, @: v* I" Z2 h3 Y6 f/ j 报导说,邓小平是针对中共领导阶层对安徽合肥学生示威的处理态度软弱加以批评,胡耀邦于一九八七年一月遭解职,方励之、王若望和刘宾雁三人遭开除党籍,当时包括方励之等三人在内,有约五十五万名右派份子遭迫害,斗争的指挥者是邓小平。. @& h W b" b" @9 I% q& S
' Q% J |! p& p. N$ c+ z. E! p8 \ 一九七八年开始每年有九成九以上的受迫害者恢复名誉,当时从事重新评价的是党组织部长胡耀邦,邓小平批评领导阶层的谈话显示出他对自由化思想的严峻态度。 5 u: q1 s8 a& K# a U, P* S % j- P3 W; D' I0 |0 [# R 根据一九八九年天安门事件后现身的北京市党委书记陈希同报告等资料指出,当时党全力搜集知识份子在集会中的言行及大学内发现的传单,作为策动动乱和组织准备的反党活动证据。 & j5 v' c* E: h- \0 I6 q( P& y; I) v: [6 U/ @6 p, r: S
邓小平接获报告后认为反右派斗争是正确的作法,有必要新的反右派斗争。中央社# b. J! w* l( x7 i" S2 q
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% B# P+ [; K. b" t2 [【トウ小平秘録】(5)第1部 天安門事件 反右派闘争% R4 Y, [* m9 d* M7 I( p$ [2 [
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■必要なら専制手段使う9 i+ N2 I4 y) c: s$ ?" g @. q$ @7 a) m
( y3 ?" e( @3 I5 Z 「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻)% d/ @0 t ~" O' e* C& f
. s/ u8 f! D( B 1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。 $ ?; `8 n9 I9 W! q) ^- k8 Q% c! B' C* Z: D: i. Q: D
この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。 ! F- j! |) ]7 e. \5 J: f; ^0 Z" o. Z7 H# V7 L
談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。 T9 R q, t- C+ l [, M6 L + c3 r5 m0 Z5 `) w7 L5 X そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。) m+ h* M5 w2 c d2 }6 W. b0 @+ }
U3 K' o+ R% E! D1 B この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。 ' A% t. R; I' u. I1 c! C! j2 [/ Q$ ~
当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。9 R' t( V y/ q$ }
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78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。 : J4 f/ S& }7 ~& ?9 q + e* i" L0 O: g3 r トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。 8 C8 P: V* z7 _0 L) b ?5 ~3 Q' E% Z0 n7 m
「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」 1 l2 |4 F7 E) y 2 C0 q' k8 S# `/ H" [' p5 X% h 「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」: {1 ~9 }# o8 a9 |* N; j5 e
7 T! g _3 @5 b" y& u) n! F だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。 # k5 K. A% ]4 a( {# c n5 i* B* ?! T; d3 Y* a2 N! ]9 [" ?
; m) `1 @' `" I. v$ I+ u2 L3 ^% Q反党活動の証拠収集 + G- z' u+ j. u. s ; X( r( _! w6 s; n7 \! X# t 天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。 1 g1 j7 V# [% V( ^' T; b7 i9 z) D/ l1 `% } s
方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。 . w. I6 i6 w: U + h" z% A" {, n$ x" y' k* r( @ 「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。 5 ]7 l0 P: v! H7 r% C 4 @( _0 Z. ]8 \ A その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。 ) t1 l. D& {2 {2 j% ~3 N- s! O3 v- G2 Q8 [ W+ ]
天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。 " i; x* A: \0 L; ^- {7 ? ' J |, H: G$ l- u: V5 y 陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。 2 X7 r C% B" Q# Y7 l# A% }4 [# i! E, r$ N" ]1 r" t% ]+ l
「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」 ) Q, f% y6 W! R& F; n9 f5 g4 X+ S
「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」5 F2 n; e5 F1 H4 l! s
, I' b/ n8 A& L0 q$ ? 「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」8 r6 H+ P6 I) P7 k. o) H0 A
: Y' q. \" G- Y. E) s 「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」 ! F. F$ q7 S7 p3 |! a" o Y; J9 w( H$ B; ~" w. `
言論・表現の自由がある国なら、問題にもならない話ばかりだ。ところが、中国当局は紙切れに書かれた共産党や指導者批判も見逃さず、反党活動の証拠にする。+ i* l0 Y- X8 T4 N- V6 V% q# s7 r2 n
: C0 C: N. {) r5 s% R! M それらの報告を受けたトウ小平氏は「反右派闘争は正しかった」と思ったに違いない。新たな反右派闘争が必要だ、とも。(伊藤正)5 B! Z6 _3 A8 w( h5 b: y
& B+ N. b- A# ^% p6 x" J, x ■反右派闘争 56年の「百花斉放・百家争鳴」(表現の自由化)で噴出した共産党批判に対し、57年から毛沢東主導で始まった知識人弾圧のこと。職場に「右派分子」摘発を強制するなどして闘争が拡大、数々の冤罪(えんざい)を生んだ。81年の「歴史決議」では、対象の拡大化は誤りだったが、党・社会主義攻撃への反撃は正しかったとしている。 % X7 J4 N, s k* d+ P @* s, d4 E+ O5 X, p0 w; Q; _
(2007/02/18 08:10)& r; _5 c2 B8 Y1 K2 G/ q' [1 G
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■中南海 中国共産党中央委員会と国務院(内閣)が所在する中国政治の中枢。要人住宅もあり、毛沢東、劉少奇、周恩来らも住んだ。北京の中心「故宮」の西側に位置し、約67ヘクタールの敷地は3メートルほどの赤塀で囲まれ、24時間警備されている。重要会議や中国首脳と外国要人の会見にも使われる。特に懐仁堂は有名で、1976年10月の江青女史ら4人組逮捕の舞台になった。. r, P/ L1 R7 g4 O% X8 ]' v* r C
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市): A, @' b1 o+ a, W3 w
& u( m8 I5 S, @: M2 m1 l トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」 ; o1 F& l7 l/ }5 r, B0 U/ e l : q7 l9 j D* G' Z% v) ?+ c9 F1 b0 K しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。8 ]$ D9 o/ l9 Y z
- t# {+ A; _) Z5 z 元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。 3 Q0 `& d! q) L: P7 O; w - Y1 l! z) B; {. h+ } 「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」)4 g [% r3 G c/ S4 |* A
- l# }# E2 w5 C 一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。& w7 {( O, F3 X& z
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「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」$ Y" [. S8 ?! P) N1 |( w+ O% J
' G3 D7 ^* ^1 ^! j5 I& w# n それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 J9 ?: b( @$ V0 b ~% k" S9 W6 w i$ W% c- N1 O T 《ひっくり返った党人事》 * K, \) @1 o0 H3 z( U4 Y3 ]8 ?% c0 V) V( a
思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。 ( W! I5 V9 O3 U ! `$ w2 n0 L! ? 保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。2 l6 B% c" k" U
* ^; ^& ^- g0 ~/ f R 5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。 # s0 A) l9 E+ J4 o - l/ i4 ]$ }* o 10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。: G! t* E' g" q7 A1 j7 h- p
' u" k1 h( m( V3 c 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。 $ }3 N* P% q, Z" j+ x! _2 H- K4 ]& h6 E ' f1 a) p1 ~# l1 T1 D その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。, _7 B& U4 R% W; M
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趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。! O: g' i* H3 H0 X7 @! z
邓小平秘录:邓和赵紫阳合作深谋改革 + ^( l6 N! j& u% A' M4 \(中央社记者张芳明东京二十一日专电)日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平和赵紫阳合作深谋改革,中国在政经面大胆改革是两人的合作,背后是两人的信赖关系,但是后来如何发生变化成为一九八九年天安门事件的重点所在。4 h. B+ X* C4 Y7 ~. ] w
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文中指出,保守派理论家邓力群在一九八七年秋天的第十三届党大会不仅在中央委员选举落选,连中央顾问委员会常务委员选举也落选,相对地,一月被解任的胡耀邦则以高票当选中央委员并在随后的一中总会获选党政治局委员。$ b V+ \$ H5 `- ]. ]% o
; Y ^$ \! F3 w2 z5 K9 P6 Q& p邓力群后来在回忆录中指摘赵紫阳是阴谋家,并指出赵紫阳的目的若没有邓小平的支持是无法实现,邓力群的指摘就整体看邓小平决定武力镇压民众的天安门事件具有重要的意义,中国在政经面大胆改革是邓小平和赵紫阳的合作,背后是两人的信赖关系,后来如何发生变化成为天安门事件的重点所在。: f; [1 Y! d6 _! c7 ]
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第十三届党大会包括邓小平和陈云在内的中共八名元老有七名引退,只有政治局委员杨尚昆获选连任,这是邓小平迈向实现很早就主张的废止终身制和干部新陈代谢的一步。; h2 @5 z, `! }. S" F' _7 u( A K
# c& X+ L: b h邓小平早在一九八零年接受义大利记者访问就强调废止终身制的必要性,八二年设立老干部退休制度,同年九月的第十二届党大会新设由老干部组成的中央顾问委员会,但是老人统治并未改变,政治局员二十五人中只有一人未满六十岁,政治局常委六人中,只有胡耀邦和赵紫阳未满七十岁。 & h- O+ O. c X" \* d" @ 0 _5 t$ b8 n @* ^胡耀邦的智囊吴江在著作中指出,中共在邓小平主导下于一九八六年开始检讨领导人年轻化等改治制度改革。赵紫阳曾在一九九五年十二月接受新华社记者杨继绳访问时透露,一九八六年二月,胡耀邦拜访他,传邓小平指出,「(我)将于十三届党大会辞去政治局常委和顾问委会主任,你也辞去党总书记来接顾问委会主任。」胡向赵接著指出,若是如此,将可带动大批老同志退休。, T) i g2 O+ W+ d8 B) Y, a C
8 A) w/ ^# _8 }1 u邓小平在十三届党大会率先辞退中央委员,其他元老追随而实现大幅年轻化,邓氏只留任中央军事委员会主席,新的政治局常委是赵紫阳、李鹏、乔石、胡启立和姚依林,除赵紫阳以外都是新任。邓小平曾提议让积极改革派的万里和田纪云也成为常委,但遭保守派反对而作罢。后来在处理天安门学生示威,赵和胡是柔软派,李和姚是强硬派,乔石则是中立派,反映出政治局常委人事是保守革新两派妥协的产物。 ; y: i1 A' Y' {* d, S ! j! _8 l0 l" i2 b5 i+ j由邓力群的落选显示,若在改革派大优势之下进行投票选出政治局常委的话,姑且不论被内定为下任总理的李鹏,七十岁的姚依林势将落选,如此一来将引起保守派的反弹而对改革造成妨碍,八十三岁的邓小平把「富强中国」的梦想寄托在赵紫阳身上,为营造实行改革的环境而绞尽脑汁。 - p- ^0 j. W | H6 Z
* }- P5 V6 P3 p2 L
【トウ小平秘録】(8)第1部 天安門事件 第13回党大会 ; U7 j% ` G* y7 ~5 s, e4 @/ p0 a
「左王」と呼ばれ、胡耀邦(こようほう)総書記解任でも活躍した保守派理論家のトウ力群(りきぐん)・元党宣伝部長が、1987年秋の第13回党大会の中央委員選で落選したことは前回書いたが、中央顧問委員会常務委員選でも落選した。187票中85票しか得られない惨敗だった。) Y4 l1 c0 M% k% L
* K. \4 O2 K% y 5 Z/ A! K0 S' T; b2 V j' e改革へ深謀、トウ・趙合作+ R9 K n8 X, P. o
9 {! |* k- [6 C# V 対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。+ F0 k' s2 k) e) e+ s0 D
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党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。9 \5 u0 }# H4 F! m: U f5 \
! L* m( [4 } c* x; b トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。7 a' K8 R, w5 |! X
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トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。- R" p9 p, x1 [: ~
1 H, ^$ e }! g# q 党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。% h8 A5 G' z4 i6 L! \5 k
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トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。5 u( I$ |3 C: C& p
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その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。8 A1 x( K3 B w3 @; T
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≪長老たちは引退せよ≫. W8 d7 z! O6 K' a1 ?2 d4 b* @1 [
1 s, i9 C$ h& U( V 胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。 8 E7 v9 u5 n: g4 l- F/ c5 @ + V; Z/ [8 e& E# B トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。 + }7 O( @+ Y/ i* C8 P$ ^# Q& P' T S7 q$ E [
「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」 / k2 y8 `! |) ^# ?, S7 N4 p8 l( z1 }1 l% g
趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。0 g& k* {; B) W$ @+ v+ ?
