" I/ D7 W" C1 Q, F, A: |- S2007年1月27日 2 @2 r6 g6 f" P& U3 ~3 n 1 ]; [5 q) K! E自由亚洲电台特约记者南洲发自日本东京的报导/在中国总理温家宝将于4月访日之前,日本产经新闻将开始连载《邓小平秘录》中的第一部,6.4天安门事件时邓小平为什么对民众进行镇压的背景。+ y5 ` y$ P- l+ C" I. K
, Z8 @' @$ I8 V. l/ p! M. z1月26日日本产经新闻发表<社告>,在2月14日开始在产经新闻上连载《邓小平秘录》。此书由产经新闻社中国总局长伊藤正为首由多名记者编辑参与写作的。书中的第一部是写在6.4天安门事件时邓小平为什么会对民众进行镇压。就当时的背景分6个部份进行了编写。) m) G" P& q+ l: m9 T9 X
, q s7 Y. m% b0 S为什么在此时产经新闻要连载《邓小平秘录》。 ' n0 Y# ]( G# ^4 V$ r! q+ A3 [7 B" `" S ^
日本亚细亚大学法学部教师达希东日布向本台表示:′发表正好是在温家宝要访日之前,因为当时温家宝跟赵紫阳一同去天安门看望过当时的学生,很多报导认为温家宝是温和派,是反对镇的。产经新闻是要给温家宝压力呢?还是想让中国给六四平反?'' r" Y& p# A0 {' r4 n, P
; I9 l5 f0 L, o y, N
旅日作家、在产经新闻上发表过多篇文章的石平向本介绍说:′多年前产经就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。', M+ ~) e i3 ~7 z& ?6 i: b/ O
6 {+ y- |) ^& K# q) v: s
与产经新闻有合作关系的日中通讯社社长原博文向本台表示:′《邓小平秘录》这本书是以6.4天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始,是独裁的政治家。现在连载主要是与温家宝要来日本访问有关系。在对历史问题的认识上中国人与日本人是有很大不同的。' 7 n) f! G' j5 h4 F n4 L& X7 M1 i) A1 W
------------------) Q8 D0 g! r2 t- K% m' a. {+ h6 P8 [. V
, G3 @8 m! M+ ?1 D% f
产经新闻将连载《邓小平秘录》 + {- ?. v; s2 f# k* ^: V* _ # f n& {) g+ U/ l# F' B(2007-01-29) ) h+ f# L& g' j9 w- M : h) R5 [) I5 N) Y( z5 `(新加坡联合早报)曾于一九七四年连载《蒋介石秘录》的日本《产经新闻》,今年二月十四日起将开始连载《邓小平秘录》,并将在第一部中即探讨邓小平一九八九年「六四」决策的背景。由于中国国务院总理温家宝即将在四月间访日,《产经新闻》此举因此引起议论。 * W( e% [8 Q( ?' ~5 H- l- M
% L9 p0 a. z `8 {# X2 Z 据《自由亚洲电台》网页报导,日本《产经新闻》是在本月廿六日发表〈社告〉,称将在二月十四日开始连载《邓小平秘录》。不同于过去《蒋介石秘录》使用国民党大溪档案,此书的编写以产经新闻社中国总局长伊藤正为首,多名记者编辑参与写作。 ) l, X: R6 V2 K , P8 ~4 a$ O) S0 C8 a8 Q m 对于《产经新闻》选择在此时发表《邓小平秘录》,旅日作家石平向本则表示:「多年前《产经》就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎,这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。」 " k# B$ h0 J9 w8 n e/ ?
1 g! }1 E* M$ a! n: V( O 与《产经新闻》有合作关系的《日中通讯社》社长原博文表示:「《邓小平秘录》这本书是以六四天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始。现在连载主要是与温家宝要来日本有关系。在对历史的认识上,中国人与日本人是有很大不同的。」 k2 m3 A/ k f B $ w8 s l. p/ p' k/ u# F4 d--------------------------" {6 g* F2 C' a# w' Q& _
1 A# B' A% x/ I( E
日本产经新闻9 g) p, T. \8 q( M4 P
9 n; t& |( o! I2 B2 Q, u
【社告】「トウ小平秘録」 改革開放の実相 2月14日連載スタート - B! L9 ?0 ?, R5 u% r/ o/ B2 O
8 }+ }! O" l4 t4 t- ]4 s. Q
産経新聞の新たな長期連載「トウ小平秘録」が2月14日付からスタートします。- z) @/ \! w! r
0 I# ]6 _$ c/ j" f7 n$ z 1兆663億ドル(昨年12月末現在)という世界一の外貨準備高を記録した中国。この経済発展の突破口を開いたのが、トウ小平氏(1904~97年)でした。今年は没後10年にあたります。 * g5 g! }, ?. j) k( Y3 C/ c' n, _& X; E2 F9 F
毛沢東以来の中国共産党内における激しい権力抗争を生き抜き、事実上の最高指導者にのぼりつめたトウ氏の波瀾(はらん)万丈の生涯は、中国現代史そのものです。% ~( X. J4 K+ K8 |
( W, l/ K$ A A
トウ氏は政治面で社会主義と中国共産党の指導性を強調する一方で、経済面では生産力増大を第一とする独特の理論を唱えました。文化大革命時代の失脚を経て権力を握り、改革・開放路線へと大きくかじを切った決断が中国の驚異的な成長をもたらしました。 : d3 n" `5 P; \$ ^8 D7 u9 j : g8 ~3 x8 `& ^; l# F 半面、膨張経済は都市(富裕層)と地方農村(貧困層)の格差拡大や環境汚染、さらには官僚の腐敗という矛盾の拡大を招いています。世界規模のエネルギー獲得戦略や急速な軍備拡張路線も気がかりです。こうした現代中国の実相を理解するには、トウ氏の足跡をたどる必要があります。+ N+ \' _, \, {
" G# Z$ ~; t3 F# c' e" V( o, Q4 N ■トウ小平氏(1904~97年) 四川省生まれ。若いころにフランスに留学し共産主義革命運動に参加。中華人民共和国の成立後、副首相、党中央軍事委員会主席などを歴任。生涯で3度も失脚を経験したが、そのたびに復活、78年以降は事実上の最高権力者として改革・開放政策を推進した。89年6月の天安門事件の際、民主化を求める学生らの武力弾圧を決断、国際社会の批判も浴びた。0 `0 D% \: F5 i% l: Y
- n/ v N1 n, c. C( ]
■4つの基本原則 (1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想-の4項目のことで、トウ小平氏が79年3月に堅持すべき原則として打ち出した。共産党規約や中国憲法にも明記されたトウ小平理論の核心だが、市場経済が進むにつれ社会の現実や国民の意識と乖離(かいり)、政治改革の足かせになっているとの批判もある。/ W: b2 B" N1 O0 p5 R4 l
$ j! |1 S4 W1 Z( B" V
(2007/02/14 06:13)
1 ]$ y( T2 E$ }4 T$ g. Y9 ^, d猛然とたばこを吸った3 _0 ]# u. X, d0 c9 n
2 y Y0 c5 t* f2 N& _' y
天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。" r+ Q( t" k; ^
1 D6 X1 {9 S* u0 O6 l0 E* \& Q
胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。! N8 N' _/ n! c- N3 C! `
; E5 M+ W! Q3 W/ K ~5 c. h
当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。5 `1 Q, v- t' O$ L* k
( E* O* k3 Z* o$ t
そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。 1 }0 A4 a/ t0 m; y, o1 g/ O/ _7 [6 v" g: O% I
89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。5 Y# o) F1 |( E F3 o7 p' Q
/ S* k5 X O1 s6 p
予感通りに事態は展開していく。 + _0 s, S4 s9 D& M 0 s: F ?" b; T6 m) ?* |7 M 訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。) c3 |5 [3 k' W3 |
# @5 f8 ?( a6 F# _+ q/ w: s$ W そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。$ Y' d1 K; F- c2 U* o/ z- G
& U) N9 F d4 N/ U6 N( L/ N
胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。 ) O! z; ]$ {3 d. X2 Z& e( { 6 P+ h5 g4 ~& {( b8 t 「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」# B4 H0 j4 @- q; f5 v7 y, l8 w
- V$ d% |3 N7 w+ p+ [$ r) o
胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。% t: t" F z% _. r) e
) O1 ^6 Y) J2 W9 \9 e9 K 胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。4 L, i( X! j8 z# M
4 u& p. x0 D7 i+ u/ q% f# m 半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。 , H# v2 G% b( S$ C5 ~. Q1 j+ ~% Q
むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。8 ?3 V* p, C6 J5 P
, }/ C) n5 _4 N" W) Y 「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。, {0 Q7 K2 T2 ?- u
! z; J( l) S* P 天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。# _& R- b L; ]/ W, B6 R
0 y* \- i- u# Q' Q' i! g! [" u さまざまな立場の人が胡氏死去に不穏な予感を持っていた。学生のデモが始まると予感は現実に変わり、悲劇へと向かっていった。 4 |& }' G6 Z5 N) r% R' h' g1 C& Q- t9 @3 Y# r7 ?9 t" b
その経緯を追う前に、事件の背景をみていきたい。 , P7 H$ {3 R5 ^9 y 6 C% T& ^# ?' ?+ F3 s, B4 \. Z (中国総局長 伊藤正)6 f) g9 f' j# y8 t3 b7 }6 {- _/ c
( d* O2 ~) K6 `, `6 a7 T. N
◇ ; J8 V9 R u. E/ R9 c( j" |6 |8 X4 [9 X7 r4 q5 d
【用語解説】8大長老! d0 t s. [" w* W* ]5 `; l$ c
$ H c$ i- d, W
トウ小平・中央軍事委員会主席▽陳雲・中央顧問委員会主任▽楊尚昆・国家主席▽薄一波・中央顧委副主任▽彭真・前全人代常務委員長▽李先念・全国政治協商会議主席▽王震・国家副主席▽トウ穎超・前全国政治協商会議主席(周恩来元首相夫人)-の8人。いずれも革命第1世代の共産党幹部で、党内で大きな発言力をもっていた(肩書きは89年6月当時)# o; U: R, e( V; y6 z: S, X5 `
# [) r3 ]$ D: D2 `! N5 o6 b' L
(2007/02/16 07:48)4 H0 w* @! K6 N- d" i" A* O. Q
( {1 [' d6 {$ ^$ h
8 W/ D8 D ]3 I5 B% w2 `( N $ S6 k9 p4 V0 W: y: t $ s# F. Z% @- k5 b& _1985年6月、中国共産党中央軍事委員会拡大会議に出席したトウ小平氏(左)と胡耀邦・党総書記(当時)
& J/ [8 V4 m$ G8 C+ l; J$ W* W この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。 " g( @0 y$ D6 x& [* P5 b4 g3 P ) e" Y7 o. q; e f5 ^8 d 当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。 B6 H. Y; L. F G! A ( Y- T" e1 p- R 78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。 ; g+ l: e$ F9 k- ]6 o5 W) `& j ' o2 H8 R$ P8 w5 c% P% S6 F トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。 5 @5 `% c. y: J8 U- S7 _) |. t K; p6 }) V/ }4 W8 r: N1 H) F/ V
「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」 k, D$ P" j) t# q% s
/ w2 T3 }6 [3 i- B" m* F
「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」+ n2 f+ [5 n. G: `: V% g6 e P
1 \. V0 P! c) H. p- I9 S だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。5 {# i+ m* X A
8 ]4 ]0 w8 n* z8 g# | . Y! G- ?. r$ ^* S
反党活動の証拠収集 4 O3 _3 o4 O1 w0 Q3 @ & X; H* m) k9 N: x3 u 天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。( j K' p: t6 N5 Y2 k
3 T0 f0 i0 o" t5 n6 I 方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。 5 o8 @& o# _( C0 C1 g 9 U- s: k) o; f) O 「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。 # n! m( V9 {5 `; t 0 E c* R- B% w4 {/ c# m/ } その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。 + b: _, ]( u9 Y$ S% e% }6 K0 Y0 S 2 s2 M6 h* M: t7 o 天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。 . Z$ Y% q+ P; d+ a2 @& n' f' x) I9 p# m; m9 O
陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。 $ n8 [7 x, V* \8 m5 d+ \, E7 ]) H! Z2 o. w; ~
