7 |3 c' Q' N9 B; k- r. z それは、武力鎮圧で中心的役割を演じたトウ氏の危機でもあった。: U9 o' D0 Q, M3 N7 e* l
- l, D$ b5 O7 w8 @/ U! J
が、中国は事件後ほどなく驚異的な発展を始めた。01年には08年北京五輪の招致に成功、世界貿易機関(WTO)加盟も遂げ、国際社会で重要な存在になった。事件後発足した江沢民(こうたくみん)政権も、その後を継いだ胡錦濤(こきんとう)政権も、トウ氏の当時の「決断」を評価し続けてきた理由だ。' A8 G& R6 Y0 F6 \ T' u% ~. r
6 h7 w ?% W4 x6 p 04年8月22日、北京の人民大会堂に6000人余を集めて開かれたトウ氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤国家主席はトウ氏を賛美する演説の中でこう述べている。 7 h9 e( \. k0 N, Z/ ~4 l& ] $ f) E& j: } v- Z; G 「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」, V5 m9 n" `( E- w4 e
, N% X3 j8 g5 g: @( v n1 q 同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。3 E' r' `. @5 s* r/ {
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中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。- r" J/ E$ j0 F- q3 _- {, ?
& I. |& D/ V. V% ^9 }
天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。; d' l4 M* P- r
! [8 b, \% M7 T" z
なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。; k9 T$ a! v% O; ?) q
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2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。 - L( R3 L4 p; h% Q2 P $ u$ S0 y1 l+ I+ R" ` 天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。! t7 Q& J# ~% p5 u
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事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。( S: n Q! Y3 |) [- o
" a Q& l X/ u) D; i 同氏によると、戒厳令布告直後、樸方氏が主席を務める中国身障者連合会の職員4人が、天安門広場の学生運動指揮本部を訪れ、「主席(樸方氏)は流血回避のために、話し合いを望んでいる」と学生指導者の派遣を求めた。 9 C* L. {+ h1 W! j5 J 3 A* m1 ^" ?/ _$ ]: T9 X. y 職員1人が人質として残り、ウアルカイシ氏自身が学生1人を伴い身障者協会に赴いた。8 F# J/ e+ Y. u1 P! _3 g+ o2 l& F
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応対した協会幹部は「武力行使は必至だ。流血を避けたいなら、主席との面会をセットする」と言った。樸方氏が会いたいというから来たのに話が違う。で、ウアルカイシ氏は樸方氏には会わずに辞去したという。 ; ] h" B7 Q2 s/ Y( v v0 r) G% u1 Y' u# Q9 U' \. B4 }# S! ?
ウアルカイシ氏は「樸方氏の協会職員らに託した意思は本物だったが、急に翻意した」とし、流血は不可避と判断したためではと推測する。樸方氏は何も語っていないが、父親の固い決意を知ったのかもしれない。; p2 J6 m( E$ W# O2 Y
# _* u+ p, B* s' O) B. D; W 天安門事件における武力鎮圧は当時84歳のトウ氏の人生をかけた決断だった。「中華振興」の夢実現に、一党独裁下での経済建設が必要との確信に基づく。97年2月の死去まで、武力鎮圧への反省や悔恨を示す言葉は残していない。1 F n% u) `% X: |' B8 ?
( u2 g. I* l% p+ g3 N. \ 事件後、中国は経済発展の一方で、格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)など深刻な矛盾に悩む。事件で政治改革が頓挫したことも要因の一つだ。胡錦濤政権は、トウ氏の正反両面の遺産を背負っているのである。(中国総局長 伊藤正)7 ~! o- S9 K. [1 k! w" C
2 P0 K7 g) A7 i) c 8 k9 j/ k( b6 c. G5 V . B- d" f# L0 V" A$ N6 G◇ # M/ s3 O# U. v# b& g+ U8 l3 A3 f( }! b" } % o/ }4 ~6 D, R& i7 ^3 f2 m4 ` 9 R F. K d! w2 e- v【用語解説】政治的風波 4 I! m$ t: V, a o, r9 h. u3 p
天安門事件の中国当局側の呼称。事件後しばらく使われた「反革命暴乱」は国際的イメージが悪いため、90年代初めから、鎮圧が完了した日付をとった「六四(事件)」が一般的表現になり、当局側では「政治的風波」が定着した。「80年代末から90年代初めの政治的風波」は冷戦終結やソ連・東欧の社会主義崩壊という国際情勢の激変も加えた表現。% b! o9 F3 e, v& n
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(2007/02/15 08:03) ( z. c$ q) {/ _9 y5 o p5 k1 S B7 j( }; q
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1 o: ?% V7 p" l1981年9月、中国人民解放軍のパレードを検閲する軍服姿のトウ小平氏(AP)1 N/ A# l' [% A* A' ]0 a
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-15 10:57 编辑 ]
2 g0 K: j. G* Z" G% J. L6 X 中国ではいま、矛盾を拡大した改革・開放への反省が起こり、毛沢東賛美の声が上がる一方、政治改革や民主化要求も強まる。「トウ小平」は依然、現実政治の中心にいる。 4 W% a% V) M( K$ k L" F) D8 m+ I% p, X - R: `0 q7 @9 ?) g トウ小平氏は戦争、革命、闘争の中国現代史を生き抜いた。氏にとって人生最大の危機は、天安門事件だったろう。それは、文化大革命とは違う意味で、現代中国の矛盾の爆発であり、大きな歴史の転換点にもなった。) w6 M* m- V9 A b
. K4 J" Y1 l% s3 R (中国総局長 伊藤正) ; I& A O+ I7 W $ m1 G! v# Y( r7 E7 ^9 Y ■トウ小平氏(1904~97年) 四川省生まれ。若いころにフランスに留学し共産主義革命運動に参加。中華人民共和国の成立後、副首相、党中央軍事委員会主席などを歴任。生涯で3度も失脚を経験したが、そのたびに復活、78年以降は事実上の最高権力者として改革・開放政策を推進した。89年6月の天安門事件の際、民主化を求める学生らの武力弾圧を決断、国際社会の批判も浴びた。 8 I2 e4 o4 g# ^; m4 P2 e" y & u' U/ E0 y9 t* O$ w' k, ^ ■4つの基本原則 (1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想-の4項目のことで、トウ小平氏が79年3月に堅持すべき原則として打ち出した。共産党規約や中国憲法にも明記されたトウ小平理論の核心だが、市場経済が進むにつれ社会の現実や国民の意識と乖離(かいり)、政治改革の足かせになっているとの批判もある。 " G2 \7 X8 ]" P2 d1 c2 D4 o( t2 _7 j3 p. Q' x* B% R2 L; p
(2007/02/14 06:13)
邓小平秘录:搜集反党证据展开新反右派斗争 0 B/ A2 k) c/ A" M: w8 q1 E E5 Z8 E6 D1 O/ @" z, I! u
" k: C7 b: \2 ]5 H* |& \, Y
日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」报导指出,邓小平认为专制手段的必要性,并经由搜集反党活动的证据而认为反右派斗争有其必要。, M# u0 z& Q. ^# j6 B6 n% u1 U
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文中指出,邓小平在一九八六年十二月三十日向当时的党总书记胡耀邦和总理赵紫阳等六名中共党领导人物指出,必要时非采取专制手段不可,这项谈话宛如邓小平针对一九八九年天安门事件决定武力镇压的状况而言。5 O: L* E, O) f& e8 i* k: P0 e3 ^
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报导说,邓小平是针对中共领导阶层对安徽合肥学生示威的处理态度软弱加以批评,胡耀邦于一九八七年一月遭解职,方励之、王若望和刘宾雁三人遭开除党籍,当时包括方励之等三人在内,有约五十五万名右派份子遭迫害,斗争的指挥者是邓小平。& H; l1 e% X9 f
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一九七八年开始每年有九成九以上的受迫害者恢复名誉,当时从事重新评价的是党组织部长胡耀邦,邓小平批评领导阶层的谈话显示出他对自由化思想的严峻态度。 $ q' S1 d( F. w/ X" a' w 6 E) J/ z- C! n# u1 [# r 根据一九八九年天安门事件后现身的北京市党委书记陈希同报告等资料指出,当时党全力搜集知识份子在集会中的言行及大学内发现的传单,作为策动动乱和组织准备的反党活动证据。) A8 v% ^5 F/ R
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邓小平接获报告后认为反右派斗争是正确的作法,有必要新的反右派斗争。中央社 # L3 p- y3 R. k& b ; ~% `! I- M d- ^7 O7 K! J6 Q5 n6 F3 y
【トウ小平秘録】(5)第1部 天安門事件 反右派闘争7 l7 e$ r# v( q8 K) ^5 {2 U/ Z2 a
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■必要なら専制手段使う+ w% r9 ~7 S, D0 `9 y% w
) v H9 _# d4 }, d" T
「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻) 0 ^" [' y& ?- S5 } 6 t/ k9 J, l1 H7 r3 k 1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。3 J$ c) \; m0 k, a
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この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。 # `9 f6 p5 x) e8 @7 F2 d* n! i2 N' C( L7 C7 N0 e
談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。" A3 L$ ~3 K8 a4 T