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「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」) + ~* b9 y4 u& n1 o7 n; u+ } 7 n) J( j! u. q. S ]- S2 L 13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。! w: x& F% Y0 Y T8 T2 N) d
5 c+ b" u! F4 Q2 K' z1 D 新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。 4 v W/ H; X3 ~+ G M4 o2 ~9 C- s7 p4 b; R/ W+ L# l3 W$ E0 R( R
「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。 ) M; ~' j* o$ `) K. q) a: R: z1 I W) h9 S9 P3 K( _6 ~
これについては田紀雲氏は04年6月、北京の炎黄春秋雑誌社の幹部との懇談で、こう話している。- U4 |+ {; P h1 a( c
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「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」. i+ {. E8 i% z5 b9 i/ @
L6 Q3 j8 a; B% F8 }2 Q. y! l7 z トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。 " c. G t- w% w( H+ b & Y. m7 k! f1 o+ x+ O トウ小平氏は「富強の中国」の夢を趙紫陽氏にかけ、改革実行の環境づくりに、83歳の力と知恵をふり絞っていた。(伊藤正). u0 n; G# F* B7 J. L" [$ x
" M% ?- P( x$ B. c% M ◇ * X5 R( D; u0 _2 Y& D$ ?% n9 s- Y; E8 s* b+ t7 L' R
【メモ】9 g0 i0 z: o/ i9 `: V
& K1 B! a9 l. j" ~
中国共産党の基本路線は5年に1度開かれる全国代表大会(党大会)で決定され、少なくとも年に1度開かれる中央委員会総会が具体的な政策と方針を決定、指導する。中央委総会閉会中は政治局および政治局常務委員会がその職権を代行し、党の最高機関となる。このシステムは、第13回党大会(1987年)以降定着した。 0 R4 s: d; e: N : M; w" Y. b0 m( h4 H; G 中央規律検査委員会は党規違反や汚職などを摘発。中央軍事委員会主席はトウ小平氏以降、事実上の最高権力者のポストとみなされている。直属機関には中央宣伝部、中央組織部などがある。 $ n% [$ f6 i% b/ D) @3 D8 V9 k; Q4 r% {
中央顧問委員会は1982年、トウ小平氏が老齢化した革命第1世代の古参幹部を引退させるために発足させ、長老たちを受け入れた。最盛期には約200人の委員が就任し、党指導部に対して大きな影響力を与えたが、92年廃止。 . Y0 @, U* J! k- S' ]& t8 w / Y: n; B6 P6 ?(2007/02/21 08:11) m; E! e* P' M. o, r
5 H2 v9 N, c" V( T , Q# D4 x3 A$ `) I) x7 k- Q! d c5 I1 V
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8 m" b' R1 \2 g0 Q7 D0 X1987年11月、北京・人民大会堂で行われた第13回中国共産党大会の開幕式に出席したトウ小平氏(前列中央)。向かって右は趙紫陽氏、左は陳雲氏
1 _! d- {6 g; Z1 H: G+ ^! s 不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 * V* Q- f2 f1 q' b% r2 x9 [" Z% Z) k u7 j. v
她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 ( P' ^# S2 ~9 L0 O: K. X S9 u. _" X2 X8 I( f r
邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” 1 K) M- `# T7 s4 C6 Q, J$ V' d+ Z* L
3 A, E2 ~9 a: @! m# a 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 U/ b# I) ~$ J2 L0 N/ e: i0 L) i
) V+ `. Y2 w; s6 u 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” - j5 V( m* S2 f1 I8 Z* l3 ]4 \ X; d# f
在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 2 X' {: f) g' j1 I8 e. q5 B; L3 z, E K/ H& }, p
邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 / Y* B% Z5 I$ U7 s, p2 z: ~& Y
2 F, R, y8 R) B 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”' e6 h3 r$ D7 m% S! D7 w3 g [; b
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他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 8 _6 o$ _, ?. f8 B+ O4 j
' T9 l. Q" O' U3 _) g8 w 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 / O! ]: a# P! T
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邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。9 m& E9 v- F/ i+ h# R. I
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China honours man who reshaped world , X6 J: D# m' {9 [When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. ) f( @0 K+ g2 m ~
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China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. " |, {! B- b' d4 y6 ?/ e: S4 P- O! q! k! g* c( s5 [' O; r3 N
But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. ( j$ q1 Q& S) N3 P/ I
& }' m5 [6 I. {3 b8 t; E6 L0 nHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. : R3 F, u" Y7 o& M0 e# a " U7 r! w) R. J6 @5 m4 _“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” * E$ [0 L- A9 n" D! }) ]3 f% q6 S % E# {6 g5 @( f, c7 dMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. $ G& B" @$ ]+ f3 D' q `8 Z( Y ~! W/ o, ~Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. * O. Q" j0 M9 v8 i" r) c: l
* Q2 U* m; r/ o9 DShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” " ^9 w. t, T- h; F& f }% z r) F# W. M
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 4 ?# b5 Y/ t6 U% _
6 _. R$ P6 C1 UDeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. # C5 U$ N, I+ f6 _$ x8 f/ X
. p$ j- t4 {! D a( m" H# ZDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” & `, S; Y1 T" w4 N# p4 T; |* g
* m$ L- ?) ^2 y3 A, {He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. $ D/ t6 y8 i; { S$ p ; Q; f8 K1 r) S6 L! E7 ?; KMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” * h" ]) t, h2 E
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Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. . e% n7 [( c: O# S8 Y5 t7 v 8 v- K6 h- X6 J' J4 J! q* |8 b5 W" |But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. - N: g+ t. D" {7 F' k/ X4 |7 ]6 C" T! `8 e" t' }' O
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” % F3 S/ z& J- l9 ~1 `8 `. A8 g
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Long road to riches& s1 {0 F1 f6 D) |
3 H* ^: g$ V% D4 WNow J0 X: u. a1 p* l# J/ ]2 L- m* L) n3 G5 J
Population in cities: 550 million 0 S; k |" S. g) n; W: V; U7 Z' T. X1 c! i6 \9 @
Gross domestic product: $10 trillion : B4 f* W2 K. N0 v/ @/ I
% Y, G- A8 }( }Oil consumption: 6.5 million barrels a day 2 C8 |6 U4 Q n" k" j4 h' U9 A3 `8 z6 H: N
Exports: $954 billion , c# ]2 P1 u3 e; n9 l1 T
" @* v! r7 m6 L2 o' APopulation below the poverty line: 130 million : q1 b' T; S- ?9 q
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Ten years ago ! `& q) a1 o. {" {1 j! O/ l/ U ' Z9 `) d( Z3 W( X2 J2 FPopulation in cities: 370 million 1 v( Q5 z! m' [ ' e. c R: T2 zGross domestic product: $4 trillion 9 ?( I0 _2 M$ e9 X/ y3 B $ c A1 N+ @; XOil consumption: 3.9 million barrels a day ! |1 u; V" k- o- t) n% |, r; ?4 M
2 F0 P: w n5 P9 g8 e+ w% d. @. SExports: $182 billion % H5 w; U+ r4 \/ d! v
7 c" L: g8 i4 s
Population below the poverty line: 120 million ; }% x7 f- a( X4 V9 _$ y
# U3 ]/ ?8 G0 N$ ]. M& ]! JSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies, ]1 L7 n) m- b7 [
$ A" B v/ D/ ~ ]8 M & ^- e! s) }( r! H. G8 Y“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 % x( p5 S; [* i q. p" M6 y7 R$ ^# W; U) K) |
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治 % `- H$ _9 d# J" H: l Y, `/ M' N# g* k7 \/ W
(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?” 6 t' j4 t6 Z* M1 K 8 E7 j5 H% ]5 Z. v! T赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。 ( T' o! m) j8 W- i$ z. [* l; L5 ]- E+ T( H& B' `* F$ u, Z
赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。. m+ m8 q4 j, t# z- A
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鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。7 B8 L% L U/ |6 |( b
) T. e+ {; _" Q p# L' _( Q B鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。3 V+ l3 e- e0 M% O: q
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赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。' J" T; K- F6 ^! G
: [2 e+ m$ F: S一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。 9 N4 i8 T3 K3 k ' S: N7 [6 W: n. g) R2 T# C% n未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。9 A0 t7 i5 w: D/ H$ m9 X
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【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」 / ]- ]$ z9 \/ i2 c6 X! M" u $ _: ]: i* j* R: R" s趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。9 m. V" g5 J0 k* p4 \2 U
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2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。 : { t# e, w0 @% @1 I8 p' O5 o0 T/ y q% A7 {# I4 V
「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)# X6 M' J) p2 ^
' }1 C; x% ^6 t5 V' \. | この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。 " h. J5 X$ E+ q& d) p+ I. _* y( r/ J, q. `
趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。 1 l" i/ Z7 ^3 B% a6 \2 D9 [6 `' `7 R6 G# f7 {1 }& Y6 x0 |
中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。 * I" {: Z+ M. w: R/ G# Z/ Y+ y7 s0 D( T% O, f" z
しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。) S5 S0 s' J4 H& Z4 t5 O
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この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。 9 V) y+ E6 U0 `5 K F1 e6 Z , n5 D8 ] e! B0 q しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 , u# ~) u( N. S+ b% |- G& s3 c; Z& U* f1 s$ [
≪パニック買いが起きた≫4 o2 B% j6 b' A6 y* E, a7 E# f; c
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ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。 7 S# M* s5 g9 }" B( p* R' W$ T e: t( E. s! _1 m1 Q: e
趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。$ F6 c" q7 Q+ D- @2 I8 Q( y; B" r
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「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏) * Y) q- P! J+ f3 w 7 k9 S+ Z# |' E8 ~! p- c' [, i O トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。 5 a# @( }! s r9 i+ ^3 d4 M0 j' v4 Y8 [2 `* r
当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。" r2 D* V) F* }3 M- p+ v: u/ N
$ n1 Q! [ T3 k0 m 5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。' A9 x$ x4 Q, P+ g; b \* G
+ M7 J/ k% Y7 K% r 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。' _- ~4 d$ w/ Z5 c0 [, i, B
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その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。 ( T* Q' S0 h/ H/ o v" O$ ~ $ B6 s/ U7 R# P% j ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 - g/ u% q/ L p, V7 a 2 T) o2 o7 Y* G | 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正)+ G9 F( V: h* ]; W2 J
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【用語解説】3自1包 $ ?8 n9 e# t9 q6 {3 Y$ ^ i7 h: j8 i i, Z 自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。 c$ X1 T; y! ^ |/ ?8 T! J- R$ Y+ f$ E0 j& k
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【用語解説】北戴河会議, ] q9 d( ^/ O+ B. C6 _
/ v2 Q1 T2 ?; S. E1 W2 W# L 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。& U# w; u9 p+ h$ A- @8 P6 L
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●=彫の周が丹" D6 d1 g0 I# g5 S+ W
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(2007/02/22 )
g5 k( q8 g k“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。0 S. y( w2 ?4 X9 N7 @* s
# Y! `* @ v$ t9 h1 m/ `' C【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点( M" b* z3 {- a' L) C
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1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。2 q( W ]6 v, ]& M: j8 h
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「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話)0 l4 a3 d% Q: v( `4 }3 ^
, Q7 J' }/ o8 N 「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で)' E7 K% x" ~% x( M
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「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に) 0 _8 K4 `* b% m1 R- q, @1 {4 ]+ l0 D# ^- w
価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。4 w& u2 M1 _7 T( w7 P- v
0 y. B" w! S) s' P% X9 ? それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。 , O ` r+ o3 g2 c7 H: L7 f4 {3 f ) J3 E" `0 Z$ W# r; z8 K- P 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。5 A% R. q3 @, ~- J4 h8 ]% ]( W$ q
$ w' ?* J0 }& C( z/ `( q4 r( G 姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。 + [5 ^/ @. a! B% ^3 G 3 j" y; O; l# T 「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」4 A; Y& V% A# `7 [$ p
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陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。 m) \# o/ A% H( }6 w- m6 l% G; _
88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。 ! J; j" c* P, a. Y& @ % m8 S# v$ c3 l, D* K 「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」5 L; e4 V: @6 E2 {
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10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。; ~- j- w9 V6 A
3 M& @2 V6 y% t- s 「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。2 V; U `7 M$ S; C0 x% T& C [ Z
5 V1 p i% |9 [; O 改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。9 e. K9 Q; q' ^$ G8 F
& Q- ~1 b! w. d$ O1 L5 C" U1 Q5 R ≪空白の2カ月半に何が≫' g4 U( O/ x9 @- H' f
8 E) L7 f L; }6 ?
「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。 " m8 \' k _, e1 P, B1 `1 O " a5 F# r% Y, b! s/ S/ o8 f9 g この間に何があったのか。 3 E) t* ^$ [; d. J/ V! o! s 5 [8 {4 P4 K }) Q トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。 ' `- S. W$ D- Q. L4 Z" S1 x. W0 t2 ]% @0 m- g2 h3 {& x
趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。 7 g( H' X6 i {3 a# d& i0 [; @0 n4 W8 ^9 D: b9 P: J
新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。 ' y! |' `" P( h6 o$ {; c) ?$ h$ e
学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい) # r& N# v& r2 d5 n& C' K! Y, u3 J6 [: S$ z7 W8 F
トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。+ [# M: @% I9 C: ?