「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」 8 N B6 J; I0 k% m, I2 g& a4 [4 @2 d p0 Q
「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」 1 ~7 B" H4 k6 h9 l' A6 o8 h . Z* q$ J" p$ o- ?$ W* a 「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」; }. R& W3 ~6 O# v! @% z, v! ]% Y
I/ [: M1 i; S# c2 `0 U1 U 「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」* E! p! j; }$ a% d O; n8 [
8 y( P' r6 z& [2 W, R
言論・表現の自由がある国なら、問題にもならない話ばかりだ。ところが、中国当局は紙切れに書かれた共産党や指導者批判も見逃さず、反党活動の証拠にする。 - W7 c# R* o5 d! @% n6 E7 I/ [( |. X1 ]
それらの報告を受けたトウ小平氏は「反右派闘争は正しかった」と思ったに違いない。新たな反右派闘争が必要だ、とも。(伊藤正) 5 j' d% O2 L+ w! R* u0 i$ e* s& Z: l v; m
■反右派闘争 56年の「百花斉放・百家争鳴」(表現の自由化)で噴出した共産党批判に対し、57年から毛沢東主導で始まった知識人弾圧のこと。職場に「右派分子」摘発を強制するなどして闘争が拡大、数々の冤罪(えんざい)を生んだ。81年の「歴史決議」では、対象の拡大化は誤りだったが、党・社会主義攻撃への反撃は正しかったとしている。4 x: l2 _( o0 H3 I! B- [8 J1 g9 f
. \. _3 e( ~% K& |9 l
(2007/02/18 08:10) K$ [# O' p2 n$ Z- Q9 {; S
5 {5 w1 N. U" Z* d
邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利 + |' D; k7 V Y; O, d, \, c# |: ]9 n# }& L- V" }+ H6 S S3 k" [
( ^7 Z8 c4 |4 z7 m; A
根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。 ' f% C5 n* {/ b1 s$ Z+ h/ l5 K* J
文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。 ( i) _# s1 X- N 0 L/ `- b% }8 d: J 当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。' B6 a& H6 A8 e6 D
7 D e K1 e5 J- w& _
秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。 ( G- _. N, S$ g% I c2 x3 f1 Y3 ~0 h % J" m* X4 t$ W" R' A 担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。 # ?: m6 d" a5 E . ?3 p) H9 u+ f' J 李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。; }; W1 N7 d0 P5 {
- l" X# f$ Z% e
在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。中央社 3 N4 J5 _8 O# \ % B% q4 U3 n+ P0 e. ~! R, `. {. y【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない " C! z0 v3 r, o4 M6 V2 f: x8 f* u R
胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。 ) v# g" ?8 O( ^8 V4 B! h+ V 5 C7 L: M. c2 ~$ e: O# l その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。( K/ X0 Q5 n z$ P' N, V( [* r
3 l( }1 n3 |; J9 c) H 「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」3 s; ~, R6 ~ \/ n5 e
3 k3 v- i( j3 P3 ^$ e1 I 弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。3 b; \0 w# X" k$ b
# z) a2 e( F1 Q" ^. f0 Y. h S
胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。 0 J, T p, a8 c* w4 ~+ t3 Y; g, u9 P6 M9 c' N7 X
かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。( q/ t4 y8 f5 Z+ Z
: w# h- T+ g$ ?* u# T% c2 ?6 M 朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」 5 }' e7 e4 q! ^; E$ b ~4 L- d% D
トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」* V, I9 p) n. v: \) I+ V
/ T* C' q5 ?2 F; {& O. P$ a1 }/ d/ Q4 ` しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。 1 |$ Q( _' j2 [2 k8 y* Y4 N 7 ~6 B% Z+ }2 ?, D N 元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。9 o p ~$ j1 |. C
# O9 ? _4 s$ |+ F
「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」) + m8 K( H$ ^: S& ^: a$ w$ d3 S- f 6 t$ \& T6 Z' L0 n 一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。 Y; G6 y) c0 l* ?
; \7 c: E" |% u4 s ?; S 「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」5 x4 ^, R" P# M- D5 U0 ~
, v% E7 l( @: h9 z1 I' ?
それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 $ S2 c& Z# S5 D ^4 t8 p; N/ J; S* o. f6 i
《ひっくり返った党人事》 6 o8 M- s( U; g8 ~# @' ~4 h+ _$ b$ |" y8 t7 k7 \* Z, j. O
思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。, T0 N9 g1 d- q- t# N
& T+ S% J( w* p1 z# c* | h
保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。+ W0 P- q0 I) }: f0 v W
( ]* ~/ T/ s6 t% N, n 5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。- G% U) e" d# x$ d0 C1 z
+ }; }6 `2 U6 w, F
10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。6 P) J0 y( D6 P
: u; b8 i! s: U- b, P G
「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。; Y& r/ D1 [) I6 [) v- [ C
, ], f+ h' [" E2 P* [- {
その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。 ! v9 h7 e0 Y, K" l* I) C# V" n4 U; a, M+ N0 z6 `& E* q" m
趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。2 m2 d$ [. ]+ B2 r8 D3 H8 V
: E3 `& e$ d( F/ |9 _* Y6 s1 f このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。 : @: r+ v7 P$ r3 z2 U2 p8 m! t% ^( L0 X- o, `- z
陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正) / ?* K1 S. ` g* r4 o% `7 ? j, G 6 ~0 y, v8 V6 m" Y ■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。 ( ?/ Z/ v" c ~4 O9 ]1 F9 S & O+ E- f: n S9 v ■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。 & V6 J6 \: W: r8 E8 q- N1 O5 b! C4 w, C# d0 K' o) V) A5 g
●=彫の周が丹 ( a, ]/ Y* o; G3 `0 Y6 K 7 K2 A- |. ^1 L8 H(2007/02/20 07:26) - x$ G- }% ^6 B7 ^ . p3 g, E7 W, o+ ?7 A" V# G: o, w/ H
# ^; q- `# h$ @" ~& w; x- g# G$ F; h: @' c }+ y
2002年8月、北京にオープンした蝋人形館。トウ小平氏と並んで陳雲氏の蝋人形(左)が展示されている
) j6 H+ B0 {0 B0 J3 u 她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 7 Z! E. R! X$ k2 s# g/ g' j
4 m& l2 p: _" [$ C' N邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” 4 G* d3 A% o+ f9 k) F1 Z. J, [$ A0 f( l$ o5 w! i0 x; D
生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 * \- |9 ~+ S5 D4 F, H3 \
% U4 I1 f5 {5 e4 r! w$ C
邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 ; i0 y8 w. X! w9 d
7 j* L ~: Y" O' Y8 [6 @* Z4 N 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 # k4 ?# B- d( o( ]1 y+ q8 X% f
+ d' ~; G* B$ q! d2 N# y
她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” * V- I: F2 a( X% @$ K, w/ p! w ( V8 k1 w* h* ~4 K. W% T5 ?$ W5 z8 C 在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 ; c, A( X% j3 M( g3 K3 s9 d. \ * a) O' _/ p* y. ^: y% ]5 \ 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 ( t3 z* r. _: C" E7 ~5 ^5 l " O6 v; c2 m( w: e `2 c& j 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” + d+ ?( l! t* G0 T4 C. p( Q* E; |
9 t( G9 g7 a+ m) `9 C
他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 9 T5 F% W) r+ Q$ m8 v& n% ?# }# z3 ^- U3 T2 w
在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 * U- M; N# ?6 P: b
+ @ X' _* F) ?. y3 P& J6 N. Y
邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 . Q2 }/ O T4 t7 m+ O1 R& |" H' n) R; J' ?* B) [
9 k0 @2 l1 h( F* Y, e 3 X$ [8 B: H- w7 A% cChina honours man who reshaped world ' L& s1 `( ^6 T6 WWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. ( ?& }( x& P5 {( f5 {& V' T5 @
% M( E5 U* |/ O N8 ^: W
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. ; A6 }- w& j/ q* G: `
+ X2 `5 ?1 Y* a# l2 G" N7 A' l8 S9 LBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. 7 t x7 U# h: K' G. ~' Y; w$ D4 e
% Y* n8 s' k0 \+ [
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. ' [& m5 a9 H4 e
% b: K$ u) m8 c2 K4 Z. o6 g+ Y
“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” 4 D3 {. k! J' N' R% {! S. U# n; h, u7 P6 i) _" t8 T
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. 8 k# I7 e% ^. ]' G+ l
/ h3 U, ~7 f( S- U8 P* d6 ^9 r1 s& p1 iMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. $ B+ h6 Z5 M9 @8 ?8 t- x$ J# `# G4 `7 L7 _! o. u- Z, p1 V" \
She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” 3 a: |4 }( y% a" [ R5 Z) |9 ]. X1 I& a. a1 f+ ^# ^
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. $ o; F3 \1 ~+ {" ?7 @0 y6 v8 g