& y2 A0 n5 c+ P' W( K; X& A! h そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。! \. [$ C2 L' H; Q( r8 |% X
7 s0 o# e0 _- M+ J4 F この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。 M0 t2 G+ p% o
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当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。 % Q# n5 o' C& w& N# ^, x 0 o6 }4 c) u) J+ r8 r 78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。$ W9 j) s/ f6 c+ M( T1 c' N
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トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。 0 z, u8 q# J O' M / H2 g& ]) V" p/ B4 F8 i" g+ \ 「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」) u. E' _4 x6 `. ?9 }/ e' m
8 v* g& H3 I) O6 Z$ m c) E0 _# N: Q; d 「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」 6 u9 n% c: N' n; V. Y" o, T ' G- R# r$ Y9 t% Z& X3 v だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。 + @- q; Q8 V: G0 x8 j3 l ' I: D* N+ u. |0 ~ / t# r. v2 _3 B4 _4 B
反党活動の証拠収集3 [1 c, H4 ], F! r/ l
' X$ H4 n! g+ |! v, @' P* A) R7 E# S 天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。 , E$ A8 [2 H* T/ B# R) |8 h7 f! H' ^1 P# S R- d
方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。( L- M& }# U4 X( y
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「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。6 C9 o* p6 ^1 a( G# x6 M
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その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。 2 U% H: v% T" [% u& k* x6 @; U% ]. D' A0 C- ^: r2 M
天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。 4 k+ A( c. s& q1 N/ N, R) B m3 ^; I# Q8 m# |# V& V
陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。 * I5 p' ?% H) D# c5 w6 U7 w; C6 V 8 T0 q0 ?/ v- y h t 「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」 2 _4 e) }- R0 Q; m- A) ^) J- S$ p$ x3 P# g( f! F
「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」0 U2 {; t% c7 P9 [( n4 D' r
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「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」 / c: z \! c( B5 V0 F$ f* `$ ] + a6 N; \0 h% F2 }( ]% w 「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」: W7 F6 ^( H5 w7 U2 C8 P5 ]
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言論・表現の自由がある国なら、問題にもならない話ばかりだ。ところが、中国当局は紙切れに書かれた共産党や指導者批判も見逃さず、反党活動の証拠にする。; @+ j! { p5 i% W6 B6 P+ x% x$ N
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それらの報告を受けたトウ小平氏は「反右派闘争は正しかった」と思ったに違いない。新たな反右派闘争が必要だ、とも。(伊藤正)% g/ f. q D7 p1 O* m# `! `! y* m8 U
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■反右派闘争 56年の「百花斉放・百家争鳴」(表現の自由化)で噴出した共産党批判に対し、57年から毛沢東主導で始まった知識人弾圧のこと。職場に「右派分子」摘発を強制するなどして闘争が拡大、数々の冤罪(えんざい)を生んだ。81年の「歴史決議」では、対象の拡大化は誤りだったが、党・社会主義攻撃への反撃は正しかったとしている。+ Y! ?9 }+ g$ S$ R) o* `% @/ O
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(2007/02/18 08:10) 7 j. L- g( `6 N4 z' j% B# N N, }" n) y5 _( v4 A
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China honours man who reshaped world' {! d+ m& L, N! L" L
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. 0 ^5 T, |; u" E z d6 Z. s/ C
5 A% }/ {$ e8 _1 P8 LChina might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 1 }/ O, u3 v9 o/ [: w5 U% p( S; i4 _
* b( z* t3 n/ g" K4 p4 hBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. * T. I9 I* X. _# O! m3 L5 c
, s7 {' L5 g; \8 l
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. ; h& h" f6 f4 y9 ]& k9 Y z1 m
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“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” " Y+ n7 _: ?4 @5 F
0 J2 C I8 n; \) T5 S1 d; VMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. ( u) U! `9 k; @ - t: i/ K" l& N8 V6 L, D1 t9 |Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. + _2 t% S: X+ U
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” 6 F4 U/ I1 A7 u1 n * D* _9 ?2 Q$ m! d6 y4 ]3 N6 ~7 N. nNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. & i* L( t% P- P, w6 T* f
1 A" q4 O9 ]# W y2 Y. \3 g" |' Y. l
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. ' i- D( C* ~& L2 Q; [ 6 x8 ]" ?1 ~0 r! j( YDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” " ~0 H$ }( e+ ?+ a. E' X3 w5 @% u: s9 C0 z3 o; }8 k1 o; y
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. $ X- |2 t' ] g+ l% j: B' ~ P+ K( O1 [: Z$ \* O p' hMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” ) P" p& ~+ ~- c! I+ u
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Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. 6 @' g/ a( G4 A& Q8 Z% b- F3 z' v# U1 S# A" X( e* |
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. : }$ E; S; G( E) v2 f8 @# X- X- `* W" n: F/ B! C7 N
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 3 n; I. ~9 ~+ c0 f+ q5 y
7 b4 a8 q' v7 h9 A9 r5 r$ p) mLong road to riches n6 n5 p- U) H6 @2 B 4 R: _1 v8 Z$ Y/ ~Now , F* v. F* q1 B0 S3 s % L8 T( I2 F" [: zPopulation in cities: 550 million 1 L4 k2 G/ G) O& h4 G. ^
% K- q. T2 ?( s: V$ y+ FGross domestic product: $10 trillion . ?$ n- R! c" D5 v% P3 q& T+ Q/ Q, K* i" g7 e% b; B
Oil consumption: 6.5 million barrels a day 3 v% r* y, D) V; h. u6 D! v1 I ( l3 }: [1 M& V5 fExports: $954 billion & k9 V9 d o: Z* K: @" J, Y) G7 l: C, _' B, B7 g. M
Population below the poverty line: 130 million ! m0 T8 H- d; u- U: C3 K5 g
: n" v3 g# Q4 h, KTen years ago 8 a. T: h+ M) A2 T0 N1 d# D. b" ~9 L% f4 O8 O+ J6 {3 b' `$ F
Population in cities: 370 million . r. u4 B! v$ } Z; l6 f' ^& v! H/ h# G% `( ?2 T
