7 b N, g1 j9 O) c$ X$ R# X' U: Q/ Y 对于《产经新闻》选择在此时发表《邓小平秘录》,旅日作家石平向本则表示:「多年前《产经》就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎,这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。」 ) A1 g `; F8 r8 S
: i8 g# @% _' C6 @/ x
与《产经新闻》有合作关系的《日中通讯社》社长原博文表示:「《邓小平秘录》这本书是以六四天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始。现在连载主要是与温家宝要来日本有关系。在对历史的认识上,中国人与日本人是有很大不同的。」 ) `; ^: i) C" s0 k* ^7 `
1 q% r& W! {+ f-------------------------- 5 r. x d6 {- j( y- ^3 _& c4 o& D& D5 |
日本产经新闻 9 L7 V; f |+ A# h4 s8 o6 R6 X# Y) F
【社告】「トウ小平秘録」 改革開放の実相 2月14日連載スタート 4 h( l' ?; `! }0 N+ H ( V2 Z! F7 U$ y産経新聞の新たな長期連載「トウ小平秘録」が2月14日付からスタートします。 ( F, g% t! L4 Y. L* s: l* d 6 ^* R8 a$ i/ T/ d1 X: [ 1兆663億ドル(昨年12月末現在)という世界一の外貨準備高を記録した中国。この経済発展の突破口を開いたのが、トウ小平氏(1904~97年)でした。今年は没後10年にあたります。 6 y U I% L* I( E7 ]# T , C% f9 P- ~; P6 G 毛沢東以来の中国共産党内における激しい権力抗争を生き抜き、事実上の最高指導者にのぼりつめたトウ氏の波瀾(はらん)万丈の生涯は、中国現代史そのものです。3 B3 B6 p, Q* q& j" e* \
$ t/ B5 L; r. U
トウ氏は政治面で社会主義と中国共産党の指導性を強調する一方で、経済面では生産力増大を第一とする独特の理論を唱えました。文化大革命時代の失脚を経て権力を握り、改革・開放路線へと大きくかじを切った決断が中国の驚異的な成長をもたらしました。 Q' D+ P+ E1 _) s7 Q5 b7 J
8 m/ @4 {! [3 l1 J
半面、膨張経済は都市(富裕層)と地方農村(貧困層)の格差拡大や環境汚染、さらには官僚の腐敗という矛盾の拡大を招いています。世界規模のエネルギー獲得戦略や急速な軍備拡張路線も気がかりです。こうした現代中国の実相を理解するには、トウ氏の足跡をたどる必要があります。% ?4 ~: o3 w3 L# I3 J7 b
1 V# u; C% E2 P+ ]! s; X3 x) c* k
連載は伊藤正・中国総局長を中心に複数のスタッフが取材、執筆にあたります。第1部の「天安門事件」で、トウ氏がなぜ大衆を弾圧したのか、背景を掘り下げるのを皮切りに6部構成になる予定。ご期待ください。 5 Q! ~, L5 M+ }! P 9 f* X' ~6 v! Z$ E% q: b! g(2007/01/26 07:27) 1 u; A1 d4 @& g: A4 c0 ]7 c * T S1 ~+ g3 U[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-15 11:39 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:48
日本媒体连载《秘录》 盛赞邓小平有远见 2007-02-15% m/ i7 R+ W. q
4 O% b1 h8 E+ o+ y. I( D【星岛环球网】在邓小平逝世十周年(2月19日)来临之际,日本《产经新闻》从14日刊登《邓小平秘录》序言,揭开预定15日开始连载的这位中国已故领导人秘录的序幕,这家报社将把秘录分成六部分进行连载。 3 I* b% J& ~$ O( x - y1 N- D+ ~6 Z) f. y/ i 香港《文汇报》报道,序言简述邓小平的生平指出,他从十六岁前往法国留学后未曾再踏进四川省广安的老家,家人之中,也只有三女邓榕在1989年才初次访问老家。邓小平讨厌个人崇拜,批评为出生地图利的作法。 7 k1 W: F0 V y+ ]" ~, t 3 {& T) Y+ p0 D3 |' h0 i; ] 文中盛赞邓小平富有远见,形容他是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等地设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的“一国两制”,成功恢复对香港的主权,并作为呼吁两岸统一的武器。 8 A- Y2 R7 N5 k6 E. G1 v
9 l/ ?5 p8 W! d7 n' q6 b 邓小平离开人世将满十周年(2月19日),对于这位世纪伟人的十周年冥诞,邓小平三位女儿邓林、邓楠、邓榕透露,十周年当天,邓家众子女将在母亲卓琳带领下,用鲜花花瓣洒遍整个院子,以这种简单而独特的方式,来纪念邓小平。邓家的这种家祭方式从邓小平冥诞一周年时就开始了,至今已持续十年。 2 g* `/ j/ z( f0 N / n9 }$ }9 K( F+ j! w7 V1 \1 M2 O 邓小平大女儿邓林说,父亲生前特别喜欢花草树木,无论家居京城还是外地,都会在院里院外栽满各式各样的花卉。在他晚年一直居住的院子里,更是常年鲜花盛开、草木繁茂。“而且,对任何花草树木他都喜欢,几乎没有什么偏爱。花开的时候,见到什么花都要上去闻一闻,乐在其中。” 3 j; T* x/ M! A' L- [ 0 S E8 }0 ^: ~6 f 邓林说:“父亲的每年忌日,母亲都会带着我们在院子里洒鲜花,为的就是让父亲闻着花香‘回家’看看……”她相信,虽然父亲离开她们已近十年,但只要一闻到花香,就会知道家里人在想他。 / J0 D- E: o' V ) O! i# `" [# t' j, C* w 与邓小平一样沉默寡言的邓林透露,正因为父亲酷爱花草树木,从小就喜欢画画的她也深受影响,后来所形成的风格就是花鸟国画。她告诉记者,父亲去世后,她为父亲画了很多不同版本的国梅,“他喜欢梅花,更喜欢梅花的个性。所以每当我画梅花的时候,心里都会自然而然地想,这是为父亲画的。” / Y l4 e3 H8 e/ O% @, Y
1 J1 Y& l& g+ N, ?% i i8 T 邓小平次女邓楠如今已是中国科协党组书记,官居正部级。这位从小就是邓家“小管家”的女部长,对纪念父亲冥诞的方式有着自己独特的见解。她说:“忌日采用什么方式来纪念父亲并不重要,重要的是他一直活在我们心里,我们经常都会想起他。我们一直用心来纪念他,这就是最好的方式。” " O* L' p2 ?* v ` r- s 2 {. ^$ J7 ^" ^. y( a1 Z 而邓小平晚年时候一直陪伴在他身边的小女儿邓榕(毛毛),如今提起父亲,思念之情依然溢满双眼。她说,她对父亲的怀念不会因为时间长了而减弱和变淡;“这种怀念是永恒的,化解不开的。爸爸离开我们已有十年了,但这种思绪随时随地还在伴随着我。今年是他离开我们十周年纪念日,我对他的怀念更浓烈。” 8 A. ~3 h1 a5 c# C
# D8 E- R. R( D A" f" ~4 H+ \0 { 邓榕曾经这样描述自己对父亲的感情:“如果问我们生活中有哪一部分能够剥离出来跟父亲没关,我可以告诉你,没有,不可能!”作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:56
邓小平秘录:杨尚昆承认64事件犯下大错 1 h% m& Y q# O2 r- O* R9 a9 J# w/ P2 a
日本产经新闻今天开始连载“邓小平秘录”,首先锁定一九八九年六月震惊全世界的“天安门事件”。文中指出,邓小平至死未对武力镇压一事留下反省或悔恨之词,但是,当年参与开枪命令的现职国家主席杨尚昆则在生前表示反省之意,承认共产党犯下最严重错误,早晚必须加以纠正。8 H" y c' n# u: ]1 W. R
6 C `) l5 U, A8 x( B( t文中指出,二零零四年二月,暴露中国在前一年隐瞒国内发生的严重急性呼吸道症候群(SARS)的军方医院医生蒋彦永致函给温家宝总理等人,要求重新评价天安门事件,信中提到的新事实引起瞩目。 / N# m: i" C. ]4 {' l: E; L ( V# c5 Q5 M+ J# w% G& s- S3 o6 w; M报导指出,天安门事件发生当时,参与开枪命令的国家主席杨尚昆在一九九八年死去以前,曾向蒋彦永说道,党(在天安门事件的武力镇压)犯上历史上最严重的错误,早晚必须加以纠正。杨尚昆表示反省之意似在一九九六年左右。3 r9 }& D* T& @% u
+ J+ ?+ p: j, o2 H8 d
当年学生运动领袖之一的吾尔开希(事件后逃出中国)曾向产经指出,邓小平的长男邓朴方曾为避免流血事件而行动。北京在一九八九年五月二十日发布戒严令之后很快地,邓朴方担任主席的“中国残障者联合会”有四名职员前往天安门广场访问学生运动指挥总部,指出邓朴方为避免流血,希望和学生对话,要求派遣学生领袖出面。' Y! o. k0 F8 V) v3 @; [- Q0 V: T
1 ?5 `# C: l4 \, o% R3 w
“联合会”一名职员被留下来作为人质,吾尔开希本人则在一名学生的陪同下前往“中国残障者联合会”。应对的“联合会”干部向吾尔开希表示,政府势必动武,若想避免流血,将安排和主席的会面。吾尔开希是由于邓朴方表示想见学生领袖才出面,这名干部的发言与此有违,结果他未和邓朴方见面而离去。5 [) ^+ `6 I5 d9 `3 b
# k, g: u' P" j4 Z. h2 n& _
吾尔开希表示,邓朴方派遣职员向学生运动总部转达的意见应是真的,但很快地改变主意。他猜测邓朴方是判断流血已不可避免。邓朴方虽未曾作何表示,但或许已知道他父亲的坚定决意。 3 H1 h* H. U' m4 |$ n8 j: W; \9 \* O9 L8 `- k1 E9 d
文中指出,一九八九年六月三日晚上至四日凌晨,中国戒严部队对学生和市民开枪,造成三百人以上死亡的事件震惊全球,中国领导阶层完全孤立,改革开放停顿,中国陷于混乱和分裂的危机,这也是在武力镇压扮演中心角色的邓小平的危机。! x2 W' U4 A' n5 {6 ?2 _; b
J; j% Q+ m6 T; \" I1 T8 _
中国后来的发展使得事件后的政权都肯定邓小平当年的决断,至今中国国内除公式的见解外,不准谈天安门事件,要求对该事件重新评价的人士都被置于严厉的监视下,当年支持学生运动而被解职的前党总书记遭软禁至死。一名中国老记者被引述指出,事件遭全面封锁是由于政权内部有看法认为大量杀害人民是作得过火。; K( P( T9 Q8 l" g0 i
3 M0 q( w4 r) c. z+ g1 b
文中指出,天安门事件后,中国虽经济发展,但为贫富悬殊和腐败的蔓延等严重的矛盾而头痛,该事件是政治改革受挫的主因之一,胡锦涛政权背负着邓小平留下来的正反两面的遗产。9 j. @; p) p j: q; }
# P: f% p1 w4 G B0 u中央社东京十五日专电3 S" S9 G# }8 k7 S! C
/ G- Z7 C/ a* L------------------------------- U9 h5 j$ q2 y# D& L' _1 y' H' s ^* ?
7 E1 _5 a) U$ |8 f3 ?4 ]% w* y4 ]/ Y. l
日本产经新闻 8 w7 ^1 y5 M; T% H+ R1 K4 M) ^2 `6 ^# D6 ^
" X c% u" i4 @& L! T" P: c
【トウ小平秘録】第1部 天安門事件 格差と腐敗の中華振興3 t( A3 D3 \8 T4 @+ |
, Y; c- U: }3 s) ]. H& D! W& q武力鎮圧の残影 # c5 Z0 i8 v6 h f5 q( j8 G4 F : P# [ D3 q4 } V; X7 J3 ` 8 C* O6 k& M4 b% Tその年、15周年を迎えた天安門事件である。 % F7 ]: h; R- D. r , \, q# e+ [ T" j, j k2 V 1989年6月3日夜から4日未明にかけ、戒厳部隊が学生、市民に発砲、300人以上の死者を出した事件は、世界に衝撃を与えた。中国指導部は完全に孤立、改革・開放は頓挫し中国は混乱と分裂の危機に陥るとみられていた。 H. ?/ M8 w1 k/ t. b _0 ~. V! g/ E) H8 O; J- B5 n. `
それは、武力鎮圧で中心的役割を演じたトウ氏の危機でもあった。 4 ]6 H9 C. P% Z' O) Y: @, S' m' w* X. a# o
が、中国は事件後ほどなく驚異的な発展を始めた。01年には08年北京五輪の招致に成功、世界貿易機関(WTO)加盟も遂げ、国際社会で重要な存在になった。事件後発足した江沢民(こうたくみん)政権も、その後を継いだ胡錦濤(こきんとう)政権も、トウ氏の当時の「決断」を評価し続けてきた理由だ。3 ?. ]8 [6 m# W0 T( k2 c
! d# S" h5 \- L0 w% U9 G
04年8月22日、北京の人民大会堂に6000人余を集めて開かれたトウ氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤国家主席はトウ氏を賛美する演説の中でこう述べている。 ! p v) L2 D* V3 t0 y+ J8 R. M
「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」9 C+ Q; x! e3 U/ m/ U& S. E
3 X7 V" L2 g0 c: P+ I8 ~
同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。 9 q* L* z: k1 x. q + t4 g6 c! r1 c 中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。 4 ^8 C0 }4 n0 U- s) L( _$ v 4 V; e+ O+ z8 X9 D 天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。- }, t4 D0 u% T7 _- O& R& ?