4 J0 u+ I1 a O このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正): a l' L$ O! f ]
0 N7 w$ Q/ a8 n& x. G; E ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。- C4 y: ~; F7 J, p+ L
$ E n. }, J1 c
(2007/02/23 07:54)
# g3 `3 C# d; H3 r 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。 ! [ Z$ i- a2 j* ^" L9 f( V5 d; j+ z8 S$ Y6 j( @/ N* ^
「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」 7 u. l" y9 c/ c " n# Q. w5 y2 M& D. m 私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。( v8 R8 V5 i" K& N* g! t |
" N E0 e& Z$ b8 [ }& K
それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。 $ z7 y6 x: ]1 H- H. W0 Y% p8 u* ^; }
当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。8 W! l( Y! }# w* U( s. P% P
/ P: \2 h/ Q3 H ?5 M6 t, E トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。 8 W) ~8 R* }8 ~4 x$ M( e7 u- N* W, U2 V/ `6 G5 k* c; c- T0 l
ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。 2 l$ B# p4 G6 S% g: D! e 6 j6 v$ Q, A' \9 i, ~, l. ]8 I 「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。5 x6 g! w1 v% [* g: g. \1 f8 B
3 @, e6 s. G: V 89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。% w* D, W9 m2 {6 b
1 x& r& S7 D5 X8 S! s$ Q 夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。 ; t- Z6 X4 Q( f, p! q# d4 C3 N p( q+ o8 N7 J$ A" Y( U
その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。 , I( _9 u2 W! T1 | ; [& N" \8 p) _4 y* E2 y それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。 + Y: |8 D* b. e , |/ B6 W# Y, T/ Z: G; w 3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。7 v# U8 {! x8 M; q, p6 i
: T9 W; `* t; }' Y' Z7 Z" n! `
「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」. Q, R( g3 ]' O9 k' x x0 \
. r4 ^7 c- T+ ?) A" D6 A: S
「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」1 @$ G9 j# p f' B4 J; u1 }. v
1 N/ h2 _: Y* A0 ~这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。 : v4 F8 i1 S" ~" @- B& M! V7 W0 ?$ T" K1 _2 `1 `' B
当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。- i. e. H& T5 v: e) X9 t
" M% W* l3 k' Y6 ^! b0 }0 E十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。7 i$ U5 T( k& N B8 \% f2 A
3 n) F/ k1 m% j; g【トウ小平秘録】(12)第1部 天安門事件 悲劇の序曲■マオタイ酒瓶が問題に % L* T) ?) b5 s0 Q/ I& p8 T, O% J & y$ c0 Z3 ?- ?( M2 P 1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。 % C* [8 C- {, {* Q* e 4 A" F& g3 ]% z& m1 u- \ 胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。 / x& S0 q: [" s- Q: d: C. f3 c8 e" K . [% y( Z. K7 G n- s 「やりたいんだが、難しそうだ。前夜から呼びかけてはいるんだが、本科生の多くは尻込みし、中にはわれわれに空き瓶を投げて抵抗する連中もいるんだ」) h1 I; ^" r! o; z) M
/ _8 t6 T7 Z+ E0 e 当時の大学生は全国で1学年60万人前後、現在の10分の1ほどしかいないエリートだった。世の中は「向銭看」(金銭第1)に変わり、政治のにおいがする動きは敬遠する傾向が強かった。 o9 N% v' M2 u f% E0 i5 Q8 w" c# m* T+ m; ?- Y
トウ小平(しょうへい)氏がこの年2月に訪中したブッシュ米大統領に「絶対的多数の学生は安定を支持している」と述べた通りだった。(このくだりは「トウ小平文選」にはあるが、「トウ小平年譜」では削除されている); ~9 C4 A% p! r3 Y: N; n' b
- v! C, B* y& q' D9 R/ g それが翌17日に中国政法大学の職員、学生による追悼デモの後、一変する。デモを組織した1人、呉仁華(ごじんか)研究生はその経緯などを2004年に出版された「浴火重生」(明鏡出版社)で明かしている。* M2 r' E1 U \" |# o
. ~4 r& S& P" { 「胡耀邦の訃報(ふほう)に悲しむ若手教師の間に、天安門広場に献花する考えが生まれた。16日に花輪をつくり対聯(ついれん)(哀悼の対句を書いた掛け物)に『耀邦千古』(胡耀邦は永遠に)と書き、マオタイの小瓶をつるした。それを校門に飾り、『献花参加希望者は17日午後1時に校門に集合』との無記名の張り紙を出した」 0 P8 u" o; v3 S. y/ Y" W) q' I 9 q/ F4 P$ Y" ^ 六、七百人が徒歩で天安門広場に向かう。「途中、インターナショナル(革命歌)を歌い、シュプレヒコールを続けたが、胡耀邦追悼と民主と法制を要求するスローガン以外は禁じた」という。沿道の市民らが列に加わり、5時ごろに広場に到着したときは四、五千人になっていた。* J* F) c2 _/ b/ v; i. e, F5 u
, b. P$ p W5 G2 }4 i% e
呉氏らはトラブルを回避するため、人民英雄記念碑への献花後、インターを合唱して解散する。後にこのデモは「反革命扇動」の発端とされる。「英霊を祭るため」花輪につるしたマオタイの小瓶が理由だった。小瓶は小平と同音で、トウ小平氏を侮辱、攻撃した、と。: ?4 z/ a0 B' w" a8 Y) [. R/ [
& x2 a$ ]1 [( i$ B) O8 _7 K 「その夜遅く、北京大学構内28号楼付近で突然、食器などを打ち鳴らす音がし『デモに行こう』との叫び声が聞こえた。三角地に行くと、1000人ほどの学生が集まり、熱気であふれていた。28号楼の上階から巨大な対聯が下げられた。『中国魂』とあった」 $ W) Q1 w% s$ S) Z0 ]( o% ~% ~: W ; u# W; }& M$ c$ i8 m8 {9 r 当時、北京大の博士課程研究生だった李進進(りしんしん)氏は、「浴火重生」に同大のデモ開始時の模様をこう書いている。 h# z- i, ]1 d6 P1 x3 L 8 w, t3 n9 z" P* S1 o 北京大の1000人は真夜中に出発、天安門広場に到着したのは18日午前4時ごろだった。途中、人民大、清華大の学生も合流、数千人の規模になっていたが、大半はほどなく当局側が用意したバスで順次帰校した。& Z1 q: V' H8 Y3 G3 {& h. A
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しかし200人ほどの学生や研究生は残って、今後の対応をめぐり熱心な討論を続けた。その結果、全国人民代表大会(全人代)常務委員会に意見書を出すことになり、胡耀邦氏の再評価など7項目の要求がまとまる。 ) q# o y: T( v. v ) J6 `0 b! e; U, X' M' g そのとき、学生代表に選ばれたのが、以後学生運動の最高指導者になる北京大生の王丹(おうたん)氏だった。王氏らは18日午前8時すぎ、人民大会堂に入り、全人代常務委事務局に請願書を手渡すと同時に、常務委指導者との面会を求めた。 [# m& R+ s7 S) E
7 O3 ?5 N" A: L1 S* W 面会が実現したのは18日夕だった。劉延東(りゅうえんとう)常務委員(現党中央統一戦線部長)は請願書を受け取り、「全人代に手渡す」と述べた。 3 E# c T, A F' J$ V. m 2 m# w7 J& \7 e- Z* C" d 「それで一段落したと思った」と劉氏と面会した李進進氏は書く。しかしそうはならなかった。. y7 S+ O t0 _+ O. F6 Q5 H( z8 B* W
) X3 E& G! r3 C: j: L
天安門広場には続々各大学のデモ隊が押し寄せていた。やじ馬も加わり午後9時ごろには2万人近くに達し、人民英雄記念碑の台上は人でいっぱいになった。: y6 p, K+ a% q% z4 V7 b
: X, V) M( @, ?; l9 o, x* c 北京の動きが地方に波及するのに時間はかからなかった。上海、天津、西安などで胡耀邦追悼の集会やデモが18日に始まる。特に西安では学生デモと警察との衝突事件も起こったが、北京では混乱はなく、スローガンも胡氏追悼が基調だった。/ | g& R+ M" s
4 C! e8 A2 r1 L/ u それが変わる最初の事件は18日午後11時前に発生する。約2000人の学生が中南海の正門である新華門に集合、李鵬(りほう)首相との面会を要求して突入を図り、警備側と衝突したのだ。悲劇の序曲が鳴りだした。(伊藤正) ; b, ?5 i4 u, n7 b- q. z$ V 5 Y2 z( n2 S8 A8 S' A, M: s ■7項目要求 (1)胡耀邦の政治成績の公正な評価(2)「反精神汚染」「反自由化」運動の否定(3)国家指導者とその子女の資産公開(4)民間新聞の発行許可、報道禁止の解除、新聞法の制定(5)教育予算増と知識分子の待遇改善(6)デモ規制を定めた北京市条例の廃止(7)今回の活動の公開報道(要旨) % t2 t0 O7 Q- T : m5 H: ?. v7 A$ u/ a6 c(2007/02/25 ) ; Y! j# h& i0 V" `( b3 i: o& @6 `8 M( R4 J f- q, w
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1989年4月17日、胡耀邦氏の追悼のため、北京・天安門広場の人民英雄記念碑に花輪などをささげる大学生ら
邓小平秘录:赵紫阳对学运乐观未防备保守派 . V- B9 V5 Q6 z) M/ r* {7 Y3 ?, o. N' y
日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。 3 v5 v, F W) o5 V+ ^6 f0 e' Y% f, m! N4 Y0 A+ m+ k
文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。 , w @- a: m9 d6 @2 C; Y& Q, q! D% a
根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。1 J6 U0 B6 T! k* M& j* `8 Z1 }/ e2 x
6 Y* _- j2 r$ I4 _; W1 S$ i 两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。 6 @" {; k t* q! Q' o% X! S, |( L8 L1 \
十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。 $ p$ ?. A0 a5 G + e% Q0 h! i# W 十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。) g5 [ K" L5 a+ H' a( [4 l
! |4 f" s# S' |; i0 U 二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。- s" y5 g& K% X$ q1 P% x! V5 P% }9 z
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这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。2 ~+ C4 o5 e, S' M$ b1 }: J3 b
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由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 * K0 ]( o& M+ T0 Q* E. h( y! l) p; F L: B; \
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【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件 2 L j0 L. k' X- O& P; x9 ]# f ; l' z/ L3 }1 r0 l+ L; \. L4 K% e■下心ある者を警戒せよ+ L! T* U3 K0 f7 ^; _' F6 k0 g
2 A* {. U9 G5 B, b7 T3 ] 異変は、新華門事件から始まった。 % E0 }% e2 y u6 J7 w# C* {! P: x0 I8 w. d/ k. k( }
1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。) H& Q0 d2 c: e% y1 N5 R
3 K( S! D. \, I! ~9 e, c5 {
それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。/ {9 K5 F. |1 i0 |
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いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。 O' m* ~' J V2 k) u
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どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。 9 C$ w. B8 \0 G( Q( Z8 \( `7 B9 Q; e% t+ `1 A) g
当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。 ) ~7 K$ z1 A! Q/ k1 K! \0 M2 ^. c3 f, D% C: K# E
楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。 + f% C3 p* M' a0 U) q/ b6 }' M7 \4 V" W& [: ?! c/ ^
まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。' E/ M1 @- M4 J9 m
7 s4 _; B* a% Y1 p3 s* U! u- e
党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。8 e! D( y. o& K# i9 o5 K1 E
6 `! W6 h: J. d. Z, |9 G O$ v1 m( T 89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。 : K. ?' D' b4 x& t% Y4 B 5 B+ Z* p+ k3 ~% l6 Q" ^, B7 o, C) h 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。 3 H& E' e3 q0 O ; }) P" A4 {/ l4 r6 p& l- X 4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。8 G& t) C! \3 ?8 h6 z! \! W& Z3 H
& K6 Z$ ?3 ?7 t1 T3 S, ~0 H この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。- b+ B3 k# Z# X* g! E
) t+ I9 _$ ^+ s+ |' x0 I
「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。 5 B$ A; u1 c" E$ [ % r2 i9 f* K T# ?' Q 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。, z8 C& F6 p6 X) ]7 D
* m' C4 ?6 } P ]3 {0 A 全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。6 B* G% P5 {0 R t
2 N8 I+ B& J( ~6 R$ A この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。 ! [! v+ m. ?8 ?( e+ Z1 s . o2 l% k }5 o' p. I 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。 5 K8 f' c! S- |6 P( q* j4 H9 e5 ~9 l* Y: T, N0 S% z4 b
保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正). `9 Q: y/ S8 c1 i' t0 o, `' T, ^
