧する事態に至ったのか、背景を掘り下げた。3 c# J/ _1 `" S* a/ I" k
+ K/ J! G2 n9 a. [: }4 C' |8 V 89年4月、急死した中国共産党の改革派指導者・胡耀邦前総書記(肩書は当時、以下同)の追悼集会を契機に、北京の大学生らは天安門広場で集会を繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。党指導部内では強い姿勢で臨むべきだとする李鵬首相・長老ら保守グループと、対話による解決を主張する趙紫陽総書記ら改革派が対立し、深刻な権力闘争に発展した。 $ j0 @) o( x$ h( w + D7 j) s4 r3 h2 @ 改革・開放を推進し、国民に豊かさと自由をもたらそうとの思いを抱くトウ小平氏だが、天安門事件で自らの路線の執行者である趙総書記を切り捨てる決断を強いられた。改革・開放のためには国の安定、つまり一党独裁の社会主義体制堅持が不可欠と考えたからだ。 1 a7 y; ?6 t! @, c( m3 Z ( R+ g Y/ J& r0 W% h" B 第1部は最終回(32)で「天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力抗争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない」とも指摘している。 N5 t( W5 q7 j, C# ^2 d) o
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-4-18 11:40 编辑 ]
邓小平秘录:邓南巡讲话 警告保守派, F- [, l5 \" `' J% y4 _, k! D u/ Z
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日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,已故中共领导人邓小平于一九九二年初的南方视察,名义上虽是休息,实则是经过深思熟虑的一项行动,而南巡讲话的主要目的是对抗拒改革的保守派提出警告。" L* I2 m( H; |# G0 `9 g4 A' l2 s
+ n& O1 @. s) j1 X) j% K- A报导指出,邓小平于一九九二年一月九日进入深圳,采访此行的中国媒体指出,由邓小平的谈话可看出他的广东之行是有备而来,是对北京、中国全境乃至全世界的发话。 6 d6 s7 t$ } G4 Z1 A + {7 b( @: g3 o邓小平在讲话属性中要求不推动改革开放者下台,矛头是指向保守派和党总书记江泽民等中共中央领导人,他南巡的手法类似毛泽东一九七一年七月至九月的南巡。毛泽东是为对付具有野心的林彪,后者最后在逃亡国外途中于蒙古坠机死亡。 6 Y) {6 V0 M2 @2 M7 E# b3 b* e; u1 g2 t' q
报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 / E( r T" u# i/ B8 q/ B
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【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告 . g6 Y4 a" j( X& ~% h/ \3 d' |' h8 k4 Q: N
1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。 7 k e7 b0 C' O f: {0 u. d# m0 Y" w) v. k! ^5 g: X
手法は毛沢東に似る / A. h+ x, x2 O ' _, W7 [6 j# B, h5 s t* J しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。% i2 f% _- j$ R5 K" h4 H
0 X O/ _; l- B& _3 ^ 「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」 ) V2 @ K' ^' f. e1 k, h : G. V" b* I$ d! J8 x 牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。 ' `6 N1 [+ {; D- k( E/ z# U" U- L' t3 G
陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。3 t. w+ Y/ j; q6 T; I5 i
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講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。2 Y5 W" Y1 ]; j+ b k; p: `) Y
- R9 @! }1 E! c2 b) O/ ` トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。" J, J; A3 {0 x* Y$ K) g6 B
8 o' v( F' h1 ]) ^3 W1 `. ^: D7 E; }: W このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。 5 |/ b' v1 `+ A' x 5 s/ z* q a8 Y6 [9 j; @- ] 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。 / e- f, N7 B/ I7 f; x, Y+ m, O
毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。- A$ T U; b! E D# B
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林彪事件である。$ ]. \1 H6 b2 l) |7 s5 l
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0 }: L1 Q1 ~2 c冒険せず何もできぬ 4 e. r! b* _' n4 |! b # _5 S0 Y8 _. z! G% g6 {, } トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。 6 z0 J& d, R+ v6 L8 B! `5 \) S; D- }" S8 @* p8 x1 g+ n$ b
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。 3 @ h) E5 B( M8 x# R; c1 { - N' {# d% L s4 n トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。 1 u2 p' @ J& d) ]5 ^5 j5 N % q2 z0 [" |" z/ \5 [# Z$ e+ i 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」 9 Y! U$ e5 g0 ^0 v4 l" V! i3 [2 @ " D" h, ~/ `: K 後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。 6 f% f' j* T! K' g; O / J. \7 W' X: _ トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。 6 I' M+ p1 f5 |* X h1 V2 Q3 _3 {2 S/ ^% G. O
トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。7 a% D9 V" B P