% l6 F# s( T' P/ {' d8 o: `( _
なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。 4 |) i: X$ `: w2 l1 ^0 p2 ^5 u3 p
2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。# T0 d" C+ F9 S* j& w' x. M
" m7 q0 p# ~4 _' u, B/ K
天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。 5 ~! A, g6 _6 H/ Y# J) D I7 x9 x2 Z# T F2 i/ w5 ~
事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。 : x9 T+ H3 t: W; x$ n( w & J2 k# h3 s, J: Y3 a/ a! p 同氏によると、戒厳令布告直後、樸方氏が主席を務める中国身障者連合会の職員4人が、天安門広場の学生運動指揮本部を訪れ、「主席(樸方氏)は流血回避のために、話し合いを望んでいる」と学生指導者の派遣を求めた。* Q3 X/ V9 S6 r0 q/ O G2 R
7 N0 d% [& j( Q4 {2 L, M% u; P! i# R" s 職員1人が人質として残り、ウアルカイシ氏自身が学生1人を伴い身障者協会に赴いた。/ d& O. _8 l4 W4 h8 S. \
& L+ ?. p* D1 p5 S$ K+ k" M 応対した協会幹部は「武力行使は必至だ。流血を避けたいなら、主席との面会をセットする」と言った。樸方氏が会いたいというから来たのに話が違う。で、ウアルカイシ氏は樸方氏には会わずに辞去したという。, l! e+ C0 N) Z( d) _
! _9 \* r/ f1 N0 o5 W
ウアルカイシ氏は「樸方氏の協会職員らに託した意思は本物だったが、急に翻意した」とし、流血は不可避と判断したためではと推測する。樸方氏は何も語っていないが、父親の固い決意を知ったのかもしれない。4 Y+ Q4 f$ E. I* S( B( D
+ |. ~" r5 g' L0 L8 h 天安門事件における武力鎮圧は当時84歳のトウ氏の人生をかけた決断だった。「中華振興」の夢実現に、一党独裁下での経済建設が必要との確信に基づく。97年2月の死去まで、武力鎮圧への反省や悔恨を示す言葉は残していない。 : `8 [' a3 {" k8 {$ z5 @: I ' j* K9 W- U( H( M a 事件後、中国は経済発展の一方で、格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)など深刻な矛盾に悩む。事件で政治改革が頓挫したことも要因の一つだ。胡錦濤政権は、トウ氏の正反両面の遺産を背負っているのである。(中国総局長 伊藤正); I! u/ G/ n( C. V5 Y: Q! W6 W
0 X/ s. f' c. J5 S5 H
; y/ | L( t9 U! Y だが、家族や関係者の証言からは、家族を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。7 k. P ]/ {2 {6 s: T
. i* M4 X) a1 j. ~! I1 y% W F トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにする理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。 T9 w! I) B' a9 d
4 l% ?6 x" i! U 4 L5 Z4 {( G! X8 \, x3 J 4 q3 e7 e, S& q5 G/ n+ o+ U& e$ R; [矛盾生んだ「先富論」8 e3 M4 y/ c. B& l. X* N: ]
- U# K+ \! g5 @, ?+ z
トウ小平氏は着想力に富んだ現実主義者だった。改革・開放の初期、深センなどに4つの経済特別区を設け、市場経済の実験場にしたり、19世紀末以来、英国の植民地だった香港の制度など現状維持を認める「1国2制度」というアイデアを打ち出し、主権回復に成功したりした。 K1 G& ]: P7 j& X( _ ! g! G. ^1 y4 X! W それは、台湾への統一呼びかけの武器にもなっている。 9 p" |) C. {( ~8 G% _6 S9 j1 l! {# l" s2 E9 y$ W6 N
1993年9月、トウ氏は弟のトウ墾(こん)氏と会話している。トウ氏は、天安門事件(89年6月)後間もなく引退したが、事件後に保守回帰が強まると、南方視察に出て、改革加速を号令する南巡講話(92年)を発表、経済を成長軌道に戻すのに成功していた。. T1 H3 q9 i# \
: q, {% P1 P7 A' ]& D トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。0 T, I9 _3 f( ~
% S' t% ]! z5 h* C9 N
「富をどう分配するかは大問題だ」 * @; B+ V7 S! {7 _0 u, s" H ) q9 _7 `8 J5 d' g$ N& q5 ]: f 「この問題の解決は発展を図るより困難だ」( {, E, ?5 k/ t0 @. P' A& t
* P( I) F' ^3 B; h' i 「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」 0 W+ B. K1 i* F( ^1 K$ |/ m # s) x* w: f% j& N* e7 m' A トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。, V2 N, w9 b1 u4 S, ]
|; j! J5 T) s2 n. N トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。 ) a# l2 p: U: @& t, R5 K 6 c; v2 x! j$ q/ t3 r# ?6 B! E 経済に関しては、社会主義の枠を突破する革新派だったが、政治に関しては確固たる保守派だった。理論面にとどまらない。トウ氏は、路線上のライバルだった陳雲(ちんうん)氏(1905~95年)を含め長老との対立を避け、長老政治の頂点に立って権力を振るった。政治改革を志向、長老と対立した胡耀邦(こようほう)(1915~89年)、趙紫陽(ちょうしよう)(1919~2005年)両総書記も切り捨てた理由だ。; r$ ?, f/ a/ L- i# z
邓小平秘录:方励之公开信引发保守改革对决 & o$ v- k" w# ?) e( F ( {7 l- J' ~; Z" r" e9 x5 m 日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导指出,一九七九年三月魏京生遭逮捕事件对邓小平具有特别的意义,胡耀邦曾要求不要对魏京生处以十五年重刑,但未被邓小平接受,方励之要求释放魏京生激怒邓小平,使中国发展形成保守派和改革派的对决。! S+ R3 _+ h) g7 L& O. G2 r6 `
1 h8 ~$ N J- b6 j. r 文中指出,邓小平时代的重要特征之一是遭文革迫害者占据中枢要位,批评毛泽东时代的错误,由文革路线转为改革开放路线,邓氏为夺权有必要打倒毛泽东谬论。在理论斗争中最活跃的是胡耀邦,知识份子在一九七六年第一次天安门事件时不是系狱就是毫无力量,但在一九八九年的第二次天安门事件则扮演重要一环。) R: N c' a- B
5 `) U* V) X2 k& L 一九八六年十二月,天文物理学者方励之由于煽动合肥学生示威罪名而遭党除名,但他仍继续推动民主运动,一九八九年一月发表公开信要求释放魏京生,这项要求激怒邓小平,次年二月老布希总统访中时,中方阻止应邀参加的方励之出席,原因是魏京生事件对邓氏来说具有特别的意义。 ; L5 k$ ]3 D) s/ b 0 ^& T! z. W5 v+ Y 胡耀邦在一九七八年开始攻击毛派理论后赢得年轻一代强烈支持,发展成为要求民主化的大字报运动,邓小平最先是支持大字报,但魏京生将指责箭头指向邓氏后遭邓氏下令逮捕。秘录引述目前住在台湾的胡耀邦前智囊之一的阮铭的发言指出,魏京生被捕时,胡耀邦并未希望重罚,一听到判刑十五年的消息后大吃一惊而追问邓氏,但由于量刑是由邓氏决定,胡氏毫无办法。 - q) B/ L$ B4 S& I0 k1 m. G/ h 9 y; q3 N2 _$ s4 `6 O: m" C 邓小平政治论理精髓的「四项基本原则」是在魏京生被捕的同时发表,核心是「党的领导」,亦即坚持一党独裁体制,攻击邓小平是「新独裁者」的魏京生也可说是导致邓氏「四项基本原则」的产生。7 n6 B/ W/ D$ h9 ]# T; v* B( u* V
7 i2 {% M" X4 |/ q9 P: s# d2 l
方励之的公开信刺激改革派知识份子,要求释放政治犯和民主化的公开信接二连三出现,而在此之前,令知识份子提高警觉的是电影纪录片「河殇」问题。这部作品揭发中华文明的封建制和黑暗面,要求改革,六月中旬在国营电视台放映,引起很大回响,但进入七月,开始出现反弹,党宣传部虽驳回再放映申请,但赵紫阳大力称赞作品,默认上海等地方电视台的放映。 # J1 b3 A6 S2 x2 W; u0 J. v/ l8 [2 u* A# \
赵紫阳的作法激怒保守派元老国家副主席王震,大骂前者,九月以后攻击更趋激烈。中国的文艺作品常成为论争的火种,政争的工具,河殇问题升高知识份子的危机意识,发展成为对政权的批判,方励之的公开信则成为保守和改革对决的导火线。7 [+ E1 I8 O( N! M# G# ^- G
" {- x5 ?, P& O1 u X中央社 $ ?5 C- H9 k2 b1 D8 N @7 f# r8 o2 X1 O6 ^0 o
( @1 I4 B% C' \/ N$ C! X0 a2 r( Q, p+ @% n: B3 h4 F5 {
, l+ v* y2 H4 x4 ^: \. S【トウ小平秘録】(4)第1部 天安門事件 魏京生事件 ; g8 q5 n2 q" E7 A8 L: Fトウ小平(しょうへい)時代の重要な特徴の一つは、トウ氏自身をはじめ権力の中枢を文化大革命の被害者が占めたことにあった。その結果、毛沢東時代の誤りを批判し、文革路線から改革・開放路線へ転換することもできた。% I$ B8 @9 |4 N" D3 b: l
. i2 l9 j' U. p' Z' I e, l
# T* {1 \- z7 e2 B$ B" P釈放要求公開状に激怒' d. I6 f4 h: f3 j4 S8 \
簡単だったわけではない。1976年9月に毛が死去した後、江青(こうせい)女史ら極左4人組を逮捕して誕生した華国鋒(かこくほう)政権は、毛路線の継承を掲げていたからだ。 0 w) l+ i' `5 z. z, V$ ?& Q トウ氏の権力奪取には、毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする「2つのすべて」派を打倒する必要があった。毛無謬(むびゅう)論は78年5月、「真理を検証する唯一の標準は実践である」キャンペーンを口火に打破され、同年末の党中央委総会(3中総会)でトウ氏の指導権が確立、改革・開放へ転換する。 : B" ?6 m M9 d0 {3 k( v' @; A$ H* Q9 w1 J T+ d& p
この理論闘争で大活躍したのが胡耀邦(こようほう)氏だった。胡氏は「思想の解放」を唱えてタブーを次々と破り、文化・芸術や報道を活性化させた。80年代、改革・開放が進み西側の文化や思想の影響が強まる中で、政治体制の改革を求める声が広がった。' p& u T g# U
) j' W2 y2 V1 \8 S7 W+ n/ w/ K
第2次天安門事件(89年6月)と第1次天安門事件(76年4月)の違いは、76年には獄舎にいるか、骨抜きになっていた知識人が、89年には運動の一翼を担ったことだった。( f; U$ V4 s# `* s
' Z/ ~; Q2 H3 d* Q# G 前回書いた、北京市党委員会が警戒した「一部の下心のある者」の多くは知識人だった。事件後、当局側から名指しされ批判された知識人は著名人だけで約50人に上る。その代表的人物は、86年12月の安徽省合肥の学生デモを扇動したとして、党を除名された天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏だった。 $ r3 j+ H& l8 M/ c : A/ w7 p' D; B( ]: Q. z 方氏は李淑嫻(りしゅくかん)夫人とともに、除名後も精力的に民主運動を続けた。北京大学の「民主サロン」や、北京初の民営書店、都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」の設立に参加、知識人と学生の交流を促していた。, X* o M' O: Q; x
# \1 F2 b9 Y+ c: ~4 X 私が88年12月に北京の自宅に方氏を訪ねたときも意気軒高で、トウ氏らを痛烈に批判、民主化は必ず実現すると話していた。それから間もない89年1月初め、方氏は行動に出る。服役中の民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を求めるトウ氏あての公開状を発表したのだ。 4 O( o+ T, |# X# \7 G+ b 0 U% t; q" T, ^) ]% P 方氏の要求にトウ小平氏は激怒した。それは翌2月に訪中したブッシュ米大統領(現ブッシュ大統領の父親)主催の夕食会に、招待された方励之夫妻が公安当局に出席を阻止される異例の事態になって表れた。魏京生事件は、トウ氏にとって特別な意味を持っていたからだ。 5 k. G! ]9 `2 B. ]& m! g7 J. n3 Y/ v1 L
攻撃の矛先 民主運動へ & l' k, H6 v3 m6 a' K3 c1 z' B 胡耀邦氏が1978年に開始した(毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする)「2つのすべて」派への攻撃は、青年層の強い支持を受け、民主化要求の壁新聞運動に発展した。それは同年末の党中央委総会(3中総会)で改革派を勝利に導く「院外活動」の要素があり、トウ小平氏も当初は壁新聞を支持していた。/ b% _2 r! y8 V
ところが、当時、過激な文章を次々に発表していた魏京生氏がトウ氏に批判の矢を向けると、トウ氏は逮捕を指示する。 - l) E9 Q* F* p0 r 2 P( G: f8 H) ~3 a, h 当時、胡耀邦氏のブレーンで、毛派との理論闘争に活躍した阮銘(げんめい)氏(台湾在住)は、魏京生事件について、産経新聞の取材にこう話している。: }% b3 c N s; q0 ?" p, l( F
- [; u. f' r, a
「魏京生逮捕後、胡耀邦は厳罰は望んでいなかった。懲役15年の判決と聞いて驚き、胡に問いつめると、資料は直接、トウの元に行き、トウ小平自ら(量刑を)決めてしまったので、なすすべがなかったと言っていた」8 `. m. Z; s/ d+ O% F$ n" s& @
: j/ Q8 w( c x1 @ トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。# i# K& v% V4 u) u- u6 g# a
; a4 J6 u7 m3 T0 x6 ?