6 Y9 T& c8 Y. Y+ f9 N m" t; d7 x. ^ ?
■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。 % v6 y! ]3 ~! c9 `4 i3 I! i K5 C" j) R8 o9 N* W+ L" _$ q
(2007/02/26 07:41) - E, p4 }0 }" q' i* I S$ }+ S 9 L0 W2 t" W) @! D# k . p4 c, [9 }* A5 b8 j; p ! d7 _/ p4 m0 y# s 8 a& W7 u) l9 `, I! a" R) Z. h2 }$ e5 l# T3 `" I
1989年5月9日、北京市内で「新聞(報道)界の良心を声援する」との横断幕を広げる学生たち
* x9 O+ _. O) U6 x; z; U3 g' W l それに対し趙紫陽氏は言う。 : N* I* o0 e5 H4 o. Y/ s. W( ?# f' D
「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」' R' h: y) t5 v& S: h/ g
( ]9 }* |3 O" g. I* v. X 趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。 , e: Z1 _7 r" m, C! N* ]- i6 B2 @3 G- f
趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。! O. b# B. C5 v0 v# k! H
6 R; ^) j0 S n: y1 Z, k4 B 「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。$ x* ?" z) J0 u' m/ g$ a7 v
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4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。& K! Z; B) X) i# S* S
- P- o2 [4 m' v) j: \ 「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」 - D9 E- P# j$ v" S( G# M; z2 I7 |1 Y( o% f
学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。 0 A3 }: a) K6 B/ E3 W3 Y ! r) _* P: F: j7 Q' ? 数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。* d' B2 J6 C' x8 I8 K
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「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」 / L! j) @3 v" Q3 S" @ ; `& w6 u4 L2 D+ V! b 李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。- q& V( {' b) L$ x n, t9 }6 \
$ I* @0 r U' k. D 趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正)( N1 z: c7 ^" g% o! O
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■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。 ' S. r% e0 O- {/ U7 p0 K6 x7 Z0 S' k) N! b c7 Z& h9 o
●=くさかんむりに内4 w' n1 \+ C+ n' T" O
, R0 J/ l; j o0 {2 g(2007/02/28 ); Z" K- H7 F/ {9 i$ P( I: I/ y
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■断固動乱を制圧せよ ( i3 R# b, O7 _+ \% J' e( w0 n ?) F8 ?( x# v* N% j1 C趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は1989年4月23日午後、専用列車で北京を離れ、北朝鮮公式訪問に出発した。その直後に、留守中の総書記代行を託した李鵬(りほう)首相ら保守強硬派が主導権を握ってしまう。 , C' _8 \5 G `$ |' t & Q# u3 a( t, m 趙氏はのちになって、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビューで、訪朝前、政治局常務委員会内には4月15日の胡耀邦(こようほう)前総書記死去後に起きた学生デモへの対応で「意見の食い違いはなかった」と話している(2004年出版の楊氏著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。' Q8 p A! O) ]! d
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その根拠の1つには、胡耀邦氏の追悼デモが始まった後の常務委員会(4月18日とみられる)で趙氏の分析と方針が承認されたことがあった。' l) @! \1 ^4 T
. N" t) R9 q* f 趙氏は学生デモの背景を(1)清廉潔白な胡氏のイメージは高く、腐敗への不満と結びついた(2)87年の胡氏解任のやり方や反ブルジョア自由化闘争への不満がある(3)88年秋以降の調整策で、政治改革や経済改革が停滞した-と分析。. b0 v1 d/ H2 @: O! k
5 c3 o8 o% ?- S0 O7 P その上で、大半の学生は、胡氏追悼の形で改革深化への願望を表現しているとして、追悼デモは規制せず破壊行為だけ取り締まる方針を打ち出し、常務委の賛同を得た。19日にトウ小平(しょうへい)氏に報告、支持されたという。 9 }% L/ b1 B" K0 x! o0 D) S# \: v4 R3 T+ ~; N# V
22日に胡氏の追悼大会が終わったのを機に、趙紫陽氏が打ち出したのが「3項目意見」だ。指導と話し合いで学生たちを教室に戻らせるという柔軟策だった。8 I4 W7 d4 d% v$ r3 v
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北朝鮮へ出発する際、見送りの李鵬首相から「何か意見は」と聞かれた趙氏は、3項目意見を改めて伝えた。李首相はそれをトウ小平氏に報告、トウ氏も「紫陽の方針でやれ」と指示したという(以上「楊書」による)。6 }& J6 Q( u% r
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ところが、趙氏が出発した翌24日、状況は一変してしまう。その前日、北京の21大学の学生40余人が市西郊の公園「円明園」で会合、「北京市学生臨時準備委員会」結成を決議し、授業ボイコットや地方へのオルグ派遣などを相談した。$ y4 R* C- y/ M5 _9 \. n2 R
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それを聞いた北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記と陳希同(ちんきどう)市長は、中南海(党中央・政府機関)に報告し、早急に手を打つ必要があると判断。陳市長のテニス仲間の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長に相談する(張良編著「中国『六四』真相」。以下「真相」)。 ) t' S0 J0 p8 Z- Z" o6 \ . n0 |# ^& U* }/ V- N* Z4 q 「学生運動はますます重大化しています。既に39大学がストに入り、約5万人が参加してます」(陳市長)「最も凶暴な北京大学生の一部は、方励之(ほうれいし)(天文物理学者)の女房の李淑嫻(りしゅくかん)が指図しています。方励之は学生と外国メディアを結ぶ仲介役をしています」(李書記) ' K( S& Q. W1 Z9 d! \. a' O# M% r) \
報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。, _ G! r2 g2 _; o3 z7 Z8 }" K
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天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。, z6 i. B9 V6 A+ o5 I0 T, N2 O- B
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そのとき、李首相が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に「小平同志に、常務委の報告を聴いてもらい、意見をうかがえないでしょうか」と言う。5 s8 J1 I5 { r, n j: B
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楊氏は「小平に話して、明日午前中に彼の所に行くようにしよう」と請け負った(「真相」による)。9 P$ Q# }+ |9 l* h: L, F3 l. y
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25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。 2 l* a0 \/ Z0 ~1 r* J- F1 E) J7 W3 x7 C
「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」 # ?" r& T. x& ]8 }9 [5 L Q5 s# x. y* W& x
「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」/ H" Z1 W4 ?' J( a& y- |# J
2 o' Y/ M. q2 J' D! b2 j. X" W2 Q) B 「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」( L+ ~3 a4 n8 R. O2 C! b5 W
- s N% Q J$ F+ t. j+ S# ~ トウ小平講話は前夜の常務委決定とともに、同日夜に平壌の趙紫陽氏に伝達された。2日前の「3項目意見」とは正反対の強硬路線である。だが、趙氏は26日朝、「完全に同意する」と返答した。8 Z& _8 w, x- u k. i; e# ]1 o
! o+ P, ^" I, q/ ?) }/ v& g4 z これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。) t, @( K/ {: C3 U O9 J5 f
( u! b$ s6 e' ~& `' j, ~# P" C 油断したのか、権謀だったのか。いずれにせよ翌4月26日、人民日報に問題の社説が出る。(伊藤正) 1 X$ ]# s4 z7 C% n. N' j3 s! q7 W/ s0 i' _& H! O# M1 |# P0 E
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【4つの現代化】& k5 K7 |' J% r5 D. [
. C# y( N4 Y7 u2 _ A P+ r* p! `+ G P 工業、農業、国防、科学技術の近代化のこと。周恩来首相が1964年の全人代報告で提起、75年にも再提起したが、極左派の妨害で頓挫した。文革後の77年の第11回党大会で最重要課題として復活。トウ小平氏は79年、21世紀中葉に中進国レベルにする3段階発展構想を打ち出し、82年に改正した憲法に明記された。作者: 日月光 时间: 2007-3-2 10:08
邓秘录:人民日报社论反使学运全面化2 Y2 R+ E7 p [; e
' A. L" |6 s T7 s(中央社记者张芳明东京二日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,人民日报于一九八九年四月二十六日发表谴责中国大陆学生示威运动的社论不仅未达到威吓目的,反而促使一度呈现分裂情况的各大学学运迈向全面化,加上,上海“世界经济导报”受到中共当局镇压,知识份子也展开行动。 % j. x t, h3 I( }4 r- L/ Q 3 J+ r3 F! V0 v- f, I2 m“秘录”指出,四月二十六日,人民日报刊登标题“反对旗帜鲜明的动乱”的社论,断定学运是有计划的阴谋动乱,是少数别有居心者利用学生反对党的指导和社会主义制度,表示坚决反对。这篇社论完全是邓小平二十五日谈话的内容,未反映三天前赵紫阳的“三项意见”。赵紫阳后来接受新华社记者访问时指责李鹏歪曲事实欺骗邓小平,诱使后者发表镇压学运发言。2 A" m' k( E \6 j% b! s0 c5 F
邓小平曾于一九八六年十二月的学生运动对胡耀邦等发表内容主调相同的发言,次年一月六日,人民日报发表“反对旗帜鲜明的无产阶级自由化”后,学生示威运动趋于平静。但是,一九八九年的学运情势相反,社论一出来,反而重新点燃由于内部意见对立而一度失去目标的学运,并得到社会的广泛支持。. U1 ^3 M \/ q9 _/ s' ~
" V" O7 m; [+ n8 i& Z4 ]人民日报刊登问题社论前夕的二十五日晚上,中国中央电视台先行播放内容后,王丹在北京大学召开“民主沙龙”讨论对策,各大学的学运迈向全面化是在社论发表当天的二十六日,学运人士呼吁二十七日一起前往天安门进行示威,北京市内有数万人在市内示威游行至傍晚,市民沿道欢呼,送给学生饮料乃至于捐出现金。0 X# I) m+ C. d8 S/ Y/ }
+ ?7 x4 ^# y, V0 ]就在那个时候,知识份子也展开行动,背景原因是上海最进步的报纸“世界经济导报”遭到镇压。 a0 r1 V2 c: B0 H, Z t, V
2 a: a2 @9 }- b! M9 v* J【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説 ; Y% s3 l0 ~- w4 b% C; D+ o) _. f+ ~" {3 Y! H+ E
■反応は86年の逆だった 5 b, B& i0 C' @5 P- ? E* A4 W3 F* f% r( C7 ~/ z
「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」0 n, H& L- b/ w' o! h f! j. D( R
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1989年4月26日付の中国共産党機関紙「人民日報」は1面トップにこう題した社説を掲げた。異例の朱色印刷された見出しに、文化大革命の否定表現である「動乱」が使われたことが人びとを驚かせた。 ) w0 K T; w1 z- r, `$ N @3 G S4 T$ I& s
社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。 . \4 d$ h A; A. Q* u0 x) v5 u2 |1 W9 n6 g
人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。& A/ Z' a" o/ Z# e
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「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」 7 [. i6 N0 S) m% \ u* P' c7 n: d) E5 F
その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。 & O3 W/ s3 h& _# n2 U" X/ r. M$ ~& K2 b' i1 }
陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。8 p; w2 U# y) k
邓小平秘录:邓图以社论阻止学运是误算 % S% j( L' m, }; Z- X' M/ X8 {7 x l R( V/ j4 _2 d
(中央社记张芳明东京三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平在一九八九年四月二十六日以人民日报刊登指控学生运动社论和解除上海周刊“世界经济导报”总编辑职务的方式企图阻止学生的民主运动是项大误算,反而使得学生和知识份子联手,使事态更趋严重。1 M' y- c3 h2 I: E4 F' F% M3 n
: ^. a9 B( k* Z! o) B4 H8 y& d+ m“秘录”今天报导,四月二十六日人民日报刊登社论,把学生运动定位为“动乱”,引起学生的反弹,次日出现数万人的示威游行。当时学生高举的口号是“拥护共产党”和“维护社会主义”,令采访的中国记者感到困惑。 3 ?* k& Z+ h. S; \% f/ Q& v3 c. p; t) U: N5 R: [+ b4 n7 S3 k
其实这是学生方面针对人民日报社论的指控采取的高级战术,表明并非反体制运动,而是要求消灭腐败和确立民主政治和法制,这项口号获得不关心政治的学生和一般市民的共鸣。" A6 b! a/ K& O' k3 N5 m
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天安门事件后被以“反革命阴谋的黑手手下”罪名判刑十三年的“北京社会经济科学研究所”主要成员王军涛在二零零四年刊登的专文指出,他虽避开直接参与追悼胡耀邦的示威,但应北大学运领袖要求提出建言,忠告示威运动保持行进的秩序以避免镇压。 0 C! x; E C; u$ v1 H( F $ ~- g8 ?9 i- @2 c9 k王氏所属研究所的成员也在当时由“观察”学运转为“支援”学运,背景原因是被视为当时最进步新闻的上海的周刊“世界经济导报”遭到镇压。由已故的当时总编辑兼社长钦本立负责的这份周刊于四月十九日和月刊“新观察”共同主办追悼胡氏的座谈会,有二十多位著名知识份子出席,并计划于四月二十四日在追悼胡耀邦特集刊出会议内容。 # K7 ]+ y( t' Y/ x+ u: M 2 y: [( I/ `/ F) a造成问题的是“中国社会科学院”前政治研究所所长严家其和“光明日报”记者戴晴等发言批评党在一九八七年一月解除胡耀邦的职务,要求恢复胡氏的名誉。上海市党宣传部在特刊发行前一天下午获知内容,当时的市党书记江泽民指示将问题部份删除,但钦本立拒绝,上海市决定禁止这份周刊发行,但已印好的一部份则已对外发送,江泽民于人民日报问题社论同一天的二十六日将钦本立解职。3 V8 Q' d9 u" R! w
8 _3 |8 V$ e8 X; ~5 W& Q) {江泽民由于这项表现赢得邓小平等元老的信赖,是使得他在天安门事件后被提拔为党总书记的重要理由,但是,这项事件也引起知识份子和媒体界人士的强烈反弹。严家其等三十三名知识份子和北京的媒体界人士数百人连署对上海市党委的抗议文于二十八日发表,知识份子的危机感和学生要求报导自由结合在一起。 z1 l# F! A$ `2 b% W% l ) X) A# z8 j) {) Z9 `% k+ l中共党中央意图以人民日报的社论和世界经济导报事件来收拾学运,未料反而造成事态的扩大,对邓小平来说是一大误算。赵紫阳在二零零零年接受新华社记者访问时指出,在一九八九年五月十七日决定发布戒严令和他本人事实上下台的政治局常委会会议上,邓小平向李鹏表示,不要再度出现造成他发动戒严令的事态。 p. u4 w2 c2 f" p# H6 A* _( C
