2 N% r8 I7 W! K9 V/ r7 T/ S产经新闻将连载《邓小平秘录》' L" H5 \' a8 K* R
. }- }; G# F, |# f2 T
(2007-01-29) + c3 i! n) y, y9 _5 z# Q2 D. d 7 A; m) D, W6 ^" U$ w) A(新加坡联合早报)曾于一九七四年连载《蒋介石秘录》的日本《产经新闻》,今年二月十四日起将开始连载《邓小平秘录》,并将在第一部中即探讨邓小平一九八九年「六四」决策的背景。由于中国国务院总理温家宝即将在四月间访日,《产经新闻》此举因此引起议论。 % M5 e4 O8 T. B5 h' b' |: M
' o4 A' R o: y' `9 R8 y' ]* K! f
据《自由亚洲电台》网页报导,日本《产经新闻》是在本月廿六日发表〈社告〉,称将在二月十四日开始连载《邓小平秘录》。不同于过去《蒋介石秘录》使用国民党大溪档案,此书的编写以产经新闻社中国总局长伊藤正为首,多名记者编辑参与写作。 % Q6 D u: F2 l) s: J$ H
5 Y/ V1 B8 c2 ~* ~1 W
对于《产经新闻》选择在此时发表《邓小平秘录》,旅日作家石平向本则表示:「多年前《产经》就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎,这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。」 7 Q+ l4 P/ U+ X b3 T# a- C9 d& y( A8 d- |1 Z3 {2 U! A) f& |
与《产经新闻》有合作关系的《日中通讯社》社长原博文表示:「《邓小平秘录》这本书是以六四天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始。现在连载主要是与温家宝要来日本有关系。在对历史的认识上,中国人与日本人是有很大不同的。」 7 l: r9 B# _* P0 E3 M) L: f: j$ C& ?0 k& [3 B) F; y
--------------------------3 g7 P' M6 ]2 W; T6 B8 ]
* _6 Y( l- }& T0 _日本产经新闻" Y0 B! \ ?8 Q K# X5 }
, ]- F3 ^# X- t! R, K8 x【社告】「トウ小平秘録」 改革開放の実相 2月14日連載スタート 6 e( y+ Q% ^3 r" C. P. f" t. [/ J ~' l$ C
産経新聞の新たな長期連載「トウ小平秘録」が2月14日付からスタートします。# J( d: P" z+ S3 g: P
" Y) l9 p( S$ g, m& ~
1兆663億ドル(昨年12月末現在)という世界一の外貨準備高を記録した中国。この経済発展の突破口を開いたのが、トウ小平氏(1904~97年)でした。今年は没後10年にあたります。+ a% Y# b' J0 U$ i0 Z; g4 R
7 m4 Q4 Z8 }* B 毛沢東以来の中国共産党内における激しい権力抗争を生き抜き、事実上の最高指導者にのぼりつめたトウ氏の波瀾(はらん)万丈の生涯は、中国現代史そのものです。 . N) ~4 a5 ~6 x# C( y# H# G2 Y+ |" o, \# S
トウ氏は政治面で社会主義と中国共産党の指導性を強調する一方で、経済面では生産力増大を第一とする独特の理論を唱えました。文化大革命時代の失脚を経て権力を握り、改革・開放路線へと大きくかじを切った決断が中国の驚異的な成長をもたらしました。 2 ]4 E8 U% X$ U5 b1 X, |+ @5 x6 B$ g( }- L
半面、膨張経済は都市(富裕層)と地方農村(貧困層)の格差拡大や環境汚染、さらには官僚の腐敗という矛盾の拡大を招いています。世界規模のエネルギー獲得戦略や急速な軍備拡張路線も気がかりです。こうした現代中国の実相を理解するには、トウ氏の足跡をたどる必要があります。! s: L7 @( a! g7 c5 p
, d. @4 N% ]0 v6 o9 E* F! Q) M) |# n! B
連載は伊藤正・中国総局長を中心に複数のスタッフが取材、執筆にあたります。第1部の「天安門事件」で、トウ氏がなぜ大衆を弾圧したのか、背景を掘り下げるのを皮切りに6部構成になる予定。ご期待ください。 4 s1 o s. E, n4 c7 L' p; I: N; g
(2007/01/26 07:27) - E, D1 O" i% l! G4 T5 `) n9 S) K( G7 z8 V
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-15 11:39 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:48
日本媒体连载《秘录》 盛赞邓小平有远见 2007-02-15 ' S: `" K- K% n- I5 K. ]* B + s% S+ R$ M& X' c' o【星岛环球网】在邓小平逝世十周年(2月19日)来临之际,日本《产经新闻》从14日刊登《邓小平秘录》序言,揭开预定15日开始连载的这位中国已故领导人秘录的序幕,这家报社将把秘录分成六部分进行连载。 9 R1 w# ^/ \; |, n - x1 W1 o4 v5 R. a5 X! R 香港《文汇报》报道,序言简述邓小平的生平指出,他从十六岁前往法国留学后未曾再踏进四川省广安的老家,家人之中,也只有三女邓榕在1989年才初次访问老家。邓小平讨厌个人崇拜,批评为出生地图利的作法。8 o! |' i0 v0 n' V' }
1 ~( d! h3 a1 E7 `( `
文中盛赞邓小平富有远见,形容他是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等地设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的“一国两制”,成功恢复对香港的主权,并作为呼吁两岸统一的武器。 ) m9 b$ d3 t5 L) I3 [& g3 U
# `' }$ x" }) o$ t" Q4 f7 [
邓小平离开人世将满十周年(2月19日),对于这位世纪伟人的十周年冥诞,邓小平三位女儿邓林、邓楠、邓榕透露,十周年当天,邓家众子女将在母亲卓琳带领下,用鲜花花瓣洒遍整个院子,以这种简单而独特的方式,来纪念邓小平。邓家的这种家祭方式从邓小平冥诞一周年时就开始了,至今已持续十年。+ I$ Z* Y/ ~8 r0 `3 ?7 u$ H; p
; B- X G3 p& Y7 r. x7 E8 ]& T; g 邓小平大女儿邓林说,父亲生前特别喜欢花草树木,无论家居京城还是外地,都会在院里院外栽满各式各样的花卉。在他晚年一直居住的院子里,更是常年鲜花盛开、草木繁茂。“而且,对任何花草树木他都喜欢,几乎没有什么偏爱。花开的时候,见到什么花都要上去闻一闻,乐在其中。” : t8 U! w- A& K. I+ r ' _. g G: }, Y 邓林说:“父亲的每年忌日,母亲都会带着我们在院子里洒鲜花,为的就是让父亲闻着花香‘回家’看看……”她相信,虽然父亲离开她们已近十年,但只要一闻到花香,就会知道家里人在想他。 + A" X$ ?) D3 _- I N7 b7 N2 r
邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭 $ E. O9 g0 I- X! m 1 r5 J3 h. y# i0 R5 o日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。 . M+ s4 f! v1 N4 |2 a7 w. g. G' V3 _
文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。& P i8 m. |, s h5 R7 ~
$ M! H: {- b. V2 B) e4 x2 a
文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。6 u6 @1 m; }0 g% ?- ] v5 S" j& f
$ K8 E4 b M) b3 |3 [) ?8 i 拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。 7 G4 S2 J' q! F n2 { ( J1 Q0 _2 O, ` 胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。. J" p6 `' r+ ]4 T$ v, t
邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利 ( Y0 y n$ Z0 e# g) {, t: { Y5 ~. m" h / L/ Y M" X. `' z7 n* ^ # {$ G6 e; d* \# }5 o, M. N/ D 根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。2 |2 E0 g! M7 J8 z5 c3 [; Y
9 @1 x; `- j& Q/ v+ O+ F, | 文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。3 E! r/ b5 ^, Q, S4 T
" c. j: D" ^# K; @0 x
当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。3 j9 |) p) m& @1 @) ?