0 A5 F/ _, Q+ U9 ?
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. - n. g/ N' d3 F4 a& w/ k x
8 l' y; l% I: Q" nDavid Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” & M: }+ s* o* W+ j2 S$ I" j; z( I! \1 _+ ]
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 6 n& B" e0 l3 m- J
, J8 d7 n' W) @8 a6 x* F" V
Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” , V4 v G5 Q2 \6 E3 J0 i! C- m# ~ {6 e/ f' n' t
Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. - X' `3 a) [1 K& m7 s
: a, a8 ^. Z9 @0 \But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. 4 j, @- ]6 p. D5 D: t/ U; `& K" Y2 t g! O% F! Z! b
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” ) P, v# v* v1 s/ {
2 A* i' O8 q; vNow ! R4 V1 U* M& ^5 V+ r, ^9 m0 s2 J/ ]- l. C* ~" R: l) L- Z
Population in cities: 550 million # J! \" j& S$ X7 K$ F) }
9 f7 Y; |; [! W& dGross domestic product: $10 trillion 0 g6 V: G8 O. Z. e9 b
/ q* k4 A3 K6 W. V: Y, sOil consumption: 6.5 million barrels a day 0 f9 I* C, h" h0 ?* X) G5 S2 u
" Y5 J& ]4 k4 c
Exports: $954 billion ( F' v# ~! f% Q, I0 u7 f( v8 @
* t2 v% I6 c' |8 g5 @6 q# G
Population below the poverty line: 130 million " S: y2 {$ f- `$ B# X$ Y0 m: Q% }5 E, u$ f$ m% p! X
Ten years ago ) V7 m5 z# f- s$ Q " l2 z4 m' a4 l5 O) p) M) A6 wPopulation in cities: 370 million ; L/ l' |8 V, m; {1 D" T! _
4 R+ o/ e; V5 z$ |2 P( [
Gross domestic product: $4 trillion ; X5 m) E$ x9 d( ?4 g0 x: R% l, q. E+ B" e1 r0 e: }6 j: T
Oil consumption: 3.9 million barrels a day . S, b9 E8 t1 h$ f 8 T5 L8 }5 F5 ~9 c; |& ]0 U3 oExports: $182 billion 3 S, }2 B4 T/ `8 }. |' [% e! o
, ?* \( q8 Z3 N3 mPopulation below the poverty line: 120 million ; C/ b: f8 f1 |* _$ R9 {2 D - b! g: m7 f# OSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies6 V; U' \: }' @" q, t
/ F( D- y. `9 A; r4 L+ W$ P4 @) Z; K& L
“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 * g9 d. V( P7 I! e: F* V" D7 U2 o" B: H a" j0 M R' R0 a* y9 D3 o$ m
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治 " R9 G4 I; }; {9 j7 Y% S! E: I 9 ^* m. z4 k9 Q( h( Z3 ^& u(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?”6 N0 c' k% f3 K/ j6 h' R
% |3 N3 I( ~! h
赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。5 O" I- J! i( [4 e8 \
9 T% { G* f. R% G8 E( d
赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。 ! g' K" `9 v# v0 m$ T 5 `2 `" B1 |( |! U0 B鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。& f/ V4 X& k7 k4 d" k' S5 B) R7 H
+ j$ ^8 W' k4 N2 v8 x- K. V0 Q" o
鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。 a+ }4 w; C' A c
& {) v+ d) A3 p" t2 @) L, C5 ^" _
赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。 u+ K: b( z; [/ s" J) [& @ ! V0 H! V9 ^& d+ E) l* m一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。 ; Z: U) s+ |. } x- l, a! K; c X! v- X
未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。6 N9 A* a$ ~ i3 Y* g5 Y# ^
) F" D3 `% k4 @【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」 ! y& z% K# y/ k3 ^ + n1 s0 r% T# t/ x% z; f趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。 7 ]: e/ U+ L6 n9 u4 B3 n2 H* G 6 J- ]) p' \/ Q! k. { 2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。 ) o7 Q+ `7 R7 } , c/ f# R3 i% X 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)7 [2 p" c. s f4 g3 a; W
% R% l4 V0 Y1 F この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。 + l. C2 h/ l6 ^4 e; H# R ) n: l* I4 `' A' t; C& F. ~ 趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。 3 z& h o; r8 N$ N' {$ W# B" m) |& K/ w
中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。; _: V$ y- o3 B/ a4 }6 Z1 n5 Y
0 n8 W5 y# \, l: I
しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。" o) j% I) _4 o8 S X- h) M9 G, Y
3 `- a& D9 b, t. p. ~- p
この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。 ; s- ^$ w: X9 U7 w* [0 `6 n 8 f9 y! G" E/ r, A, l' e8 c しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 ; t) U- S% N! ?1 p3 b4 v" `& C8 s# Y5 n" M0 r& G
≪パニック買いが起きた≫ , e" v( y6 T4 B/ J7 e& Y2 U* H2 n+ ^& g8 X4 Z P* q
ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。 - e4 e: j4 U1 V2 A9 n6 ?4 n: a) E( h8 P. K( W$ L _% U% d- }
趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。* K7 r+ e) h+ T* E4 {0 G4 N$ P: T
0 p: z5 F% F! B1 l) I) S- H/ y8 e 「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏)- \+ F3 A y5 t* I7 j% j" {, O
2 W6 k6 Y3 H; b トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。 2 X8 f5 K- f t: i I3 y ' k$ l6 T0 {% e" M 当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。 - ]! m' Z& i9 p2 H + W* V1 W' M9 r8 j1 o8 O* } 5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。3 U3 |8 Z' T% g/ b* m
9 K8 w6 K. w2 \& ]' r4 h; r) O2 L 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。 ; ]' ?) o5 F8 B ( z$ y5 T9 G% F0 v# B' p その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。 3 P4 E1 M( c5 c% L$ I 6 H2 s! _3 q. T: N8 E8 _: P ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 9 w! x9 h4 H) J B" B4 z8 @ 5 F) J0 _9 e2 ?, b# @- t4 X 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正) " p; w7 B) o% q3 }* L, j- o/ E0 d& P
◇6 Q% ~/ M- p- Z, {
6 \, V% @7 Z( f( f
【用語解説】3自1包 : m% M9 J- O7 X6 m9 z 1 P0 V2 {' `1 p4 n$ r) C: { 自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。 & P% A6 d# s9 S y/ Y c2 u2 `# H# {9 ~2 ~ E; V( L
◇ 2 | c# z: e1 I: _. N$ e& u6 T; C9 S$ q. |; `5 `! O6 b- ^# O) U
【用語解説】北戴河会議3 G: X5 Z0 ?/ R/ J
4 `6 `, l% @3 ]$ ]+ @ 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。' E7 u/ ~! J: X
$ x3 u* q, ^" R$ ~$ P
●=彫の周が丹 / P2 r7 w$ p1 N! B) i- X/ T; x: X% w( ?5 ?" v) A
(2007/02/22 )
# n# \6 G+ S& Q: Q4 X% M% u& M6 B2 U5 |6 h
【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件. A) F* l/ _8 q; Z8 N/ P