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人民日报刊出问题社论后的情势令元老们感到不安,前全人代常务委员长彭真电话指示党中央办公室(当时的主任是温家宝),要求党中央自制,不要扩大矛盾。中共当局于二十八日改变态度,同意和学生对话,但是,二十九日,国务院发言人袁木的作法对学生造成刺激,因为获准参加对话的四十五名学生之中,有四十三名是与政府息息相通的官派学生会的成员。 ( e) W; ]( X9 ?: l& d) ^/ C" |6 Y) j6 S
正当李鹏等保守派被迫处于守势之际,赵紫阳结束了访问北韩之行于四月三十日返回北京,揭开了保守派和改革派激烈斗争的序幕。 ; Y, z. e0 E1 a: R3 q' M / X- q2 J/ I- q【トウ小平秘録】(18)第1部 天安門事件 発行禁止& c F- m6 \) u+ ]5 D0 x
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故胡耀邦氏に対する学生の追悼活動を「動乱」と決めつけた人民日報社説(1989年4月26日)は、学生側の反発を招き、27日の数万人の大デモになった。デモを取材した記者たちは学生たちの掲げたスローガンに戸惑う。「共産党を擁護せよ」「社会主義を守ろう」が前面に出ていたからだ。! f8 V9 o6 B, Q- ]8 v5 s/ E
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これは、自分たちの活動は腐敗や不正をただし、民主的政治と法制の確立を求めているのであって、反体制運動ではないと訴え、「反党・反社会主義の陰謀」とした社説の逆手を取る高等戦術だった。そのスローガンは、ノンポリ学生の動員と一般市民の共鳴を得るのである。 - h* `+ W8 M9 w5 l5 J3 W9 D9 n: R5 v
後に「反革命陰謀の黒い手先」とされた独立系改革派シンクタンク「北京社会経済科学研究所」の中心メンバーだった王軍濤(おうぐんとう)氏(天安門事件後、懲役13年)は2004年に刊行された「浴火重生」(明鏡出版社)への寄稿文で、こう回想している。 7 h( F# C- e! n* D# W3 k1 B9 }5 R: d5 M2 v
「当局側が強硬措置に出、政治的粛清になった86年のデモのときと同じ事態は防止しなければならないと思っていた。胡氏追悼デモには、直接関与を避けていたが、27日のデモの前、北京大の学生リーダーから求められ、アドバイスした」( m! w/ h+ Q4 s% \) Y
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王氏は「運動の秩序を保持して鎮圧を避ける」必要を指摘、「スローガンに注意し、ピケ隊を設けデモ行進の秩序を守るよう」忠告したという。それを機に王氏ら研究所のメンバーは学生運動に対し、「観察」から「支援」へと転じていく。1 w: u& f! U" ?- M4 P
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その背景には、上海の週刊紙「世界経済導報」弾圧事件があった。1 _7 }$ _9 ~; Q; r; S% r0 S
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老ジャーナリスト、欽本立(きんほんりつ)氏(故人)が総編集長(社長)を務めていた同紙は、当時最も進歩的な新聞として知られ、北京の中心部にあった支局には、改革派知識人や外国人記者が自由に出入りしていた。北京社会経済科学研究所との交流も深かった。. _8 ] V* X3 K) [- \; i
: n6 M5 i# Z: q' V: ? 同紙は、4月24日付紙面で胡耀邦氏追悼の特集を企画、その柱として19日に月刊誌「新観察」と共催で、胡耀邦氏追悼の座談会を開いた。著名な知識人20人以上のほか、胡氏の長男、胡徳平(ことくへい)氏(現党中央統一戦線工作部副部長)も参加して故人をしのんだ。3 ^6 y$ e. p" A( D! o% q( m
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問題になったのは、中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏や「光明日報」紙の戴晴(たいせい)記者らが、87年1月の胡氏解任決定を批判、名誉回復を要求する発言をしたことだった。' n+ ~# a/ Z/ k1 K6 m- a _
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それを上海市党宣伝部は23日午後、校正刷りで知る。陳至立(ちんしりつ)宣伝部長(現国務委員)から報告を受けた江沢民(こうたくみん)同市党書記(前国家主席)は、宣伝担当の曾慶紅(そうけいこう)副書記(現政治局常務委員)に、問題部分を削除させるよう指示する。 # v7 \7 \. \/ W* N, w' R* G1 a- t' m2 s# V& R% p+ G" {3 b
しかし、欽本立氏は拒否する。輪転機が回る中で、やりとりが続いた末、市側は24日付同紙の発行禁止を決定したが、既に一部は発送済みだった。江沢民書記が欽総編集長を解任したのは、人民日報の強硬社説と同じ4月26日だった。 1 A/ h1 U7 K/ X) F 2 ~/ B- T/ e' f+ {# l この事件は、江沢民氏が天安門事件後に総書記に抜擢(ばってき)される重要な理由になる。トウ小平氏ら長老が解任した胡耀邦氏の名誉回復を決然と拒否する措置を取ったとして信頼を得るのである。 u: g! V3 y. {' L5 J" y
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しかし欽氏解任当時はそうではなかった。知識人とジャーナリストの強い反発を招いたのだ。厳家其氏ら知識人33人、北京のジャーナリスト数百人がそれぞれ署名した上海市党委あての抗議文が28日に発表される。 ! n3 A* e/ I# e: }! V , {0 O7 m' _' a# m- m }" N% b; f8 Y そうした知識人層の危機感は、追悼デモ報道に不満だった学生たちの「報道の自由」要求と結びついていく。人民日報社説も世界経済導報事件も、事態を収拾する意図に反し拡大させてしまったのだった。 7 z4 ~$ o$ q8 `0 R: c5 ` 7 w" e" k7 Y) s: B% S( B それはトウ小平氏にとって大きな誤算だったに違いない。 Z8 W! f$ ^" R/ \- Y% l$ v! R* v( H% ^( T M
趙紫陽氏が2000年5月に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者に語ったところによると、戒厳令発令と趙氏の事実上の失脚が決まった89年5月17日の政治局常務委員会で、トウ氏は李鵬首相にこう話したという(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。0 V* I/ M1 ~9 c4 j& O: s
; A3 U( y, `: O, H B' |5 R+ O 「わしに戒厳令を発動させるようなことは、二度とするなよ」3 M k7 z" R' i) u: T) s/ ?( ?/ y8 w. m+ o
! r2 M) s( a$ h+ w 人民日報社説後の情勢は、長老たちをも動揺させた。趙氏によると、彭真(ほうしん)・前全国人民代表大会常務委員長は党中央弁公庁(主任は温家宝現首相)に、「党中央は自制し、矛盾を拡大することはするな」と電話したという。0 O$ D) B% ~4 r/ Z/ A
1 G$ h2 V9 ^5 w8 K 当局側は28日、学生との対話に応じる姿勢に転じる。しかし29日に袁木(えんぼく)国務院スポークスマンが行った対話は、デモの主体となった学生側を刺激しただけだった。参加した45人の学生中、43人は政府の息がかかった官製学生会のメンバーだったからだ(陸超祺(りくちょうき))著「六四内部日記」)3 K/ K2 G$ {0 S8 m. R5 U7 l* h8 U
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李鵬首相ら保守派が守勢に追い込まれる中で、趙紫陽氏が北朝鮮訪問を終え、4月30日、北京に帰着する。そこから激闘のドラマが始まる。(伊藤正)1 S$ a$ `4 t1 }# Q
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【用語解説】世界経済導報 # S9 D9 Q" ]; ^& E( T1 Q0 X. D* f- R) W; ?1 Z
上海社会科学院世界経済研究所が中心になり1980年に創刊したタブロイド判の週刊紙。当初は経済専門紙だったが、欽本立氏が総編集長になった85年ごろから、政治改革主張を強め、中国の知識人層や海外メディアが最も重視する新聞になった。88年の平均発行部数は18万部。天安門事件後、「上海における動乱の拠点」と非難され廃刊。) r6 x7 o# y8 Y a( [
邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对 2 t# c7 k K/ n - i& v1 [1 w1 n. Z: e(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。$ ]: W6 B6 [2 T3 u& d
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由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。 7 m# J1 P( z Y# J1 s“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。: K; S" P# E3 V+ E
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“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。7 `# I; m i& e( Y- Z8 i% X$ q6 W
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另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。 6 S/ Y( r4 q; ?7 i% y" @7 W: C 3 o% ^% z& B( p6 {9 U* i“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。 ! E: n9 n0 C: S ; n7 R+ K @: g9 [( D: M“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。+ {' M# _5 z& C8 X$ y
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于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。8 ~3 r9 y# Z4 W* ^7 C7 {" k* E
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不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。! @' M0 O/ I$ i8 O& v
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“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。 6 E: O6 h. \9 h4 M. P- w& \7 | ! K* q. Q+ B( z; ]% F$ }4 F【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 9 |5 l" C+ a& ^ 8 U- Q* B1 K' s5 d/ C ■指導力 試される2 r; D% X( N4 Z9 E( g0 S
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1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。 b% k l$ s; g; }
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23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。. [$ p+ K# L& j$ F8 i v4 h. a
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「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 ( X+ `6 W Z0 [- N& [ 4 ]/ X4 D7 T$ d M 「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」 7 n9 N s3 m& O2 E+ \! x7 t: X" b , E% f3 k6 S6 f8 B8 `" {6 G 5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。7 J; u( s/ X: }4 Y1 l, Q* J0 n
: g* ^% {* ] j7 v1 W 趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。. K, E+ H. \# y0 F9 ?. N, i
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会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。- ^# K5 ]7 q! y
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一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。# R! I6 I& e$ F9 F. i& M2 C
2 ]) B' J3 o: ^8 W* t- T 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 $ B; N- o3 ^/ G , d' z. e z$ v$ E& ^7 A6 Y9 Y/ } 趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。2 j, }7 W4 K) v) R1 Z M3 O: m
/ w! T m2 b6 |1 }) K' w0 ], A 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。# Z' ^+ s6 F5 _* K1 d
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「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」& }" u9 l: {# \
5 {) k/ j) ^: x! V* t5 I/ T 中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。 2 @& c# k( q8 ]+ Y/ I" j# g- j+ B, `4 Z i# _. T' G; ^
趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。 " q, x6 L+ ^5 q* [! y 3 {$ T& W: w) K* b) T1 `' ~- w 「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」% E( l8 {6 K% K
1 [, J7 J9 u4 j, ]4 E 学生たちの要求にこたえ、党への信頼を回復する考えだったが、学生デモを「社会主義制度に反対するブルジョア自由化」とする李首相は、「一部学生は4つの基本原則に反対し、自由化を叫んで小平同志らを攻撃、非合法活動を続けている」と激しく反発する。) s6 m# q& M5 i/ ^3 p
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趙氏は「一部にそうした連中がいるのは事実だが、大部分の学生の要求は党と政府の政策に合致している。何よりも今は事態を早期収拾し、安定回復の必要を学生らに理解させるべきだ」と突っぱねた。& A [# @; H/ Z4 E, W) Y2 r3 T# t
) p) g2 k1 s5 k u Z0 s# `; u 会議は、趙氏と李氏が激突した後、閉会した。両氏の間に敵意が燃え上がった。 (伊藤正)% K1 f# N" e6 l, j
- D1 y- m3 g1 V5 X ◇ 7 N+ a1 Y" F! e. k ]9 K! t- c) X" p- j- W【用語解説】五四運動3 B) ~' F* |/ g' O( [' c
" B$ h) l2 C. }6 H$ k 1919年5月4日に北京の学生らが起こした反日愛国運動。第1次大戦後のパリ講和条約で、山東省の旧ドイツ利権を日本に引き渡すことに政府が同意したことに抗議し、学生3000人が天安門に集結してデモ行進、親日派官僚罷免や日貨排斥を要求した。これを機に各地に運動が拡大、学生や労働者がストに入り、政府は講和条約拒否の声明を出した。4 [( U( F; e* N* ~$ E: X, l
邓小平秘录:邓氏曾为民运对策态度犹豫/ }" I! v6 L7 |/ Q z: C! O0 K
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(中央社记者张芳明东京六日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日党总书记赵紫阳对出席在北京召开的亚洲开发银行理事大会说明对大陆民运的看法后,拟以对话来收拾事态,邓小平对民运对策曾态度犹豫,学运领袖王丹等采取绝食抗议行动使得情势为之一变。 ) K* r4 ^: N3 V4 J" P. U0 M X- V0 `, e1 s, [$ v
“秘录”指出,一九八九年五月四日亚洲开发银行在北京召开理事总会后,党总书记赵紫阳有意经由对话收拾学运。中共于八日和十日分别召开政治局常委会和政治局会议,决定促进与劳工界、媒体和学生的对话,早日召开全人代常委会及检讨处理腐败和民主政治建设具体案。全人代常务委员长万里决定六月二十日前后召开常委会。4 A6 N; l' m. f! Q. l0 x
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中共党中央对民运改以柔软路线因应并非未遭到保守派的抵抗,且在社会各界引起复杂的反应,多数学生回到教室,五月八日时,只有北大等少数学生继续罢课,反应最敏感的是媒体界和知识份子,五四以后,要求“表现自由”的气势增高。; \, v' T% ]" J' H" c: H& l' f