天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。 ! x2 n' f4 h* N2 v! o; i% w* B- P( x+ N% v% o+ ~( F, v! R6 e* M
それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。 / n, v7 Z) a T: |+ W % b$ l: ~5 `% h) W6 y9 V' k 中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。 0 p: k" D7 \+ O8 I; F% O1 I. \2 g) s( _
中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。 $ t/ g0 q/ f3 E 4 X1 c. Q" ~" }! t6 g8 h' @& P これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。 % V9 R) j1 z% {4 t& i% ?/ a$ R3 q/ r
中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) 1 i; R8 `$ x$ O. X
◇7 D7 R" o2 U8 B; N- ~! Z! g
【用語解説】文化大革命 : e% X0 E3 T1 u# f) B5 F+ T8 w4 x3 k* q/ C a4 b
1966年、毛沢東中国共産党主席の主導で始まった政治、思想、文化闘争。古い文化を破壊、理想社会を目指すとのスローガンを掲げて大衆を組織し、あおられた学生や労働者が古参幹部、知識人らを迫害する弊害を生んだ。毛死去(76年)に伴い終了。81年の党中央委総会で「災難をもたらした内乱」と位置づけられた。+ y: V! P3 F6 E6 n" V# m2 ^0 j+ r
% q+ h( V, a1 e◇ " Z: t0 k: g1 B5 R) X/ X* _【用語解説】魏京生事件+ Z) n9 w, D3 P- j% o6 l
8 U1 |: r3 ?7 t. z9 s1 P& K
1978年秋、北京市西単を舞台にした民主運動の旗手、魏京生氏が79年3月に逮捕され、後に反革命扇動罪などで懲役15年の判決を受けた事件。壁新聞による極左攻撃が主流で、トウ小平派を援護したが、トウ氏が権力を握った後、魏氏は「毛沢東と同じ血にまみれた独裁者」と批判、トウ氏の怒りを買った。魏氏の逮捕で運動は下火になり、壁新聞もその後禁じられた。* }6 a' i C+ s3 R9 R' F0 V6 ]( N
《邓小平秘录》背后的秘辛 2 E* w5 b3 W9 e$ l7 V3 L; k$ E: _: s( D5 K* T5 L
日右翼报纸《产经新闻》将从本月14日起连载长篇评传《邓小平秘录》,并从近一个月前就打出广告,在周知海内外“粉丝”、吸引方方面面目光的同时,自然也引起了北京的高度关注。 ' f8 d/ s6 B" a8 j s3 \9 \) B' {% r1 l' y
日前,中国驻日使馆已发出非正式照会,并邀请相关记者,就内容安排等问题,非正式性地交换了意见;尤其是对于有关“天安门事件”的内容,表达了恐对4月温总理访日造成负面影响的担忧。) B" q8 ]) R/ n
1 a* y/ U& y, a) I6 ]$ U$ a4 {
对此,评传的主要撰稿人、《产经新闻》中国总局局长伊藤正说:“恰逢邓小平去世10周年之际,检阅其人给中国和世界带来的影响乃策划之初衷,与温总理的访日无关。天安门事件,无论对邓个人还是中国来说,均是带有历史意味,并且与其后的经济腾飞等变化有关联的重大事件,所以将其作为开卷第一章的标题。”4 h4 u! M7 \6 V3 y- _0 I: T. ]
! C2 E: `8 v$ Q
伊藤正(Tadashi Ito),著名政治记者、纪实文学作家,是日本公认的大众传媒知华派,以《30年后的林彪事件》、《天安门事件再思考》等重量级著作名世。此番担纲邓传的采访、写作,自然备受瞩目。 * E7 `: l) g# v7 }0 Z" ^* {7 |/ R1 h6 s" Q- v( R
邓小平,在日本是超级名人,是日文Windows系统中为数不多的只消键入日语罗马字拼写(Toushouhei),无需转换就能自动出现的“固有名词”之一。日人历来少慕虚名,推崇实力人物:1978年10月,第三次复出的邓公以副总理身份访问日本,出席《中日和平友好条约》“批准书”交换仪式。这位中国政坛的传奇人物,被当成中国政治的“执牛耳者”,受到了国家元首级的礼遇。事实上,邓公的访日,也间接促成了中国当代史上意义最为深远的转折:不到两个月后,十一届三中全会在京开幕,在清算“凡是派”,确立以邓为核心的新权威主义体制的同时,打出了“拨乱反正、改革开放”的政治路线,开始了一场已经吞噬掉整整一代人,至今难以望见出口的、被称为“改革”的惊天伟业。在日人眼里,在毛时代空前惨烈的政治斗争中被打倒,苟活而终于胜出——邓三上三下的经历本身,就是一部“波澜万丈”的中国当代史。更为重要的是,曾被邓两次以非常手段拉动的史上最大规模的经济改革,已然结出了起飞的硕果。然而,这个超过一万亿外汇储备的、正在“崛起”中的大国,既给日本带来“中国特需”的实惠,也正在成为日本的恐惧之源是不言而喻的——面对如此文化上令人怀旧,政治制度迥异的大块头邻国,日本总难掩复杂的表情。 8 _+ G/ g2 U0 ?& A8 G : R- [" O, F4 U# z8 |此番连载的栏目,是《产经新闻》晨刊的看家金牌栏目,在主流社会拥有众多的读者和广泛的影响力,历史上连载的《蒋介石秘录》、《毛泽东秘录》等力作,无一不曾成为斯时的重要话题。正是其当仁不让的影响力及《产经新闻》本身的反华右翼倾向,成为中共当局提心吊胆的由头。虽说是在言论自由的民主国家,但可以想象,对传主的盖棺定论之“厚道”与否,无疑会对日本到底是“好孩子”,还是“坏孩子”的评价发生微妙的影响。作者: 日月光 时间: 2007-2-18 10:52
邓小平秘录:搜集反党证据展开新反右派斗争 5 Q% M# z- W4 S; z) _2 W# |5 ] : I1 m9 T, a+ [1 }) v2 r }% u/ D % c1 ]: O, O0 d; j$ K8 O3 } 日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」报导指出,邓小平认为专制手段的必要性,并经由搜集反党活动的证据而认为反右派斗争有其必要。, [' F) r. d( }8 a! L5 F6 U7 v
3 e! k3 x6 v3 c3 c6 Y 文中指出,邓小平在一九八六年十二月三十日向当时的党总书记胡耀邦和总理赵紫阳等六名中共党领导人物指出,必要时非采取专制手段不可,这项谈话宛如邓小平针对一九八九年天安门事件决定武力镇压的状况而言。 o& b9 k( n4 O E" g1 D" U
: l3 B$ ]4 z( x* J+ P) s" e B
报导说,邓小平是针对中共领导阶层对安徽合肥学生示威的处理态度软弱加以批评,胡耀邦于一九八七年一月遭解职,方励之、王若望和刘宾雁三人遭开除党籍,当时包括方励之等三人在内,有约五十五万名右派份子遭迫害,斗争的指挥者是邓小平。7 p* B1 j: A/ F" K! x8 Q7 o
& `& f, ] T$ l2 b! D
一九七八年开始每年有九成九以上的受迫害者恢复名誉,当时从事重新评价的是党组织部长胡耀邦,邓小平批评领导阶层的谈话显示出他对自由化思想的严峻态度。 , B# i! y/ E7 X* j Z& @ |, {+ e/ N& f" y. @* h
根据一九八九年天安门事件后现身的北京市党委书记陈希同报告等资料指出,当时党全力搜集知识份子在集会中的言行及大学内发现的传单,作为策动动乱和组织准备的反党活动证据。. Y9 G/ s. g) C: g( i
" r V3 z. W3 Q& c( Z 邓小平接获报告后认为反右派斗争是正确的作法,有必要新的反右派斗争。中央社 6 a* X& `5 w! `, }# i" \ 8 ~5 Q$ s7 u2 [2 I3 ?6 J1 w* Y& q/ H- R; h) N4 G4 A) _
【トウ小平秘録】(5)第1部 天安門事件 反右派闘争* Y2 n( ]& G2 M" n' n& R" x$ ]
9 W: P; F. c. r% I7 Z
■必要なら専制手段使う' j' h. x2 S' ^ G. Y
8 v1 U4 S: C; U/ I5 D. l- \5 L
「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻) 1 Z8 i4 b$ g" e% X' d4 k2 W4 z2 W& f0 u
1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。. `* i8 u; Q+ M; l7 b8 M. T' n% v( \
8 Z2 I5 c8 u% o( i4 w0 R3 \+ x7 l この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。6 \7 j- o& R, I* \4 b6 Y2 N$ A, |9 y
3 O" p% _2 H: M' [1 j1 X3 ~% O
談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。% n- ^, d6 v2 ~* m
9 Y: o c [! i) |7 D9 \3 ~ そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。- \* {: S( j" r& M. T
* h- b' k5 U6 o; C9 K2 M- L この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。 ) J9 i' m, E- E* r # y0 P8 C& D4 s 当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。 g/ H* V! O) j* b3 z! v5 B& J! ?& _7 D/ g( `$ o3 m
78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。 " l6 J6 B+ e& o j2 l, s. ^" t2 k' h9 _1 ?- h
トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。+ p( k7 Y7 ^( N
! q3 d/ N; K' w( m8 C2 D' S( {( L# Q' x 「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」 5 h! u/ j% f& v: G ; g& h0 c: e3 x6 N! L. L 「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」 ( Y) w, a: F; i$ ?4 C: y x& r9 r' }- ~# m9 Z5 S6 T
だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。 . o/ t: v7 X; J+ e" t, q * |) H; h2 J' O0 f. O 5 l# z5 E6 R5 [! A: G* U2 e
反党活動の証拠収集 F4 Q# s% a2 \8 O' W
2 N: {, X. @2 Q
天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。2 r- j: `1 y# s0 t2 e
4 R( D) {' V) z0 A$ ~; y
方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。 0 d' c8 l) }0 ?$ L: p+ y! w5 y9 |9 ~, c0 N4 }
「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。- A( G2 s; V) F ?/ E$ F* H
% v* p- f$ w: W* Y0 b
その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。8 g4 R K: K4 S6 z, ]
6 }$ j9 S% O/ F6 N: n; K' Y
天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。# s. m \, m9 W4 u! a
. G& V0 g& i2 i+ R( L 陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。/ H- u+ v6 A$ w6 x% X* n
" [6 g- W3 z# T8 m z
「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」8 I$ m+ X m8 s& C! }5 `
* T. U. W8 U* ? l9 d4 H* ~
「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」 1 S0 {' z: Q L8 L( ^5 y/ v. H, X# D l1 e/ D, M. X
「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」" I% `! ?3 g" }; Z" e2 s
1 [1 J e2 k2 C' z" E1 n' Q
「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」 2 z# p, R: {# m2 K e# C V1 Q& t) n" C( p6 @; H8 U/ P
言論・表現の自由がある国なら、問題にもならない話ばかりだ。ところが、中国当局は紙切れに書かれた共産党や指導者批判も見逃さず、反党活動の証拠にする。 4 L6 C) p4 r9 G3 }6 e! S& Y {# X ' n) M/ _/ A) W$ h8 l& x7 n それらの報告を受けたトウ小平氏は「反右派闘争は正しかった」と思ったに違いない。新たな反右派闘争が必要だ、とも。(伊藤正)! m# {0 t w: [9 g( e$ l) E
( K' m6 i4 m: v, a, v/ A( `, s ■反右派闘争 56年の「百花斉放・百家争鳴」(表現の自由化)で噴出した共産党批判に対し、57年から毛沢東主導で始まった知識人弾圧のこと。職場に「右派分子」摘発を強制するなどして闘争が拡大、数々の冤罪(えんざい)を生んだ。81年の「歴史決議」では、対象の拡大化は誤りだったが、党・社会主義攻撃への反撃は正しかったとしている。1 S( H4 B; J; _' |: k( @
1 b/ T; s% F( X/ K
(2007/02/18 08:10)( M0 R7 Y9 |& S+ }' [, I$ d( f" Z
邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭 . [* V5 g3 N! A7 n% d; u" \! @( t+ \8 U! D* E- J7 l& y ~4 n+ N- d4 S
日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。 ) T" R2 f- F' R0 h8 P. V* M6 }$ h/ P$ E* K# u9 S) e O
文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。/ p7 H/ P) U* }% @3 d3 m
& F' n, a# K" h4 v( X/ L/ ^ 文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。 ( ]) A1 S$ A% u S / @+ g: o; ^- u7 I# ^& E9 n 拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。 4 \8 \% M8 b! T7 `7 L9 a9 j 4 n" Z* O- ~8 Y7 z5 u- M1 m 胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。( w8 N5 R* `2 J [/ O4 `2 u
" V3 p0 ?$ w. ^: D( [
「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。 + I) E/ j; n) w4 h g2 k7 d; `. c7 u$ x 根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社 3 {6 x: Q4 U3 Z ) G) R; @- u3 M0 l* a6 i【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ# M' ?, |3 v7 c
1 t0 ?( \0 ]- Y# z$ a% t& R
中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。$ U* t9 k0 b# S9 g0 P" a
/ f) M: F8 L$ m' L( s" D* a o その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。 9 ?* c* j" L. W" M8 X/ E( l8 i) A% j* I