Gross domestic product: $4 trillion , \8 \& [# }" G6 G
3 M( z2 m7 |. t1 n- G2 ?
Oil consumption: 3.9 million barrels a day 5 i3 z4 f/ [! h% Y ) ^% w; d% l. |/ t9 vExports: $182 billion 1 f: r& [, Q4 K6 ^- ?) L1 T
% [7 G( f4 O0 X# F) E
Population below the poverty line: 120 million . g# D& m0 N' S1 ^. x, ?$ A
' K3 V7 E) p0 p8 b8 r 「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」: C z) f3 Q5 K% l; c _. G
) W$ k1 `" e: v) W) U v
趙紫陽氏は23日午後、専用列車で平壌に向かった。30日に帰国するまでの間に、国内情勢は大きく変わっていく。(伊藤正)3 e# S: t G- D( Y$ { L
& A7 |7 i1 d I( u$ Y M
◇' s3 ^* J6 e3 d# |8 I5 F
& J2 w2 J( W+ j/ t$ q- @【用語解説】八宝山革命公墓1 K6 Y f& v8 {) y0 |% S
8 V2 T6 a3 h# f X" B: P5 x, d5 B人民日报刊登问题社论前夕的二十五日晚上,中国中央电视台先行播放内容后,王丹在北京大学召开“民主沙龙”讨论对策,各大学的学运迈向全面化是在社论发表当天的二十六日,学运人士呼吁二十七日一起前往天安门进行示威,北京市内有数万人在市内示威游行至傍晚,市民沿道欢呼,送给学生饮料乃至于捐出现金。 9 S& e6 N. O& l+ C1 g, [3 j2 X: N: F& ~; |
就在那个时候,知识份子也展开行动,背景原因是上海最进步的报纸“世界经济导报”遭到镇压。! {% r5 {$ O, y9 K* o \
( P2 v: ~" i/ L9 B2 _9 @" V2 N【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説( _" ^% j: ]% ~& O( p4 V( X8 k
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■反応は86年の逆だった * O( l8 c/ G% [1 r1 l7 }7 n* b; c& S7 K, M. T$ U
「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」 h8 m( k: h8 ~4 I. Y, m
0 M5 Q' L& t' s! z" u9 S7 Z 1989年4月26日付の中国共産党機関紙「人民日報」は1面トップにこう題した社説を掲げた。異例の朱色印刷された見出しに、文化大革命の否定表現である「動乱」が使われたことが人びとを驚かせた。 ( ~& N/ G: s3 I2 b. q$ T# i. x. a+ Q8 e# e% j/ ^1 P
社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。$ I* f) n2 l: ^( m
& `1 \4 H3 \' Z" @" Q 人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。/ v& r* T$ Q8 l1 @; X" _9 F m
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「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」 0 T. T; Y. r4 m+ m% U: U4 P! b( L" \5 G5 ~5 V3 d8 V( ^' z+ S
その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。0 w* v' `4 b, h! r; n9 V
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陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。 1 v2 E7 }+ q/ D6 t: Q# U0 t& r+ Y# K$ O5 a1 z& K9 ^
社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。7 w% _% g: Y9 c: Z" x, P
5 G7 q1 y0 ^ ~0 u- R' I 93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。& w0 }: J1 c# q4 R5 i
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トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。) k# E2 ?" B0 b/ D' w
`6 y6 n. U- [: _# { しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。+ C. y. W5 v1 ^' W Q8 K* a) ~3 I1 E
5 z1 B+ F) Q+ W9 }, X 北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。 - C* ^* K \+ M/ i3 l; y% q S- y+ S( i- V: |$ h8 _8 x. u$ W2 P
当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。 # q X& O, z/ ^% I0 i" Q( Z: B2 o1 E" j. v
この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。 * N6 J- a/ V+ q7 v- I( w/ j- O: V6 j* |
新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。 " T/ a. v. e# V# M# k7 v * H0 h5 C& a7 t' C @& V それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。 ; P& s# D4 ~/ Q+ A4 {6 A/ |0 }3 O$ L( C) r% g
《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》 8 a7 L! Q5 C/ a" V( R% Z% s0 r3 q, J# S% S" X# n6 K
各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。 4 Q1 H/ s& V2 F( P4 u* v7 f( \ ! O4 X9 a4 g& U. V これを機に、知識人層も動き出す。その背景には、上海のある事件があった。最も進歩的な新聞「世界経済導報」への弾圧だった。(伊藤正); I* ^# u+ U& @- f, n% W1 g, b* J
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+ w% [. u# U1 D9 {9 R/ c 王超华对柴玲表示已获得情报,若学运停止,中共高层准备稳当地解决问题。王超华所指的「高层准备」是指有关当局十一日对「高自联」承诺,将在十三日以前提出答覆,并决定由改革派的中央统一战线工作部长阎明复担任政府方面的代表。* ?' a) Z( |% ?* S
& w& A' K2 f! j3 V& r3 i( s 6 B3 V$ y$ U5 @6 ?! I 但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。& Q( g8 d+ V l* x
: x: z* u' \9 U8 \& t 王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。 - ^9 x: g% T+ o* g% P: C 3 ?4 b4 f5 d+ S! b, x& x" G 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。7 G4 Z; i7 H$ B* s8 w0 A, P) z
6 h3 e' `0 n/ O5 }4 Y+ g) u1 z; h7 Q 就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。 , M# k6 y) T- i' ?( P0 e) O" r% b6 x. ^1 h0 F: d
邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。 ) Y8 M7 J# N& i( L$ ~2 S 1 z# e& V6 A0 z) J M 对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。- I- G; ^% V, n- j3 D
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学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。! e' ?; s/ M, h2 s t4 b
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【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言 5 p' K/ w( ^6 k6 T& d! Z) |3 V% ^7 X- T2 g/ y: a
■急進派が押し切った 5 p- C+ M) a9 x" m # n" ~& P: ^0 P6 V8 S6 P. h 1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。2 f& E$ x. n7 }4 u) g/ R
5 R7 w( s, z) w7 J/ ~8 C' a 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。9 L* h' r7 h S5 M