, l2 p- R2 {) E 秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。 t0 r; {# E* m v. n 8 O! w |, p; K R; h 担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。 v( Z4 ]6 v- ^8 N3 e6 I
$ r/ \3 O3 M3 X2 F9 ? 李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。 ( m P- e1 U, r8 U6 v+ F g 5 e% A% t- |+ I; F 在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。中央社 2 A, H" Y5 G+ M; w1 o* N! P6 B$ ^ {$ ~9 [+ ?: x
【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない ) _2 {- V" M# c. P' w3 W7 w) c; Y: ]$ _& M
胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。* `) D( [ b& d3 D7 U; [
* j* _. U T) w& a5 ~0 T その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。/ @/ B. X. s& G* L7 d
1 c3 [" n2 S: B- J2 W' W8 c$ o 「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」7 ]5 U; M0 M' n) r* S$ H
: U/ t5 d# K8 g: Z 弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。6 z: }1 Q. Y! y- f' a7 f5 H, R
, g# H3 C" N- ^! E4 p' e 胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。 ' S5 v- O) U+ `6 Z' J) W; ^2 }) I/ f& t4 q) B* e+ h+ Z5 k
かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。 [* z+ ]! A# y: {* j
# d( i( |7 Y/ q F
朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」2 w4 v0 @/ y. I/ n: N
3 A: F, {0 K7 j3 |8 o. K, } トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」+ m$ S' l$ k$ V1 I0 s9 @
! Z1 c% p2 B" q& _- l しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。 0 a+ R. [8 g, A+ @6 ^4 t1 W9 ?: h8 c n' c/ X# t
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。4 U) P6 R4 _: D- q( E+ r
3 C4 c6 i, `) W: U 「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」)& h( {* h" y% O0 i! u+ ]
1 G# x( a( r/ k# O5 Z
一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。) x- r1 w0 M. t6 R8 \
; a& A- l( x0 J% {6 u/ j v" f) a& o7 y 「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」# n! x/ w" y: u: S% A
# m4 y; O7 F. k8 X% ~1 O, A# }
それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 : I) z7 j" x' U5 a 0 i1 ]+ r1 `6 a% ]) v& e! o( q! P" ^ 《ひっくり返った党人事》# [( O" A5 d6 y
* H" ~+ j' _- \
思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。( I3 L7 n! G9 V+ s
3 S- E' b& |; e: D9 \# Q6 I
保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。 * Z, l& ?9 @7 ]0 R3 C) l3 P: C - O% y7 Q- M7 x 5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。 . F [3 Q' Q( d! g. f* S& M" s6 ?) L- r" B$ o" P6 N! U
10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。 0 W9 a! [& N+ Z+ }8 C9 q. c) y, \1 Z 8 S2 k& ?/ I1 j+ d 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。 " u9 y5 m- i/ z; ^( W' g( M1 s; ~7 ]$ u/ F: ~
その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。7 b7 k$ F' |; N% t5 R; p& w
9 }2 j) _) J3 x. x" Q& Z. A) l
趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。 9 A& g1 I2 @& Q* ]9 H8 ^ c, F$ `8 Y7 o/ M このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。 , F) s4 ~& ^1 S* R ; o- f& e4 Q1 N" N 陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正)- P& B3 J+ ?8 B5 I$ F" d6 Z
. z) [. k6 f! W$ M' t
■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。 1 V7 G" Y1 C& b# i9 I 1 y" n/ S- n. l- v3 N ■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。 7 \4 ^& i8 t7 e3 g0 ~ : i: X( Q/ ?. \' |' h9 p9 y ●=彫の周が丹( N1 p2 d$ m8 u+ E1 Z# J: ]6 @
( N2 r$ Z( p( c y, x! s% D" H3 R" b
(2007/02/20 07:26) 7 _! U; J" d2 [ 1 m' D7 |' {. l# ^1 l' s+ d9 b' U. h( E
8 b: f, S6 H) S* `' N7 p" Z) ^
! d. P3 w7 F7 E z7 ?, T2002年8月、北京にオープンした蝋人形館。トウ小平氏と並んで陳雲氏の蝋人形(左)が展示されている
( O T' t# q7 H* x0 g8 g 不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 4 k; o: J" C, \( N! e1 k' c) r
9 ^3 w1 |- x( T' M+ o3 d% ^
她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 * r( V4 K% x8 s2 D: \3 i( `: ]$ x t% Y) L8 p, @
邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” + t3 `/ I& \0 W: p9 G3 L
3 w- d! K0 K7 h1 i; d5 A5 m 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 : l, y0 \5 X7 ]" w, n. a3 t( d
% f1 V4 A0 D( O( x5 d
邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 ; | k% d+ q5 k- e. }
* w# i% r+ n) f+ r% z3 g* e
她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 6 l/ ^ M' S0 e- e$ Z o$ O/ ]+ b9 d4 a) j8 [
她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 4 c" H3 b2 k! o! E: Y( a3 \& T/ Z8 j; g* W8 N
在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 3 s$ ~" W# |3 S
9 B& I _/ D6 g' d" ^$ E6 ^# j
邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 & }) o! k: H4 ^3 M" X4 b' P+ |
香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”/ Z' B' l1 X5 e4 e9 q9 F: W
6 T' n7 A% _, o$ H, S1 t F
! W9 p( }" b1 j* J+ _! e ~
他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 8 D9 X9 f$ h1 i+ D7 R: }/ f3 ~9 n( k5 s
在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 ) o9 B5 R5 k5 O/ G7 y
# l5 m8 q1 x _& T7 Q* K- P
邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 : _ g3 B, o4 n% |# F H1 ]6 i4 v& H
4 q; F* O2 M. Z4 h2 m
6 E+ k6 r, P7 g6 V+ HChina honours man who reshaped world! C6 ]1 f1 Q5 A. O& o' f2 ?/ l
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. * e- I% l# r" z8 G- r3 C3 j2 k. w0 ~: V/ c, h
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 3 ^) w" \4 S; A9 i& ?. E* Z) F4 N: B2 c: A% B- A+ h; O& P
But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. ! n9 q) Y8 a5 r8 D6 }0 L2 Q& J
# Q. i) f$ `) j6 ^8 o' ?! w0 D
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. % d- ~1 B* n4 Q5 }6 R6 P, b2 B. J
* p8 V( `/ @# S4 k! s$ c. `“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” 7 V* h( ^7 `! S# {- _2 K5 f
k, D+ X3 [5 W7 r
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. / u9 V1 @# l; `6 ]5 |; w% k& t# {% z. W# [. y* X/ x
Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. # ]; n# Y8 M5 T3 H
1 d" E1 g) |9 Q/ @. \# r3 C4 i
She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” - \ v; K, h9 S2 K1 V) v' a
Z6 O, F$ G3 MNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. ( Z+ `5 }1 A$ _7 O4 G1 m* u) T* F
i: V# {* ]2 \5 @( a9 m6 g! b
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. 6 C3 u+ e! p# T+ P, v* Q+ J
5 P5 u/ F2 G8 b% Z
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” - H' I2 ` s& n% x4 D
. @0 c: T3 z8 V: ]
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. % g6 t, h1 y% d3 I
8 N2 S1 ?; C9 Y5 }3 z& SMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 7 T2 X* E/ n6 |; j 5 s2 j' O) E' _. x- H8 a& N5 UMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. : Y$ T" A& e- m- P+ m$ b
7 j2 O2 _: {5 O0 E. `
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. & y# `) t c8 T- S# h" h ) P. f. H* @+ r8 m! a1 IHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” ' |: k+ ^3 l! @7 c' i* h' z! Q1 ~# i" H1 B
Long road to riches1 u, A N! m- z4 d5 K `
- D8 K' W: f$ c$ INow / h$ e" q' Q7 H6 t5 r- C' U : N( f# ^ K! H+ K) FPopulation in cities: 550 million , J' \$ W. c+ I) B Z/ l- Q 0 M* W/ q* r& N; F8 aGross domestic product: $10 trillion 7 |2 F* U8 _! A) Z8 `. D) X
& ~" w: _2 x1 g T6 p$ U6 p' OOil consumption: 6.5 million barrels a day 6 A5 M% L2 [2 p L0 l& l& h
+ i, g, U; ?4 a, }/ G0 bExports: $954 billion 2 C( _- ^" F0 V 4 w+ \. y9 x9 I8 Q: R. M! [3 ZPopulation below the poverty line: 130 million + K8 q$ W- R2 G0 a; C, z* d0 S 4 F8 y8 ]5 D4 k. a0 RTen years ago+ ]/ ]+ y# d) z) @# ^0 U
7 W3 z$ j/ j, S* W4 i0 T
Population in cities: 370 million 9 ?! M& E: }: e @' D) t' A( c- j4 `" x" J t' Z% M+ s1 A
Gross domestic product: $4 trillion / y- H# D! t R2 z0 ~$ b$ \
8 ? Y; `* u: D
Oil consumption: 3.9 million barrels a day 8 P4 d$ s: L- \6 O9 v5 |
8 B- m) p. T; R3 ]3 a z. M
Exports: $182 billion $ c) V7 D) I6 O' \+ x e: w
& R) [4 d$ x/ c/ CPopulation below the poverty line: 120 million ( b' d8 Z9 U5 S8 ^- B- A( h
. l6 r, I- w4 C B. h- T
Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies : i0 P$ s( U5 N3 k, W% P% B3 z) f, g c8 q . r) g. l, z: \& z“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 6 e( E8 n! m. |% v8 Y2 j$ z/ b. Y7 B+ f, O- f( G9 b
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治; d( M6 a( _3 r; [9 d
/ G# J& ^+ F8 i, K/ ](中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?”5 U0 s- F# s) U9 x9 R
3 p. j* n1 [! a2 p赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。2 i( N* b! b" m" X U
7 W* i2 D. M2 Y
赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。 0 t, B6 j& J0 c4 G$ G: `& ~. C N" X- D! `; B" n: D$ q r鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。 9 y9 |5 U. b# Q* e9 p% X 6 P, z9 t d6 {' v1 z8 H6 N6 B鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。+ f1 h. ]1 {, v" P1 D; N
$ w. z/ V" h% ^. p+ Q
赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。! D1 U, O" g4 [+ X
: j* t, \, P4 T1 f& c
一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。 `1 _4 G% {; }
$ i( k: f7 Q0 p! L l/ v5 M" T) z
未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。7 ^& I0 n3 a, s! C
`( @/ z4 i. e
【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」 + }3 k+ o$ J. k9 _ 2 Q. a$ q8 l, X- }2 H3 \% A0 d趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。 1 O; l/ a) F) e( _/ i( u: ?: g6 f % y- {0 P1 S, a 2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。4 R" A# F! l N( W! d
- S8 c+ W: _0 o% s9 `# h 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)& _( u5 j: Q" e( T. Y; ^3 v
/ A4 h/ S7 d5 n* m" ^4 P この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。2 ]- U9 {$ r) f. K3 n2 X
6 q, B; z1 `3 I2 R8 s3 ?" h7 I 中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。 ; E, b: V# Z; d , Z. N, C! [" v しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。0 B, }0 Y# p x6 x- v7 W1 Z
" U2 y" ^ W7 u3 x5 V9 C( m# G5 C
この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。: `' c$ Q- d) }3 e0 z9 _
4 u1 m) v1 y" @ n しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 . ?! h& j, x O( n + ]! E9 h1 ^( E6 b1 c4 C) K" S, T! N ≪パニック買いが起きた≫) L; t$ s3 e0 @% w0 C0 a# Z
9 U' g% s6 g x! K5 n2 L/ o, A
ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。1 A0 x4 H/ h" Q# o
, k" b, K' Y1 J, d 5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。 4 T3 f" }4 z3 e ! S0 \9 ?9 n7 E. d 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。 1 w$ {( [& P# r6 y/ B. [& J4 n" I4 v t$ K" O
その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。9 A+ i9 U* ?: W
, C% c. a: h6 d' }7 f ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。0 q: n" M% j, ]# Y5 u# c" p, D) t
6 v* P3 F5 k* C/ C# k 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正) # g, R& F; t$ u( m 1 D* v0 l% l1 W/ Z4 f2 B ◇ % S3 N5 _+ T7 c& f) r$ Y Y" Q m. m: @3 J( B l* M# c2 [
【用語解説】3自1包 2 {$ H3 @3 v m! _. a+ [1 s# W% R: r4 f
自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。0 M( ~# f3 w6 Z
% d2 U) O8 U/ z' O9 ? ◇ 5 M7 q* O* ]( @0 X 9 O- n( c5 ^ U$ @6 b3 R6 u) h; h【用語解説】北戴河会議 / r$ j7 l/ J5 n* h4 d% n9 g( B 4 `3 V2 Z8 X: J5 z. o% x 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。 : e4 ~" m! T2 A( Q d. L. _ 6 R* g& ]% e, i●=彫の周が丹6 j' `, b& p8 t
: {( D/ _6 X5 @7 {/ L' {
(2007/02/22 )
4 e( G8 y: t7 M; B, e! W 「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」 % J2 W5 S! j# r) x 9 M! `: ?5 z9 \ 陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。 " s& U) ^& w4 g& N1 `: {8 J A$ C$ }! ]3 X4 }
88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。 o0 q+ s( q' f/ ?2 l& i* x6 _- t1 s1 M+ t+ c, R' J0 e0 Z