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劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。5 h+ J/ a# g$ I: i' s
% x/ p( b( r) r( q- m. [ 天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。 1 P2 i# T# X. Z6 n2 W N5 O+ r$ R9 ~# u7 X
しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。6 n4 a3 ^/ K* {8 A. }1 n/ N
$ M3 P3 }3 S% [0 i9 g9 s トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。 & J; x5 g) x; Q) z 7 Q1 R! @9 f0 L" a! Y& T# w それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正) 3 e! ]- f0 Q* o* y- ^& P$ f+ y/ L' T
■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。作者: 日月光 时间: 2007-4-21 09:51
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 # D$ q% @3 E7 ]6 A% o$ |( a2 V7 n" s' B1 z% t5 H
1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。 ! U0 y+ ?' V3 ]7 D/ Q- `1 q! K" {5 Z# |) ^! L4 K$ F& n
米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。- A8 j" U, r0 B: |3 G
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本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。 7 H4 {2 t; T( n: K* p* A, Y4 N* _+ K. _0 r8 _
しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。1 G( e" Y/ n! Z9 j# M4 t3 T% W
* h( G; z y* m) t8 S 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。 , h$ @) D6 S: H' x2 m3 f9 M0 h2 ]( ` , b7 q" z( Q( x6 i 私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。 - N+ V1 e* J9 d) C6 |7 l2 u & |6 |1 U: w7 e5 v その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。 " H! M0 y1 Y8 n7 q) X) m8 |, l% j# \4 j- k
そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。 - E4 o1 I- J' Q5 E I0 v2 m1 r5 A1 M 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。' _$ F x4 K5 q' M6 V% R
8 l. V, I7 ^% x6 K: p W6 L べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。 ' I4 Q9 H, p3 U# p |7 n! e- _3 c: f4 K+ v
トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。 9 _% [1 y( W t5 p 5 F4 r% V9 l( J5 l6 l- {2 f0 p6 t2 Z0 P, p8 W { R
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米特使が秘密訪中した9 ]! ~1 k7 @" t e
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天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。+ f+ _: d# O& h x4 @
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しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。 ( Y: i; \0 L% k" j( e- t$ F1 W' N6 {- q" L
ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。 E0 B9 D- C* e4 B( Z8 B2 ^ 8 F. O+ k4 R# O! Y: N ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。/ V9 U% Z7 l `7 q( G
! x- v. ^1 ?. k4 R. F# j8 d0 s 「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」8 E) L8 v% u0 ^
; t- o( H X. N 中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。 c& g- K" L: d; @, d! e# G, W0 f, }0 ?4 c$ i. b) O
トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。. F! Y4 k# K' I5 X% r) n4 h$ }
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「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」 " U( t& x) Y( n& j' T8 X, \, F* h) a
米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。( N9 m$ M$ ?4 I8 b9 a3 |
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北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正)% F7 n. R1 N, m+ c5 O: u
【トウ小平秘録】(37)第2部「南巡講話」 米中秘密外交' O( a b+ O7 [
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■へたな妥協はできない. R S) R2 L2 N) c( v2 D
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米国の対中政策は、ダブルスタンダード(二重基準)とよくいわれる。1989年6月4日の天安門事件後、ブッシュ米大統領(現大統領の父親=肩書は当時、以下同)による対中秘密外交も例外ではなかった。共産党政権による最悪の人権蹂躙(じゅうりん)を声高に非難しながら、その政権と陰で手を結ぼうとしたのだから。2 x3 P7 q4 U2 N8 t3 _8 L @5 c2 I