2 F# y& u" u8 C6 [! [0 X- X 同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。 6 ]) b9 n" _9 j$ O0 z! h) ] |) X3 ~" g7 [& {5 f
しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。 ) |% a" B; t1 v( l. b) S- M! Q# a7 A6 `1 ^, i J3 T
絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。 0 S: d7 ]* y" E( o0 f2 [* e4 w( \5 X, V: F' J
それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。 $ W3 F P3 m$ e4 o& g, {& ^ g$ q* d 5 `6 P0 _$ m' @. `; Q8 R) S( T 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。/ P: p. ^8 E) X+ A, v1 H
6 ^. E7 X: U. p 王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。 0 F4 K: ]4 g- M1 p9 W) `8 g/ }1 ]2 H 8 Q0 Q" N. R# J# D7 U2 S5 N 在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。) T$ z/ L, h" b8 X' h
N) K5 C* u! } x% H& y 李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。2 F! Y6 r# P" X, Y7 C
, a Q* X; P8 i O" c2 h 14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。 ' v9 X# |$ a: W: [! ~6 l( L, y& C7 V1 e* @9 N9 j
政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。, y; {) h& e1 w' M
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13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。$ s% o1 {+ y- B+ a4 f+ i
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それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。' C0 z/ T8 S9 G: L
- Q' `1 ~- }% K 趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。2 s; T, B4 j* ^5 L- h
' W% \8 ?; F7 O' h% e0 p, x" D 14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。6 {- D- j" f! O0 ^1 J
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絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正)8 U$ G6 A: E9 r2 J5 u0 B* u* f
1 F, o5 O3 l5 m) { k 趙氏は17日朝、トウ小平氏に面会を求める書信を送る。トウ氏に4・26社説の修正を受け入れてもらうためだ。趙氏は面談に最後の望みをかけた。 . K) |6 A+ A) ~2 t# S & Y9 t5 y! E1 t4 G! H2 L 「トウ小平年譜」は「17日午後、住居で政治局拡大会議」と記している。その通り、トウ氏宅には李鵬、姚依林、胡啓立、喬石の常務委員と楊尚昆氏も集まっていた。 + J9 H( H: z( a, t/ k' [+ E3 Y; R1 f$ v, |' ]6 S
「私が面談を要求したのに、トウ小平は彼らにも通知し呼んでいた。私の意見は聴く気がない表れだった」と趙氏は92年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」開放出版社、07年)。" y' T0 o; w1 u s O1 d/ V) i
5 y7 S$ M. F! h" E: W7 i& D/ b トウ小平氏は既に重大な決心をしていた。* Q( R3 k$ M4 E Y! W
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(伊藤正) 1 H6 M7 I0 U4 [, W2 C . j+ y6 T% U3 K; V- `! h" L1 F◇ 1 M D- O) _5 Y# p9 e; I/ A- L- [1 R% f k( W$ a# N/ p
【プロフィル】宗鳳鳴氏 : ?$ `# [8 h* G% m \, L 9 Y/ j; O1 X0 A$ g* o0 R 趙紫陽氏と同郷の河南人。航空技術畑出身で、元北京航空航天大学教授。80年代に国家経済体制改革研究会に参加、趙氏と親交を持つ。趙氏が天安門事件後、軟禁された1年後の90年7月から、死去3カ月前の04年10月まで、「気功師」として趙氏宅を約100回訪問し対話した記録本を今年1月に刊行。00年刊行の回想録でも、趙氏の発言を紹介している。 V2 R) V, R1 w, @, I 0 X$ z$ d4 r9 |: h●=彫の周が丹 ; C5 e% u W0 P2 g5 m% X 5 J) G! d) t' @* \ g2 G+ s★=示へんに其# r( D# i; T! H7 m7 _: l* e& Y
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(2007/03/08)
邓小平秘录:保守派主张不能对民运让步. s/ U9 i8 j: a" }+ n! o
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(中央社记者张芳明东京九日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月十七日下午在邓小平家召开的党政治局常务委员会扩大会议,事实上决定了北京宣布戒严令和党总书记赵紫阳的下台,赵紫阳在会上反对戒严令而表达辞意,显示他看清戒严令将导至动武。7 @% {/ L. K0 j! W
' w3 y! ~9 n z$ g f# p) F) ~“秘录”指出,与会者多数表示,当前的情势极为严重,绝对不能对民运让步,和主张撤回或修改四月二十六日人民日报定位学运动乱的赵紫阳的意见对立。会上决定对北京部份地区实施戒严。 " d# Q* G. N( t8 g- h ) `5 R6 d2 U# {* m. j* w对赵氏表示理解的国家主席杨尚昆在会上指出,若让步将造成堤防溃决。邓小平表示宜下戒严令,并征求与会者的看法。以观察员身分出席的薄一波提议表决,结果李鹏和姚依林两票赞成,赵紫阳和胡启立两票反对,乔石弃权,邓小平的一票具有了决定权。, F/ t( D5 W% E/ S
# I% a9 e6 ^7 B( Q2 I6 x2 e2 I赵紫阳在会上突然表达辞意,薄一波和杨尚昆表示慰留。十八日上午,赵紫阳和李鹏等前往市内医院探望绝食学生后,赵回家写辞呈,但杨尚昆仍然慰留,拒绝收件。/ H! ?3 E" w' @- i
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赵紫阳在一九九一年对友人宗凤鸣指出,他的辞职是不想在历史上留下丑名。他的发言显示已看清楚戒严令势必造成动武。他后来在接受访问也承认,向访中的苏联共产党书记长戈巴契夫透露“邓氏是最高决定者”的党秘密决定是造成北京下戒严令的导火线。5 g2 Q$ k( V% c
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党秘密决定暴露后,知识份子和学生对邓小平的攻击一天比一天激烈,邓小平想必重新忆起文革时代挨红卫兵批斗的恶梦。毛泽东指出枪杆里出政权,邓小平也示意经由枪杆来保护政权。 : e, r5 ?* f ?- ^+ v2 l8 ]5 s! Q( O8 F/ G' c% }
【トウ小平秘録】(24)第1部 天安門事件 趙紫陽の失脚 ; O5 D7 X: Y Q$ q; D- _7 m" \4 q$ m* d
北京の戒厳令と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)失脚が事実上決まったのは1989年5月17日午後、北京中心部にあるトウ小平(しょうへい)氏宅で開かれた会議だった。「トウ小平年譜」は政治局常務委員会拡大会議とし、こう記している。 ( R# S7 F9 {3 {( d* ^* d/ w . i! ~) j& b1 E 「席上、多数が当面の情勢は極めて重大であり、決して譲歩できないと認識し、譲歩を主張する趙紫陽の意見に反対した。会議は北京の一部地区で戒厳令を実施することを決定した。トウ小平が講話を発表し、常務委員多数の意見を支持した」 i' z9 k- k& ^/ S6 l2 n7 n
) X P. ^, b9 ] 文中の「譲歩」とは、学生運動を動乱と定義した4月26日の人民日報社説の撤回ないし修正を指す(以下のやりとりは各種資料による)。 9 Z1 x& N( i. b$ U 2 N& l0 c# X$ d( Q; Z( R- Y/ a 会議では趙氏と李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相が激しくやり合った後、トウ氏が口を開く。8 o/ b8 Q0 ~6 p3 Z
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「紫陽同志、君の(学生の民主化要求に理解を示した)アジア開銀総会代表への講話(5月4日)が転機だったな。あれから学生の騒ぎがひどくなった。本日討議すべき問題はただ1点、われわれは引くべきか、どうかだ」" t& W+ s' H8 _/ `
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それまでは趙紫陽氏の柔軟路線に理解を示していた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「ここはダムの最後の堤防だ。譲歩すれば決壊してしまう」と発言。他の出席者も同調する。 8 u" O+ |9 b5 G" X! ~" R" D* \' Z- |+ \# ]' h) n# U2 f