「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」 5 z6 P A& r" h; I1 q& i; q/ ?+ ~* H; F! Z/ Q! |: v
10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。( b% n S# }& s! t8 S' s
. `6 {( n; L7 v& `) D+ L
「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。 . L3 O$ B1 k6 W# j( B2 x7 U( p% X+ m3 d
改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。 5 C6 Z% c9 D. R/ c, A 2 B# h' w/ P' e: g ≪空白の2カ月半に何が≫0 s* H3 H' ?+ B" F& ]4 p/ ?- ~* W
5 B& H& M# B! A, A 「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。4 F/ n# w4 B* D2 N
1 G0 P) f; k. Z. s5 k$ u* o
この間に何があったのか。& H* T# k5 V% o5 r; b( Y+ b
; y% t: @' @) r トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。; g. I) T9 q3 \) N
+ c8 N; g& E! [" F: W
趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。 1 q% @4 p1 F* @" I b) f 9 |& W+ }& v) g" E2 m% s# I+ ? 新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。4 @" H3 [: J0 l8 f8 l, j6 U' \
1 U6 c: C! ^/ k6 ` 天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。 : B$ M& b. B) b7 A7 f% h7 Q+ s, y" X5 q {5 C
「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。5 A7 }8 X$ A1 J9 ~$ e- O1 I8 F6 _
6 m0 y e5 S! ~. H) P
張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。 ) `9 c) w6 K9 J# k G2 r r/ R% [& E% n) n/ c
趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」0 H/ j9 s- T* u, s
* W6 R9 b0 o q2 w トウ氏「金日成(朝鮮労働党総書記)によろしく伝えてくれ」% ?7 T1 q, B2 l
* f6 r3 @2 p2 a0 j, Z3 |' V8 d
趙氏「今回の学生運動については政治局に次の3項目の提案をしました。(1)追悼会終了後、学生デモは断固阻止し授業に戻らせる(2)破壊行為に対しては法に基づき厳罰に処する(3)学生に対しては指導を主とし各レベルの対話をしてよい」 4 ]3 u4 U9 \" p7 R |" ?3 e% |' j1 m% P0 N/ _! O P" {: g y% \
トウ氏「結構だ」3 D; Z/ b# H/ d& N8 `; m
. E0 Y# d8 c% H5 }1 Q( M' ^) r
趙氏「私の訪朝中の党中央の仕事は李鵬同志が責任を負い、何かあれば報告させます」( ^6 i* A; c8 ], K2 g
' `% \1 |; V" x- Q5 j
その後、李鵬首相が趙氏に言う。そばには同じ保守派の姚依林(よういりん)副首相と李錫銘(りしゃくめい)北京市党書記がいた。 & b; v K0 o# I; a7 V# C2 d4 _4 i! V0 W 7 e$ y- ]' o7 Z5 |' t 「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」 8 \1 P& B: g1 w0 V/ b. H. B7 w; m" [ Q1 V; U2 a/ H
北京市の李書記が続ける。: ]- ?) F/ q! L+ c8 C6 e( u
8 x8 L! T5 X# p- `. R
「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」 ) G) M' H0 l8 N' ^/ a6 T: E * b7 N9 w1 O& K' c% b それに対し趙紫陽氏は言う。1 z5 V, X; |6 z( V
9 D" u, L, d8 Q' J( r9 a 「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」 & ^9 Y: ]& @/ A3 b/ i; o$ g7 D0 m / N0 ?5 ?4 D5 K, f: ~8 u3 v- L 趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。3 r& c' R3 O0 r7 X% [5 i- V% s p
% j% U5 Q2 }" {$ ]" z% H; K% P y
趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。% M0 l5 w4 m! H- p; u9 l
; \- l, ?9 O$ G6 ?/ V% N 「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。 , R `$ @. Q7 d& d1 I & X8 Q" L% H9 V5 q 4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。$ K9 [+ L. J( h+ L9 }
" A" D {' ?( c7 b% `/ B8 O
「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」 $ ?" x1 J6 e" K, h/ K 3 U2 h) |1 F$ V1 U, }- t 学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。 C) W. T" @" z+ o& M' J! x+ } : F9 j6 [" O/ K( O4 W 数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。 3 Q$ Q. @! S- R$ h- U- V2 S5 ?7 u2 R; S. b
「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」, C4 V! f3 M8 A' v7 T4 U
6 K/ x) h) m0 c: R 李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。 & w' d# T k4 Y) i1 }1 M ! M# c6 x4 a' C) v 趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正) ! o' R$ p, H3 S% i8 |4 f L R0 G3 N5 c. Y
■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。 # k' g# K+ k, J- }5 ?/ _: q n 6 `5 x( v1 U! i- |3 S# `. H( }●=くさかんむりに内 " A% \. G2 H2 j: z p* l; d S) U- i! O' ~7 Z6 `
(2007/02/28 ): w1 r& E4 v/ k. p' R
7 w( K- m; E# x" h4 v$ h' G1 ]
+ T7 o' f* u& t: R
; u8 o, l/ s5 B1 y V5 A Z( K8 M( z; e, ]8 S
天安門事件3カ月前の1989年3月16日、北京市郊外でタイのチャチャイ首相(左=当時)とゴルフを楽しむ趙紫陽氏
邓小平秘录:保守派决定制压学运 9 L, U% p" Q8 A# _- M# x" K' l, h9 U* t
(中央社记者张芳明东京一日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,中共党总书记赵紫阳对学生运动向党提出较具弹性的对策后,于一九八九年四月二十三日启程访问北韩,随后,学运的情况出现变化,留守的李鹏总理等保守派掌握主导权,在获得邓小平的同意下,决定对学运采取坚决制压的手段。 X- V" c' a% ?3 j6 v% Z N* z, l, Z) U
“秘录”指出,党总书记赵紫阳于一九八九年四月二十三日搭乘专用列车由北京启程前往北韩访问后,留守的李鹏总理等保守强硬派就掌握了主导权。赵氏出发的次日,学生民运的状况一变,北京二十一所大学的四十多名学生在“圆明园”会合,决定成立“北京市学生临时准备委员会”,商议罢课和派遣组织干部前往地方的事宜。3 l/ u- e, m e6 X' L9 e: `
6 h) a9 ^' T4 I9 w3 |
北京市书记李锡铭和陈希同市长获知此一情报向中南海报告有必要尽早采取对策。张良编著的“中国六四真相”指出,李锡铭报告,学生运动越来越严重,已有三十九所学校的五万名学生参加,最凶暴的是北大的一部份,由方励之的太太李淑娴下指示,方励之则扮演学生与外国媒体之间的中间人角色。9 F% o3 g3 _" M7 d8 D' R
# _. b; W/ ]& E6 V: k) R2 P/ P0 B“真相”指出,万里接到此一报告非常吃惊,前往和李鹏见面,李鹏当晚召开政治局常委非正式会议,听取北京市党委和国家教育委员会的报告,由于会上是清一色的强硬派言论,改革派的万里和田纪云只有默不作声。. K& T0 I8 b, I" Z7 S5 W% n; K
3 x% f G7 ?& W# ?: ^& @6 c# G) G
天安门事件后的六月三十日,陈希同在全人代报告时指出,四月二十四日的政治局常委会上与会者一致认为学运是由少数人操纵与策划,党面对有计划有组织的反党反社会主义政治斗争,因此决定由党中央成立“制止动乱小组”。 * f) S. Y+ \, R+ T7 @' O" }' r, e
“邓小平年谱”记载,四月二十五日上午,杨尚昆和李鹏拜访邓小平,报告前一天常委会议内容。邓氏表明完全支持常委会的决定,并发表讲话指出,此非通常的学生运动而是动乱,需以强烈手段加以制止,不要担心国际的反应,中国发展实现四个现代化才可获得真正的名誉。 / c: w- m n* t" } + o# u; u# W0 l3 i邓氏接着指出,有必要坚持四个基本原则,使用人民民主专制的手段,刊登社论,并有必要立法,准备全国性斗争,坚决制压动乱,这次的动乱是完全性计划的阴谋活动,重点是否定共产党指导和社会主义制度,背后有黑手及其打手,方励之夫妇是典型。 * x" Z8 P( @$ L \- ]1 S$ C % d$ W y2 s2 E3 l* {! p/ D邓小平的讲话和前一天晚上的常委会决定在二十五日当天晚上转告人在平壤的赵紫阳,这项决定是与两天前赵氏提出的“三项意见”完全相反的强硬路线,赵氏于二十六日早上回话表示完全同意。! F4 H3 c- S* l2 c
, i/ k/ T- E- x; l: a: t" D3 i【トウ小平秘録】(16)第1部 天安門事件 状況一変/ t( z) ^+ A+ T, ^- m. y
$ }6 z9 F+ ?$ E. }/ ^; O$ j% ~; \
. , t+ k' M0 l0 O- t% O' ~' D 1 V. u L( } @& e4 f# I ■断固動乱を制圧せよ 6 v$ s9 A4 b# R1 j( g" @* S* r % c3 h8 ?! J( g# u( p' V! ~趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は1989年4月23日午後、専用列車で北京を離れ、北朝鮮公式訪問に出発した。その直後に、留守中の総書記代行を託した李鵬(りほう)首相ら保守強硬派が主導権を握ってしまう。 : Q+ R: l1 X o4 ` $ {: @( a6 x D; D 趙氏はのちになって、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビューで、訪朝前、政治局常務委員会内には4月15日の胡耀邦(こようほう)前総書記死去後に起きた学生デモへの対応で「意見の食い違いはなかった」と話している(2004年出版の楊氏著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。 1 h y6 D+ t- `; \4 J7 [ / H! C( B4 `# n+ `, B; N その根拠の1つには、胡耀邦氏の追悼デモが始まった後の常務委員会(4月18日とみられる)で趙氏の分析と方針が承認されたことがあった。 3 {+ m7 Y- [1 {" n0 J: g, H) u% |& c# y' q" l( x0 N6 G