国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。: O+ Q) v" Y; C' P% M, t
; C: I5 C* | U7 {3 h# X, E: D 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。8 r* l3 B5 | i, g
+ J4 J* V2 \1 |! Y; J% a V6 u
長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。 0 _! ^! e. h* F+ p: o( W9 }' B9 N) J
これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。" j% L2 g7 [/ b
t7 a1 d. Z9 }, w+ e0 h7 b2 @
「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」- a0 ]* t9 {" o8 t
% x* W. s+ I& f1 p# L% H. p5 e7 V. t 「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」 5 a- I) n m- R+ i+ i8 ~# P' u$ [) X4 Q
同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。 B( g$ j: \, U! r+ I - m" l! o; n w! {) r( ^9 B 「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」 8 z: i+ ?. P# C. y. u- q6 w$ Y9 o! m0 Q
王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。7 N% H5 ]' B8 D* s' U9 J) M% [
% B! F+ x1 q q7 r; Y, E
≪胡耀邦は声上げ泣いた≫, Y; g+ O9 J+ L# {4 ]% P% c/ u u
: G/ s+ L0 b: x p5 m, \2 A% k/ {% c. D. z5 t' Q& H
1987年、北京・人民大会堂で行われた日中国交回復15周年記念レセプションで乾杯する左から竹入義勝・公明党最高顧問、王震・中日友好協会名誉会長、宇都宮徳馬・日中友好協会会長、田紀雲・中国副首相(共同)=肩書きは当時
% c& i% H1 r/ p/ P: g ; {' c) W# j% O* D改革へ深謀、トウ・趙合作 * _) ]3 p, p n5 T% g" w; I4 q) `' }+ p! o4 Y$ V
対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。 . H8 h1 r/ a2 A6 v. ]$ e! B z1 }
党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。* i+ {9 _% z# f0 | b8 w
' T- d8 b' k! ^' S
トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。. d% F. f; h! \8 Q: v% L2 m. W/ ^
5 R6 Y$ o/ x( z1 ]6 D
トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。$ M" }% `) X) t; W% O9 v2 V
& p( i. r2 u2 {" ~5 ]8 l 党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。 : [2 C# `7 p+ B. e, R# w # f5 c f- s* `) C' n% q9 U トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。8 D2 Y- y, w. E) N# {5 {2 B
& E7 T1 X/ z8 ~/ o+ \ その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。 4 r. E" f- B4 ?4 ^/ p/ i7 R, g8 T& \( u1 g9 {
≪長老たちは引退せよ≫* _! p) x. u, s# k3 w: q
: b: \4 w. O9 s& W& V
胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。 % |7 S% t2 f9 y. \! w5 ^. ?) g - E- J7 ~. e" m8 [' m, s トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。9 t4 p( c5 }+ F; f- y4 X# J
4 E! D. r; r0 a( c3 q/ t6 N$ J
「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」 + P# t0 M% n: ?7 S ! k' c4 g7 j6 H6 w% D# W- ]8 e7 q6 o$ ^* a 趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。. E7 n5 t( `0 ?/ t" Z
, Q% i9 W/ Z$ {* F% U5 y9 k. i
「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)# B2 ^# s& L' L! b5 p1 s, I
* F9 P5 r( O7 l: }" u8 z. L. h
13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。 ! d& t* s, \( a1 X 6 H# O+ ]" X3 ^, w2 w 新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。 : O$ I6 Y) m) O# U4 C o; p% {1 H5 v0 k1 H
「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。 7 K2 f% w; P9 M( _! ^+ _8 c& z. g + M5 x6 U* H9 a これについては田紀雲氏は04年6月、北京の炎黄春秋雑誌社の幹部との懇談で、こう話している。 " C f, Y( @7 q" h / n$ K8 n* Q0 }6 m" L 「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」1 H7 W! Z6 L% c& v$ H% t( V
7 {, R. z$ ~* ?* y& q& K# e# A
トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。 + X# _8 B$ h# b, F' X7 o' v% |. ~8 `* _1 K3 h
トウ小平氏は「富強の中国」の夢を趙紫陽氏にかけ、改革実行の環境づくりに、83歳の力と知恵をふり絞っていた。(伊藤正) " P. [6 E& y: W# x: a ' c3 r" t* @4 {1 ^5 Z5 g ◇ + X% ?, F% Q! Q) G ( |. M0 ]( c4 `$ f 【メモ】 * I# o+ e5 I0 z. t" b6 N5 H7 C) W: _6 z2 y" }4 q5 [
中国共産党の基本路線は5年に1度開かれる全国代表大会(党大会)で決定され、少なくとも年に1度開かれる中央委員会総会が具体的な政策と方針を決定、指導する。中央委総会閉会中は政治局および政治局常務委員会がその職権を代行し、党の最高機関となる。このシステムは、第13回党大会(1987年)以降定着した。* T7 Z$ _4 B- V" }' | X
# H5 B/ s% S, t+ ~ 中央規律検査委員会は党規違反や汚職などを摘発。中央軍事委員会主席はトウ小平氏以降、事実上の最高権力者のポストとみなされている。直属機関には中央宣伝部、中央組織部などがある。 ; C8 b/ ?) H$ l$ E2 _! z, f9 v P0 P2 J1 V! C3 Z" U
中央顧問委員会は1982年、トウ小平氏が老齢化した革命第1世代の古参幹部を引退させるために発足させ、長老たちを受け入れた。最盛期には約200人の委員が就任し、党指導部に対して大きな影響力を与えたが、92年廃止。: V/ j. l8 I) P
( g/ n8 Q8 I- o) j' G2 y英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》 4 k. G2 Z4 |4 V& g. ~" d$ x上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。 . Z: |1 x- e* f W7 y$ e# a: m; ]5 G" s7 r& P9 y- S
不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 1 f, e0 V# q) C6 F4 Y; e
" Q" f- L" O* S' N' d6 X/ D8 O5 i
她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 9 w" b( L8 R H: C
; \* n) k8 z/ I- S9 i& f) ?邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” 3 {) V1 _/ a5 u v# R8 k: M
' M; B- z3 U* _! g8 V _- O 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 # ]- s; C) A) n
% D% c2 H) j: z5 E2 J* j7 ?
邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 9 v" K0 e1 [8 Y+ [& C2 Q& n
8 w3 G- [& N o, t
她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 6 z4 L$ |* p+ F + [$ O5 U& X' ^; k0 y- J( s 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 4 c7 N: G g3 |7 x8 y# d
! \) b! y# i# ~ 在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 / f8 {1 U/ s+ C7 G
3 _+ Z# K4 p. f5 `& g! r
邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 2 S8 C, M. O+ |. T2 n3 S P
1 R, _3 j {4 c5 f
香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”2 v+ A; r) }- u4 |# Q4 T
. n! ^" M0 G) _4 n / ?$ S L7 R0 m5 O" [ D* ? 他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 ) B7 J" o7 I; g- Z
! Q8 U7 M1 a3 g" I 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 0 u6 M! T5 e9 K
7 ]! w* B: j$ n 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 ) S& b3 l+ j2 F9 B ; s- L3 B) ^1 v) ^4 _$ y t9 h3 n& S* w$ J! X * M$ D' g- _3 SChina honours man who reshaped world ) M/ O4 u, o9 d& J9 e; ^& W( MWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. # N+ k- V2 j9 e# S) ]5 u' {
7 U9 o! l$ \2 Q5 Z; J" T: {China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. % t& t1 ?: {5 v& ^
; |+ L1 Y5 @; G9 @& W
But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. 6 D- U+ m V! d9 [! C* L( w# P
5 U: g' S H0 n2 F9 Y
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. 4 E7 T" k" K' u. K
. A, V, G: [ {2 F$ @“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” & [9 f) G7 R! r1 d# ^: n( P5 F: W7 Y& D/ G& x
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. * L3 F5 Y# s6 s2 ?" W& f7 Q4 T6 G2 Y3 u
Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. v3 m3 N$ Q _' e7 o% p7 h) D- z: _+ j# ~( {( z* M2 Y( W) U7 o
She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” 1 M1 `7 s+ N1 j+ s. j& F, _0 N" W 8 q4 V8 F9 i4 w4 Z+ Q u6 zNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. + H; ?* d; C3 S( J$ R/ r" F. {* V0 ~, Y" y) U3 C7 c7 b
Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. % u; q0 M. f ~% H1 {: m7 a0 _* ~9 i' Q) d c
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” H3 I1 M: F6 f5 _2 o: e# O. a 6 F5 X+ m9 k" T$ THe understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 9 |9 n% I3 H2 m6 I0 I
5 _6 A4 k: I, q. |
Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” & \: B8 F* R/ h, |( j( I" y+ Y/ v, ]
8 p; o' C9 c4 KMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. - x) I1 r. M% g d3 A' ], ~8 u( ?: m. ~' b, I) S; Q; _, ?: E
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. - v6 M9 S3 c0 @; I" L% u
' V7 R% m% V/ |: cHis daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” ; _6 s* {4 p( H" |8 { # v1 Z7 H, ^8 L" `9 E* ULong road to riches2 ]3 T: x! @% \- g) ^( q8 {* ]
3 h: R7 m# p8 y6 {1 |% n& P; bNow , X0 B4 [0 o; f 7 N' O6 L. A2 D& t; Z2 y( XPopulation in cities: 550 million : v1 c# [! z* k. W, T" |) b# p6 ]$ ^; G% Q- f" H
Gross domestic product: $10 trillion $ y9 l4 X9 x% J, K ! v, E: v# X, Q& F5 ^+ w8 `6 wOil consumption: 6.5 million barrels a day : n* R C) d" z, ~# G0 B# I# s% l7 X( E7 m) _7 I o
Exports: $954 billion * c6 }/ q; f# `: D% K5 W, J4 c. \
3 p7 P( f& \; B+ F, \( h7 v: W: E! ?