トウ氏が言う。 8 M W- D" P" v& p m8 I( {8 J6 r6 s$ @, @
「このままの状態が続けば、われわれはみな、捕らえられてしまうだろう。引くことはできない。戒厳令をやるべきだ。みんなに考えてもらいたい」 - \- G6 f7 }& O5 I- M) J1 [7 {: Z2 P; M, S- R
沈黙していた趙氏が発言する。2 w i/ C3 ^& A! K3 N0 s. w8 W
& y) r0 a* j" Z& R$ S 「決断することは、しないよりいい。しかし小平同志、私にはそれ(戒厳令)を執行することは、とてもできない」. H$ k% p$ L7 b3 F0 p3 C+ ?; }
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「少数は多数に従いたまえ」とトウ氏が言い、趙氏は「党の組織原則に従います」と答えた。これで戒厳令が事実上決まったが、正式決定は同夜の政治局常務委員会に持ち越された。 ! |- b$ y& j% X7 p) [ + Q: t1 k& \; ]( o" Z その会議で趙紫陽氏は「戒厳令でしか解決できないだろうか。事態をさらに悪化させないか」と巻き返しにでた。李鵬、姚依林両氏が「トウ小平同志が決めたことだ。どう実施するかを討議すべきだ」と反発する。 $ g O9 ]' r; d" g$ Z. L* \+ K, M. r3 M4 H$ q
トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。 9 ~3 u u1 f# h9 q; p* H; W# p5 o7 J2 [/ O* j& E$ F0 \3 i0 L9 i8 s" C
オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。" t' j3 U/ Z5 U" x7 V
, A* a8 c* d# R! i8 Z$ H 賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。. u2 @* A" s6 s a8 C
; O' H+ ?3 g/ @/ i) y 趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」. O5 @: U$ c; B$ p
: P8 m( z3 q" w' _" A: J' V7 A 薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。# u3 G7 W. ]- r- x0 ?
4 Y4 U+ ~8 l M9 Z: G0 {; u/ f 趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。 $ {) E# d, g( c- Q; ^* U 3 [ ?3 r! X: n( i3 r% [7 f% D 趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。0 \) W+ P' b3 v m: f
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「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」 7 E' S5 Y2 O) N( p" c, j' b/ j& w4 W4 ]" g
戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。 9 B4 @$ G) h' w, O0 f6 C 7 u# `9 b8 x, d! f6 c さらに、92年7月の宗氏との対話や2000年5月の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビュー(楊氏著「中国改革年代的政治闘争」)でも、趙氏はゴルバチョフ氏との会談(5月16日)で「トウ氏が最高決定者」との秘密決議を明かしたことが戒厳令の引き金になったことを認めている。( s! a3 L/ m& ~+ e, T
" y1 W# k' e8 g p7 C 権力者の通弊として、トウ氏も自分の評判には神経質だった。趙氏によると、84年10月の建国35周年に、行進する人々の掲げる「小平、ニーハオ(ご機嫌よう)!」のスローガンを見て、トウ氏は非常に喜んだという。トウ氏の人気絶頂期だった。 1 k; b( V$ y& e& [" p( k7 x! h% p4 s2 h2 r- Y
秘密決議暴露後、トウ氏攻撃が始まり、日々激しさを増す。特に17日昼に発表された知識人グループの「5・17宣言」は強烈だった。中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏が起草した宣言はこう述べている。1 j* _* Y ?. _8 @, l; v# t. l. K1 P
3 g7 ^4 V3 M2 F( m6 V' m 「清朝滅亡から76年、中国にはまだ皇帝の肩書のない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる。趙紫陽総書記は昨日午後、中国のすべての重大決定は、この独裁者を経なければならないと公表した。老人政治は終わらせねばならない。独裁者は引退せよ」 8 P- k& ?* n! J% Q* v ; T7 i# z2 L) s* ~ トウ氏には文革中に紅衛兵につるし上げられた悪夢がよみがえったに違いない。趙氏によると、文革で身体障害者になったトウ氏愛息のトウ樸方(とうぼくほう)氏は「われわれは外出できない。学生にミンチにされる」と話していたという(「中国改革年代的政治闘争」)。 o* b5 [" }$ C' c% P: b
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「政権は銃口から生まる」(毛沢東) 4 j4 g0 h v6 e8 ^/ F/ i. d ; M6 M3 Y* U% r( L- b0 r M6 _ N" T 政権を守るのも銃口であることをトウ氏は示そうとしていた。(伊藤正)6 D# o9 b4 _( q* u
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【用語解説】政治局常務委員会8 n8 p, `, x y
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中国共産党中央政治局のトップ5人(現在は9人)で構成する最高指導機関(筆頭は総書記)。拡大会議は正規メンバー以外の指導者も参加する会議をいう。「トウ小平年譜」は89年5月17日のトウ氏宅での会議を政治局常務委拡大会議としているが、これは参加資格のないトウ氏が戒厳令決定を主導したためとみられる。87年の党中央委決議により、楊尚昆、薄一波両氏は常務委にオブザーバー参加できた。 2 Q6 W% j" c: e2 }: o8 N/ U3 j6 g ( |$ Y' j, t4 s" a(2007/03/09 ) - h: y# g+ N' ~: }" n! \: {% f t r5 E1 R
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+ Z* _2 M! W. G5 z& j, J北京に戒厳令が敷かれた1989年5月21日、最高実力者のトウ小平氏を皮肉るプラカードを持って上海市内をデモする学生たち
9 d" F# S* B& O$ g. C) o 「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。 : e$ `: S, e' \' `, B6 ~- ^& N& h: E- k- |/ W1 ~6 M
5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。 , I: z. T# O* K; @5 f % O9 v& a- D% u 5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。 ! W7 t3 h* A& V5 m6 x, E ' d$ e/ }$ G0 b( g$ e4 e 包氏「何とか学生たちを撤収させないと」6 A; c" I- [; s, |) v" N5 n
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王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」 % c7 b" u/ `; U5 I! |4 `3 \4 |! g! c3 C- m4 i; h
包氏「(撤収は)いつ?」. x( D1 p' e2 o5 L0 y
0 K) F8 S( i7 A- _" ~) a* R 王氏「今月末だ」# C1 J6 p/ d$ X" j) K# R
/ t8 b2 R O6 \- h) b 王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。1 d4 m: z" J3 i& h" @
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ところが、広場総指揮の柴玲(さいれい)氏(北京師範大生)が突然変心し、月末撤収を拒否したと包氏は言う。 6 x) l! u5 e' N0 i3 u 6 j4 s* ?4 x9 Z6 R$ N8 X0 z 「柴玲の変心についての伝聞が強く印象に残っている。彼女は撤収の主張は、知識分子が広場の運動を左右しようと企図している表れだと話したという。(それは違う)撤収は学生の身を思ってのことであり、全くのぬれぎぬだ」. f. M+ x3 p7 M4 y0 N
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柴氏の夫で、北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏の著書「天安門之争」によると、25日夜からの広場占拠グループ会議で、97%が撤収に反対票を投じ、それを柴氏が発表したという。数千人の座り込み者の8割は地方大学からの上京組が占めたことも影響した。彼らは強硬派だったからだ。5 ~# b8 t3 @( k! I/ G0 D