趙氏は学生デモの背景を(1)清廉潔白な胡氏のイメージは高く、腐敗への不満と結びついた(2)87年の胡氏解任のやり方や反ブルジョア自由化闘争への不満がある(3)88年秋以降の調整策で、政治改革や経済改革が停滞した-と分析。 5 _: `* c0 f1 J( G& T6 Q 3 c& N4 S/ A2 d, }8 K5 r- y その上で、大半の学生は、胡氏追悼の形で改革深化への願望を表現しているとして、追悼デモは規制せず破壊行為だけ取り締まる方針を打ち出し、常務委の賛同を得た。19日にトウ小平(しょうへい)氏に報告、支持されたという。 : U7 V! x7 M1 c: T0 T+ v( W- a `$ Y s) D
22日に胡氏の追悼大会が終わったのを機に、趙紫陽氏が打ち出したのが「3項目意見」だ。指導と話し合いで学生たちを教室に戻らせるという柔軟策だった。 + A5 b0 e2 H$ b+ V , H E8 |2 g! o% s2 h9 { 北朝鮮へ出発する際、見送りの李鵬首相から「何か意見は」と聞かれた趙氏は、3項目意見を改めて伝えた。李首相はそれをトウ小平氏に報告、トウ氏も「紫陽の方針でやれ」と指示したという(以上「楊書」による)。 / x/ O- L$ ~+ m6 l1 s! p" B j5 | 3 p; w; o; X. T8 }/ `8 R2 o ところが、趙氏が出発した翌24日、状況は一変してしまう。その前日、北京の21大学の学生40余人が市西郊の公園「円明園」で会合、「北京市学生臨時準備委員会」結成を決議し、授業ボイコットや地方へのオルグ派遣などを相談した。8 t- g# Y ?* P. r) M- s
4 `+ N3 ^" T2 m# k8 p% b
それを聞いた北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記と陳希同(ちんきどう)市長は、中南海(党中央・政府機関)に報告し、早急に手を打つ必要があると判断。陳市長のテニス仲間の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長に相談する(張良編著「中国『六四』真相」。以下「真相」)。& O0 t' y( ~6 H
' O6 \' U. e E9 E! ^0 B0 b2 D5 S
「学生運動はますます重大化しています。既に39大学がストに入り、約5万人が参加してます」(陳市長)「最も凶暴な北京大学生の一部は、方励之(ほうれいし)(天文物理学者)の女房の李淑嫻(りしゅくかん)が指図しています。方励之は学生と外国メディアを結ぶ仲介役をしています」(李書記)+ x+ y7 T7 W/ U1 L
! I9 @# ^" @# u1 C; I! E2 m' g
報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。 ) I/ r* G7 l; S. y, R $ H5 m, l" _% u5 X6 O* ~. b0 H 天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。3 _% A2 v. u5 F
# `7 r+ _7 z6 A1 O. o% v4 H そのとき、李首相が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に「小平同志に、常務委の報告を聴いてもらい、意見をうかがえないでしょうか」と言う。" R- x% U- V* u: `) I
* X, n% B- o( y
楊氏は「小平に話して、明日午前中に彼の所に行くようにしよう」と請け負った(「真相」による)。 ( k' v. U. ]9 f. E7 _4 l* p5 a0 B: D' ^) y: R$ J+ b; a
25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。: l9 f% U$ h# I1 B6 L& ]0 S
3 r8 E' u1 X, r# A) X1 a9 g( @ 「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」% h9 ^0 ]/ j' e, v4 A- X
3 f" \! e% j9 I 「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」 5 z/ c9 e W9 a9 N2 Y; U# u ^* T; @9 L8 H7 D
「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」; B5 P2 D0 k, n
4 D6 [) g. k! s+ {: v
トウ小平講話は前夜の常務委決定とともに、同日夜に平壌の趙紫陽氏に伝達された。2日前の「3項目意見」とは正反対の強硬路線である。だが、趙氏は26日朝、「完全に同意する」と返答した。2 O, B1 I" X% s" I" `& D; E. G4 j
0 g8 N. V1 X+ C+ B; V$ n4 T1 y) |; g これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。 0 p( u- L5 p5 W7 F6 ~4 B$ X' P1 H 4 j' e$ Z# k) p4 K5 M 油断したのか、権謀だったのか。いずれにせよ翌4月26日、人民日報に問題の社説が出る。(伊藤正)5 w6 F: {0 r- N0 G$ f9 s* q0 B
. g, E; D3 |/ M( M, |( J
◇/ b* ~( [5 n9 ]$ a8 r+ |% W" F
9 m, H4 U* }8 W5 }! i1 M【4つの現代化】- E' ^- p4 e& V# y! w7 _8 }
; k! ]& N9 o6 Q5 x0 H ■指導力 試される , R4 }9 Y5 R% z% x. b4 _; p* L. E4 `/ s3 c
1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。2 E1 ?# m. M0 \7 Q# g! L
0 J$ \8 i/ @' q 23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。2 |: N D% f8 _# ~- W4 r D4 `
! J7 G+ V9 U: M* V 「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 ' z: }& s9 A2 l2 S* y! R: x! q& L& a 0 I# k) D; y. L 「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」 ) F* |" Z l. ]4 Q( z+ ^ . F$ J) y6 s2 @( z6 c3 k 5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。 + m4 Z4 o! O& B2 y+ o, J2 t. y / Z- _; S. w8 C3 j: M- @ 趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。 A( G* f* S! U! |
1 a, D! E) }; Y# v3 | 会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。8 Q R3 ~" Z5 L' O' D, Q) l
4 ?) o1 N4 p3 {- n1 m 一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。 * i+ Y/ e! c3 p) x: r9 \3 Y7 A! u2 e9 |" t$ _
政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 7 A o& C9 X ^7 T0 y$ e; |. v! M' x: G3 T" q. i9 w8 W* \$ Y
趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。 : y% L8 } R" Z- ~' v' ~ # P2 C S: L g 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。2 w1 v- Y y c$ ?0 R2 t
( ~1 c% j) U- w. J0 l1 ^ 「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」* `/ s- Q6 U5 V, _& L' H
; m1 S& k+ }& R5 @) w6 w. J, n4 |
中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。 1 ?! {/ t6 _( B' J + n) |5 ~6 {, g* f 趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。 : I( A6 `2 Z% C/ a! G ]4 U6 o* T: ]3 V# g 「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」 & E" f9 l! i$ M6 S6 D1 [* [, t6 N. \8 X
学生たちの要求にこたえ、党への信頼を回復する考えだったが、学生デモを「社会主義制度に反対するブルジョア自由化」とする李首相は、「一部学生は4つの基本原則に反対し、自由化を叫んで小平同志らを攻撃、非合法活動を続けている」と激しく反発する。 Y) G; J& L) r& ]
: i! x, X [$ x3 d+ B 趙氏は「一部にそうした連中がいるのは事実だが、大部分の学生の要求は党と政府の政策に合致している。何よりも今は事態を早期収拾し、安定回復の必要を学生らに理解させるべきだ」と突っぱねた。 7 K) [) g; W+ ~' M+ w+ q. X0 y6 |* y5 R* M
会議は、趙氏と李氏が激突した後、閉会した。両氏の間に敵意が燃え上がった。 (伊藤正) 1 w7 f w$ T5 c( V: M0 [# D% W W- B& `$ d
◇5 J7 I, [9 y0 l3 O0 g ~
' [( S& |3 _- o$ ^! G7 C' X& E
【用語解説】五四運動 / M7 l$ S& ~8 ^" |$ n) D, N7 Y & q# T# Y; q+ ?* T5 J 1919年5月4日に北京の学生らが起こした反日愛国運動。第1次大戦後のパリ講和条約で、山東省の旧ドイツ利権を日本に引き渡すことに政府が同意したことに抗議し、学生3000人が天安門に集結してデモ行進、親日派官僚罷免や日貨排斥を要求した。これを機に各地に運動が拡大、学生や労働者がストに入り、政府は講和条約拒否の声明を出した。3 ^5 [2 M* F7 A; \" |$ C
( [+ n' G2 S2 Q 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。; c9 r5 [) r, E# o9 Z4 Y
! L! L+ i) t# j- h% Z7 _+ T6 A それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。* i. w. g! D5 r. G) n7 q6 B
5 I$ n, I ?# t5 k; C Y$ K9 k! G8 [ 趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。 ) s; o- \2 R! K7 ^; H# B7 G6 `6 Z5 ]1 f3 k7 y# n0 ^2 ^- g& ?- s
14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。: W& Q8 U) N3 _+ B9 G. h* D: m" q
. U0 R1 F- {- C# W( `5 l
絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正) H6 k6 R/ l* T+ L1 e' I n7 t! N2 ]- F0 a) H
●=彫の周が丹* o- ^- L7 Y# K5 O, ?$ G( v