' a" @/ v- E2 }- s五月九日,中国青年报发表千名以上新闻从业人员要求和政府对话的信函,新闻报导和社论也出现很大的变化,支持赵紫阳路线的色彩升高。人民日报高层在内部达成共识,采取慎重态度未像中国青年报那样积极报导,主要是担心这种作法会提供反对赵紫阳讲话的藉口而挑拨激化邓小平和赵紫阳之间的矛盾。; V+ d6 y/ ~, a
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张良编著的“中国六四真相”指出,杨尚昆国家主席于五月十一日和邓小平见面,指出王震虽反对赵紫阳五四讲话的内容,但是这项讲话确实有助使得示威趋于平静。邓氏则指出,李先念和王震等元老曾来电话要求他留意赵紫阳讲话。他接着指出,数天来一直思考到底是柔软对策还是强硬对策有利于解决问题。 ! d9 [% c/ w, R; T8 _, d3 s ! w- g7 T! D5 Y5 y杨尚昆随即向邓小平试探修改四月二十六日人民日报社论强硬路线的可能性,表示赵紫阳希望能稍微淡化社论的语调。邓氏只回答表示有意了解其他政治局常委的看法,并未表示反感。 ) G) f, H/ j9 m( C& c5 A8 o, T8 O# ~
当时邓小平脑中最在乎的是四天后苏联共产党书记长戈巴契夫的访中,他和杨尚昆有相同看法,认为历史性的中苏和解不宜在民运示威中进行。 2 s. O4 h. s8 ?/ U, M * N `: J0 N7 g0 E5 d7 O9 d就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。 : w' D6 }% ^( H- T ! S0 J& a' K' l+ d2 Z. {: P! p【トウ小平秘録】(21)第1部 天安門事件 内部分裂 z6 ?# Y$ A" E# \9 H o% Z5 Z 6 w/ J, ?7 u, Q* g4 G: n.0 E( G5 b$ h$ f! ~8 W# i
$ F6 v1 }+ A, L: t 中国共産党の前総書記、胡耀邦(こようほう)氏(1989年4月15日死去、肩書は当時、以下同)の追悼がきっかけとなった北京の学生たちによる民主化要求の運動は大きなうねりとなり、事態は予断を許さなかった。 : c: J8 Z. h" }/ I: e3 s# b1 B6 f/ O) E5 b5 a' Y, W, v3 T
89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。 ! J& [" V" T2 g( R( ~# z# f * o+ z/ C) f; _) }9 `- E- e; n+ ` 5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。 : k1 O0 B' c: Z; F I5 c9 S! A ]) |0 v. y0 D. o: A* P2 A
これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。4 o8 ^9 p2 V$ r2 \" t+ E
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柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。 & f- [8 s( H: y8 T3 A6 u8 p8 U5 I5 v# p
「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」/ u% A; t5 b. b
; A. E( y2 E7 C* ^- _8 F. [4 | 張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。 " M: l. C9 l! h/ Q, R, l3 ]+ x 0 `" K7 f6 z R% w" ] 党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。- F; @0 c- e* h4 N3 S
. [9 T1 n. v$ i0 F) _6 i 最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。+ P- L# v6 Z9 g2 d
/ [; Z- x3 e Q0 P( M 9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。 / S( r+ j1 _3 b9 u3 T3 ~9 ]+ m! y3 d# V& V8 P" T6 B" }
人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。 + K) g5 {% b% K5 x- I 6 p" c' s. ^6 H5 l* J0 S. U しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。2 E+ T, z* q/ l, _: O
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陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。; _" F3 \7 ?" X
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そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。6 y7 s/ |. h/ a) @# C# O
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それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。 1 ]; ?* W1 A) ~" W; M" v( ^ - Q6 r, A' j2 p% q! y6 G 「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」, T w: J- @# Q, Q% l4 @2 V; d" n
2 j t, |, q$ v3 J- u そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」$ k. T8 m1 h8 f3 n. ]
/ U4 a3 c8 ]: Q& o5 N9 V トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。6 W2 P/ P; w) g) }$ v8 M( s
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トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。 " t$ K8 _! _, S # k/ I' P$ v* R @$ S: u 《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》 5 g$ y5 c3 D: Z) a; y& c* c ! b* h4 a5 T% k- o トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。 & r2 _& w* C t$ y) l* @9 ?8 Y " q! D% P$ P( n- @' [6 ] 彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正)+ k, u p/ ?5 a2 y
1 O+ s1 [- [& K3 p$ ]◇ 3 l4 Z1 T1 u5 L7 ~& X+ A2 w6 J' N: ]) [* d& G& z
【用語解説】中国青年報 ( Y& R6 b) d7 d* _' K : @3 H7 _9 V* }1 K$ y( E8 N 共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。 , G( t a2 M @6 t 6 c& d2 z8 E7 H' g0 C2 u4 t! c. |(2007/03/06 ) 7 F5 @& z7 K* B& }% T8 F& g5 v& k7 N# U, V 作者: 日月光 时间: 2007-3-7 10:31
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口1 j/ s2 K- S; B! [" ]* j
中央社( r) |3 j7 L, S$ G
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日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。1 s! A! h* Q2 |* l9 `' H3 B5 X
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「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。 - I, h5 K8 m. y& n1 E# o' Q0 Y; l/ x G: w
「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。; V# k# _7 l/ `5 G8 q
7 y! l3 R% W8 p8 d 王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。, [7 O, h0 w8 S$ y, E5 k) T+ ~
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; ]% D9 T7 H p3 U 但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。 2 ^# M1 a7 u7 Z9 l+ C* P' K6 I+ E% \; \# S) A- _# g3 E
王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。/ @5 t5 S) p8 {$ F: l
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十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。 9 F1 x7 D+ G4 q9 ]% c5 p- R6 n. o4 X
就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。 & A P4 m3 v* [$ N2 m, m. R9 [3 m7 R. b7 b/ r$ C# a. \
邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。, O8 L. N' K2 g
7 t" d8 F, `9 V* m- D. a: N 对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。# G: d2 r; t! g" D9 ^* u% v; k
9 D$ ` w9 r9 p) W0 P, `! t 学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。/ h6 V, @, O* @! b
/ Y* `7 V. z2 B5 d/ I 4 P6 T b7 C3 p8 L【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言4 _) m% O3 I3 k6 `3 `% k$ m. L
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■急進派が押し切った ! i0 Z& C+ t& t* E( ~8 |5 h7 u( W( a0 \- O3 N# v
1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。 & _$ t! a$ g; o' S8 S ' s3 i1 ?: | O5 G2 I 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。 6 w7 U& j* v' ]2 M7 D* A q- Z2 C7 M8 R( U
同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。 ' u0 W2 A( L: E; c+ Z* V! `$ n5 t/ E6 S) R5 Y' e0 L
しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。 9 z3 M+ ~& [4 T( F0 K & s% ?/ t# ~- m) t0 w 絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。" D9 r/ `( v; t' Y% Q* X# p
1 K- H- |! i8 F" P2 v それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。 0 H; e9 R2 f* \+ i% ~/ M " O4 v2 H" G% [ C 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。 : S$ @- f/ @1 s' C2 F# l5 n- U; H* E* c$ ?$ L' q
王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。5 ^$ R2 i: ^6 N/ u1 e: W
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在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。3 W) D* J r2 y7 `
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李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。) l2 z m8 J( G+ N" j# H
5 Y! J0 y) m# J, e# ^ 14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。 : H. I; X! e7 [- Z3 ^( I, c5 Q$ c. \9 X + Z2 ~: b5 t J! ] 政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 ( s/ l' ~ R7 }7 l% O; f4 \9 J& [$ | ]2 j, @/ v- A* Z* ~ l. e
13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。 % \ h: Z& g6 u/ C! [" E6 k! d9 N$ r" Q( l; D) s! {' }" G
それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。1 _- v. ^3 n q7 h/ [. |( e
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趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。 ; W- d4 ^, ~- R* A w6 ]* c5 }1 ~9 a& _/ y& `. E
14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。 . t2 k) Z' ^# O$ s& m8 _: s' V: p1 G* e
絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正)" s$ [* A. O$ `/ r" B( F, i# V
2 a, l! m! J4 ^& R' f●=彫の周が丹 a' H4 M% m2 g- Q4 L9 ~6 }$ A d4 R- C# ]% Z; T9 _, K
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【用語解説】中国社会科学院 D$ C; A8 l$ U! b9 `8 F% y/ X$ L4 w; m' b$ f$ u7 W( w5 @5 k
中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。# H1 j6 |; Z0 [
邓小平秘录:赵紫阳透露中国仍由邓掌舵 $ `/ C4 U1 W; H) R E1 p$ k+ }: h- { s; X
(中央社记者张芳明东京八日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳于一九八九年五月十六日,在和访中的前苏联共产党书记长戈巴契夫举行的高峰会谈上透露,邓小平虽退出党中央委员会,但中国的重要问题仍由他掌舵,这项发言后来成为保守派攻击他的罪状,也造成他和邓小平关系的破裂。0 M: F v s. H! Q
& I, s& S) W$ _) p赵紫阳和戈巴契夫会谈后的十六日傍晚,党中央统一战术工作部长阎明复在天安门广场呼吁学生停止绝食,约两千名绝食学生接二连三倒下,王丹和吾尔开希两人提议要求停止绝食,但是绝食学生精神高扬,学运已经失控。 5 L* f. Z) m4 }) a( L3 ^: h ' _; Q* L6 L' ~5 [& l% |十六日当天的示威达五十万人规模,劳工、文化界和新闻界人士参加的人越来越多,大学中大半学生再次罢课,赵紫阳主导的柔软路线走入死胡同已是明显可见。当天晚上,在政治局常务委员会上,赵紫阳和李鹏等激烈争辩,赵紫阳仍主张修改人民日报四月二十六日的社论来解决事态,但是,连过去支持赵紫阳的乔石和胡启立都表示质疑,列席的杨尚昆和薄一波也反对柔软路线。 \) W% j3 j0 X9 ?' c0 s& x5 t
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赵紫阳和学运一样,逐渐失去退路,欲情势逆转唯有即时中止绝食。赵紫阳在十七日凌晨代表党中央发表书面谈话,肯定学生的爱国热情,承诺党和政府不会进行报复,要求学生中止绝食,回到学校和党中央及政府进行对话。- o6 m' _/ r8 u
" t7 g" t* E; o$ N, Y: V陆超祺的“六四内部日记”指出,十六日傍晚,人民日报社长钱李仁和拿着中苏会谈照片前来报社的杨尚昆长男杨绍明见面,拜托后者说服杨尚昆让赵紫阳的谈话刊登在人民日报。党中央于十七日凌晨透过新华社把赵紫阳讲的话向全国报导,但由于并未对学运定位“动乱”予以否定,效果令人质疑。/ \- y7 ?& P8 @2 w& t
" E+ _& b) R" P; L0 P& b/ v. |- L; [赵紫阳于十七日早上送函给邓小平要求见面,希望邓小平能修正四二六社论,他把这次见谈视为最后的希望。“邓小平年谱”指出,十七日下午,政治局扩大会议在邓宅召开,除常务委员之外,杨尚昆也出席。8 ?: Z" ^8 M% A! w2 ~, d; u
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赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。 ! A2 _/ ^6 [. F# W& `# n z( X. q% O9 [! m
【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談 ; o. h# M' B- B( a$ `4 r" H: h" P1 \% W' b* v