Population below the poverty line: 130 million . t) n# I$ V) Z / v3 W8 m* x$ W: I; y; pTen years ago 8 v& W6 y! k, R! @" Y$ I + r) C4 _# K% Z. RPopulation in cities: 370 million 3 O4 S s2 ~6 C1 d5 _! a/ |
% Y. Z: r a0 U( y6 o2 t' lGross domestic product: $4 trillion " L6 H3 ? s( q* S* r& F5 k P' t; w
Oil consumption: 3.9 million barrels a day 9 P" M! n9 W6 J" }
2 b( O. T, @# b8 L7 TExports: $182 billion - b8 M% P2 K. @" r* ?
) V J( F+ l$ v4 K: s8 k: U( y- g' B
Population below the poverty line: 120 million " [( S; H0 c* s 5 R; \/ H4 Y2 [" nSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies0 A1 i9 A2 x" J# p$ J
$ P) J& P. V$ }- x- h; k# ~4 a' E & F! o# s# e. D% Y4 E% e“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 8 ?5 V* ]2 F$ C+ x, D2 W2 G6 b, m# i7 B8 D4 p) k' p4 U' G
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治4 O" y3 J1 V7 f6 D
) J8 i7 A. `1 T
(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?”9 L- q1 N5 w% L* [& r- g9 t5 f
% T+ Q8 F* x7 T& r" H
赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。 $ g4 ~+ S4 Y1 U+ F6 P' s% O3 K % e+ v: r" `7 c- S赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。 ' Q* Z8 ?9 i0 _4 d' e( f9 {* S5 v; r+ l t
鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。# s( x' p2 H% j4 n
: d; t o$ p" c
鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。8 l6 K9 [( v$ W5 C) e ~
6 o2 ]. ~* z7 F" A O- `趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。* \, ~* j5 j) M r
" L3 A( i5 S: ?8 X g$ N- u* o: u 2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。4 B8 x* t, G2 {8 }" F$ N
\) t* F# B, y" R; O/ f' m" d 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)9 i; ]5 _6 Z' e) z9 P' Z0 f
+ u3 R y( O# q8 X( y この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。 $ c: U6 B7 W; o- s$ v! V * |+ c& M8 v% L( h D 趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。5 T) `( O/ E( b9 h2 t2 D. l" ]9 y
; m' l6 R8 V \4 X. k0 m' B
中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。 - o* M0 i/ S: n$ R) K9 X' ?+ u7 [0 K0 ~5 E3 j- ?) v4 U) R' b
しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。 * x3 T" o8 P5 u0 |3 H9 R# L4 Y3 b
この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。 # @6 b% T6 W4 `: Q. X& l3 j* {2 ?4 h7 R2 Y8 w% O
しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 - Y% E+ K4 s/ c2 R- e; u2 F( S2 v: f3 d6 z; ?
≪パニック買いが起きた≫ 4 c$ G$ Q6 { t) U5 K6 J1 S$ Z' J1 u1 V. ?3 k1 X' l% T" |$ J7 x7 r
ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。 % {" Z# x2 C b1 R0 L+ K ( T5 o' u4 V5 u8 K 趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。! Q) @+ v* h- v9 H
4 e4 W% K, W @. |4 L. h* H( ? 「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏) 0 f8 w: q7 W8 d" U4 L * o( X9 T$ v7 }; @ トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。 9 m7 B, o: E" ?$ l& F! @( C ' N0 M+ a$ t3 c: M 当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。$ N8 s" k( d" ?! `* p& w
- y5 U$ X- m+ @5 Q' ]& t 5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。8 I3 G) ?. W) I& c9 T
( m* [& u; q7 [* P
当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。7 i; O ]8 ^- k# S/ l% E( W- B
3 j" k2 R2 \9 E5 \1 _ その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。/ I. O5 q" v4 m' M R' Q
/ u* V8 J% S* |+ A' g. _. i, e5 Q* H
ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 : O H' l- K' ]; @$ A) M" ?1 L2 N4 ]; z
趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正)1 |4 O' p1 S+ b! L7 W2 n
7 k! T/ `# f) h! | ◇ % Q7 O4 h- M1 t$ f9 | h& X/ u1 b' x, L+ Q( l% ^【用語解説】3自1包 ( x D; X7 R( Q& c, a8 G" {" D, G4 t: a) K8 C, S
自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。: O7 T& V# q8 q$ }0 i1 U, B% I
0 l& G( e" i5 } y' @. x# G
◇ 3 G c" z8 _$ ?" Q6 b8 j3 L9 u: y 8 o9 P+ c# l9 ]【用語解説】北戴河会議 0 t' q( Y1 x% a- W1 F' H' m/ F# _$ [ 1 m1 m4 ]1 } V5 j, m4 E. J: Y 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。 , u J! L6 G' }3 O2 R- h. h! j! l _, V" |4 N
●=彫の周が丹( n8 ?3 i7 L, }
% p7 d; i2 C6 H$ L& \: u7 D2 G& ^
(2007/02/22 )
改革风波造成赵紫阳地位动摇 3 z) t8 A/ n$ D% w R* ?0 c" M4 `' }& D8 ~4 `. A
(中央社记者张芳明东京二十三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八八年夏天,中国实施价格改革引起的风波造成党总书记赵紫阳的地位大为动摇,保守派展开把赵紫阳赶下台的行动。 ( s: s: M4 d3 v, p2 H * j* z7 W6 B U; |' S- G2 Q文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。+ m( o% S) x2 o5 ?5 R
当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。 2 V1 Q# T7 a2 y; T2 f: ^- H3 ~* w( Y) M
“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。 ' {$ s7 O$ E* X( K$ |$ I( i$ o ; c7 l4 P9 h3 @( h. C# G赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。: D& ?2 P5 ~* h& t" V
4 f$ Z& J& V2 {; b
“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。 5 |$ F' O& P; R# G$ a' x; e5 c+ g3 _% I2 A" i, Q
【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点 0 h! R8 V5 K O2 O- u 3 ]! d( T. j$ z3 J5 y& r2 ]+ J1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。 * a: [" g) Q' y6 y9 B3 X2 ?; O# h& k( j1 `% S' \4 e
「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話), `% }2 ]. F1 R
6 h1 c* T) `4 o( w6 I( i2 a1 p9 P" G
「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で), ?2 _4 W; w* a6 y* f
3 @5 @* O+ u- L3 C) C
「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に)0 T8 _+ Y' b2 Q
3 u" i) P5 W* S! w; S7 ]
価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。 ! `$ {9 {# R/ m- N6 B 1 Z! p, J7 X! L( K* p4 _$ T9 j それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。% g ^" u* o3 _# n1 r
2 l- F6 ]$ a0 X$ u' |
「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。 ; D7 z* o1 r, A8 p" p' t . F* |! [$ o0 n0 } E& c 姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。6 W$ w' c, V( a: s
% W8 R9 V7 J7 l- l5 o
「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」8 @2 W9 w. Q; a" W; Z! M- e' ]' Y
7 ~# X6 m/ o* ~ 陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。 ( x) p( W3 |2 B) I + F# \" G3 O3 _$ i: { 88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。& H8 `" y% ^$ T3 i
+ @9 x" E+ `! g8 ~ 「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」6 s& D/ H8 |' T3 q, E0 y6 O8 V
E/ k8 m) k$ b& d! }
10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。 " | P: K: J$ G2 c# s7 Q) o: g+ i( l9 [7 G% J( D
「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。5 Z( a# _ L5 ` A7 K- j
$ c; T% E6 d X' F6 _1 @8 Q
改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。 # _. c1 y4 X, M/ ~! }9 o6 j& s$ g( F" Y
≪空白の2カ月半に何が≫ 1 [& w5 Y9 P S5 j" m. q# t- A% ]7 _" G2 T
「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。6 g/ {3 G }% A" k/ E! R
" N5 p& h1 F0 C
この間に何があったのか。 4 P5 f' h- ~" t# q3 N3 l0 R ) Z' k3 S( x: G0 T トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。( k% h6 O) l) n/ A
; w: ~ X" k' ] M3 D H* l* n4 }: Z 趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。 w T( x3 b& a, E+ i$ l! V% V 9 X- I: c) s+ X, N/ l' Z9 R, p, [ 新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。" C6 a7 E+ i$ n8 o; q
0 G: c8 ?. Y$ G. q4 n 学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい)9 f) t, u, T: Z6 @
0 a5 ]; V+ u0 d- ]- f トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。. k5 r/ `6 l4 r1 G6 |% f
k V0 ~) \1 Z4 |( I
このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正) . X0 r/ @ G% z" Y, \$ @% C, O ) G ^# p9 c' p) Y3 Y8 M' V ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。 ' F9 p) F# y$ v ' \2 C! `9 y( ?; X(2007/02/23 07:54)
# y4 |# @: n, _( Q$ O& {5 I$ @+ f【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。 , @7 g% |1 ?( N7 j# x 2 p7 M4 S7 m" L' C4 B6 ~ その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。" J" C+ k$ j. M
+ S6 |1 N0 o. z- w! Q3 S; G
9 ~0 D( p1 B" F% w" w: f
「中国は乱を許さない」6 E# u. t6 m _
7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。6 G' y o1 Z% l1 B. v- |7 O
% `( r# n# g" K
「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」 ' B8 u+ A0 s" y' B+ x$ v3 Y/ e( x5 a3 l* w. \& f+ i
「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。5 i7 v: {1 q$ N6 F+ O: V
( Q: I$ S9 K( J; r/ a
88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。 + E, p9 x1 y8 Q * I; Z4 u) f( s% p9 G! [+ r- @- _/ f 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。* u; t# X- C- D. ^
3 _4 K4 U+ Q: y" p2 K) a# O, J0 A 「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」 C+ w6 |) f0 e0 e' E* u$ G" D0 x- c0 J
私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。 4 V1 A, T) V6 E& Z& u 6 w1 L- C7 D" X" p3 g, l& G それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。, n) O4 m# h" e) q! `" q
2 ~8 e; J9 ?4 ^8 g2 m2 N) i 当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。* d; G! g0 i+ t, ^9 \& @5 t
7 x$ a) c+ @9 r トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。1 p6 o6 x& l* j4 q5 Q, o
8 c0 M% g( I% j0 u% a
ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。 3 D, i" I. w( i) r , u. {4 a, P( L" ` 「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。5 X) m, a& l% g$ k2 ?
1 ^+ ~8 P1 ~# D
89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。+ j: U: b2 ]* O* G
6 Z l6 ?/ {4 B6 r' S8 D1 G6 f这项示威行动后来被作为“反革命煽动”的开端,原因和当时在挂在祭祀英灵花圈下的茅台酒小瓶有关。中共有关当局指出,“小瓶”与“小平”同音,示威份子的行动是侮辱攻击最高领导人邓小平。3 U9 a4 y) L" p. R2 |. X
2 n! d+ `$ T$ J% @
十七日深夜,集合在北京大学“三角地”的近千名学生出发前往天安门广场,十八日凌晨四时左右抵达广场,途中,人民大学及清华大学的学生也加入而增至数千名;其中大多数在有关当局劝导后搭车回校,但是有近两百人留下,热烈讨论今后的对策。 - X, `7 _# a f" b9 Y" \2 y7 P u1 b( p3 L( X: o% Z; A/ r/ {" O- p
这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。3 W3 W) A* V; `* k8 L5 S* j
' e9 g P7 l. U2 _$ T+ a" V( Q6 }当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。+ {4 G# ?7 B0 o
$ m: v' G1 z6 A$ X; h" {十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。 ; J3 @( `& v, X* z' @ 6 I \' Q( z( i/ o【トウ小平秘録】(12)第1部 天安門事件 悲劇の序曲■マオタイ酒瓶が問題に. E8 T. M: d' o# P6 r. o1 P
- X9 B% c% u3 R' M( V6 r& o/ a: s! j 1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。+ h5 _2 j# o" C6 R
2 W6 q! n A6 K0 K" ~# L7 b: A
胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。 - P8 \& U2 v* E: r$ Q" e( P / X8 c9 l! x' _! `! ?+ R# n 「やりたいんだが、難しそうだ。前夜から呼びかけてはいるんだが、本科生の多くは尻込みし、中にはわれわれに空き瓶を投げて抵抗する連中もいるんだ」 ! E4 m, {4 t: i) r- i) X+ D& u8 H* g" l% M6 }* n) |" Q
当時の大学生は全国で1学年60万人前後、現在の10分の1ほどしかいないエリートだった。世の中は「向銭看」(金銭第1)に変わり、政治のにおいがする動きは敬遠する傾向が強かった。3 m' _5 U* K, r. w `" A/ I
. q% S5 e: |* P, A" [5 y
トウ小平(しょうへい)氏がこの年2月に訪中したブッシュ米大統領に「絶対的多数の学生は安定を支持している」と述べた通りだった。(このくだりは「トウ小平文選」にはあるが、「トウ小平年譜」では削除されている) ' q8 B. ?2 A9 J1 A1 X I4 D$ S; J& ^9 ]' l- j
それが翌17日に中国政法大学の職員、学生による追悼デモの後、一変する。デモを組織した1人、呉仁華(ごじんか)研究生はその経緯などを2004年に出版された「浴火重生」(明鏡出版社)で明かしている。 ) q% @; r9 s$ t0 y . z3 o" Y6 m( {( A 「胡耀邦の訃報(ふほう)に悲しむ若手教師の間に、天安門広場に献花する考えが生まれた。16日に花輪をつくり対聯(ついれん)(哀悼の対句を書いた掛け物)に『耀邦千古』(胡耀邦は永遠に)と書き、マオタイの小瓶をつるした。それを校門に飾り、『献花参加希望者は17日午後1時に校門に集合』との無記名の張り紙を出した」& o1 G/ i* q* [8 D0 E
3 v6 ]1 i; Y8 E% o5 U0 |/ F; v
六、七百人が徒歩で天安門広場に向かう。「途中、インターナショナル(革命歌)を歌い、シュプレヒコールを続けたが、胡耀邦追悼と民主と法制を要求するスローガン以外は禁じた」という。沿道の市民らが列に加わり、5時ごろに広場に到着したときは四、五千人になっていた。 ) K6 R3 ~+ D! v. m* d# i+ ? 8 H+ Z* t5 u. D9 J! i" S 呉氏らはトラブルを回避するため、人民英雄記念碑への献花後、インターを合唱して解散する。後にこのデモは「反革命扇動」の発端とされる。「英霊を祭るため」花輪につるしたマオタイの小瓶が理由だった。小瓶は小平と同音で、トウ小平氏を侮辱、攻撃した、と。 3 }, E5 R9 ~. }3 r2 ^# F+ z/ H& n, F( s( F. D8 y5 ?