# A$ K- c- V3 _! x. ]% l) G 高自連内部は方針の違いや多額のカンパ資金の分配法などから対立が絶えなかった。5月27日、柴玲、封従徳両氏は、高自連から資金が来ず、運動継続が困難になったと王軍濤氏に訴えたという(陳子華ら著「浴火重生」への王氏寄稿文)。6 S" J3 b( }! @ f [
" u$ W: e2 ` W- X$ `0 x 王軍濤氏は2004年に書いたその文章で、自らの運動経験や思想遍歴を加えながら、89年の学生運動とのかかわりを詳述している。その中で、広場の学生たちの撤収拒否を受け入れた点が最も興味深い。 ) R9 A$ m* ^3 x% w9 [9 i 2 [/ c2 u( ~: A' L2 ~& y 彼は文革以来の豊富な運動経験から、学生が撤収を拒否した段階で、武力行使は不可避と読む。しかしこの運動の主体は始まりから学生だった。彼らの意思を尊重しないわけにはいかない。8 s; v+ K, j+ S( Y9 e" w. }/ k
8 h# G8 z8 ]4 t! F2 t/ s0 ?. m そう考えた王氏は、最後まで責任を果たす決意をする一方、武力行使後の弾圧に備え、主要な学生指導者らの国外逃亡の手はずに着手する。) H4 o8 Q5 A" ?* a
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≪王軍濤氏は、血の鎮圧2日後の6月6日、王丹、包遵信両氏とともに国内で逃避行に入る。3氏とも10月までに別々の場所で逮捕されたが、多数が国外に脱出した≫ : M: g+ K( V) L( Y $ u' y% b( k3 g2 J2 [" K' x 王軍濤、包両氏の主要な罪状の一つは、5月27日の「首都各界聯席会議の十項目声明」に反対しなかったことだった。 0 r$ c9 q, [" J5 |6 c" z# c! ] K: a7 J
声明は、学生、知識人、労働者など9組織連名で、学生運動の過程を総括し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を支持、李鵬(りほう)首相らを非難した上で、全国人民代表大会(全人代)常務委員会開催予定の6月20日まで運動を継続すると宣言していた。3 b2 {7 V2 w+ k, a+ H9 ]* x
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連合組織では過激な意見が通るのが常だが、知識人グループがそれまでの主張を変え、天安門広場占拠継続を支持したことは、運動の主導権が体を張っている学生にあったことを意味していた。4 W' j" z/ V9 r! |; }$ O2 E
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この声明には加わらなかったが、当局側が天安門事件後、反革命暴乱の「黒い手先」と名指した組織に、「3所1会」があった。中国経済体制改革研究所など3つの研究所と1つの学会を指し、趙紫陽氏のブレーングループとされていた。) J" f& G7 s4 T* A" R
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直接的罪状は3所1会が共同で5月19日夜発表した声明。それは戒厳令が近いことをにおわせ、政府部門のデモ参加や全人代常務委の早期開催を呼びかけていた。* b+ c: E2 {: x7 m: h$ F
8 ~8 ^: J7 x' A' {; r) F 3所1会は、官製組織で、趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏と深い関係にあったため、鮑氏が戒厳令や趙氏の窮地情報を漏らし、政府に対抗する動きに出たと断定された。鮑氏はその容疑を一貫して否定している(回想録「中国的憂思」による)。. W: Z' ]) A, S7 H0 y& U0 J* N
% U+ Q+ I1 r* G 鮑●氏は5月28日、突然逮捕され、北京市北部の政治犯収容所「秦城監獄」に送られる。それは、トウ小平(しょうへい)氏ら長老や李鵬首相ら保守派指導部が、武力制圧を決意し、具体的作戦に入った合図でもあった。(伊藤正) 1 i" M5 |* ]7 G' f/ V3 J, A( Q " P) G8 l% h$ F- a ■3所1会 中国経済体制改革研究所、国務院農村発展研究センター発展研究所、中国国際投資信託公司(CITIC)国際問題研究所と北京青年経済学会のこと。いずれも1980年代に設立、改革政策を研究するシンクタンクで、鮑●氏が支援していた。文中の北京社会経済科学研究所は84年に設立された独立系シンクタンクで、出版などの副業を収入源にしていた。いずれも天安門事件後、解散。- _0 _5 L2 ?& i. y- P) g, S6 A7 s
2 S) a2 E2 I- K4 I. Z ●=杉の木が丹 5 ~# @; v- o f8 B& U1 w! I9 k) ~) \: H$ ^: l; C! v1 G
(2007/03/14)
邓小平秘录:邓已无退路 天安门清场 2 r$ V+ }& U( n(中央社记者张芳明东京十五日专电)日本“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平面对天安门广场的民主示威运动表示已无退路,指示在一九八九年六月二日晚上由戒严部队开始实施清场计划,在两天之内完成这项作战。/ F$ Z9 |0 p) d" m. x, _
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秘录报导,“邓小平年谱”并无记载一九八九年五月二十一日至三十日的行动,张良编著的“中国六四真相”指出,五月二十七日,中共召开元老会议,决定由江泽民接替下台的赵紫阳就任党总书记,除江氏外,李瑞环和宋平也升任政治局常委和李鹏、乔石及姚依林构成六人体制。江泽民于五月三十日被叫到北京,三十一日被邓小平任命为下任党总书记。& G3 B$ @, K/ q% D7 m
元老会议两天前的二十五日,新华社香港分社主任许家屯在中南海和国家主席杨尚昆会谈。杨表示赵紫阳后任尚未定,但不会是李鹏。他并指出,邓小平表示已无退路,决定选择戒严令,动员军队平定动乱,希望许家屯支持。许一时不知如何回答,随后表示即使动员军队也不应流血。杨立刻表示,不会有流血事。 # O! Y$ a& T0 G' r H7 D9 o2 [* q( y5 p1 _' y% n: ]7 x& ~$ b, i
“真相”报导,二十七日的元老会议,就平定“动乱”作战讨论实施时期时,杨尚昆主张不宜再拖下去,但绝对应避免流血。陈云主张虽应极力避免流血,但五月底宜解决问题,邓小平也表示不可再拖下去。 ?" L% |6 \9 L: s : D9 T7 V6 M7 {9 o* ~ g* }五月三十日,中用美术学院学生制作的“民主女神”树立在天安门广场,受到市民瞩目,但是静坐的学生已减至五千名,在大学重新开课之际,学运由于内部分裂而逐渐消失。北京师范大学刘晓波等提议展开接力绝食的持久战, # V# U3 j+ `/ [ ' a$ Y8 w- }; K3 A+ }0 D包遵信在著作“六四的内情”指出,他本人反对刘晓波的建议而王军涛则表示赞成。六月二日傍晚,刘晓波和台湾歌手侯德健等四人开始绝食,广场恢复了失去一段时间的热烈气氛。 * g. X4 Q( L% m J( x( _% E. S6 o: K i
“真相”指出,二日上午,邓小平等六名元老和李鹏等三名政治局常委召开会议,李鹏说明天安门广场的现况后,元老们激怒,首先放炮的是王震,要求逮捕反革命份子。李先念也强调一刻都不可再拖,提议当天晚上开始清场。最后,邓小平表示赞成大家的意见,提议“戒严部队指挥部今晚开始实施清场计划,两天之内完成。”: @& B) C& A: V7 O0 y$ Y9 u2 e _
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【トウ小平秘録】(29)第1部 天安門事件 平定作戦 ) Q, N/ f0 f5 T■既に退路はない ! p/ }% S! q6 ~( S& s. F
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トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。 0 D" e; @& p) h& b7 J3 {, j d4 d) Z) f7 T" o$ u7 n z. x
張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。7 B3 d5 n% ^$ ?" q* [) |
& I1 S8 U: M& ~) i. z そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。 2 N2 C) e& M$ n- C1 q( S 9 O* ~4 b. [% l* d. `6 A 政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。5 U1 Y) x$ r6 Y% l% C! M& q" T
邓小平秘录:天安门镇压已是战争状态9 s% ~( ?( {) ~7 Z1 l; y# J
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(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。 : u7 o$ a$ [6 I" L5 I2 L! [- d; B* F" S3 s! f. P" O. c
“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。 2 v0 z( b" p6 [6 Z3 {8 t但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。 0 N& `/ a6 N2 K1 }/ k2 T7 _$ F+ T! B3 A
这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。; S c+ `$ b) A3 A7 O
1 @) I$ \5 x8 |( j2 C5 N三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。7 w ?, |9 D! x) A
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张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。 ! R% e0 E9 W2 ~1 W5 u # t" j+ u3 C6 j M“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。 7 H+ a; \2 a* `2 y4 a: ?% |$ m- H% o* v7 X, Z