- |. _4 u [" \& P! h
◇# g; N# W' p# Z* F( X
邓小平秘录:赵紫阳向绝食学生抱歉来迟了# D+ v4 X( X$ u" b o9 H& a$ p
中央社 $ S7 {1 S% j' `: r3 ^' S& o% F 4 L7 l( j3 g0 f6 \ k 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。 & `) A1 ] C& j3 D" r0 R; W2 [, i5 a: v2 n1 t$ m
「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。 % V% h+ f; \3 r4 I& w; w k ! _2 v. Y: a9 W 张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。 ( R% @! s/ R( v" J6 n% n7 h- r& V ! \, i% p. n0 b3 V2 D 天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。8 v- }5 k, j/ B8 X7 i& J
2 a' ~- F4 r; \# U8 W! C5 f
学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。 ! H6 v6 A+ Z9 m% Z7 x8 Y2 @# u: ]6 M; T' v
「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。 % H& {" m* O0 e$ s$ r% p Q: b e6 w! d8 J# v* r! Y
担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。 0 m9 J: `% Q) j0 v+ H 6 y. P# K$ O7 S. Q: K! g; U: \【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令% `: Q6 i* t4 U* q' T, o
# W5 k' w' G4 I5 B* j1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。/ M l; ~3 G$ F
% I- h/ L/ w) i
「来るのが遅すぎた」 . q; O( p0 ?7 J% {0 \& h ' C7 O, i# C( X$ B5 ?0 e 四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。 ! c! q) y9 K8 N7 c! ?/ J) O2 I + ^3 a; \) r; Z8 |4 U 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。' x) t# A+ u" {1 k0 W! b* P0 _
1 a2 {1 M$ V% ~% e6 y: }. N 長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。6 d# }& a" I! o" L& ^6 j! C
" j6 ?+ n$ i4 z2 c0 u+ ~; [: d
「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」% M: s1 H( e7 v. ?7 E7 f" L
4 @" x2 U: }* C! _5 J0 W 数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。' p p+ A+ d, j
4 e( |8 [& p @! P 「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。 `5 \4 M3 W+ r0 N3 B
6 x. U* h& t& v 文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。" @. i5 F1 Z# g" X3 w: Q H% h
- b4 \: @( w( k. l 「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。 ) b# H- U$ F9 T+ }- x 4 Q" @ @# g- g0 N( V4 a0 M. B トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。 7 I- A! d, E* {2 e: h 7 j- I4 w- q8 |; ?7 \ M 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。# }7 H* j" E2 k b/ a. w! x
, h! K, X( f% F' V 19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。! S! {5 u1 ~& e0 O3 _8 G0 |
& w3 h, j- H& S# g
「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」, {, o7 N$ q( `1 m% n/ z
' y* F* z& l8 t& T. C
学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。 & e& S% J3 k; p$ s y% V; B8 \ W+ e! W; G
朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。 , ~" ?- u6 B3 K" |$ u3 x2 r9 T, B; |- E
「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」 + {& C0 U* M6 O, j 6 I. u) q* |( L7 P$ j+ U 楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。 : ]8 I7 i8 F8 Y/ O/ ]# V i: U 9 x7 T h. y) p3 B) ~ 李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。 * z. d z! u! S: M7 P7 b s1 ]& @ 9 I& k; B7 L4 M6 T" ~) w! R 趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。6 `9 B' X' U9 E+ w; a
5 x t2 J; \7 q5 Z1 X+ l0 k3 Z
絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。 ' t, T+ ]- W3 U; W5 D; o" e( i+ U8 ?+ m2 }, f2 W
新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正)- _5 T0 l- a- ~, V# N
8 `6 W( B. z% z0 E ◇$ _2 W7 Y# k) p0 N3 ~
( l3 Z1 p L. i- V【用語解説】中央軍事委員会1 V* A( X! c. D. i: t
w$ L/ g5 T% o' s( u# G秘录指出,一九八九年五月十九日晚间,李鹏在党、政、军的干部大会上,预告将发布戒严令的画面,从二十日凌晨起在国营电视台播放;在这项干部大会上并未见到总书记赵紫阳的身影,许多人察觉到赵紫阳的异变,也渐对李鹏起憎恨心。后来,李鹏在国务院命令上署名,戒严令将从二十日上午十时在北京部分地区实施。 ' U/ b# {* a# s Y2 f* _; D! H, X; P0 z" F, F9 }2 e( R
二十日,北京军区的第二十七军、三十八军先遣部队装甲车多数遭男女老幼包围之后折返。对军方颇具影响力的前国防部长张爱萍等八位上将于二十一日发表声明说“人民解放军军队属于人民,不能实施镇压、不能对人民开炮引起流血事件,为了避免事态恶化,军队绝不可进军北京”。 2 Q5 ?# t V% Q" N 0 p- p0 g5 r/ ~$ _& f* d; u2 K/ {: j这份声明由张爱萍的女儿透过中国社会科学院某研究院传给人民日报,该报副总编陆超祺告知迟浩田,但是三十分钟后,所获得的回覆是“绝对不准发表”。 8 l4 t! {/ ?4 U3 {# Q! }. d9 \8 W" y- S0 X: z0 h
秘录指出,不仅年轻的下级士兵反对解放军对人民开炮,杨尚昆发布进军命令的五月十八日,曾发生了第三十八军司令官徐勤先抗命事件。杨尚昆的胞弟杨白冰(军总政治部主任)在八九年十二月的全军政治工作会议上曾表示,天安门事件作战中,有一百一十一名将校违反重大军纪,一千四百名以上的士兵弃械逃亡。 " ~- e" x+ X( M: M1 b ( f( _; u4 Y: u! D, j' g/ m5 e秘录引用“陈云传”一书的内容指出,邓小平说:“问题的根本出在党中央,党中央变成有两司令部,在此事(指将学生示威定调为动乱)的处理上,人民日报的社论是正确的,到底要不要让步,让步的话,中华人民共和国就亡了。”+ C8 L3 w8 S* W( H: o5 Q
* c+ |* e6 t# N6 e" J; [
秘录指出,就此,党中央统合成一个司令部,接下来只剩如何平息动乱的问题。但另一方面,民运人士这一方无领导核心,对于如何让中央撤回戒严令缺乏战术。在这段期间,正在海外访问的全国人民代表大会常务委员长万里的动向备受期待。2 q, v. f2 d3 J* ~: m* k% u
+ {, C; G0 x3 s3 S. Y: |
【トウ小平秘録】(26)第1部 天安門事件 将軍の声明 4 K7 S$ e# Y _& Z# W7 q# c 7 _9 O/ F: v. M5 `) A■「絶対に発表するな」, Z. B: T* H3 B9 Y, A6 n
- y: k. u& |2 d* T
「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」( S% L) j- E/ w5 [6 d0 o
2 c: u; m" f+ x9 _5 K$ p) z
1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。" w* a& J' ^6 L8 X
4 [& v; _* z8 n
この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。/ \. ]4 S+ t% A* d6 }3 C4 i* w
7 ^* i- Q1 E! M j
李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。3 J2 I8 f4 ]$ q( j$ O v, A
; M& c6 {' j! e. L
≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫ + C1 x7 v' y: D 5 P$ Y- K& i" e# d, V3 m) Z その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。 & T* ~8 l" D( o. N - s7 q: K" e5 o5 J: v* a 若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。& n- m1 ?- H: Z8 e. g
3 e0 s0 ?% x$ E4 x" y
動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。 9 T! k$ Q4 D6 q0 |) V6 E# ]3 x3 S' A- d& ~% S
楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。; l0 v) J0 @. V/ p
: T1 @2 n- q# o9 I/ j* X 戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。5 ~- O8 z& {2 }. X! w
1 \2 x7 l# ~# M- k! d1 ?4 B
「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」 ' o9 B5 {9 o5 g1 I, c " z( c2 j' z+ f9 g9 n 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。 ( A+ M0 [6 z: e& ` 0 P0 l, A7 Q4 Q/ | 8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。+ |5 b! }& E1 b- E8 M( s