北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。 : N) s/ D' `: s* k1 M* b( t! Y5 m, v- H- {
宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。 - p3 f$ A! U; h; B. s* o; [; ~) I, p* x' m: Q" ~
ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。 & I+ s$ b* j1 I4 M' n. U# e3 u. N) g+ t$ p' N- \
「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」 7 e! I- f, |# w. j8 ?$ J' F! @+ h+ V( t* D" B
重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。1 O) V( k5 E( F4 k9 P# B3 W
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趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。/ W n+ x) C( s# D* U
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鮑氏は「李鵬は(学生デモを反党的と断じた人民日報4・26社説の)『動乱』規定はトウ小平講話に基づくと言いふらし、とっくにトウを前面に出していた」と趙氏を弁護したが、タイミングがいかにも悪かった。 & [+ P2 X' b' e4 T! G + [2 Z9 l. y! q; x 新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は「この談話(趙紫陽氏のゴルバチョフ氏への説明)を聞いたとき、多くの人は、趙紫陽には局面悪化の全責任をトウ小平にかぶせる意図が潜んでいると考えた。これでトウと趙の関係は決裂した」と書く(「中国改革年代的政治闘争」)。, e4 n* c8 F D3 N, k
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その報道の後、学生が「垂簾(すいれん)政治反対」「老人は引退せよ」などとトウ氏攻撃を始めたからだ。 . n" B0 Z: m3 |6 P' \; d- [# o& t5 [2 `
趙氏とゴルバチョフ氏の会談が終わった後の16日夕、天安門広場では、閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長が絶食中止を必死で訴えた。約2000人になった絶食学生からは病人が続出していた。% x8 E5 V) E" d- B0 P+ ]3 P+ o
" C( d7 W/ W' s& k0 \ 北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ両氏は動揺し、絶食中止を提案したが、拒否される。世間の同情と支持、メディアの注視が集まる中で、絶食学生らは高揚し、運動は統制力を失っていた。 3 q0 L: B" e# g; s& i7 j) X; B; B# V3 R L2 H8 ~ R0 x _
この日のデモも50万人規模になり、労働者や文化人、ジャーナリストなど、参加者の広がりが目立った。大学の大半は再び授業放棄に入った。 2 `- `3 L. Z4 O) j. z 6 W8 h8 _ @$ F4 t# H6 ^: i$ _ t 既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。 1 @7 A) ~* _ G {5 f- a* s 2 v2 B& ?# q2 _3 l3 Z しかし、それまで趙氏を支持していた喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)両常務委員は疑問を示した。常務委にオブザーバー出席していた、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と薄一波(はくいっは)中央顧問委副主任も柔軟路線に反対した。, b+ w9 m( V) D4 R$ _
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学生運動同様、趙紫陽氏も退路を失いつつあった。形勢逆転には絶食の即時中止しかない。趙氏が17日未明、党中央を代表して発した書面談話には悲痛な響きがある。/ A9 w' k) U+ u% H2 ?, Y" C
\) O7 P8 l( T5 k0 Z 「学生諸君、君たちの要求する民主と法制、反腐敗、改革推進の愛国の熱情は尊い。党と政府は決して報復しないと約束する。諸君が絶食を中止し、学校に戻った後、党中央と政府は君たちとの対話をさらに進める。再度お願いする。絶食をやめてくれたまえ」* h8 Q' {2 P& N8 E
3 [, c2 s- H8 u 陸超★(りくちょうき)氏の「六四内部日記」によると、この談話は16日夕、中ソ会談の写真を持ってきた楊尚昆主席の長男でカメラマンの楊紹明(ようしょうめい)氏に人民日報の銭李仁社長が会い、趙氏の談話を同紙に出すよう楊主席への説得を頼んだのが発端だった。党中央は17日未明に新華社を通じ全国に流したが、学生運動の「動乱」規定の否定を否定しておらず、「効果には疑問があった」(陸氏)。- u- k/ `% q, A0 r3 N5 n* ]# v
, K4 D& F$ p8 I6 f# e 趙氏は17日朝、トウ小平氏に面会を求める書信を送る。トウ氏に4・26社説の修正を受け入れてもらうためだ。趙氏は面談に最後の望みをかけた。, d3 F. v+ C* m1 B) v- t
/ {/ s* {7 t. M; Z7 R* Z. Q* O 「トウ小平年譜」は「17日午後、住居で政治局拡大会議」と記している。その通り、トウ氏宅には李鵬、姚依林、胡啓立、喬石の常務委員と楊尚昆氏も集まっていた。 $ S% {. o' A- ~3 Z% i$ L2 H4 e1 }! M( c. ], ]( @4 L
「私が面談を要求したのに、トウ小平は彼らにも通知し呼んでいた。私の意見は聴く気がない表れだった」と趙氏は92年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」開放出版社、07年)。- j' ]) M8 b: ?% s% U L
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トウ小平氏は既に重大な決心をしていた。- m9 W. @4 V* L7 z3 f
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【プロフィル】宗鳳鳴氏 A. q2 v6 V( ]% e4 G0 N; b
邓小平秘录:赵紫阳向绝食学生抱歉来迟了 8 P" e9 o+ P3 U- ^7 s! a' D中央社 " b. r! K' \$ s7 ~/ T7 L4 D& L& {! [( n/ Z6 m8 h% M# l
日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。; R/ i5 p- i1 b$ G
9 `' O1 G$ Q$ W, u/ ]! h" K8 n5 Z; O
「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。" \) r; `3 _# J4 T8 x/ L/ N
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张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。 & b1 M- d0 I# G) p% D, A5 D- |" a. }9 L8 r" S4 z
天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。 " ^6 z6 l7 P& H0 q8 \$ C! F$ w& `" N K8 I5 v6 ]
学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。6 q& }. q( R6 O! ?
3 ]. z0 X+ Z' q3 j) m 「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。 e5 B: c" q0 ~ B/ r' l3 Y) I 9 K4 V7 l! f; s4 I" m+ V9 R" f 担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。 ) H0 r) i; \4 i/ B/ ^ 0 \! H5 n1 K; |; e& d c【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令 $ s! v3 s. U2 z- ^. z8 z7 B 9 i0 b2 Y2 U5 @3 I1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。3 T" a9 d2 v5 f4 q6 x( V
" l2 Z2 b w$ I* @) n. O「来るのが遅すぎた」1 G+ Z$ q1 t# d7 \& R$ R1 W p
4 V4 }8 G6 c8 m! |: n2 V4 n 四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。 : w% Q$ p2 T! n% p- N5 t/ J' g5 _, K" J j9 i4 B
張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。2 v. t( ?* _. P, h4 G) t
_ R+ V+ X9 c3 |/ m" r3 Y 長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。, f' {6 x$ J; J4 c
: c$ n6 m7 a( t3 F9 E/ w g 「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」 : M$ E- q u, N: c9 l L: G" f. D, I8 ]$ d! J( J0 r- t+ B( x
数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。 % a7 l! u" A6 n1 F3 M9 z 6 K8 I, }5 C D 「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。$ _# |" H/ G, q6 z: G$ _5 d& {
/ E" B }- G! X$ {+ W8 g& r
文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。0 @% C8 s( \% N
0 q* S$ u7 p# K$ X1 H
「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。, g- t+ r! e& Z6 i9 p
: I5 F: Q4 D1 r: d H% M トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。& r9 L! f) {8 n: N1 J4 d/ X4 N( n
; e8 [5 t- W9 c) f t# Y
天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。3 s. q- N- n9 o( g7 o# t
1 J- u( ~5 t# D5 N 19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。5 U/ ~: @( e; `) E; q' J
3 x! h& [7 G4 b5 N
「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」 / Y; k! J, f5 R+ ?4 u& C+ {5 H4 f, a0 D8 C0 [
学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。 y, Y% | v! L: I9 E% Y$ k, ~9 Z: s9 j
朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。 9 ?1 C# T0 u: l6 Y/ p, w. E5 C6 B8 a/ j8 v5 C
「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」; x$ E* ^% T% i, g. T, v" y8 P: L$ T
2 J* I, q5 D% M* i/ a" z' [' e
楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。. X6 [) W8 I5 c q) J1 k6 K, w# [. r* w# ~
5 I( H: p( N, o9 \3 M
李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。& i# K; _$ T- G: U- `4 e
& U5 L3 Y( U! H& T: X) Q
趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。 " Q9 V/ g2 {1 y. P Q; B: g2 z6 T' ~$ p, P1 @* ~& }) u4 N
絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。 3 h" E& |/ Z/ K2 t" \ 6 N* B' b) E# y/ p) q 新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正) ) t- c- w' [- p1 A- q$ R6 U* y( g; S4 w
◇ . {/ Q8 m$ p! e* {9 M1 i' i* o) ]# O3 d% f, i# V
【用語解説】中央軍事委員会1 z% Q! e! y3 i' s* {* |
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最高軍事指導機関で、トップの主席は軍統帥権を持つ。党と国家の2つに分かれているが、実質的な違いはない。トウ小平氏は81年6月、主席に就任。当時は党副主席で、それまで毛沢東、華国鋒と党主席が兼任してきた前例を破った。87年の党大会で中央委員を辞退した際、党規約を改正し軍事委主席を続投、江沢民氏も中央委員引退後約2年間、主席に留任した。戒厳令布告は首相権限だが、軍動員命令権は軍事委主席にある。 ; w' u3 d* \7 H$ t) X% w0 i7 B
(2007/03/10 ) % N5 O Y; h, e- u; A9 | 9 ?2 w+ I. }1 E7 m, X; |# G4 b $ A' Y/ B5 p0 _+ g0 ]; j7 h + X; p) i4 ]# |/ y1989年5月19日未明、北京・天安門広場で学生たちに絶食の中止を訴える趙紫陽氏。右後方は温家宝・党中央弁公庁主任(現首相)
邓小平秘录:八大上将曾发声明反对镇压学生 $ ~* a0 }4 v# v6 b% y) p8 y' P8 I7 x U% f$ j5 p
(中央社记者杨明珠东京十一日专电)“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月,当时的中国总理李鹏决定于二十日上午十时开始戒严;第二天,前国防部长张爱萍等八大上将希望透过“人民日报”发表反对戒严的声明,但后来声明遭到封杀;参谋总长迟浩田告知“人民日报”“绝对不准发表”。: K3 W9 q( u* }# |* d
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秘录指出,一九八九年五月十九日晚间,李鹏在党、政、军的干部大会上,预告将发布戒严令的画面,从二十日凌晨起在国营电视台播放;在这项干部大会上并未见到总书记赵紫阳的身影,许多人察觉到赵紫阳的异变,也渐对李鹏起憎恨心。后来,李鹏在国务院命令上署名,戒严令将从二十日上午十时在北京部分地区实施。 8 \" u# E7 b* U) ?# `% Q& ~4 o4 e 7 M ^( t. y) M; F3 H. b" |1 e$ a% {二十日,北京军区的第二十七军、三十八军先遣部队装甲车多数遭男女老幼包围之后折返。对军方颇具影响力的前国防部长张爱萍等八位上将于二十一日发表声明说“人民解放军军队属于人民,不能实施镇压、不能对人民开炮引起流血事件,为了避免事态恶化,军队绝不可进军北京”。 . F7 G3 ?" y0 Y( A3 w8 H5 u & V9 J7 Z9 k+ ]' j这份声明由张爱萍的女儿透过中国社会科学院某研究院传给人民日报,该报副总编陆超祺告知迟浩田,但是三十分钟后,所获得的回覆是“绝对不准发表”。' ]3 ] ^( B! t
2 H, ]2 u# H* f; e秘录指出,不仅年轻的下级士兵反对解放军对人民开炮,杨尚昆发布进军命令的五月十八日,曾发生了第三十八军司令官徐勤先抗命事件。杨尚昆的胞弟杨白冰(军总政治部主任)在八九年十二月的全军政治工作会议上曾表示,天安门事件作战中,有一百一十一名将校违反重大军纪,一千四百名以上的士兵弃械逃亡。 ) I3 r% y) D. R' F- T! P$ b. {. V! l
秘录引用“陈云传”一书的内容指出,邓小平说:“问题的根本出在党中央,党中央变成有两司令部,在此事(指将学生示威定调为动乱)的处理上,人民日报的社论是正确的,到底要不要让步,让步的话,中华人民共和国就亡了。”- d$ g4 a" z# c& Q$ ~9 J
( h8 m( i& @# D秘录指出,就此,党中央统合成一个司令部,接下来只剩如何平息动乱的问题。但另一方面,民运人士这一方无领导核心,对于如何让中央撤回戒严令缺乏战术。在这段期间,正在海外访问的全国人民代表大会常务委员长万里的动向备受期待。, u, V- \5 q" X f; Z8 |4 L8 D
( B. a: x3 o: h1 a, ?, l0 ]【トウ小平秘録】(26)第1部 天安門事件 将軍の声明 4 o, b, T m) m & {2 j8 i2 m- z7 ?■「絶対に発表するな」; Y, x( ?% i( V$ z5 `* a2 C7 v
1 Y. Q7 a$ i. U5 x# H1 g6 C
「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」 $ V) F" e0 B X 1 |+ I4 x3 g5 |6 x8 g 1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 $ Q& m8 _# s! X: V5 K- P1 d 3 V u1 f; P( P, c# k' K2 L この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。 h9 |; s+ E N. `/ P& [! z
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李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。- s, B- M# ?6 I* S; M t