. l2 V+ |1 o/ t8 `* m1 j' b$ e
■下心ある者を警戒せよ+ [: s S$ X h' r* Z
# f( Z- i( n7 c7 u a8 Y( ^
異変は、新華門事件から始まった。 $ `0 D# z: K/ ?0 t# n; X! P3 W. V5 g$ H4 k' Z- h
1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。 3 ]; _; g) w1 q" v& D1 o) x - {& `- a- ?- }) j( \% d それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。 $ Q: F7 _3 _& [3 q4 W7 f1 s% c) [: e * c6 h+ i) u' i9 v# u! q いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。% I& T9 C4 {! J( M' T
- b/ P+ F# a! B どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。 8 M& s% O7 d; p7 ~1 C. B3 g( q, \6 ~2 k
当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。" t6 U* R& M5 V$ B6 r
5 U6 C1 D; g% K/ w
楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。 # G' K% E1 X& P/ N L . I7 w5 o' t) q, H+ a9 { まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。 ! P" ~) k' O [$ |$ ~ + H' J, G& Z' _3 R' k i( r' p8 l 党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。 % \( W0 M" x& N" P0 N+ [/ Y$ s" a ~" m; c2 t5 \: ~
89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。3 n+ A% m- Z5 ^, o: l/ o' B
- [4 ~1 n7 W2 _$ X 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。( ^; ]& ~% \, R
P' q9 o/ A. e! @- m
4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。9 _6 r9 ?0 [9 I2 o0 G
7 r! C5 x% O6 m9 @7 ]* D( U この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。8 ] c& B. F2 M8 K, N, K& ~
+ l1 S9 X2 k8 \& W H/ E5 b 「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。0 r& w2 w# p/ q. e) n e8 M
@+ i2 y# U% T5 X( g* |/ \ 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。" r% i% |* E6 O5 X$ e
7 X# @% \5 q D
全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。 7 X0 g% N, J) r. K. c* G! G2 ]# X7 Z; g
この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。$ x4 ?' ^; ~/ d; k; S; k
7 t1 [% |/ ^- Z
天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。6 q7 z) _0 ?4 X1 Q' ] s* Z
: Z+ N' ?6 R- }( ` 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正)* M! ]; ^0 D' z$ E6 i' r
: j7 L/ b1 O( F& e$ v ■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。 5 n' A- g% |% ~" S ) V0 i4 ], k4 A. t7 ~6 L(2007/02/26 07:41)/ o4 k" J! i |2 b" W2 h& |! N
' R9 \% C/ X' y3 e) [& R6 E5 G2 q, R, f4 q3 S
+ ^3 G2 g1 B% Q( M2 G6 Y9 N
" A4 T+ u% a9 l7 R# j+ p見通しが甘かった + @! R d: R8 T* p' _; y, ?) D. ]0 [ Y. b, v4 m8 u
「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」: H ^/ h E( O# S/ y8 _& i
8 [: A+ _5 N% j; H' Z& t S3 i$ Y 天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。 : _* c; ~# ]+ r) v3 o4 I4 D+ g K' r" X
「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。 * M1 t, N, r+ W7 z5 Y, x m" v8 u N; S
張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。: X5 s: l- A9 T' @
, D* P* J: ~* k/ u6 m. o4 S
趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」 ' I/ p: n% R% n$ z - `; |: t; J! K0 x トウ氏「金日成(朝鮮労働党総書記)によろしく伝えてくれ」 2 k- A2 A) [$ k8 w- N: T4 C6 q% O 3 S* K# z [% {. ~& @ 趙氏「今回の学生運動については政治局に次の3項目の提案をしました。(1)追悼会終了後、学生デモは断固阻止し授業に戻らせる(2)破壊行為に対しては法に基づき厳罰に処する(3)学生に対しては指導を主とし各レベルの対話をしてよい」: p* E+ r9 F0 G8 t3 l
" E; _4 F& `8 b/ Q- Q S/ C, C
トウ氏「結構だ」 " W; r7 c( m g 4 C: s8 t7 V6 G5 [ 趙氏「私の訪朝中の党中央の仕事は李鵬同志が責任を負い、何かあれば報告させます」 5 r6 O) p, S) @2 X) v. H$ k" L& E- y! j
その後、李鵬首相が趙氏に言う。そばには同じ保守派の姚依林(よういりん)副首相と李錫銘(りしゃくめい)北京市党書記がいた。; P7 s/ S) p+ t+ W8 P1 }5 M
T3 h" S1 S. E 「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」 / e" h Q) E' t3 d2 b2 J, l6 U9 ~/ A
北京市の李書記が続ける。) O. W* D# O3 x7 U2 o/ S- F
w3 H0 V$ U: h7 j B) R 「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」 1 y. ]/ Z. `5 T6 x5 L( F9 l; \9 i ' \4 A0 Y' b8 V4 `- ?6 C9 J それに対し趙紫陽氏は言う。1 t0 x2 {; q9 i# A" Z1 c
3 u `$ Q/ x# S1 k3 x
「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」# @$ Y% q% M c/ O* D3 J
! l8 Y. S6 { b 趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。) x; I3 o5 a$ A: x% `. Y; Z
6 c* I+ T. E/ K- K- t) j' S! v9 E
趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。 # q* f8 v6 C- d4 `( Y- B5 ]4 s0 o3 A% ^0 ]+ M4 T
「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。 & [* p7 N- \: S5 q( N& u2 W; e2 `" \& R t) ]
4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。. J9 o3 V r+ J R
0 b5 v4 k5 X1 n6 ^: { 「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」4 s( M/ s! s. F. ^- ] b
: J6 T% n W/ N" z. h
学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。& Y& N& Y1 h- ?
) e: w* x: S$ n* n! j, g! D0 h0 @
数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。 & P# d% @, y8 Q: O; [+ h' Z1 e! p' T) L! j) ~0 [. l
「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」 0 P" c; s6 [" p/ o* D, b4 {2 \! g$ A( j: f0 x
李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。# L+ Z, A( X ~2 a
! M3 }* [$ {3 z% v7 U/ Z6 M5 V1 A ■断固動乱を制圧せよ6 d- J$ ]- f! `! w$ K g
: ]8 F9 F Z$ t# p趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は1989年4月23日午後、専用列車で北京を離れ、北朝鮮公式訪問に出発した。その直後に、留守中の総書記代行を託した李鵬(りほう)首相ら保守強硬派が主導権を握ってしまう。 / ~2 q& q& a$ w! K# ~3 D; o; { ! a' @/ m. @; o" D: R B6 V 趙氏はのちになって、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビューで、訪朝前、政治局常務委員会内には4月15日の胡耀邦(こようほう)前総書記死去後に起きた学生デモへの対応で「意見の食い違いはなかった」と話している(2004年出版の楊氏著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。 , a6 G0 z X* L9 R' W% O) |( C- {0 z & q) W" U7 O1 L6 p0 a その根拠の1つには、胡耀邦氏の追悼デモが始まった後の常務委員会(4月18日とみられる)で趙氏の分析と方針が承認されたことがあった。" `( g, Z9 A( T+ L' A# a
( Y0 O9 H2 o2 ^; h/ D; r- C& T% L 趙氏は学生デモの背景を(1)清廉潔白な胡氏のイメージは高く、腐敗への不満と結びついた(2)87年の胡氏解任のやり方や反ブルジョア自由化闘争への不満がある(3)88年秋以降の調整策で、政治改革や経済改革が停滞した-と分析。 9 u& k& Q0 u! V8 ?3 {2 V5 e& z0 Q* w5 _' q2 f$ f7 o
その上で、大半の学生は、胡氏追悼の形で改革深化への願望を表現しているとして、追悼デモは規制せず破壊行為だけ取り締まる方針を打ち出し、常務委の賛同を得た。19日にトウ小平(しょうへい)氏に報告、支持されたという。 5 Y7 m1 g; K; u, r+ ~, C5 o + h8 }# v: a( ?/ h& ~% h 22日に胡氏の追悼大会が終わったのを機に、趙紫陽氏が打ち出したのが「3項目意見」だ。指導と話し合いで学生たちを教室に戻らせるという柔軟策だった。, K9 Z4 Q5 |; g+ n