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当時、中国外相として対米折衝の全過程にかかわった銭其●(せんきしん)氏は著書「外交十記」で、89年7月のスコウクロフト米大統領特使訪中に始まった秘密外交を詳述している。 $ G$ B6 a" c8 C9 t9 }' ^2 `$ } ' e0 ]0 X3 T& X5 @$ Q 銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。( o A. u+ i3 X R1 f$ a7 Y
3 M. e! q/ ~) d& Q スコウクロフト氏とトウ小平(とうしょうへい)氏が人民大会堂で会談したのは7月2日午前。トウ氏はその直前、李鵬(りほう)首相と銭氏に「今日は原則問題だけにし、具体問題は話さない。米国の制裁は気にしないし、われわれを脅し倒すことなどできない」と話す。/ v8 [5 L' x5 y1 R s' W
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銭外相が、7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)でどんな制裁が決まるか分からないと話すと、トウ氏は語気を強めて言った。 5 @& P1 o* u! Y2 g; h " P# d" g& s! r/ E 「7カ国といわず、70カ国でも(制裁は)無駄だ。中米関係はうまくやらねばならないが、恐れてはだめだ。中国人の気概と士気を持て」 ! @2 ]! ]; D* s5 w3 F% R* @; I! t/ ^ b% d" F' s. J. j: o' e& n% C
トウ氏はスコウクロフト氏との会談を極めて重視していた。対米関係の修復なしに、改革・開放の未来はない。しかしそのために原則問題では絶対に譲れなかった。- i' e6 T; ~; |- M
. u2 Z9 e# c' i8 t& Z$ p トウ氏は、会談で「中米関係は危険な段階にある」と切り出し、米議会の強硬な動きを「米側にはそれが破滅的方向に発展するのを止める兆しがない」と話す。( D$ C; W4 ^" k, |. S1 Q9 x
5 d9 f4 T. ]4 O& B/ a トウ氏は、「幸いにも米側にはブッシュ氏、中国側には私らのような冷静な指導者がいる」とし、双方の利益に立って主張し合い、決着させようと述べた。だが、「問題は米側にある」と指摘し、こう続ける。) G+ b) P9 {1 R8 v
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「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」7 x1 E0 A; U/ s
( K5 l$ c2 ?7 ?2 K" u! o: G 「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。 2 {$ g4 {% u M6 A) e7 {+ S2 g: S% i: a
中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。 L& u k" Y# i+ o7 t% U3 j9 }
/ H+ B) U E9 [, P- I8 H, s8 | 「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」 ! E2 G$ E) B; y) N5 {1 P ' ?" h6 Y# @+ p/ Z+ N トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。: C; E/ H9 y9 k! E- n
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≪3度密書を送った≫) C: Q2 a6 @9 m; ^1 k& X
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1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。 : Z- g$ x( W5 p, n& U, W2 J; p3 n5 c$ O
「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」 2 b' |" i- ?) N& z3 Q+ M2 b7 S) u5 | [/ m* c3 }* [" P$ W; A4 r
関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。 2 M$ w3 G) T% Q1 K& d: c/ O- H7 w; b' @! ^
「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」. z* ?3 b. }5 G+ F* }) @' i
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大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。$ C0 r/ U' x, n0 e; I, ~
2 Y7 l+ i9 q; L& r! n, n それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。 4 e L0 B5 q! F' E # d7 |' y* J" y この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。 7 l) E: m R: A: [5 s- E) {8 O Y6 w5 H- A
その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。 9 I$ h0 v4 T f$ ?0 u 7 z7 A) W! \; G" W 「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」 4 {3 a- m9 y$ c( B6 h5 D3 ` 4 a$ a# U1 u% z しかし、トウ氏にすれば新たな「鈴」が付けられたにすぎなかった。ソ連・東欧の変化が顕著になる中で、中国国内では強硬派が発言力を増す一方、米国も「ゴルバチョフのソ連」へ接近、米中関係の危機は続いた。(中国総局長 伊藤正)* q3 y7 S' L/ c, h
+ d" x/ p& c9 }( d ●=深のさんずいを王へんに' U: N. |/ d+ e1 `5 l2 K D
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◇ ! V$ c7 q2 a2 g4 C: E $ Z1 r0 y5 V! P+ p8 ^0 ^【用語解説】アルシュ・サミット % o5 s6 n8 x9 ?/ B0 b! W/ a$ G) }( t$ z& t# }! Z& E
89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。8 G/ {% D b* K. J% c& M* |! v
/ v( P& _- S3 w; Y: A6 V 6 j6 J0 U, \. b) ]$ Y# I天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月 7 Q. Q. Q) h2 h. Z2 v; t E. s& H2 S+ s* x* H8 Z
( ?) O3 `3 b* K% J 8 e) E0 F( m/ i" U. u% c. q) c1989年7月、アルシュ・サミットの記念撮影に応じる各国首脳。左から4人目がブッシュ米大統領、その左はサッチャー英首相3 T- X# q& {) A
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