「その夜遅く、北京大学構内28号楼付近で突然、食器などを打ち鳴らす音がし『デモに行こう』との叫び声が聞こえた。三角地に行くと、1000人ほどの学生が集まり、熱気であふれていた。28号楼の上階から巨大な対聯が下げられた。『中国魂』とあった」 4 r8 g* K* g# ^' c- _ , _/ @& Y- o9 ]% u 当時、北京大の博士課程研究生だった李進進(りしんしん)氏は、「浴火重生」に同大のデモ開始時の模様をこう書いている。' w; w" o# z9 g0 ^/ D1 ]. I+ F6 f
# D5 M. |) z% _) N
北京大の1000人は真夜中に出発、天安門広場に到着したのは18日午前4時ごろだった。途中、人民大、清華大の学生も合流、数千人の規模になっていたが、大半はほどなく当局側が用意したバスで順次帰校した。; j1 s9 x5 n. e. R
9 o \3 X. B1 F* F しかし200人ほどの学生や研究生は残って、今後の対応をめぐり熱心な討論を続けた。その結果、全国人民代表大会(全人代)常務委員会に意見書を出すことになり、胡耀邦氏の再評価など7項目の要求がまとまる。/ Y1 W& u3 X( \+ P" L$ V1 ^
$ M* a/ c6 g+ S# A6 { そのとき、学生代表に選ばれたのが、以後学生運動の最高指導者になる北京大生の王丹(おうたん)氏だった。王氏らは18日午前8時すぎ、人民大会堂に入り、全人代常務委事務局に請願書を手渡すと同時に、常務委指導者との面会を求めた。, n) ]8 A/ ]; [) l/ T4 n" p; g
" @5 M9 F) t+ @- T1 f' N
面会が実現したのは18日夕だった。劉延東(りゅうえんとう)常務委員(現党中央統一戦線部長)は請願書を受け取り、「全人代に手渡す」と述べた。 $ X# p5 T: m: n) E4 Y" r3 P; D- t. r- t7 J5 ?, k
「それで一段落したと思った」と劉氏と面会した李進進氏は書く。しかしそうはならなかった。 . Z! K+ D0 _' ?, S9 z4 I+ f- L
天安門広場には続々各大学のデモ隊が押し寄せていた。やじ馬も加わり午後9時ごろには2万人近くに達し、人民英雄記念碑の台上は人でいっぱいになった。 8 W* r4 z& A, a6 J, N3 ~& x 2 W+ I: g/ c- Q* d$ W; [ a' @; g 北京の動きが地方に波及するのに時間はかからなかった。上海、天津、西安などで胡耀邦追悼の集会やデモが18日に始まる。特に西安では学生デモと警察との衝突事件も起こったが、北京では混乱はなく、スローガンも胡氏追悼が基調だった。 " ]% f4 V1 b4 A* a: V/ O$ `6 f( m9 I, |
それが変わる最初の事件は18日午後11時前に発生する。約2000人の学生が中南海の正門である新華門に集合、李鵬(りほう)首相との面会を要求して突入を図り、警備側と衝突したのだ。悲劇の序曲が鳴りだした。(伊藤正) - a) C, Y4 _, J7 f 5 }9 m0 B; W* ~8 l; H( u/ g" _ ■7項目要求 (1)胡耀邦の政治成績の公正な評価(2)「反精神汚染」「反自由化」運動の否定(3)国家指導者とその子女の資産公開(4)民間新聞の発行許可、報道禁止の解除、新聞法の制定(5)教育予算増と知識分子の待遇改善(6)デモ規制を定めた北京市条例の廃止(7)今回の活動の公開報道(要旨) 6 p# h \; r3 G q$ Y, ]! f( P! J Z' ?0 d. M) h" [- B- R+ g. r
(2007/02/25 ) / I; Q$ R' C V3 g7 w5 _% x" r# l6 ?$ n. a" B4 k5 N2 A
" d# n. [; U% J3 i- `$ H; q2 i {8 E# F1 Q+ s
& M) h6 }8 X4 M4 I+ |
0 X) H* e& q! s0 L& {+ A
8 }7 w5 l. t6 A- v* h& v
1989年4月17日、胡耀邦氏の追悼のため、北京・天安門広場の人民英雄記念碑に花輪などをささげる大学生ら
邓小平秘录:赵紫阳对学运乐观未防备保守派 }: w/ v6 f' h" Q% O" L. X) N) I- n
日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。/ u& G8 T' d6 O
8 y" H3 H2 R& K& c, x3 A 文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。2 e: U+ b# t" ^; h' q: k7 J
6 a3 e5 W' z) a$ j% |
根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。2 _9 O' q9 p. b5 v
& D2 G4 p. e4 ?+ K& O* B! c. ?! ]# u 两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。 M0 Y6 I. A! v5 F3 Z) R& O1 X( z: j5 j1 O9 E
十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。 % J s. M3 e8 F- P: ~ u# w: ` |4 B- L! o$ n* W# j Q
十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。 2 u6 X5 q0 m6 a7 C5 E( X& Y. f1 u/ G- j, s
二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。 & Q- [ ?1 I; a4 b4 @. u2 q ! E2 c, `) G( {* ^% y 这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。/ ?) b/ \' h; e
Z. F/ N# P: w. \1 y 由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。 - d: L P8 R8 w: [ Q8 E $ e7 N! Z K7 B; l9 l" ` ; \& b9 Y" Q' @$ O W9 p: @【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件 7 \" l- H. G* {# f6 \0 w. h" Y: R( f
■下心ある者を警戒せよ: ]* E( v ^0 r/ G& [% S A
2 ]& l9 `- b S9 V2 y
異変は、新華門事件から始まった。" d5 k; E7 [" W: l% v( g) p3 D4 Q
! M5 F0 r) i9 s/ k
1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。 ) h1 x, q9 v; R; U2 u7 [) {% M3 C( S$ @$ i; r) B3 f P
それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。( b+ P( d! w/ b8 Q _
) |/ Q. _1 ]% y6 H いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。 & r) G2 O; H" m! C( Y 5 l2 b. J/ @! ?# @ どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。8 Q' s, j/ f5 u+ j
3 s& H+ ?! _0 J9 ~, y/ T* x+ {
当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。 / |3 x; Y+ b) {" J7 d 2 w- t+ r. m1 K1 _: x+ g 楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。 ! H! i8 ~% k; l" L+ C; q7 s" ^$ b# B' N+ P4 P, t8 m
まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。4 i/ L& m% x6 j: r3 T; E
9 }3 @/ G8 `$ _2 Z4 b: b0 f
党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。 9 X {; Z8 u' Q5 x |7 ^- B3 T v4 C1 G( }8 o
89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。+ H& H! ^: a% P: p3 r G9 K8 o. w
9 \4 t5 I0 a5 g9 m 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。7 ^2 o$ \$ {0 u& |5 f, R% W
' o0 J3 e9 e+ C' r& E, m1 l 4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。 w$ V+ {8 _: B; W5 b" B
) k E/ ]2 f; g% @; E
この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。 - h1 o; P, I/ \) |$ c0 u0 }4 ^( Y0 x5 u
「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。8 m2 b& A3 ~. Q) @
. A: `9 S0 `. y4 \( t. O/ j4 n 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。# E- N# N6 v6 q- G
9 a6 [2 n( ?* U) y j! K+ ]7 a
全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。* x: n. Z0 T, f, ]
+ K x( J5 Z5 f2 `& F3 s; a
この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。 # W3 H; q8 g" d' b $ D9 k# ]. ^' F% g% J1 | 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。 8 C8 `* r5 m! n* [7 f) i 2 {. c: i) W) c/ [& w' Z: G) w 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正); J' F" K6 C0 j, b4 j q
- l* N6 I* W+ F4 L+ q ■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。- V& H4 M3 o$ | l+ Z1 A7 G
7 {; J$ D4 F' V! P& E
(2007/02/26 07:41) 8 i# L1 Y, A1 X, X: b9 _* ]: v. I: J9 p ?* @& c' I) r
' }6 N; \1 ]4 p
. J2 m( l& O9 l1 t
, c" t- ^4 @, u
邓小平秘录:中共掌握王丹与李淑娴「谋议」 0 P n z# B& w( E中央社 7 U( T8 {0 m; n+ S. r2 |* U) [6 \4 B/ y( p
日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,中共保守派在学生发动示威至爆发天安门事件期间都一直认为学生背后有黑手在操弄,计画颠覆社会主义政权;中共资料显示,公安当局严厉监视学生运动领袖王丹的行动,并掌握中共宣称的王丹与方励之夫人李淑娴之间的「谋议」。3 M% B5 ~; [6 m
1 q* e7 o E) j: U5 i0 f7 T 连载文中指出,在一九八九年四月十八日示威学生与中共警卫冲突的新华门事件后,中共保守派元老对学生极为愤怒,他们的不满传至最高领导人邓小平的耳内,邓氏虽告诉当时的总书记赵紫阳将出席胡耀邦的追悼大会,但视情势变化有可能缺席。结果,邓小平后来现身二十二日上午在北京人民大会堂举行的追悼大会。 ) c0 D7 f+ \. [; f0 B. V7 |* I1 [/ i9 ~( d) k
中共保守派在学生展开示威运动后至六月四日的天安门事件期间,都一贯认为学生背后有黑手,有意利用学生来颠覆社会主义政权。但是,被指名为「黑手手下」的知识份子中有许多是在五月以后才参加运动的,而且是为了要求学生停止绝食抗议等行动,他们的行为和主张「有关当局捏造(不实指控)」大致是一致的。" \+ {( u3 ^) b5 W9 H. x' W
4 a! _9 V5 K. j: K" t 秘录指出,四月二十日,党政治局员宋平和副总理姚依林面谈时指出,过去数天的学生示威已有明显的征候,天文物理学者方励之的行动非常活跃,学生的背后有部分另有居心者在操弄。( M$ K, e! E# q
# W; y6 Z; V7 c* J+ c2 N$ ?( `6 U 1989年4月22日午前10時、北京の人民大会堂で故胡耀邦(こようほう)氏の追悼大会が挙行された。トウ小平(しょうへい)氏はじめ党、政府、軍首脳や各界の代表ら4000人が参加、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席(肩書は当時、以下同)が司会し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が追悼演説をした。 ) t4 L5 j+ }4 \0 H" s* @8 c2 q9 x! ]+ P
演説は胡氏を「偉大なプロレタリア革命家」と呼び業績をたたえたが、「偉大なマルクス主義者」は使わなかった。2年3カ月前の解任事件にも触れず、学生たちが要求する胡耀邦氏の名誉回復はなされなかった。「ブルジョア自由化」の罪状は重かったのだ。$ t1 t- D. s X
7 B3 u0 i( y2 y/ h
北京市はその日午前4時以降、天安門広場への立ち入りを禁じていたが、学生たちは前夜から数万人が広場に入って座り込み、胡氏の遺体への告別を要求した。当局側が大会の実況放送を流すことで折り合ったが、胡氏のひつぎは学生たちの待ち受ける東門ではなく西南門から八宝山革命公墓に運ばれた。8 ~! M, }+ X# m
* p8 t$ N5 \5 d) m 追悼大会に参加した人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は著書「六四内部日記」の22日のくだりにこう書いている。 / T* U; k! V+ a% I8 I% K4 {* |# G4 e' t( A$ B& n. X
「(周恩来(しゅうおんらい)追悼大会に欠席した毛沢東のように)トウ小平同志は来ないと思っていたが、トウ小平は毛沢東ではなかった。夫人や子女たちも一緒で、とても上機嫌に見えた。が、大衆の間の声望は以前の高さには遠く及ばなくなっている」 - J4 ] j( c$ Y1 G) c' p7 d4 ? m9 }7 n4 D0 ^: I# ?6 Q. q# P トウ氏は、追悼大会出席の意思を趙紫陽氏に伝えていたが、その後の情勢急変から欠席する可能性があった。張良編著の「中国『六四』真相」(明鏡出版社、以下「真相」)によると、学生デモが拡大するきっかけとなった4月18日の新華門事件以降、保守派長老たちの怒りはすさまじく、その声はトウ氏の耳にも達していた。 $ S, z- B! W9 J) Y! m3 r: y1 q. I8 z, {3 X( I
長老たちは「学生たちの背後に黒幕がいる」(彭真(ほうしん)前全人代委員長)「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」(トウ穎超(えいちょう)前政治協商会議主席)などと、学生運動の背後関係に注目していた。姚依林(よういりん)副首相は20日、宋平(そうへい)政治局員にこう話している。( M4 T$ z3 o0 M& {6 O