1 E1 C" t: h- l Z- j
北朝鮮へ出発する際、見送りの李鵬首相から「何か意見は」と聞かれた趙氏は、3項目意見を改めて伝えた。李首相はそれをトウ小平氏に報告、トウ氏も「紫陽の方針でやれ」と指示したという(以上「楊書」による)。 * t" f% _. n: [9 w , K" L0 K4 R9 S6 I ところが、趙氏が出発した翌24日、状況は一変してしまう。その前日、北京の21大学の学生40余人が市西郊の公園「円明園」で会合、「北京市学生臨時準備委員会」結成を決議し、授業ボイコットや地方へのオルグ派遣などを相談した。 / A$ U# Z$ E9 Z! e& X B1 K9 F* L; c4 }" v
それを聞いた北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記と陳希同(ちんきどう)市長は、中南海(党中央・政府機関)に報告し、早急に手を打つ必要があると判断。陳市長のテニス仲間の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長に相談する(張良編著「中国『六四』真相」。以下「真相」)。 6 ] G8 p s5 j" \ 8 x z# Q$ t/ _* I! D 「学生運動はますます重大化しています。既に39大学がストに入り、約5万人が参加してます」(陳市長)「最も凶暴な北京大学生の一部は、方励之(ほうれいし)(天文物理学者)の女房の李淑嫻(りしゅくかん)が指図しています。方励之は学生と外国メディアを結ぶ仲介役をしています」(李書記)$ D2 |( ~& i3 r. J+ R6 v3 W2 D$ B
1 h. @3 z' y3 s# e
報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。 + W3 L& p. ]8 }2 h ) a" Q% D! G' r+ D6 T. ^; ]5 y 天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。# T5 m) p( u) O
9 m! g. T" d) g. h! R1 f: N( j そのとき、李首相が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に「小平同志に、常務委の報告を聴いてもらい、意見をうかがえないでしょうか」と言う。 4 H2 U8 I% M3 E2 u' c! F `+ L3 v' y2 g! n2 P! ~
楊氏は「小平に話して、明日午前中に彼の所に行くようにしよう」と請け負った(「真相」による)。, e$ z. u4 b( J% x9 \- y
0 a. D+ B. j; `. m' ` 25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。+ s" o' B2 o2 q K
/ x- z$ T* i9 H2 l
「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」 - Y3 h5 o4 I- Z' c! E 8 S# x' ~6 ^+ r: t+ x$ B g5 d 「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」( v) j. f* t$ @2 M* R: C) V3 a; S
# T2 ~; u9 ~8 ?( N8 ~$ x 「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」 " r F* I; `- p( x' W ( i7 g7 f" a0 [- r, E( B' | トウ小平講話は前夜の常務委決定とともに、同日夜に平壌の趙紫陽氏に伝達された。2日前の「3項目意見」とは正反対の強硬路線である。だが、趙氏は26日朝、「完全に同意する」と返答した。0 s3 q3 b4 g" a$ i" J: U$ `2 a
% p* Z/ I& j r0 X* R9 |
これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。- o: U. {* r. A1 x: f
0 j( o$ v1 a. n5 H1 [0 L
油断したのか、権謀だったのか。いずれにせよ翌4月26日、人民日報に問題の社説が出る。(伊藤正)! c) I4 L& g; J/ I6 O R
* S! q3 V* G" n9 b0 g
◇ 0 d- J; Z1 H9 E d+ p; ^$ G: U 7 h" u9 {9 z3 K【4つの現代化】9 Y! z* A- H9 @7 J; J4 v& h
: x8 j" i a5 q+ s 1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。9 t6 O4 Z: N0 c
* ~4 X8 U' @+ M 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。 , w5 q' `( b' ]0 X( O$ ]2 k- v# @" ^& T4 V& C2 U
同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。7 B6 h( J" P) U; O- O+ |% u
2 W; A& Q7 j8 W* V2 C0 M) R しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。 k7 y9 V7 I K/ d 2 H. n/ {0 S9 u" K 絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。& Q! q( W. a h- W
8 z/ o) h. V2 q+ H( P それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。 / C. N9 E% l- B& Y0 |% ` 3 X* a, k8 c9 V1 s- j4 R, A7 ] 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。" s1 h9 T& T5 V! h R7 J
0 R; g) I' j) L( g3 z/ Z) e, S5 I, L) H
王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。1 ?6 A, N( w. z5 W
1 N& N8 q W9 F; y: d& K2 n' { 在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。$ D# C8 }* q" I& g& u
2 a8 i$ t, ^$ O+ T
李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。 ; O- ?6 q. B* D% W, L; r7 d8 t+ D5 U- i
14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。 % k% ^" L- s8 V5 ^. D! O4 @, o" {7 M' |0 v1 @+ L$ o6 K
政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 : w" H! b# x, E8 U5 F- u 6 y* v! J9 o9 r+ Z8 k 13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。 $ r7 |' `4 l/ ]4 x- Z* _' z. e$ S$ a/ K. r$ ^6 n
それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。 $ d9 L( g8 w9 i# ~* k) p) X8 |1 K" h' K6 x5 H/ |8 J
趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。2 v) {; {" u6 ~
; { ]/ q! L# K; o3 Q' {' H
14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。 " [5 T. n0 h* Q0 c- r/ R4 L g, P; }$ F X+ x
絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正)5 b4 E. |$ B% s7 i$ M: X! J
. l! }8 \ w2 s( @+ T, }●=彫の周が丹; H& G/ Y, p- w; ~9 p
1 l* C, G# t& y$ D, n
◇: f# t) T. o- J) q
. M6 Z. z9 w, Q @【用語解説】中国社会科学院 9 Z% E1 H* Q+ w# g! L) f0 e9 |2 |1 d8 ?5 B
中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。 / v. u! b+ B; T" L: k2 N2 y8 o$ k* Y4 b
(2007/03/07 )
J8 l9 _1 e9 O5 I- B" x“秘录”指出,北大学生在天安门广场进行绝食抗议的第三天,五月十五日,前苏联党书记长戈巴契夫抵达北京访问,由于天安门有五十万人示威,欢迎仪式改在机场。戈巴契夫于十六日上午和邓小平会谈,下午则和赵紫阳会谈,赵紫阳在会谈上指出,邓小平是最高领导人,中日关系在上午的会谈已关系正常化。8 ~9 O; i& R6 h5 G
; j. g5 @6 G( g8 s& G# K ~
赵紫阳向戈巴契夫说明理由指出,一九八七年十月的第十三届党大会,邓小平虽退出中央委员会,但随后的“一中全会”决定最重要问题需由邓小平掌舵,自那时起,重要问题的处理都必须向邓小平报告,请示他的看法。赵紫阳的这项发言重大,后来成为赵紫阳的罪状,李鹏等指摘赵紫阳泄漏党的秘密决议,把斗争箭头对向邓小平,造成情势更趋恶化。 ; D, ~' E/ O* k! p. P+ o5 w3 `" s$ {& ?" w+ D
新华社记者杨继绳在“中国改革年代的政治斗争”指出,许多人听到赵紫阳对戈巴契夫的说明之后,都认为赵紫阳潜藏让邓小平背负局势恶化全部责任的意图,赵邓之间的关系为之破裂。赵紫阳的发言经报导后,学生开始攻击邓小平,反对“垂帘政治”,要求老人引退。 % U# k8 K" V3 L$ R5 }1 |/ F ' v6 x9 u, q' ?2 O9 |/ U0 u! v) m) }赵紫阳和戈巴契夫会谈后的十六日傍晚,党中央统一战术工作部长阎明复在天安门广场呼吁学生停止绝食,约两千名绝食学生接二连三倒下,王丹和吾尔开希两人提议要求停止绝食,但是绝食学生精神高扬,学运已经失控。 " P! l K+ B; X) W+ C / i; r. X3 z8 B1 _, I十六日当天的示威达五十万人规模,劳工、文化界和新闻界人士参加的人越来越多,大学中大半学生再次罢课,赵紫阳主导的柔软路线走入死胡同已是明显可见。当天晚上,在政治局常务委员会上,赵紫阳和李鹏等激烈争辩,赵紫阳仍主张修改人民日报四月二十六日的社论来解决事态,但是,连过去支持赵紫阳的乔石和胡启立都表示质疑,列席的杨尚昆和薄一波也反对柔软路线。 8 V3 r; T! E5 b# V# ]$ _. a, c# ?* e/ k, Z. ^5 C
赵紫阳和学运一样,逐渐失去退路,欲情势逆转唯有即时中止绝食。赵紫阳在十七日凌晨代表党中央发表书面谈话,肯定学生的爱国热情,承诺党和政府不会进行报复,要求学生中止绝食,回到学校和党中央及政府进行对话。 - M3 v) ?: T' e0 x/ \8 }6 A1 q' W: b I0 x; c8 @, z
陆超祺的“六四内部日记”指出,十六日傍晚,人民日报社长钱李仁和拿着中苏会谈照片前来报社的杨尚昆长男杨绍明见面,拜托后者说服杨尚昆让赵紫阳的谈话刊登在人民日报。党中央于十七日凌晨透过新华社把赵紫阳讲的话向全国报导,但由于并未对学运定位“动乱”予以否定,效果令人质疑。 ( A0 F2 Y% W0 C $ N8 Q- h' {) S' x赵紫阳于十七日早上送函给邓小平要求见面,希望邓小平能修正四二六社论,他把这次见谈视为最后的希望。“邓小平年谱”指出,十七日下午,政治局扩大会议在邓宅召开,除常务委员之外,杨尚昆也出席。 7 U; u2 E/ `0 K5 A9 a- v8 o6 Z! F0 e/ e8 r
赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。 8 g9 h, H! B O2 |. P 4 l* Z( O% Y. `【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談 " I# T( q/ {8 I' O9 i# G1 E ' S: M, s5 v8 G6 c! r北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。 9 C5 d9 H* D/ R+ s' j. W4 T8 f 7 A# G8 {- i0 n8 Q. |6 B 宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。% D3 ]6 F, P6 e/ D- A
2 T2 e1 l/ O0 v: u( N: G1 I
ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。; j y# Z$ d. i [/ @1 _
# H- r2 e2 z8 c8 b: X 「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」( d( V+ J t% n C8 l4 x4 r8 t- Z
1 S3 ]" E. G4 C- z- f4 U
重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。 2 @$ w6 T% c. Q v& f: j' u7 V2 J& h; b, D; f: _2 t
趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。 6 n' c+ m5 u+ q) b* M 1 H0 ^0 n1 Y, _3 i! ~ 鮑氏は「李鵬は(学生デモを反党的と断じた人民日報4・26社説の)『動乱』規定はトウ小平講話に基づくと言いふらし、とっくにトウを前面に出していた」と趙氏を弁護したが、タイミングがいかにも悪かった。2 k# x# T/ m. w9 A; s+ ^0 v
) g; { \2 t5 K" A& P 新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は「この談話(趙紫陽氏のゴルバチョフ氏への説明)を聞いたとき、多くの人は、趙紫陽には局面悪化の全責任をトウ小平にかぶせる意図が潜んでいると考えた。これでトウと趙の関係は決裂した」と書く(「中国改革年代的政治闘争」)。& y1 q3 V! S0 F. W6 L7 ~
' Z# E4 n( m0 [& C# i その報道の後、学生が「垂簾(すいれん)政治反対」「老人は引退せよ」などとトウ氏攻撃を始めたからだ。9 p* o, I- G& p8 S2 L [9 j) G
4 D( |1 F- B% ?; R$ l- B3 h 趙氏とゴルバチョフ氏の会談が終わった後の16日夕、天安門広場では、閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長が絶食中止を必死で訴えた。約2000人になった絶食学生からは病人が続出していた。" r: z" r8 C y0 y8 L0 | { t8 o7 u
' n& r. `3 _0 U: ?3 z8 {9 K9 F' H 北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ両氏は動揺し、絶食中止を提案したが、拒否される。世間の同情と支持、メディアの注視が集まる中で、絶食学生らは高揚し、運動は統制力を失っていた。6 f1 p) N4 X3 s1 V4 R
& C+ t O2 f& ?% D4 c この日のデモも50万人規模になり、労働者や文化人、ジャーナリストなど、参加者の広がりが目立った。大学の大半は再び授業放棄に入った。4 u! u6 z( o, F7 | O
" q+ f$ v9 g w/ g% v
既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。4 ?: F6 w8 U* _" B1 H9 t; Q1 t
/ B1 @4 g3 ^* p$ Z0 { しかし、それまで趙氏を支持していた喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)両常務委員は疑問を示した。常務委にオブザーバー出席していた、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と薄一波(はくいっは)中央顧問委副主任も柔軟路線に反対した。 , A% b5 v% ? _& B ' z# c& h8 @: a6 L3 I 学生運動同様、趙紫陽氏も退路を失いつつあった。形勢逆転には絶食の即時中止しかない。趙氏が17日未明、党中央を代表して発した書面談話には悲痛な響きがある。 ; X2 B, [( p; I' B ) T$ ?$ v/ Q9 } 「学生諸君、君たちの要求する民主と法制、反腐敗、改革推進の愛国の熱情は尊い。党と政府は決して報復しないと約束する。諸君が絶食を中止し、学校に戻った後、党中央と政府は君たちとの対話をさらに進める。再度お願いする。絶食をやめてくれたまえ」 7 u# e. Z# w0 W$ Y6 E- @* b$ E ! \3 f2 |; |6 o( b- ~7 G 陸超★(りくちょうき)氏の「六四内部日記」によると、この談話は16日夕、中ソ会談の写真を持ってきた楊尚昆主席の長男でカメラマンの楊紹明(ようしょうめい)氏に人民日報の銭李仁社長が会い、趙氏の談話を同紙に出すよう楊主席への説得を頼んだのが発端だった。党中央は17日未明に新華社を通じ全国に流したが、学生運動の「動乱」規定の否定を否定しておらず、「効果には疑問があった」(陸氏)。 # |2 p- k9 t+ s4 G+ y+ Y ) g& w t4 C2 C6 d9 m; \3 z 趙氏は17日朝、トウ小平氏に面会を求める書信を送る。トウ氏に4・26社説の修正を受け入れてもらうためだ。趙氏は面談に最後の望みをかけた。 ; o: h: @. K( G7 d T$ w ( m; n9 L/ G- Z) d- m 「トウ小平年譜」は「17日午後、住居で政治局拡大会議」と記している。その通り、トウ氏宅には李鵬、姚依林、胡啓立、喬石の常務委員と楊尚昆氏も集まっていた。 ) q/ O$ m5 P ?% j$ q! I3 ^4 _ Z& K: H8 L K' F" T: |5 T Y Z5 u
「私が面談を要求したのに、トウ小平は彼らにも通知し呼んでいた。私の意見は聴く気がない表れだった」と趙氏は92年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」開放出版社、07年)。0 r2 _+ P" Z* V: c
+ `* p( ]9 {4 r' s2 Z% ^1 V' {1 ]
トウ小平氏は既に重大な決心をしていた。 # p: T- `' C! s 7 q7 g1 z9 K7 l+ S(伊藤正)0 }8 j3 v5 h! D3 E$ `0 J5 [' V$ I7 ]
8 ?) p5 I$ G% B! `9 o8 P
◇ 1 r& A0 Y7 v2 u! u& @ , r& u* J5 P% w/ a【プロフィル】宗鳳鳴氏 ' L5 @& _+ S# m {5 p3 o# @5 v' T
趙紫陽氏と同郷の河南人。航空技術畑出身で、元北京航空航天大学教授。80年代に国家経済体制改革研究会に参加、趙氏と親交を持つ。趙氏が天安門事件後、軟禁された1年後の90年7月から、死去3カ月前の04年10月まで、「気功師」として趙氏宅を約100回訪問し対話した記録本を今年1月に刊行。00年刊行の回想録でも、趙氏の発言を紹介している。 0 e) @' ~$ X' B- i- Q0 }7 ]2 i/ b: n2 j
●=彫の周が丹 0 {, ^' _ j7 B6 }" ?4 x9 h 8 T6 X5 v5 L4 y7 ^★=示へんに其 / W3 Z' Y- O a* a. g$ o: V* |, P' w/ t2 n
(2007/03/08)
8 O- ^. f( K: R X& K 「真相」によると、5月27日の長老会議で、「動乱」の平定作戦の実施時期が話し合われた際も、楊尚昆氏は「いつまでも引き延ばせないが、流血は絶対に避けるべきだ」と主張した。 5 `9 K4 a6 C8 r6 L1 r' Y- J+ W; W& Q* m! ^
陳雲氏は「流血は極力回避すべきだが、5月末には解決するよう」主張、トウ小平氏も「これ以上引き延ばせない」と述べ、政治局常務委員会に迅速な秩序回復を要求した。4 i# e- w& S- y. V
; q8 E! ?. M: o/ q1 ^
天安門広場では5月30日、中央美術学院の学生が作った「民主の女神」像が立てられ、市民の目を奪った。しかし座り込み学生は5000人に減り、大学が授業を再開する中で、学生運動は内部分裂し、消えかかっていた。& D3 f( I$ B, R
+ d2 y: {3 p" Y# F4 S3 I. H
それを立て直し持久戦をやろうと考えた知識人がいた。北京師範大講師の劉暁波(りゅうぎょうは)氏らだ。劉氏は社会科学院副研究員の包遵信(ほうじゅんしん)氏や北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)氏らに、リレー式で絶食をやる計画を持ちかける。 9 j; g+ B8 H# R5 x" N ! }& \, j" u2 M6 q+ Z5 \- _7 P 包氏の著書「六四的内情」によると、包氏自身は、この計画に反対だったが、王軍濤氏は賛成した。そして6月2日夕、劉暁波氏、台湾の歌手、侯徳健(こうとくけん)氏ら4人が絶食に入り、広場は久しぶりに熱気に包まれた。; w% [, }- p$ i) q) W$ w
/ O/ m0 U+ P! `3 l+ } その日の午前、トウ小平氏ら長老6人と李鵬氏ら3人の政治局常務委員が会議を開く。李氏の状況説明に長老らは激怒する。第一声を放ったのは王震氏だった(「真相」)。 8 t# R$ S+ \! s5 E6 M' | 5 }- o, D; a$ q; z 「くそ餓鬼どもめ。神聖な天安門広場をなんだと思ってるんだ。解放軍は何をしてる。反革命どもをとっ捕まえろ」8 N6 V& L \9 ]1 a2 b2 o6 [* H
/ E5 u) W$ ?5 ]5 U6 c
李先念氏が一刻も猶予ならないと強調、「今晩から『清場(チンチャン)』(天安門広場からの学生一掃)を開始しよう」と提案。最後にトウ小平氏が言った。 O, I& f$ \! K$ \' o4 s
' G3 F5 O! `' @ N- N3 G8 E( Q 「みんなの意見に賛成だ。戒厳部隊指揮部は今晩、清場実施計画を開始、2日間で完了するよう提案する」(伊藤正)* m* K! K' C8 q/ m
. `, J- D `% L ◇7 f1 ^5 V7 L7 W, E2 b
, t" S* W# {! n7 O+ g7 N5 u6 C
【用語解説】軍階級制1 q% u+ X- g* R6 x
) a) b. [1 s0 c; f% s; `) L 1955年に導入されたソ連式の階級制度。革命の功労度により、元帥、大将各10人、上将57人、中将177人、少将1360人以下、全軍人が階級付けされた。66年に廃止されたが、88年に復活。新制度では元帥、大将はなくなり、上将が最高位に。徐、聶氏以外の元帥は、朱徳、彭徳懐、林彪、劉伯承、賀竜、陳毅、羅栄桓、葉剣英の8人。 ?( S0 S3 A- m! B) B
. `) g" r4 U" I, W& b 「トウ小平同志の指示は、明日(4日)明け方前に『清場』を完了すること、万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよいという2つだ。流血を避けるため、市民への広報に尽くしてもらいたい」 - r- m. b, F2 @/ \& ^: f/ g+ b5 t; _2 ?2 D
楊氏は最後にこう念を押した。2 u/ M) R6 C* _! E' v
/ f0 R. a! N f0 S, l7 F7 O6 n 「各部隊に武器の使用は極力避けるよう伝達せよ。特に天安門広場では絶対に流血事件を起こしてはならない。たとえ学生が退去しなくても、1人も殺してはならない。これはトウ小平同志の意見でもある」 ; \1 k; o5 O9 \5 M6 i1 f! q: a6 i1 g6 C& ?0 ^
会議は3日午後9時から平定作戦を開始、4日午前6時までに「清場」を完了することを決めた。5 `- h0 s6 Q6 r! z
. [1 w; T9 `+ {9 I* \
3日午後6時半、テレビ、ラジオが市民に「反革命暴乱への反撃」を予告、「今夜は外出しないように」との市政府の「緊急通告」を放送し始めた。しかし市民、労働者、学生は東西南北の市中進入路に大挙繰り出し、徹底抗戦に出る。 ) q. T- W" d& `; N+ X1 q7 X- r* r; g9 R7 j6 G( I% ?