. C! W y# X1 f8 L) L ≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫ - O. i# I) R# U; X8 l4 G' T; l2 B! t* V: |" R
その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。8 F8 N: @! w4 [
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若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。6 ^1 q# h# G$ a. W9 `& {
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動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。; l$ N% J4 C) w4 t2 e8 @9 _
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楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。# R; w% ^ H; |3 Y _' ~* e( W0 K6 J
, E; {2 A4 t- d, r" ~% Y 戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。, J9 M& g9 A& J a) r: f
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「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」 , {( ^; e* w9 z- R* Y/ \ 8 f }: O# j* n& N1 O! ` 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。 ' o9 f+ |. ~% I6 d ; }, C& o) [8 n% p; m, ] 8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。 : E5 V* v# U5 n' `+ W n# \( {) v4 \4 e 掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。$ |' F# s$ n; w% z6 K/ v/ O( ^7 j
0 H, z1 Y! l. y% l. ^ 同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。 % ^3 O# {3 b6 X " M% L5 R+ }! D その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。 3 d& b4 D+ f+ L* m& h5 E+ P) I- }" m
市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。 7 N3 \* i" h2 `# R0 E6 W! ^& L5 V& O4 y
「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。# n' s+ h, S9 P7 y
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「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。2 y! A6 G$ s: x0 i
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「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。 9 `* f; K+ I3 t* m4 r: S2 j, ^# e( b4 M& v1 n5 {
「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」 ! J2 a( O. v2 {1 y 1 K9 e( G5 s% G 党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。 j! m9 L* V% H9 f+ K6 T$ I8 b. ^8 U; r$ r
一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。 $ r4 u* u( @! G6 A0 A7 u3 ~8 m ]6 v$ B! E5 v
そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正) 3 T. I6 D. y# P2 {) a+ c & w% O _5 b( N% N* q1 [◇# ?8 u' O; \: W! W* u) @7 B# h
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【用語解説】戒厳令" d1 \1 A3 T. k
) a# y1 W# P h; E* t6 N! p L 暴動などの緊急事態発生時にとられる非常措置で中華人民共和国憲法に規定。全国または省・自治区・直轄市への戒厳令は全国人民代表大会常務委員会が、その一部地区の戒厳令は国務院(内閣)が決定する。89年3月にチベット自治区のラサで騒乱が発生した際にも発令された。96年に戒厳法が公布され、国家に危害を及ぼす集会・デモ、ストの禁止や報道管制など具体的に規定した。 ! K( h! p S* {( q8 K. Z ' N$ y+ k/ P: l3 K% p( ~7 W, [(2007/03/11)
( L( E) K6 G' l& R' i) O5 W 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月下旬,中共当局企图武力镇压已迫近,当时避免流血的唯一方式是学生撤出天安门广场,但是要学生撤退困难,结果学生拒绝撤退,中共血腥镇压成为定局。: ~1 A, A* e: v( `4 k$ S
$ f! Z- Y/ G, e' v- H3 ]; l+ p& ~8 T 「秘录」指出,五月中旬学生开始绝食后虽发展成为整个社会的运动,但参与运动的知识份子领导能力有限。二十日宣布戒严令后,大半知识份子主张应撤出广场,结果却未能如愿。 2 m" P6 e! F% S 9 `0 A& S* E' { 中国社会科学会历史研究所副研究员包遵信曾在天安门事件后为文指出,北京社会经济科学研究所副所长王军涛本有机会说服学生撤出广场,但负责广场总指挥的柴玲突然改变心意,拒绝月底撤出广场。柴玲的先生封从德则在「天安门之争」一书中指出,五月二十五日晚上开始的民运领袖会议,九成七对撤退投反对票,柴玲只是加以宣布。 5 q0 k6 f- p* D. K& l7 v9 ^( S! P" U; Y# `- ]- S! J
在学运扮演军师角色的王军涛认为学生若不撤出广场,中共行使武力已是不可避免,开始着手学运遭镇压后,主要学生领袖逃往海外的准备。天安门血腥镇压后,王军涛、王丹和包遵信在国内逃亡,三人在十月底以前都被逮捕,但多数民运领袖逃到海外。# a- f$ _" q2 P/ d8 P0 b
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中共当局在天安门事件后指出反革命暴动的黑色打手「三所一会」,包括中国经济体制改革研究所等三个研究所和一个学会,它们都被视为是赵紫阳的智囊团。「三所一会」直接的罪状是五月十九日晚上发表的声明,中共断定它们和鲍彤关系很深,后者泄露戒严令等情报造成学运对抗政府的行动。但是,鲍彤事后一贯否认这项指控。 , r. [, n; i9 w; c: U/ V8 t' k# p( s- r
鲍彤于五月二十八日突然遭到逮捕,被送到北京市北部的政治犯监狱「秦城监狱」,这是邓小平等元老和李鹏总理等保守派决定武力镇压而进入具体性作战的一个信号。 2 p% B. b) A g- Z4 H: g, K4 j E
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【トウ小平秘録】(28)第1部 天安門事件 撤収拒否7 g. r# K u8 J! d/ O5 a
8 v! ~/ G5 H* ]6 `+ P5 a" w0 ~■必至だった血の鎮圧& [( P/ {# J4 A* ~2 u
( I( ~1 N1 c' S+ B
「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。& h% C' A+ H1 t# @" l9 w
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5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。* o v$ r. Y9 B2 h' D) ^+ G" o
7 d; }$ c: i/ w, H3 n- ]$ Y* | 5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。 7 _: K- P/ v( v. n# n i' W2 S7 t0 r; o& A& O+ L! S
包氏「何とか学生たちを撤収させないと」 % P3 J r; y5 f, a L9 D& c* O# E. ^
王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」 ' \7 U) ^% f+ J! g3 t, Z; k) O1 r2 W 4 v: y% @- O9 l 包氏「(撤収は)いつ?」 ! r2 ] p/ c# g6 |; c3 _9 P; m2 W , f' m! S9 n% n6 t. s 王氏「今月末だ」4 h: u! {0 v. u, w
0 Q2 k* H+ s, C1 \' t! E
王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。, }& v/ G2 K9 i6 X% s# S& _$ ^- H% i3 h
$ A% ^% e2 |" _2 u
ところが、広場総指揮の柴玲(さいれい)氏(北京師範大生)が突然変心し、月末撤収を拒否したと包氏は言う。 7 `/ z2 i3 i9 }5 x( b9 j9 T- g2 p8 }0 t+ i e3 ?3 y" O1 _
「柴玲の変心についての伝聞が強く印象に残っている。彼女は撤収の主張は、知識分子が広場の運動を左右しようと企図している表れだと話したという。(それは違う)撤収は学生の身を思ってのことであり、全くのぬれぎぬだ」 , L7 U2 O8 N- F3 w " _8 T o/ U0 @ 柴氏の夫で、北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏の著書「天安門之争」によると、25日夜からの広場占拠グループ会議で、97%が撤収に反対票を投じ、それを柴氏が発表したという。数千人の座り込み者の8割は地方大学からの上京組が占めたことも影響した。彼らは強硬派だったからだ。2 t% N4 P, r" \; S; n) A1 j
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高自連内部は方針の違いや多額のカンパ資金の分配法などから対立が絶えなかった。5月27日、柴玲、封従徳両氏は、高自連から資金が来ず、運動継続が困難になったと王軍濤氏に訴えたという(陳子華ら著「浴火重生」への王氏寄稿文)。, w6 n" `4 p/ p# `
' d8 c' c# ~6 p3 V+ v 王軍濤氏は2004年に書いたその文章で、自らの運動経験や思想遍歴を加えながら、89年の学生運動とのかかわりを詳述している。その中で、広場の学生たちの撤収拒否を受け入れた点が最も興味深い。 % W# T# N, Z7 v h & q/ o. U3 ?# n$ H* J7 ` 彼は文革以来の豊富な運動経験から、学生が撤収を拒否した段階で、武力行使は不可避と読む。しかしこの運動の主体は始まりから学生だった。彼らの意思を尊重しないわけにはいかない。 & _" P' W( ^* [5 g2 T L * F# p9 U; C V3 F p @# v4 {8 y1 L/ ~ そう考えた王氏は、最後まで責任を果たす決意をする一方、武力行使後の弾圧に備え、主要な学生指導者らの国外逃亡の手はずに着手する。1 d \. {3 t4 j
( @: \5 ^. _" p7 X
≪王軍濤氏は、血の鎮圧2日後の6月6日、王丹、包遵信両氏とともに国内で逃避行に入る。3氏とも10月までに別々の場所で逮捕されたが、多数が国外に脱出した≫( m8 k1 Q6 W) b
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王軍濤、包両氏の主要な罪状の一つは、5月27日の「首都各界聯席会議の十項目声明」に反対しなかったことだった。 / x& K; U( ]+ [: }0 _' W8 l, F: {$ J2 C8 }) F2 S
声明は、学生、知識人、労働者など9組織連名で、学生運動の過程を総括し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を支持、李鵬(りほう)首相らを非難した上で、全国人民代表大会(全人代)常務委員会開催予定の6月20日まで運動を継続すると宣言していた。 9 K$ @* a/ D; X# C# P! O: G+ R2 }, K" W$ l [# V# ^+ z
連合組織では過激な意見が通るのが常だが、知識人グループがそれまでの主張を変え、天安門広場占拠継続を支持したことは、運動の主導権が体を張っている学生にあったことを意味していた。+ b) M1 M3 r- A. i% x# `" ^1 m
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この声明には加わらなかったが、当局側が天安門事件後、反革命暴乱の「黒い手先」と名指した組織に、「3所1会」があった。中国経済体制改革研究所など3つの研究所と1つの学会を指し、趙紫陽氏のブレーングループとされていた。$ I( H, [/ W" H2 |" S
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直接的罪状は3所1会が共同で5月19日夜発表した声明。それは戒厳令が近いことをにおわせ、政府部門のデモ参加や全人代常務委の早期開催を呼びかけていた。, |; S0 e# Z6 S# e4 _
7 h: q( i6 t6 B2 I 3所1会は、官製組織で、趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏と深い関係にあったため、鮑氏が戒厳令や趙氏の窮地情報を漏らし、政府に対抗する動きに出たと断定された。鮑氏はその容疑を一貫して否定している(回想録「中国的憂思」による)。- G$ |4 T6 N. T5 S& _/ h; O
; Z: m! \' o1 e0 _9 U% R 鮑●氏は5月28日、突然逮捕され、北京市北部の政治犯収容所「秦城監獄」に送られる。それは、トウ小平(しょうへい)氏ら長老や李鵬首相ら保守派指導部が、武力制圧を決意し、具体的作戦に入った合図でもあった。(伊藤正)1 x9 a0 u4 Q. v2 k
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■3所1会 中国経済体制改革研究所、国務院農村発展研究センター発展研究所、中国国際投資信託公司(CITIC)国際問題研究所と北京青年経済学会のこと。いずれも1980年代に設立、改革政策を研究するシンクタンクで、鮑●氏が支援していた。文中の北京社会経済科学研究所は84年に設立された独立系シンクタンクで、出版などの副業を収入源にしていた。いずれも天安門事件後、解散。 & B* _! H9 m% D k4 ]% Q( o 1 ]# W9 C" O# k, H ●=杉の木が丹 : p& m* i+ H u M) d& [9 T& K 0 a3 d7 Q A7 `(2007/03/14)
6 I& c: i$ O" M( E 楊氏は最後にこう念を押した。 " P+ D3 |2 ]# u d7 O) u( l0 G; x) p& n
「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」/ R8 _' L0 H& a
# n( @, _+ L Y. P- |9 x$ I. ] 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。 & h" _. ]: Z) w% H+ E, [- { ?, w
3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。) u7 V% S O1 Z; t% [4 [5 W
O- A: l9 }$ d7 T3 D4 ]: z( d 当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。- ~: |9 ^5 ^4 a: w. d* V3 |
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そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。, `4 [2 `5 e3 b: t: Q7 k0 ]6 ?3 R
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午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。 2 {) M; ~$ [6 k- C0 X) E$ x' r0 E( n8 T/ M6 D) a' f
支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。 ?- h, u( ~: \9 e% S; y5 S
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「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」8 `0 {! w8 j* y- d; j0 M3 ?0 A
5 K J) Z+ N1 h( \7 r: A 記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。 5 J6 ]% E) X4 f# B9 H! }% `% ]4 N: [7 W6 e
「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」8 G. }& v3 M- k: O2 m& K
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その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。( l2 Q$ m. m9 }4 Q m$ r& ?+ p1 j7 N3 K
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「これは本物の戦争だ」(伊藤正) , C( a1 Q. u4 d, l% H p/ E 9 X9 \1 V( A0 q ■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。( C+ _3 `" V# g' o& E: V9 `0 S