6 ^! Q$ |, u$ _! ~6 s 掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。 6 V9 {5 \# ?0 I, `2 }$ a( P . o0 \, S) v+ V 同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。( E5 n; W/ F/ E& ^' T: ^, E* D
& c9 [9 C: P- w9 M( d8 U0 B その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。+ s- y5 q+ P. V7 Q: E( `! l
# m; y0 [% m) ^
市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。, |" c. ~+ A" e
1 p7 H; r. g* i/ l 「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。7 ?$ v; L+ T9 G5 H4 R
) k5 q) Z8 b- @# B* B n: V7 i
「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。 8 I1 X" E& k' I5 Z( P* R+ M/ M$ h: }* }+ L: ^( p5 Z
「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。0 T$ w+ ^$ k% r# _' H! [
' w1 a. C( c" w+ E! g
「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」- T+ H; U7 g- \: F6 d
0 r2 l" ~; j, E3 B/ H& |' _* t" t
党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。( G8 V9 T1 C- F8 {4 G2 l# G
, X$ L; p, x/ m: B. U9 L; c/ s4 [ 一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。 * a) }! n3 i2 k) c! y+ ^* o+ }/ P- l& V/ M
そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正) {7 h" C9 P! A6 ]+ V: A4 o
邓小平秘录:邓已无退路 天安门清场 . Q' M5 h! Z* l; t4 L, j" f% K2 G(中央社记者张芳明东京十五日专电)日本“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平面对天安门广场的民主示威运动表示已无退路,指示在一九八九年六月二日晚上由戒严部队开始实施清场计划,在两天之内完成这项作战。( g0 ]8 d6 O. ^' m
; ^3 Q' i z5 T$ Z `秘录报导,“邓小平年谱”并无记载一九八九年五月二十一日至三十日的行动,张良编著的“中国六四真相”指出,五月二十七日,中共召开元老会议,决定由江泽民接替下台的赵紫阳就任党总书记,除江氏外,李瑞环和宋平也升任政治局常委和李鹏、乔石及姚依林构成六人体制。江泽民于五月三十日被叫到北京,三十一日被邓小平任命为下任党总书记。 & E7 ?+ }3 @9 M9 M元老会议两天前的二十五日,新华社香港分社主任许家屯在中南海和国家主席杨尚昆会谈。杨表示赵紫阳后任尚未定,但不会是李鹏。他并指出,邓小平表示已无退路,决定选择戒严令,动员军队平定动乱,希望许家屯支持。许一时不知如何回答,随后表示即使动员军队也不应流血。杨立刻表示,不会有流血事。 ! \$ r, ]" f& @2 V- B0 q! w x3 h5 ?6 [0 m% ]4 ?“真相”报导,二十七日的元老会议,就平定“动乱”作战讨论实施时期时,杨尚昆主张不宜再拖下去,但绝对应避免流血。陈云主张虽应极力避免流血,但五月底宜解决问题,邓小平也表示不可再拖下去。 ! e. j# j7 m2 y ) P; f; I$ \8 h; B五月三十日,中用美术学院学生制作的“民主女神”树立在天安门广场,受到市民瞩目,但是静坐的学生已减至五千名,在大学重新开课之际,学运由于内部分裂而逐渐消失。北京师范大学刘晓波等提议展开接力绝食的持久战,8 P6 _$ |5 `0 Y& P0 ~" u) N
- i3 y. ?/ S* Y9 ?包遵信在著作“六四的内情”指出,他本人反对刘晓波的建议而王军涛则表示赞成。六月二日傍晚,刘晓波和台湾歌手侯德健等四人开始绝食,广场恢复了失去一段时间的热烈气氛。 * P& j0 \/ o, |9 b4 g8 W; f ' \7 C, i( ~0 D* l A' u, k( g2 i“真相”指出,二日上午,邓小平等六名元老和李鹏等三名政治局常委召开会议,李鹏说明天安门广场的现况后,元老们激怒,首先放炮的是王震,要求逮捕反革命份子。李先念也强调一刻都不可再拖,提议当天晚上开始清场。最后,邓小平表示赞成大家的意见,提议“戒严部队指挥部今晚开始实施清场计划,两天之内完成。”+ r# P/ W2 N6 J8 c) D# Z
0 G' _( n+ U& y {! k【トウ小平秘録】(29)第1部 天安門事件 平定作戦 6 Y& x! b8 ~- _; s. z
■既に退路はない # V& C; G }% w& M$ d
- S/ Z: R, C; u9 M" l トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。( l9 X% L/ I. E2 ^" N4 Y
. Z' ^. g! ~) p7 B/ z+ L# `$ P- B X2 L 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。 " q. H& ]" _6 L1 W , ^& t' m: \6 C8 W2 k そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。 6 u7 ?+ R4 B. H 4 s9 e( N# \ K* C; [ 政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。2 q: a, r) J8 I6 a: q* u7 x
: Z# E8 f5 l8 Q7 N5 d0 f: A l
この会合の冒頭、トウ小平氏はこう話している。! K3 W$ b, W' a4 E* m& G
5 w0 E; o" M4 K9 `' i2 U/ E 「新指導部は改革・開放を真に実行し、人民の信頼を得なければならない。改革・開放を堅持すると人民が認める人物を大胆に起用し、われわれが誠心誠意、改革・開放を実行する気だと人民に感じさせねばならない」 0 F6 G# [& f# g% k " v! C$ m! b1 S6 T3 q& y トウ氏の頭は既に、動乱制圧後に飛んでいた。改革・開放を継続することで国民の信頼を回復する。それには、不人気の李鵬氏ではなく、「新しい顔」が必要だった。 / ^ K. Y! d" M& @3 }+ N7 T6 R O# D+ d4 c4 ^0 s/ b 江沢民氏は5月30日に北京に呼ばれ、31日、トウ小平氏から次期総書記を命じられる。トウ氏は続いて、李鵬、姚依林両氏と会い、改革・開放を徹底、腐敗を撲滅し人民の信頼を得るよう話した後、次期総書記に江氏を決めたと告げ、一致協力するよう指示した。 7 |% T& P& d4 A1 g7 J 3 y; D+ @" N. N1 d% @1 Z 《「トウ小平年譜」は、李、姚両氏への講話を掲載しているが、江沢民氏との面談の記述はない》# p3 f v7 \7 }. m- `
5 J \/ ]+ U, s! J3 x9 C7 u j! {/ J 長老会議2日前の25日、新華社香港支社長の許家屯(きょかとん)氏は中南海で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と会う(「許家屯回憶録」)。6 Z) z% U7 N" B! w
# K. ~* ?. ^; P9 [) q 楊氏は趙紫陽氏の停職を告げ、後継者は未定だが、「李鵬はありえない」と断言した後、言う。 & K5 x/ z. t- h& L! O% I # }; f# ] O; Y5 H# t 「トウ小平同志は、既に退路はないと話し、戒厳令を選択、軍を動員して動乱を平定することになった。党中央の決定を支持してほしい」 * @0 C' `8 U! e% W3 v, u) h- `, P. Q+ @; x
許氏はしばらく言葉を失った後、言う。 " _6 X7 g$ y9 t& [4 y( b8 R$ A9 G" M3 x
「軍を動員しても、万が一にも流血はだめですよ!」 4 m5 f; m% `, F: h \- ^7 f" u2 K4 m' d W$ c
楊氏は即座に「それはない、それはないよ」と言い、こう続けた。/ l9 m2 i' ~# w1 y& \2 a
0 _) F% B' d$ D
「徐向前(じょこうぜん)、聶栄臻(じょうえいしん)両元帥も同じ意見だ。彼らは既に中央に(流血回避の)意見を出している」 & l" [" B. W- l3 s0 l+ h) g( u. @' P 7 A) v+ h, z9 W1 q: c# \ 《55年制定の軍階級制で最高位の元帥に選ばれた10人中、徐、聶両氏のみ健在だった。両氏は武力行使に反対と伝えられたが、当局はデマと否定していた》 8 v, c! i* i- r1 s" I( n9 _ 6 v! d) x5 M o2 ~4 Q 「真相」によると、5月27日の長老会議で、「動乱」の平定作戦の実施時期が話し合われた際も、楊尚昆氏は「いつまでも引き延ばせないが、流血は絶対に避けるべきだ」と主張した。* R V1 A/ P; I* G# U
9 C$ e2 s U8 k* @6 i 陳雲氏は「流血は極力回避すべきだが、5月末には解決するよう」主張、トウ小平氏も「これ以上引き延ばせない」と述べ、政治局常務委員会に迅速な秩序回復を要求した。& A3 o) `; N$ h& A) f
/ N2 B0 M6 W# `! c 天安門広場では5月30日、中央美術学院の学生が作った「民主の女神」像が立てられ、市民の目を奪った。しかし座り込み学生は5000人に減り、大学が授業を再開する中で、学生運動は内部分裂し、消えかかっていた。! R8 I4 i- Q3 y6 ^, r! _. \3 t& v
/ g1 q' |$ ]& v2 L' {' h3 y
それを立て直し持久戦をやろうと考えた知識人がいた。北京師範大講師の劉暁波(りゅうぎょうは)氏らだ。劉氏は社会科学院副研究員の包遵信(ほうじゅんしん)氏や北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)氏らに、リレー式で絶食をやる計画を持ちかける。 + I3 h2 c! ~& r* t& g# }! V$ p" K7 Z - x: k5 l" w+ j/ |5 @ 包氏の著書「六四的内情」によると、包氏自身は、この計画に反対だったが、王軍濤氏は賛成した。そして6月2日夕、劉暁波氏、台湾の歌手、侯徳健(こうとくけん)氏ら4人が絶食に入り、広場は久しぶりに熱気に包まれた。: x: D; v+ @# Z; q1 }/ h
' {. Y/ l+ N' ?* m- q その日の午前、トウ小平氏ら長老6人と李鵬氏ら3人の政治局常務委員が会議を開く。李氏の状況説明に長老らは激怒する。第一声を放ったのは王震氏だった(「真相」)。! I1 y3 E% u3 Z _8 t, L3 f( J
7 ]7 g: j: s( b4 j% w 「くそ餓鬼どもめ。神聖な天安門広場をなんだと思ってるんだ。解放軍は何をしてる。反革命どもをとっ捕まえろ」 , y0 h0 B k2 z R8 T e2 v3 b 9 p. A1 \! [+ i1 E4 h 李先念氏が一刻も猶予ならないと強調、「今晩から『清場(チンチャン)』(天安門広場からの学生一掃)を開始しよう」と提案。最後にトウ小平氏が言った。0 v1 U; }3 @$ P* _. o" b
7 R" [9 Z; v: C
「みんなの意見に賛成だ。戒厳部隊指揮部は今晩、清場実施計画を開始、2日間で完了するよう提案する」(伊藤正) 2 }" f8 V( X* y; ~) P; D6 w! `( Y! N/ T* ~( y
◇8 x8 g: n) }# ^9 O+ `- b" ?