三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。 8 L$ ~' D1 o! H: g& T$ n/ ? b$ q% |# g7 w9 A8 B# ]: g8 U! u
就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。; H, b+ L. ]1 ^. u6 D) T; e6 y
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【トウ小平秘録】(30)第1部 天安門事件 軍の発砲 ! J ?7 Z( y3 ^( Q2 U ' o0 T. v# }3 J1989年6月2日夜、戒厳部隊は「清場(チンチャン」(天安門広場の占拠者一掃)作戦に入る。しかし北京市内への進入路は何重ものバリケードが築かれ、市民らの抵抗は必至だ。強行すれば流血は避けられない。9 p4 w7 t7 w1 q+ }
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これは本物の戦争だ 1 F" T- F+ s( W% j0 J5 Z) G+ k/ N6 T4 {' U9 Z0 g2 I
そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。 ( K$ H8 G9 j7 \. D! ~8 d * ?1 Q6 V1 p i& L. {, m5 [ それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。$ Y8 [4 F, s( f3 F( Q3 g
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3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。6 p/ C% w; Q2 O. N+ Q8 i! A
9 m `6 x$ T, }0 [ 「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」 / A7 G" \, K- W' Y5 J) G1 k" P/ ~- f4 I7 E* ] c
情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。7 Y# g% B$ L! ]+ y+ j4 M( z
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3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。 ; ^7 x2 P# F$ p: [- |( W) Y8 o+ T/ A8 K$ }- f
新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 G3 r" j& i- C2 ?1 W. Z
( |2 I& @# h1 {* d 3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。 - A' h/ v' P, i2 }9 n$ G ; Y0 z/ ]6 Y( e5 Z 張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。' F% O9 X* U5 Y3 X/ R
3 U6 \; o8 D+ O% V 李鵬(りほう)首相は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張。陳希同(ちんきどう)北京市長と周衣冰(しゅういひょう)北京軍区司令官が状況を報告した後、楊尚昆氏がトウ小平(しょうへい)氏の指示を伝える。 - ^8 n: y* X/ w0 }+ B ( ^5 r: {* x& C1 q 「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」 # ]# S% s \2 [1 Z' r) H4 x5 H, r. U7 r
楊氏は最後にこう念を押した。 - g5 i+ y' c! c ) w1 \8 [, z3 D1 E7 O) C 「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」 m& `6 B: g- s1 { % r) Y$ v. d( _3 H# O/ ? 会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。' f, F. {3 Y$ r0 a; S
# A9 O V f( o% \8 S 3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。+ W, y+ g$ V. T$ c( C2 a) D2 s
, Z. E6 S; O7 I6 G8 s
当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。 ( c% J# x' M( {/ ~- ~2 m/ z6 I4 w& Z+ [: }. R
そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。 S$ `4 b& o0 X9 Q( a5 K
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午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。 * n* ]3 {- N7 ^. T # y1 P' I |" ~" ]6 G# [+ S- B- N 支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。 4 i7 F0 i! a' q% {' L+ d/ R % l, u& N% n, _% V9 H 「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」 U! r k% @( l# g. S7 i/ Y$ M
1 X( i; T0 p( v3 W* l$ b. J 記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。+ q0 H) d5 R4 h! E6 a
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「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」; f& v- b$ ^3 b @; i
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その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。* c! |! u& m6 ~) z5 }2 Z0 S8 t
/ l; n; D+ w4 y2 s, s) \ 「これは本物の戦争だ」(伊藤正) 0 z. o& h+ [5 z; F! A) e k6 @ P7 ~( L$ H
■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。- q" w; A1 c/ [& b) ^; K( {: v! `$ V
/ K0 b$ w# c' ]1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。 - s( ^( v! `/ k+ @8 F% L T9 J. I% n9 [3 ^- ^: Z
手法は毛沢東に似る' M; I8 {0 M! h% K
6 e& ]* L) S2 |8 H) k* {" x しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。 ! V' i N- p. Z J0 u# `% g1 o k5 z( s0 n; b
「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」7 p5 c# @7 c: E/ }) Q1 u, L( W
6 E2 l1 N& U, }4 x# B, Y2 F 牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。& ?" K( _& |3 ]* q
( t+ A- m1 y+ M/ B7 W 陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。: {8 N( n3 T7 O/ U! G# v1 c, P4 B6 ^* b
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講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。 8 Y- _5 c- m6 \1 a/ O: E% N) s$ @# ^. a) f% B( u
トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。 * [. L( C3 Y5 z, \& H $ p$ f. z1 w j# _/ r& c このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。 - {; q3 t4 }9 X ; o0 m2 @6 C' W0 u6 S% e1 ~2 Y. J 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。 6 q! S& @2 O" ]6 i F5 ]- D * w5 F0 a O- ]" t 毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。, i& @7 j/ N0 W; m3 c
' `* l# f9 C5 G) F, R f: z7 } 林彪事件である。 : A( `8 q" k* |6 j/ P) g5 u" ^+ @ ; A# g# x3 A( o; i) q7 V% m; a( f8 y* l i3 k
冒険せず何もできぬ) N; }+ `7 l/ N+ x& T
+ r3 n$ O$ a6 P8 l3 k; ^$ w トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。 r. E0 l6 _* A4 ?, ]4 Y# U, N3 N# Z' N% e) r& ?