当時、共同通信の北京支局長だった私はその夜7時すぎ、車で街に出た。市東部と南部の進入阻止ポイントに多数の市民が参集しているのを確認した後、9時半ごろ、天安門広場に着いた。 _3 j% f+ K# F7 Q9 ]: F & D! f |6 H3 H; L2 b( T そこで2人の記者と合流、万一の場合の脱出路を確保しておくよう話したが、軍の市内入城は難しいとも思っていた。広場の数千人の学生たちも楽観していた。軍の発砲などあり得ない、と。( Y% ?4 A. x4 E [: P
1 |4 N; C. d I1 J# g 午後10時すぎ、1台の装甲車が広場西側の道路を走り抜け、何発かの曳光弾が上がった。広場が照らし出された。軍側が広場の状況を確認したに違いない。やっぱり今夜やる気だと思った。 . @+ G2 y# b7 k) M# Y & [0 o) B# e& ?& [, A, H 支局に戻ってほどなく、軍発砲とのAP電が流れた。急いで朝刊用の記事をまとめる。 7 ?5 i4 q6 X2 }4 a, b & c/ N0 l: c! h. [. [ 「戒厳軍は天安門制圧作戦を開始したが、市民の激しい抵抗に遭っている。軍が発砲したとの未確認情報あり」 , ^1 Q- r$ t, h6 q- {7 z1 k6 ^4 S# o7 l$ k) h1 [2 x, j+ g! b% t- n6 l8 R+ Q7 U
記事を送った直後の4日午前0時すぎ、西長安街西単付近にいたカメラマンから公衆電話で連絡が入った(当時、携帯電話は未普及で、カメラマンは持ってなかった)。 ! ]2 [- w" V e" p" A8 \; o$ D8 ?7 M* N+ O* c* t2 R. j
「軍が発砲した。市民はバスに火をつけ抵抗している。軍は天安門方向に向かった」 , \1 ?& W" m" F8 R9 u0 z' }' S- {' u6 Q/ M1 u- t
その電話より1時間以上前から、各所で「市街戦」が続いていた。楊継縄記者は自転車で各所を取材、4日午前3時半に新華社に戻る。その日の日記にこう書く。 2 ~* Z) h7 j0 z1 L 2 x( ~8 ^7 N4 N- `: Y1 B+ i9 x& W 「これは本物の戦争だ」(伊藤正)$ \) \, `: `! W% I
4 Q3 G `, Y5 @" v7 C
■反革命暴乱 人民日報の4月26日(1989年)社説以来、「動乱」と呼んだ学生運動を「暴乱」としたのは、公式には6月3日夕の北京市の「緊急通告」が初めて。「中国『六四』真相」によると、それに先立つ緊急会議で李鵬首相と陳希同市長が「暴乱」と呼んだが、楊尚昆氏はこのときは使っていない。武力行使を正当化するために、某長老が発案したとの説もある。 2 ^3 E: k- ?, L/ p% D% k; ~ W3 D
(2007/03/16 ) ; }6 {' V" _: `5 w
3 j7 |" G. T$ n' A9 N* Y3 Q3 m
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-3-16 08:43 编辑 ]
邓小平秘录:共军血腥镇压手无寸铁市民 % O/ @- S+ S8 i f% u4 e' d; ` 8 T2 A X4 ^" j6 F' Z' a" E9 R(中央社记者张芳明东京十七日专电)日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,中共北京军区主力部队于一九八九年六月三日晚向天安门广场前进,沿途对强烈抵抗的市民开枪。一名新华社现场采访记者曾在日记写道,那是场「真正的战争」,问题是那是场正规军与没有武器的市民之间的战斗。' Q$ [* z' I+ N3 n: ?% i! I
. I" b# g. R2 H「秘录」报导,以河北省保定第三十八军为主的北京军区主力部队在装甲车前导下于四日凌晨一时稍后进入天安门前,部队是于三日晚上九时稍后由西长安街西端公主坟出发,由于遭遇市民的强烈抵抗,前进至天安门总共约八公里的距离,花了四个小时。+ b. E. t4 |2 J4 q2 M$ x/ S/ R& X
% j7 M3 |; ~! C6 ]/ V0 b' ~ 学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。* E7 B5 _. E9 U/ c. V
* ?& U% B* Q+ S
「裏切り者!」2 Q, _% r4 x3 ~" {2 \$ A8 k
5 |4 E# }3 {* W R. e! F 「さっさと消えろ!」 9 [" H+ Z; u6 e( ^8 B/ v& [$ {! L, ^
劉暁波氏らの演説も効果がなかった。ほどなく数台の装甲車が現れ、「直ちに退去せよ」と実力行使予告がスピーカーから流れる。侯氏らは発声投票を提案、賛成多数で撤収が決まったのは午前5時前だった。% }* S. w d* b( W6 w: i" D6 T
6 p) I+ ?+ y3 O9 E2 k6 v b' ~ すべての学生がインターナショナルを歌いながら退去を終えたのは午前5時半。学生運動の発火点になった胡耀邦(こようほう)氏の死去から50日目だった。 " u- j3 m# \! a* O% ~% C* ?! K3 F' n, n1 ^" z7 j) P# U1 w/ `
天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。" x/ g# ?' l4 L; o
9 s+ S- B4 h+ X, O' `
「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。# X }# z1 N- C' t" d. B
4 g0 W" b$ A' v- s 天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。 5 c& v( t; P I. Z0 D/ v) m' C/ J6 F, _" `2 \7 R
トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。0 h l3 U/ J) ^, a3 l4 e
* Z& V0 u7 w* p' z3 f- ^$ @( p(中央社记者张芳明东京十八日专电)日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平推动改革开放,但坚持共产党独裁的毛泽东遗训,天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败运动被卷入中共保守派和改革派之间的权力斗争,而招致最后的血腥镇压。5 w% d' Q+ l, K( n4 \
% d. W% |. [0 E- i2 T0 A
「秘录」指出,一九八九年六月的天安门事件今年将届满十八年,中国不知道「六四事件」的世代增加,北京市民也将当时的体验关闭在记忆的抽屉里,中国媒体在上个月刊登邓小平去世十周年的特别报导都未提「六四」,有关人士指出这是中国报导管制的结果。+ `3 L- g: {. e' w3 p! t" H9 F
$ ?- b, ^$ I' w6 u8 T( ?邓小平在天安门事件后的一九八九年六月九日接见戒严部队干部致词时指出,这次的风波迟早要来,那是由国际的大气候和中国本身的小气候来决定,不是人的意思可以改变。+ P$ s2 I. c( T
. U0 @- x( S) l$ ~2 U M: Y, x; _6 ^
邓小平所提的「大气候」是指一九八零年代后半,戈巴契夫的上台加速苏联和东欧的民主化及政治变革的潮流,「小气候」则是指中国自一九七零年代末期改革开放以来,政权内外升高对同样改革的要求。 # j8 S4 b4 K! a7 s* Y3 E6 X # W, j6 Z/ l5 p5 z一九八九年东欧的社会主义政权相继崩溃,一九九零年苏联也放弃一党独裁,次年苏联瓦解,但是,邓小平与内外潮流背道而驰,以武力粉碎民意坚守一党独裁的社会主义。他在接见诺贝尔奖得主李政道时强调,中国包括共产党领导的四项基本原则,指责胡耀邦和赵紫阳未实行而犯错。- l( E9 M& c8 R+ H: R0 S) {9 H
3 ]) g7 _2 b. @3 p( Y* q/ y
邓小平推动的改革开放政策是以市场经济化和国际化为基本的经济建设,与毛泽东路线是不相容,但是,他坚持的四原则就是毛路线,特别是核心的「共产党领导」的一党独裁是毛遗训,成为保守和改革斗争的种子。3 j% F( k5 I) `& ?5 ?
9 F' m: X- n z% Z0 u% u5 a
一九八零年代,中国的经济和社会出现激烈的变化,人民意识思想倾向欧美,但是一旦发展成为对党的批评,邓小平和保守派联手以四原则为盾牌展开镇压,为的是坚持政治权力和生活特权的金字塔型党统治制度。2 O! J1 v0 o- V! b/ i; g' \% |
# T$ q5 }/ y3 K( P2 Q; J w在一党独裁的制度下,一九八零年代官僚腐败大增,一九八九年四月胡耀邦去世后引发的学生运动除要求民主化,也反对腐败,邓小平等元老和李鹏的保守派将之视为企图颠覆党领导体制的挑战。2 `. l; N& }9 W% c% B. o7 A
1 x( q% j6 A6 \
天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败的运动被卷入保守派和改革派之间的权力斗争,不少人认为邓小平是被保守派的谋略所利用。邓小平为何对民运决定使用武力?尚有值得检验查证之处。. {' B; \7 Q1 c) L0 K/ m
4 j# X: O4 U7 C0 f+ Y
; v6 Y( b' V. _! P" I+ b
【トウ小平秘録】(32)第1部 天安門事件 独裁堅持 8 [6 N+ i0 @ i- u% X; Z! M 1 N8 m7 X' q7 [' |6 e; X 1989年6月の天安門事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。1 Z: x, v* `8 n; x+ x* m
& x- L7 l6 n7 y 胡錦濤(こきんとう)国家主席(党総書記)が2004年8月のトウ小平氏生誕100周年大会の演説で、「80年代末から90年代初めの内外の政治的風波」発生時に、トウ氏が果たした貢献を指摘したことは本連載記事で既に書いた(2月15日付朝刊)。. p' k I6 P$ ]2 K A% z3 n! j. o
) e1 ~8 t9 w9 T/ P) h トウ小平氏自身も89年9月16日、ノーベル賞受賞の米国籍物理学者、李政道(りせいどう)氏との会見でこう述べている。 " T/ C1 U- V! Q9 t# L, Q* \' v" M) w1 w 1 b @0 ^* z9 A; |3 Q/ _/ |* o; ^ 「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻) . j) T( K. Y+ ~* U5 s# l! b3 D3 r ! z8 F0 a+ G# I& O' W8 @$ Q その結果、「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。 2 Z& a" I+ U t' A $ n' [$ X- @% d( x5 _1 \8 g トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。 % y4 {& \5 x+ p: V. b, Q 8 B- m4 a8 `! t9 V! H u; c8 h2 g 「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」; w9 I& O" g0 n
4 ^6 _& l2 L# S" t) t 「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。) k* z- D. h) B8 h+ ?( F5 a
! c5 I* n5 R2 T: \( a+ f1 Q2 S7 T
89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし、一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。: X/ b' w7 Z+ m3 Q( J" ~$ f- w8 {
0 D% \$ A4 K: v h4 r4 N, ~
トウ小平氏は先の李政道氏との会見でこう話す。% J l7 L5 K4 y) [" m; r+ o! t
! q; ]& c2 J/ r; @" m+ W0 j 「過去2人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。4原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」 1 G" p3 K( c z" q( F! H 7 q: }. y+ t: g5 ] X! {◇' n' M6 k0 S. O" O3 V) L) x
5 l# m% K% _' _: G( L
毛沢東遺制は守った , j' n+ L1 l8 u( I$ A 9 W" p" y' X _3 Z2 w トウ小平氏は天安門事件(1989年6月)後も、87年秋の第13回党大会で趙紫陽氏(天安門事件で失脚)が読み上げた政治報告は一字一句も修正してはならないと強調した。報告は、中国の社会主義を初級段階と定義、経済建設を中心目標にし、改革・開放と4原則堅持を基本にするとのテーゼを打ち出した。これを「1つの中心、2つの基本点」と呼ぶ。2 c# s- W2 V2 c+ G5 O8 u
/ t, I4 B/ y, _9 C$ j: P7 v; r
改革・開放は市場経済化と国際化を基本に経済建設を図る方策だが、それは毛沢東路線とは相いれない。ところが4原則は毛路線そのものであり、トウ氏が4原則の核心として挙げる「共産党の指導」、つまり一党独裁は、毛遺制だった。相矛盾した2つの基本点を並立させたことが保革抗争の種になった。 - J. @0 q1 ?" i% _; I y6 y0 C7 }+ Q; ?0 b2 g& f! j% [ 張良編著「中国『六四』真相」によると、学生、市民のデモが「老いぼれ独裁者はやめろ」と叫んでいた89年5月19日、トウ小平氏は楊尚昆(ようしょうこん)氏にこう話した。9 C7 Z' J. J/ q m2 j: W) r8 e
. c6 M! T+ |2 S7 L( q$ s: w
「わしは年を取った。老いぼれといわれてもかまわない。だが、この年にしては思想が保守的だとは思わない」 % A1 b3 C4 r) r O! o6 K6 E( T4 H, B9 R( U2 \
今日の中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。 ! W7 c. A% J; ?( _" J/ v' S) F& m9 U D3 A* ?
しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、4原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。6 s/ Z. e, j2 x" r5 \, A
+ ?0 N& ?, }% ~/ q; f その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。# D! v8 k$ j. n2 f7 H, T. s
& N# C% a( @+ `' @9 w
89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。# u7 R; q; y4 | q$ G
4 E; P ]# y9 x( C6 c( f- k* I8 D 天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない。 ( T' ^- f# X4 C ' {4 J0 R) F ^# C$ k トウ氏がなぜ武力行使を決断したかは、まだ検証すべきことがある。第2部以降の課題にしたい。) |+ {# `1 E9 v' q; @$ }
1 r4 `; W3 j U
(伊藤正)$ R4 k: @. H: J5 z7 _. b; N p
; Q, z" D+ L. ]2 Y1 u+ k8 G+ Y
=第1部おわり m$ L! C: Y/ P* Z6 M0 G' X+ R" H+ C0 I$ U X- N: c
◇! a6 {1 s) {. h2 N. b. R9 X
. W! x2 c( o) J' B9 _/ R; u r
■伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。( _( p! R: v6 Q0 s6 `2 q
【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行 . I4 p5 e5 z0 H- ~$ B/ b) p
3 f a3 p; `! L( h, P春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。 4 B" m7 E6 ~2 ]0 s& Z- M / R1 B8 y( L) T' b4 X& T* `- a8 ]' ~6 L" v( A1 ^/ s+ v' f
期するものがあった5 _1 N. u. Q" N
H9 v; `4 A& S, _7 J8 ?
普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。0 @& j; b" J" M, z% u- x' ^3 m& J5 S: O
% e. f" ^3 x3 O+ Y) m
午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。6 R T# ~2 Y+ M9 v& X+ V `
6 R9 K- X/ Q/ `8 T$ U
緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。 $ c: T4 [1 u' u) k" o% m! { h( b0 T6 ?$ P) Z' r8 z 2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。 & S' x" [9 U- K- Z; k. C) _% G* O T, a6 @7 x( z h0 x
「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」 $ R9 c% }/ l3 i4 Z$ a1 i! O) X: Z 5 s7 h3 w3 {! c6 N: N トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。 . M/ s* Q: B+ Z% ~5 h q# P0 L / \0 N$ r6 _, |9 ? 引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。- x& m2 P0 X9 |
3 p2 z& c P0 k& K8 C$ H7 L# q
トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。7 G% h- G$ I# p7 V- w; F
, r0 G; I0 F& ` |, H ≪天安門のツケがきた≫7 ]" r/ @. ?! W: f. L
" I ]" f* m7 H* s2 w# Y
元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。 $ H+ Q6 T! P9 e% }0 h. y( [) h' Z3 l% q/ U' w' z
「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」 . }8 B" c! l% @5 k5 f9 n+ L2 e; i! ? F, l- z
広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。1 `6 K/ [$ G" F2 D
$ L4 J! g8 |" I( f( d" g9 l
「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」9 E) A) G1 e0 Z' N
$ j) X; w! J5 e( }/ y% L 1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。 : }* n ?; ^% \4 e / g2 Z% e: D4 s 身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。4 r( k& O; K0 r$ s# Q& ^
6 D6 l9 v( ~6 [. W
しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。1 n) v$ U5 Q9 n' }+ R. a% {9 D
8 `/ J% a w* _* Y. i) [/ n トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。 9 k$ @5 J6 X& J) r ) [% C) f0 w% F4 o8 O, g) P. p8 p; R 天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。 " X( u l% Q3 i" d" |4 E( V7 K/ Z + e9 U! {1 j% G. z7 h! E8 H 計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。 ' p$ Y) R: E, F+ M* I+ C9 E% M$ h+ K1 b! N4 r
その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。 % O P" _- D; e3 Q/ s ' m- w5 Z/ n) z% O; @3 } トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正): Y4 u6 m& c/ b! `/ q* h( i- B: @
7 t2 ?! W" Q& p% H8 B% d■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。 ! v5 c9 |) M5 ?% l - l7 J' d$ v: C' ?$ Q+ E' H5 _1 a& R s! z" I
第1部あらすじ: q- g# a/ S4 D# e
U3 D; i2 A+ w( ` H 死者が少なくとも数百人にのぼったといわれる天安門事件(1989年6月4日)は中国現代史の大きな分岐点として後世に伝えられよう。4 b' ^( |1 N8 c& H1 f8 u: M( Q
R* z. z- U6 W# D# |# f6 Z8 g
「トウ小平秘録・第1部天安門事件」では、トウ小平氏が、なぜ人民解放軍を出動させ、デモを続ける学生や労働者らを武力で鎮圧する事態に至ったのか、背景を掘り下げた。1 u# `# A6 [6 d
8 R5 J6 M, j6 | 89年4月、急死した中国共産党の改革派指導者・胡耀邦前総書記(肩書は当時、以下同)の追悼集会を契機に、北京の大学生らは天安門広場で集会を繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。党指導部内では強い姿勢で臨むべきだとする李鵬首相・長老ら保守グループと、対話による解決を主張する趙紫陽総書記ら改革派が対立し、深刻な権力闘争に発展した。8 x1 N3 p* c' K) M- W
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 1 a8 e: Z! F' d( V* _' ~. [2 a+ l! m* P
1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。 1 w9 v) o& P! i " P2 U4 o/ `. _5 ~. r) l3 S e 米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。 6 p; A$ Y1 e$ s% x$ J, ~ [4 ~9 C+ ]9 i; g* } 本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。 / J; g+ `- ?0 L3 g- ]! B/ m& p . K; G8 _& z# m しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。 3 b9 t7 o# A7 Z + Q/ t+ D# y/ d( u$ F- e1 y' ? 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。5 x) s# x _- R; b1 P
) i% h4 @) c7 ?% v 私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。& K$ O2 T! x! W d& H |
4 Y9 O! S$ y9 p2 b1 L その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。* c2 w5 j) f; L
- E& [3 v( u* i, `+ d2 S s c そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。 $ T% |) w4 D. }( E, z" Q8 O, F. J2 A1 s- D0 S( b. P/ S+ B& l9 P
一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。 & [. d3 I, P% Y 2 C: w" l! a* y べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。2 C% w4 k! C2 h1 e, t
2 p: Y% w# x; @$ k
トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。$ _$ S2 j4 ^3 T h( J7 O
# ?9 A" f4 ?8 d$ ^. m) {# |) S% g6 r; z8 X- W% K2 M/ F ~
% U" e3 W ~! }/ O, H しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。/ |3 B, ^ _7 }( @2 K
6 n- I+ a% ~) j+ v8 I T C* U
ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。7 Y. n/ o2 @% B& r1 N
" k2 v6 P& X( }, n
ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。 1 o8 J) Q6 T% ?2 j! S" C2 Z* r" B8 b4 h9 F: c3 H; r! Y0 t
「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」8 A% Y# t+ |5 w
2 p, z( G: m; s5 j# ^8 L u9 d 中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。 ' [; a7 n- n. F6 h 3 D/ m2 A( j7 c2 F2 G. F トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。/ m: y! f1 o) d& A; q. }
' j( ]+ `, A: Z& ? 「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」 6 |6 t% |& |6 U: p1 K$ P. A4 r/ |- w1 }# V. H
米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。/ G8 A% @( Q$ p- F' M& w
- ^2 m' b% h9 L- @
北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正). x. d v1 v$ i/ N; G2 [% f- S
, k; h$ }- R) O; ? p# V
1 C% e! Y, y: P# @
◇ / p" \. @) u% E+ c4 ~+ n 8 {- d* _6 {& J6 Z ! W z: {3 p' }# E D* V r【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。/ a( ]/ [3 P+ O; X& i4 z. Z
, X6 r/ U' q! ~& I# i: D ●=深のさんずいを王に, a% c3 R, o, H5 z# c7 f
3 E7 u( E; H' T2 G+ p/ ^# d
% f) z4 u3 y1 F+ K5 {5 C0 l+ f! p
) J3 \% ~* I# K天安門事件の直後、「トウ小平氏毒殺」「軍はすでに内戦状態」といったデマを報じた1989年6月7日付の香港各紙 ; z, X8 t1 Y9 j K 5 g) B+ X; X5 `5 \/ O& a. l$ B' n6 O
& Z# O6 ?& n( W/ E) e7 @& l! X7 ^
1989年12月、北京の人民大会堂でスコウクロフト米大統領特使(右端)と会談するトウ小平氏(左端)。当時「天安門事件後初の米特使訪中」と報じられたが、実際には同年7月、すでに会談していた# `+ ]8 X" W3 S+ q f7 t
$ z8 z( Y1 Y% f' I弾圧も正当化される; q* c7 E5 [4 u. a& e
, L' U( E6 B: J( h" p
外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。8 T" G' ]& _1 [& m3 y% R/ D
* n) j1 k6 k9 q1 q
後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。8 s1 b* Y, m. J6 W
6 i a( ?. ]9 M2 M" k- s 理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。0 m5 A6 U2 j5 S; W! k
( y3 q5 O v2 |0 R1 M 「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。 ' S* s' V6 |7 K1 g3 a - v+ B+ L/ z$ g; U& x( F そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。 0 x2 X6 _; V$ { : y7 {" C( Q% b/ G# L; e7 q" X' v (1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。 3 M$ C9 d- X) w. ? 5 Z& }0 S/ S2 i# l w* r0 C これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。4 A# |7 {& C9 W2 C0 D* P
: Y6 o; P- |, n! y: e3 z- o r8 w$ D
理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。9 L% t& w! ~8 N
% O h. [1 N( Z$ a' V 天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正)+ Y! P1 D0 Y" B0 b
1 e( p, B3 R0 f3 P/ ~; U* S- x
■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。 ! r& y" y7 x& k+ ^9 g- l3 J( ]" U. Z7 O! Z
7 i: E5 @: k: Z; u. p+ D●=深のさんずいを王へんに( F' W4 u. c1 Z! G Q+ x! W& K% h
: W. j& ?! v2 S5 w9 C. V5 n D
天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時) ) U! f1 i4 D3 ^, J- j; Q0 U4 v t 7 p, o/ P' Z2 X+ u) u, D# \ 7 \, R/ D" V' d) ~6 R* ~1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した