, ?1 U/ N3 s/ h3 F【用語解説】軍階級制: ?# W- @9 d' c/ [$ Q W8 b
5 N: [& {! t W# x 1955年に導入されたソ連式の階級制度。革命の功労度により、元帥、大将各10人、上将57人、中将177人、少将1360人以下、全軍人が階級付けされた。66年に廃止されたが、88年に復活。新制度では元帥、大将はなくなり、上将が最高位に。徐、聶氏以外の元帥は、朱徳、彭徳懐、林彪、劉伯承、賀竜、陳毅、羅栄桓、葉剣英の8人。- T; p1 T9 y' J# v
; e" x1 z9 k5 f( T; v* m0 P5 p
(2007/03/15 )% O2 C6 D8 i, p
3 s& l5 Q0 h) b7 A) P
8 {6 H( i; G3 u) o y1 y0 T3 p3 w# I! l% r" e1989年5月30日、天安門広場に学生たちが作り上げた「民主の女神」像。米国の自由の女神像をモデルにしたという
邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态" S, M. }! i4 k9 _& L
4 j! {$ m1 e8 K
(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。5 j5 I' |! i5 U& W% ~' [" ?' P E C
! ?3 z5 a9 w1 I1 I, H 3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。 + m+ \7 l8 G; m/ Z+ {0 O1 e% g9 d, X2 b- ], k6 S
「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」 7 j4 f; ?: P; _& u/ S - u* t0 N* Z" h6 f. d 情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。- ~! q! x, \% J9 M; |* R9 L8 M
9 c( x9 Y$ n# A p 3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。* t. L& p" P- f" T% I4 F* _6 V- i
, H% P3 z2 ]4 u$ F8 q+ Q
新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 2 L4 ], X, C7 a1 a9 l, k" t/ ]- N6 S) J# v
3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。 + Q; j0 ~' ^+ ?) ~( c$ n8 x/ Z 2 m4 z3 h5 C9 D9 v6 x0 p. I- H; t 張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。 , o1 T" J0 A: L' t1 k( l( g: U5 f m# t' S3 B* o, J5 l
李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。 + ]/ y' F! D' d6 {- D7 N4 |. Q. Q" H# w; _
「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」0 Y3 D+ w5 R2 }
9 U: Z! |/ h$ f9 u. J0 y 楊氏は最後にこう念を押した。 ! Z) V3 ^4 A5 P1 i1 E" q9 _/ B C6 Q, J% |0 B; z& o W6 h! m; G
「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」; E+ n+ }! a$ R' u
/ s8 ]7 y0 y2 r# p 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。 % t, y* b/ p' r" x/ m 2 y+ b% {! c0 h: n, C0 o1 z 3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。 $ Q5 v$ s" h$ Y, w1 g! h . f J! j3 ~8 \ 当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。( P1 J' Q3 G" u! B9 V
8 E- g1 ^, c# v. F, r9 J) e$ B2 b
そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。 H Y5 c# F- V7 I# V! ]4 I. a ( k* x! Q z B* k- \2 F' ~ 午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。6 ~, r+ U* D# }7 X% N# G$ l
+ I- b j& u- k5 O7 l0 z5 X+ i
支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。 & Y# `; u0 A# H' S! K, U5 o) @; _
「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」( X: t1 h n7 Y E
: P! |, C* k* |9 Z2 F6 x& ]+ C 記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。 # e" \1 V9 k# x9 e- K* S/ h3 k c! s, I0 L, y/ _# X& W
「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」& s4 v; t9 \2 ?7 E3 W8 n6 s
5 [- w$ C) l& E, b
その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。 % k: B$ @$ F8 A; k, p: s4 o' s$ @/ \( ?
「これは本物の戦争だ」(伊藤正)! F( e: b+ L [ R
5 y, @( C, E6 [+ P4 k/ }; l l* O' e ■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。 + }0 w! T6 k m6 O; h6 p' h' I5 ?( q/ d" F
(2007/03/16 ) % N/ ]3 x6 |, n% F$ G$ F, k" [' V) V" n/ p" {: I) d- M
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-3-16 08:43 编辑 ]
* A' v& Y7 c5 ~" N7 ~1 G 「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。8 W. ]% H6 e6 @& y9 z
) j! S" w: B# Z# u, ` 天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。 5 `3 o2 ^0 S, ?* B- p( P4 T7 g% }( c8 G5 J x
トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。 & K% z @: Z8 T4 M 0 E- a9 v7 `$ B. t0 m しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。 7 ?4 n& M* g9 }, a; v 2 i9 f" ^7 y7 ?7 L0 o5 A. n 「天安門事件後、トウ小平は家では、一日中もんもんとして話をせず、数年前にやめたたばこを吸い続けた。卓琳(たくりん)夫人がいさめると、『わしにはたばこを吸う自由もないのか』とどなった。毛毛(マオマオ)(三女トウ榕(とうよう)氏)が『自由が欲しいですって? 学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ。あなたも座り込みに行きなさいよ!』と揶揄(やゆ)した」 - C! {/ a, t% Z- `1 Y - V5 A& V; m B, p' h8 }9 i その時、84歳。トウ小平氏は政治からの「完全引退」を決めていた。「武力鎮圧以外に選択の道はなかった」と自らに言い聞かせながら。 3 m7 Q, f; S5 X8 V* m) _ 0 [: e' p( S( k, ? (伊藤正)& h* k, U* F9 ?& k/ S+ ?: y
# f5 D9 C) L! T+ L! b! d' E●=木へんに犀* i8 v* h |; N: u: V- Q( q
5 v0 j. z% o5 v5 u) g C1 n◇/ d8 z o% O# R- T. {& Q9 V. C* I
: F9 S F% }0 O6 p5 z" q
【用語解説】人民英雄記念碑9 M4 K. r- l8 g5 X& b
- \8 v' ?1 f6 ~9 ~
天安門広場の中央部に位置。19世紀のアヘン戦争以来の革命闘争で犠牲になった英雄をまつるため1958年に建てられた石碑。高さ約38メートル、基壇は南北61.5メートル、東西50.4メートル。碑の正面には毛沢東が書いた「人民英雄永垂不朽」の文字と、背面には周恩来の書いた碑の説明がそれぞれ刻まれている。訪中した外国の元首らが献花することも多い。 + Z- d2 P9 x I- j4 ]0 n; s8 k" A8 M3 f* G. }
(2007/03/17) & c8 F; S' u ]/ y0 l& b9 O' g# n
) F. h: _8 K. K, d: @' V- U
* u$ a% i: n% F' o
1989年6月3日から4日未明にかけ、公主墳から天安門方面に向かった戒厳部隊は、市民、学生らの激しい抵抗にあった。木●(もくせい)地近くで集中的な発砲があり、死傷者の多くは復興医院に運ばれた(●=木へんに犀)
& r& A6 r7 M! D- Z7 n/ e しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。' I+ C7 S L. W% e) N
6 @9 _1 k3 d" e 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。+ Q% p2 J0 a$ M! @# ^0 L! w
# i- e9 n& |; C( R [( ~
私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。 , S2 ^* L1 @" v7 g Y. }5 u+ e9 z0 ~* `6 ~1 h6 D, z3 P7 i
その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。* {; b, n: g& A+ i% G1 u3 w2 H+ W
4 w4 V0 q% A4 f
そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。# u+ g+ l- k/ @0 {/ |) H/ P
9 X3 M; [ @" c
一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。 8 M2 M' N) ~5 @3 m0 N: o- [# d' k0 L
べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。 p# D3 w; W6 x" V9 E& Z
* x2 T9 Z$ k% {- \$ b トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。 0 B* f% A+ n0 E M Q* Z; c8 r( R- l- b5 e- i8 O5 w. ?" [! ^& A/ @9 u7 Y
6 m: d3 u$ @1 @* ^8 h" N◇; N7 U2 l2 k0 Q) s6 _
e* F1 q1 j4 g" T
+ W+ I2 I! m2 r+ {/ E( ^1 y, e+ t9 v' h: }* t
米特使が秘密訪中した ; v [2 U. n+ p3 _0 ~$ k. _* y0 B, L% |, M% y+ \' s0 R. ^$ l
天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。 7 a* ?, o9 n3 g+ @) r" I+ I3 ^9 E- L( V7 _1 S
しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。* c& y7 F6 N7 ]3 z4 P- Y9 @
: I1 V A! v8 _) _ ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。3 D1 S7 c7 `6 u9 C/ k' n
+ [4 |2 y+ _' o- z4 A$ ~0 h ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。" @ c( k. h$ B/ z$ \$ ?
/ o+ q' c: _6 F8 X6 G/ v, q# z4 i 「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」 8 o }/ s) w1 V& r ) ~0 Y; m" n: @8 f. E 中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。$ v6 P% w. i3 U! V3 U* x( V f8 G
4 d2 O" a$ b, U4 ^8 ]! u* H
トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。" p5 Z/ N" x: o2 @
1 D; z' H0 _- n5 n6 U8 I8 ~
「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」 ; e5 z4 U+ d" b* _: Q 9 r+ b' I; ~6 U) |- p! e+ s 米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。+ D- g' U4 w$ C+ O- W! J/ l/ L
* X H: C5 S' o8 v$ c6 a+ m 北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正) . \" b! U0 {% R- Q! E6 h) G! N* x) s; k! t