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。 - g o4 X# K) o2 y% }3 s( y3 |/ G" Q; S. N; Z
トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。 ' T. R/ i& A6 P, z* J' t % n& B! C' _9 ~8 N 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」 3 g% j; ~8 f9 t9 n 1 n9 G. y8 z$ y2 ^# W5 u- L/ K 後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。) {! ^% e' W0 k" _; R' l( Z
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トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。 3 n x' R+ u. p . C! E9 M- \. E0 |+ x: O3 Y トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。0 ]( M6 U6 h; j7 b/ s' T
1 K& k4 ~, F0 f' B. o 劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。 # B2 |$ s9 k7 u9 G, y1 _0 k6 i n* S( _9 h u2 o6 h& v
天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。 5 D/ ?- Q. p, w7 Q) Q; f* S . G) v, [! P7 \" g @& P, Y$ P3 e5 V しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。( T0 w7 @1 `9 | z
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米特使が秘密訪中した 8 W6 z( u; J, d1 Y6 b 1 ]; m* F3 I1 v; v6 S 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。 , T; I& r u. N7 ]$ o " X; m w5 y+ W2 n しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。) j, }; A( J# A5 H
5 b/ B' ~+ u" \ |4 m" U ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。 1 Z' ~! m/ T* T/ ]! R & _% `0 a) _7 b. x# \6 ~ ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。( J5 D+ }2 k$ T5 U% Z/ F8 Y4 T
) v- O+ v+ A0 Q 「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」 6 Y7 ~2 Q0 {5 y J& P. h' t d# s; K8 ^7 r
中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。 - u2 L# i7 a' W7 Z7 d2 [: m1 j 1 M8 T- p0 ]' b8 ]& n トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。5 d* O. M' H5 H3 [# h9 M$ H, v
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「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」1 L* z; b5 d& T4 u/ y- @
0 x& P5 {4 C8 e; G b9 [: k6 _ 米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。 1 G, y$ a/ M; M7 T5 f 9 o. ~0 [! V% R! p: t; B 北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正)0 q, ^3 r. [4 |. N
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【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。 6 Z; d" j- q" o2 i3 v" C' M: p B* R7 I' @% p
●=深のさんずいを王に 7 o2 O5 V/ U" x ~& \* w7 U. g7 N C3 K* I5 z9 A u& T( R& k( j9 f+ j9 ]5 H1 \
【トウ小平秘録】(36)第2部「南巡講話」 瀬戸際の改革 ! T% y J4 a, k7 t
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1989年7月1日、米大統領特使スコウクロフト補佐官(肩書は当時、以下同)とイーグルバーガー国務次官は、極秘裏に北京入りし、翌2日、トウ小平(しょうへい)氏と会談、李鵬(りほう)首相らとも会った後、同日夕には帰途に就いた。 $ J- _; W# E S: N% `# ~% i. ~8 }$ [
軍が武力行使し多数の学生、市民を殺傷した天安門事件から1カ月もたっていなかった。 4 O. b; M- _( X1 c) |; } 7 k2 }, [6 `# v" |" [8 ~ 4 ]% M6 K4 Z u" ~2 B5 C米中関係の危機だった 0 ?$ L& C. e/ d- d [* J5 K1 s6 j1 N5 ~# c
前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。 6 a/ d8 t/ q( t; H. q* C2 C( m) g) C' S; R7 T: ~
「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」 2 W7 _& G! A' L" v" i" p' V: C b+ @; [. M+ R7 E
「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載) : C0 {' U" c9 ]" w4 a2 Z! ^( p0 f( |' O- m/ B7 ]7 o3 ]' o
天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。 ; j! f/ s& C0 \- @+ z+ J) V/ j- I& d% i0 D1 h! i E
雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。 ' h |3 \ p9 n" o 4 K6 |0 v& t# g2 K5 e2 }4 n しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。$ k+ j/ H( v% g# D8 X
6 o" [, l5 M/ {; ^) G その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。 " i* J, l x. O1 z- f+ b / Y" d. R2 Z) F3 z0 W. r$ n. l" j) G 米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。0 c* o: [& O( [$ n! k
. t: @* f' d1 X0 D 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。 5 v' h! S E, C: i! b' q5 j% a0 E0 p2 g7 j
79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。 # Y& H: G' Z7 P3 @1 S4 M, V2 u% p4 }& ~9 |. [1 Z& n& g6 e8 f
. Z3 V0 p0 n3 e. H2 n弾圧も正当化される+ o1 ?8 D% i N k
' x8 s1 ]' E+ S+ e/ J0 M 外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。6 R Q% L7 `/ {
' H3 l7 @- M% V) e1 W 後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。2 U q5 T3 i; N
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理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。9 @, a3 W! Q2 {% ? l
; N# I6 B& z) s. d2 h+ |6 Z 「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。 4 C4 b' _6 p/ i2 r/ N2 _ 8 l8 r# B7 Z2 L そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。 7 p" ?- b, s( K' B/ }' d: A6 q7 |- K# p3 i& g B& W
(1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。 3 M: N1 n' z+ Y _) j6 _$ A+ F9 Y+ Q7 f* a: v# p& r4 V
これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。 ! A* b) m- F8 h4 q - A$ F: L% @ f5 q+ S9 e+ ~5 | i" S X 理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。 ! A/ o# Q, H* x+ k, y# l/ y: l g* v
天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正)1 n Q0 q( |! O# B0 P. Q6 j S
4 B( K) w3 w2 R- T- [' P■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。6 h+ W! v/ n P
4 W+ d1 H- Z& d( v% @0 K% |* u2 J. b' E. l5 d
●=深のさんずいを王へんに % u4 X3 X/ \$ f& H8 w: b; ? @ ]$ K: i/ m- M2 u% N
天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時): V; z. N* A, o& o" T
! @7 m; `3 ?( u9 t ) D5 I$ ]* B6 x8 }2 P: B1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した