- Q0 j {: c# I; Y+ }3 \ 「今度の騒ぎは一部のブルジョア自由化分子が早くからチャンスをうかがい、(社会主義政権転覆の)計画をあたためていたものだ。彼らは学生の愛国の熱情を利用している。ここ数日の動きから、学生デモが動乱に変じる可能性がある」 2 ~$ |$ Y# ~6 c+ Q& y+ ?: l( f: w0 u, b* Q
これは、89年6月4日にクライマックスを迎える天安門事件の全過程で保守派側の一貫した認識だった。事件後に当局側が主張したように、社会主義政権転覆の陰謀はあったのだろうか。 0 a n- B J5 m, P0 N4 o0 g* ` e0 P0 l; \# q! o/ `" ] 「黒い手先」と名指しされた知識人の多くが運動に参加するのは5月以降であり、それも学生たちにハンスト中止などを説得するためだった。知識人たちは「当局側のでっち上げ」との主張でほぼ一致している。; w- K5 k& O9 B. f# E& w
7 Q) Q6 _0 q9 D b! ^
この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。& |/ b, i/ z! f) K4 `
0 G/ J3 q/ r# o0 [5 A6 D
しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。- K. ` b7 C0 ^: R
5 K6 T/ \$ I% J8 t. g
北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。& Z, n) K0 ^) I: p7 H/ u
" I n7 S) J# y, U' _! ~8 z/ C 王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。+ I% ^/ R+ U/ n J/ }0 o
6 w. M% B: v" u7 g, y, I
王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。 y0 Z% }- ^ i Y! f p9 W* ~& O: F% |$ C) V6 j1 k- W# D3 F- Z
それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。& a5 c1 n4 T. Y% R& u3 I) X! R, h' G
* g$ t/ d: \. ~% `) [1 i5 s' @7 l それに比べ、趙紫陽氏は楽観的だった。「真相」によると、趙氏の改革の同志、田紀雲(でんきうん)副首相が20日午前、趙氏に会い、北京だけでなく各地が不穏な情勢にあると伝えて23日に予定されていた北朝鮮訪問を延期したらどうかと進言した。それに対し、趙氏は言う。 0 q) d/ ^1 B+ e) b9 U+ w2 \+ J" f: R L! E3 X) H
「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」 8 }; i- w% N; o8 l1 b3 F 3 V; J, s, s. u, m3 W, f+ ~7 ^ 趙紫陽氏は23日午後、専用列車で平壌に向かった。30日に帰国するまでの間に、国内情勢は大きく変わっていく。(伊藤正) 5 U8 M) H Y8 W2 _1 S; V / t N# w4 Y% a! h. m◇ 5 y3 ^7 |- a/ u7 \5 s % H7 s" k4 f1 K9 u1 K; m; s, }4 L& @【用語解説】八宝山革命公墓' H" L, R( \1 x6 C# a& f
1 ]# J$ ~7 ~! z; z6 ^
北京市の西郊外にある国立墓地。新中国になってから革命功労者を弔うため、明代創建の護国寺を改築し革命公墓と名称を変えた。指導者や高級幹部が眠る。1950年代に火葬が法令化された後、遺骨は納骨堂に置かれるようになった。火葬場を併設、胡耀邦氏もそこで荼毘(だび)に付された。 % {3 X' t1 D1 A6 T9 c# w ; K. n7 C- ]/ P& d(2007/02/27 08:08)作者: 日月光 时间: 2007-2-28 10:46
邓小平秘录:赵紫阳误算保守派学运政策4 J& m+ I7 H/ o6 V0 B& E/ \" F
7 ^) l' h( D0 d(中央社记者张芳明东京二十八日专电)日本产经新闻今天在连载中的“邓小平秘录”报导,赵紫阳对一九八九年天安门事件前学生运动的看法和保守派形成对立,他认为学运发展有利自己夺回实权,未料到保守派对学运采取强硬对策,他的误算造成了后来自己的下台。, {# k) U$ r b( I: ^2 W
' V X5 ] d4 Q- o3 @5 i; g
文中引述张良编著的“中国六四真相”指出,一九八九年四月二十二日胡耀邦的追悼大会结束后,赵紫阳总书记在人民大会堂和邓小平站着谈话,他表示将于次日访问北韩,询问邓氏的指示,后者要他好好向金日成问候。 2 K j- Y+ u* T$ X, H2 b: ~赵紫阳随后指出,已向政治局提出三项建议,追悼会结束后要断然阻止学生示威,严惩破坏行为,以及对学生主要以指导为主进行各层次对话,邓小平表示同意。赵氏接着表示,访问北韩期间,党中央事务交给李鹏总理负责向邓氏提出报告。 # H' D& ?1 [: J& O. t+ e4 P) \( d9 _! _ P9 o- N# i% u8 \
随后,李鹏问赵紫阳是否在出访前夕的二十二日下午召开政治局会议,一旁的北京市党书记李锡铭也指出,党中央有必要作出明确决定,赶快阻止学生示威运动的发展。赵紫阳回答表示,已无时间,学生示威问题应无须召开政治局会议,并指出他已向邓小平说明三项对策并获得同意。0 H" S) v8 Z& t+ l4 R' W9 p
! F* v! [: ~, z0 I2 \赵紫阳对李鹏等重覆三项对策,并加上一句,强调无论如何必须避免流血事件,一旁的国家主席杨尚昆表示赞成赵紫阳的意见。李鹏表示赞成赵紫阳的三项意见,并指出若有重大情况会随时通报。表示没有时间召开会议的赵紫阳却于二十三日下午启程前往北韩之前,前往北京郊外的高球场打球。( z) [ _) i/ G( d) y5 h
. r" z% x+ B9 @+ ~
赵氏在天安门事件后的六月二十三日召开的党十三届中央委员会第四次大会针对李鹏指控他容忍放纵学生示威辩解指出,学生要求拥护宪法、推动民主及反对腐败等与党和政府的主张基本上一致,学生的热情贵重,社会各界的支持很高,他个人认为要平息骚动有必要回应学生的声音。 9 j- u( j* g, u/ {. X! j% v' V& L: g/ {- J
“秘录”指出,在针对学生示威运动是采取“无产阶级自由化”份子用来颠覆社会主义政权阴谋的看法抑或是学生只是为改革开放造成社会矛盾提出异议的看法,赵紫阳是立于后者的观点,和一九八七年一月被解职的胡耀邦是同一立场。+ P: N: \+ }$ J4 D" z- B
& A) a+ O( `6 T
渡过无数权力斗争考验且深知邓小平等元老保守思想的赵紫阳何以作了危险的选择?文中引述赵紫阳于公元两千年五月接受新华社记者访问的发言指出,公安人员针对四月十八日学生前往新华门示威事件拍摄的录影带显示在队伍前面的数百名学生遵守纪律,且二十二日的胡耀邦追悼大会,虽有数万名学生聚集天安门广场,但整体而言是守秩序,并未发生任何事情。 ! u1 p2 D$ B% o2 ?; ~4 N. S: E ! x3 D8 M. G" w& D5 G5 Y+ A“秘录”指出,赵紫阳对学生示威情况的看法和李鹏等保守派形成对比,他私下一定认为学生运动是针对保守派而有利于自己,提供挽回一九八八年秋天以后所失去实权的机会,若访问北韩期间,事态能够加以收拾的话最好,否则将是轮到自己表现的机会。7 U* g1 B1 i3 p( `3 ~
4 m. U: N, j2 f
赵紫阳的误算是他出发前往平壤不久,李鹏总理等召开会议,决定采取强硬方针,封锁学生示威运动,当时最高权力者支持这项方针。 0 N2 t! G( m$ ~8 i' t2 E! D. f) ]$ S) u$ h: b+ f4 ^
【トウ小平秘録】(15)第1部 天安門事件 危険な選択 / \) D& c+ e5 d" Y4 J4 v+ @5 Z4 T( F+ o& B1 B
見通しが甘かった 0 n! }( t @# E& Z% R. n' G3 h$ i1 _1 x8 x. M$ \0 V
「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」. s- i( {% w0 \7 c+ V1 U- c' I
0 _4 P! m6 G; v4 l* h! k/ Y 天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。, H/ J" }1 B4 J X+ O4 ^
, {" w p& c7 ~2 B5 M
「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。0 h: z7 H5 C. c
; p; M2 [# R# L 張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。 6 I# C1 m( n* d- a( k6 D" e& Z# y. O+ _0 }' X9 Z; D' R8 s* l2 N
趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」1 Q$ ]3 r% b" C* i _; w! x. b4 l* F
5 w- {2 T2 d. r6 m
トウ氏「金日成(朝鮮労働党総書記)によろしく伝えてくれ」$ P7 |4 i" Q* n
, d2 ~1 X4 G0 f& _% e @% ]
趙氏「今回の学生運動については政治局に次の3項目の提案をしました。(1)追悼会終了後、学生デモは断固阻止し授業に戻らせる(2)破壊行為に対しては法に基づき厳罰に処する(3)学生に対しては指導を主とし各レベルの対話をしてよい」 $ E1 l \9 G; b9 Y. C: b 4 I4 C% U6 X' R4 q$ w トウ氏「結構だ」 / n9 H7 ], x( I# l6 z4 E* I ' n6 P2 R, C. v8 J1 S2 T* l( @ 趙氏「私の訪朝中の党中央の仕事は李鵬同志が責任を負い、何かあれば報告させます」 / C8 {. u" l" s m 0 Z* ?% f5 ?7 I8 I- E' x+ g8 J その後、李鵬首相が趙氏に言う。そばには同じ保守派の姚依林(よういりん)副首相と李錫銘(りしゃくめい)北京市党書記がいた。7 E* q+ |4 f K3 A: f! J3 x+ D# E
p" E+ t _! A( T0 e
「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」 8 z; {( E: X( n& h/ n* D : d$ g0 T9 a& u; d; F, Y 北京市の李書記が続ける。4 V9 s% t6 B! z$ y6 [ y
1 V: F# v! m* w- S# z 「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」0 ? H# E( {( f* v
6 s- y9 D+ u9 K それに対し趙紫陽氏は言う。 + x6 x9 J. k9 w3 o7 U6 Q. H$ S7 x- h. i: h! l' W6 @9 k+ t/ x6 ^
「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」 0 t: b) ?: i% k+ I0 ] h ( `0 v0 T3 c& \, D6 W( `6 Y# q 趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。 ; v: e% d/ k4 g 9 P9 y- d" y( B$ e$ r: Q& \ 趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。" |7 P# [( d' N& a( e0 c
; a9 X: H8 J" B
「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。3 @, ^- e4 _- X: k5 \, g* l2 s
) _4 v* P# G% h8 c
4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。6 u* g% O. X5 b5 H% \8 `- _/ {. I
, p: `1 Q+ d7 @; v* M5 [% ~ 「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」& T- z6 w$ ~$ f
- F$ b, z, i6 H" ^1 H
学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。 ' {/ V% y2 H0 |: a, r: {+ Y T- M; r3 |7 O. B7 R1 m8 W# t 数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。: p) e- B( f" m8 v
4 Q" e- e/ W$ k9 U* X0 B/ |
「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」 # J; Z7 V% P' q) ^/ F * W/ ~2 F: I; |" } 李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。0 s$ f: z, D1 C8 }9 |9 e
7 s; g; j8 k+ m! G
趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正) ) z5 r! X- ]7 y. I7 O ! k* L3 Q6 c9 e5 @# D ■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。 . }: g6 l$ }: s( C1 q& G% b# W* c, r1 y
●=くさかんむりに内 7 T- x$ ]% k& Y- g, k' {6 o; N3 U p* Y- i3 X* P/ R% h& j
(2007/02/28 )+ k9 V$ O7 r3 |8 R; K$ A8 [
6 m3 G% p9 B y* O8 l(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。 - n" s2 s Q+ H5 q* n ( C/ }1 L( `7 N由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。 ( r. M8 ?/ r% \* O! H& F& ^“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。 7 {) q" P7 |' ^/ @1 L6 m, d/ [2 N4 [( R( e y! Y# W
“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。1 R2 ^. C- h3 y
) H. U& v/ K Q) W2 `. h8 C9 {
另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。: S ^* O% Y3 Q1 ^. W3 l6 W; S
; f. e9 K; o$ _; H6 J, y
“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。/ t1 o& k7 K3 c: j0 g
1 B( G4 y& p$ F/ {' I1 r
“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。) _! K1 s* g1 t Q7 _
1 b; `4 `# d. @. S) z4 ?
于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。# H7 x1 B0 i: s: S/ @( P
% k5 j* g- `3 G, s3 `- I& l4 u
不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。 " N" _& u' M4 C7 t# D; M! E! k& x' F7 ]3 K+ ]& F: ?6 I2 k: h* H
“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。9 U; i8 l* c( k2 c
! K" w: e9 A. a$ {% D" N
【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 8 Q7 N; h( l2 s% U% _
- ?( }( h: \# \2 _' ~( k5 C8 {* X
■指導力 試される : I( v( S( I5 c& {& C8 `" }' |/ M' r0 ^9 ^
1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。 3 X9 W4 o) A/ m0 z2 ?/ W ' _# k2 I9 R. h/ g- @1 q2 ` 23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。 9 ]9 c/ S# |( J/ N7 r& D V) e ' [+ o S' b" z( m1 b 「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 ! Z m5 k( U2 K( @* J" f/ G3 _2 B7 }& z B- v) Y5 z" f9 ^
「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」/ k- Y1 \+ i' o. B+ c* T
; C f t+ G: `. T8 a8 v
5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。 : q g$ A- J8 R! g& V$ |1 R5 S1 [* I. z* ^" l
趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。 ( R2 A/ Y7 R4 X( v6 ? . S; a% F. }' ` 会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。6 ?) o H0 W" D p4 G
* o2 ^' c$ U1 B5 \
一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。 2 z# }. l* r) O* m9 n5 d' A ( t9 d! b( e* Q% ~6 K" ^ 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。8 Y g! Q+ ?$ n& w' y" T
: G& X+ ~+ ?. z3 R 趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。 5 S p. i2 d* z' }+ i 1 e" J; M( x4 r9 T 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。8 j8 a9 C: `! X! H1 S' M# n6 T% U
8 k0 B1 D' D. N0 B$ j9 I' s 「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」6 X( u/ p8 L( S7 ^; |; x4 Q
& D* J+ D7 X( R
中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。 ! L' e7 d A8 n; b 6 }, H2 G$ m& A- m2 n0 H 趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。 " f1 R; W5 N3 s$ i7 ?0 ?6 s. e' U" {5 y, Q D2 \1 s* j3 N
「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」 4 j5 L: d# `7 \7 }( q8 R# H7 D4 y* p3 z+ L9 y
学生たちの要求にこたえ、党への信頼を回復する考えだったが、学生デモを「社会主義制度に反対するブルジョア自由化」とする李首相は、「一部学生は4つの基本原則に反対し、自由化を叫んで小平同志らを攻撃、非合法活動を続けている」と激しく反発する。5 c0 t- M7 L6 G8 l
# @5 l' r8 ^! K- e 趙氏は「一部にそうした連中がいるのは事実だが、大部分の学生の要求は党と政府の政策に合致している。何よりも今は事態を早期収拾し、安定回復の必要を学生らに理解させるべきだ」と突っぱねた。 ) y3 r/ T0 ?0 `% d8 h# V ; q9 q% u! h( h9 f 会議は、趙氏と李氏が激突した後、閉会した。両氏の間に敵意が燃え上がった。 (伊藤正)5 Y& G% q, I( r; c
; T- ?6 F( r" ]" U3 l1 l. w ◇ ! i1 _5 E9 _& m6 L + E& R! q1 L+ y9 g% c6 f( T【用語解説】五四運動 $ W: w7 j- D! L. N+ W8 w5 L( R3 n" K, E3 G3 G
1919年5月4日に北京の学生らが起こした反日愛国運動。第1次大戦後のパリ講和条約で、山東省の旧ドイツ利権を日本に引き渡すことに政府が同意したことに抗議し、学生3000人が天安門に集結してデモ行進、親日派官僚罷免や日貨排斥を要求した。これを機に各地に運動が拡大、学生や労働者がストに入り、政府は講和条約拒否の声明を出した。 ! ?5 l F0 Z4 r" d2 i0 C5 E
邓小平秘录:赵紫阳透露中国仍由邓掌舵 : a% ?7 r! m, u, m& A4 R3 ]. W; O+ F/ z
(中央社记者张芳明东京八日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳于一九八九年五月十六日,在和访中的前苏联共产党书记长戈巴契夫举行的高峰会谈上透露,邓小平虽退出党中央委员会,但中国的重要问题仍由他掌舵,这项发言后来成为保守派攻击他的罪状,也造成他和邓小平关系的破裂。 0 F T4 t# K; p4 z& ?; X ( G$ M9 M# v$ i5 J“秘录”指出,北大学生在天安门广场进行绝食抗议的第三天,五月十五日,前苏联党书记长戈巴契夫抵达北京访问,由于天安门有五十万人示威,欢迎仪式改在机场。戈巴契夫于十六日上午和邓小平会谈,下午则和赵紫阳会谈,赵紫阳在会谈上指出,邓小平是最高领导人,中日关系在上午的会谈已关系正常化。 1 `9 n3 d- {4 P! N. e7 I- [, o* y1 a9 _
赵紫阳向戈巴契夫说明理由指出,一九八七年十月的第十三届党大会,邓小平虽退出中央委员会,但随后的“一中全会”决定最重要问题需由邓小平掌舵,自那时起,重要问题的处理都必须向邓小平报告,请示他的看法。赵紫阳的这项发言重大,后来成为赵紫阳的罪状,李鹏等指摘赵紫阳泄漏党的秘密决议,把斗争箭头对向邓小平,造成情势更趋恶化。 7 Y- z3 G$ O1 u9 }7 |$ N! L! ~# W9 H) [ Z
新华社记者杨继绳在“中国改革年代的政治斗争”指出,许多人听到赵紫阳对戈巴契夫的说明之后,都认为赵紫阳潜藏让邓小平背负局势恶化全部责任的意图,赵邓之间的关系为之破裂。赵紫阳的发言经报导后,学生开始攻击邓小平,反对“垂帘政治”,要求老人引退。 2 k6 r8 W7 Y; j- t$ }/ ~7 ^7 e5 \5 M4 y2 @& K
赵紫阳和戈巴契夫会谈后的十六日傍晚,党中央统一战术工作部长阎明复在天安门广场呼吁学生停止绝食,约两千名绝食学生接二连三倒下,王丹和吾尔开希两人提议要求停止绝食,但是绝食学生精神高扬,学运已经失控。 ; G" o: h! k, @: H x9 Z4 B' t. _+ t; q$ M" n
十六日当天的示威达五十万人规模,劳工、文化界和新闻界人士参加的人越来越多,大学中大半学生再次罢课,赵紫阳主导的柔软路线走入死胡同已是明显可见。当天晚上,在政治局常务委员会上,赵紫阳和李鹏等激烈争辩,赵紫阳仍主张修改人民日报四月二十六日的社论来解决事态,但是,连过去支持赵紫阳的乔石和胡启立都表示质疑,列席的杨尚昆和薄一波也反对柔软路线。 , B* v2 s/ M1 Y# v' S8 u2 Z 6 C, q, Z) A2 B: d赵紫阳和学运一样,逐渐失去退路,欲情势逆转唯有即时中止绝食。赵紫阳在十七日凌晨代表党中央发表书面谈话,肯定学生的爱国热情,承诺党和政府不会进行报复,要求学生中止绝食,回到学校和党中央及政府进行对话。# S( ^# u h+ y. C" @# J
' @+ F' @; K7 K4 g2 h) r) {
陆超祺的“六四内部日记”指出,十六日傍晚,人民日报社长钱李仁和拿着中苏会谈照片前来报社的杨尚昆长男杨绍明见面,拜托后者说服杨尚昆让赵紫阳的谈话刊登在人民日报。党中央于十七日凌晨透过新华社把赵紫阳讲的话向全国报导,但由于并未对学运定位“动乱”予以否定,效果令人质疑。8 V' v$ E; p7 H2 t1 A" c$ e
" Y- \& [! _$ L) U# f8 P4 [
赵紫阳于十七日早上送函给邓小平要求见面,希望邓小平能修正四二六社论,他把这次见谈视为最后的希望。“邓小平年谱”指出,十七日下午,政治局扩大会议在邓宅召开,除常务委员之外,杨尚昆也出席。 6 o2 ?$ H- h% d) ?. U' t' a* f% `$ J8 r! u& z# w4 z
赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。 ) n; u: w0 z0 q) g2 Y0 `. _- V$ X7 v" p
【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談 $ p& B2 p" @8 O" M # D `+ C3 c& p3 h& e北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。: ^9 I, Q$ x& k2 z3 ^* ~# f0 T
7 r5 q( X1 v$ r4 f4 h! R6 s M( K
宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。 ) C( b6 D0 `: h$ @- {6 u * g3 G9 D# ?( m' `/ r3 |( C ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。 ( k. ^9 g3 q: k( F5 {: @8 B; C8 z- M6 ? j- j
「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」( D3 @/ Z, `0 b/ n7 M- Y- {: T
3 r% n- M+ K% Z% {8 P
重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。, d, k7 @0 P! K
4 q( g( w4 ~+ x9 e: h
趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。 ( L" O/ q4 Q; x; |5 N3 ]( l. @+ L ! b3 a& ^2 V9 h) `5 | 鮑氏は「李鵬は(学生デモを反党的と断じた人民日報4・26社説の)『動乱』規定はトウ小平講話に基づくと言いふらし、とっくにトウを前面に出していた」と趙氏を弁護したが、タイミングがいかにも悪かった。 6 J1 e6 |2 N! ?$ E8 e$ n; D ; x; R: I( k3 F6 {! T4 J 新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は「この談話(趙紫陽氏のゴルバチョフ氏への説明)を聞いたとき、多くの人は、趙紫陽には局面悪化の全責任をトウ小平にかぶせる意図が潜んでいると考えた。これでトウと趙の関係は決裂した」と書く(「中国改革年代的政治闘争」)。$ ?& P; q) R0 M5 L' D' a
0 I6 S. [% Q$ `/ x R
その報道の後、学生が「垂簾(すいれん)政治反対」「老人は引退せよ」などとトウ氏攻撃を始めたからだ。 - \, l$ w: g1 o" y& t/ X! h# s2 [$ Y& j6 Y( s! S) ?
趙氏とゴルバチョフ氏の会談が終わった後の16日夕、天安門広場では、閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長が絶食中止を必死で訴えた。約2000人になった絶食学生からは病人が続出していた。8 t4 s3 d" g7 l6 T
- }' _" ~1 e$ Q' A
北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ両氏は動揺し、絶食中止を提案したが、拒否される。世間の同情と支持、メディアの注視が集まる中で、絶食学生らは高揚し、運動は統制力を失っていた。 ' A. J J$ ]1 R7 \% g 7 X( I+ O, g: a; P この日のデモも50万人規模になり、労働者や文化人、ジャーナリストなど、参加者の広がりが目立った。大学の大半は再び授業放棄に入った。1 |! z$ ^- R y9 s, C! e8 X0 a$ q
- u, ~. ^# E4 E2 K8 w 既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。. b& ^4 i3 s- ]4 U& n% @! Z3 K% b
) V6 u# Q! U# J, \7 w/ y しかし、それまで趙氏を支持していた喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)両常務委員は疑問を示した。常務委にオブザーバー出席していた、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と薄一波(はくいっは)中央顧問委副主任も柔軟路線に反対した。, {' _( `$ a- n! C5 x& A) ]
8 }8 O ~- j# R& r 学生運動同様、趙紫陽氏も退路を失いつつあった。形勢逆転には絶食の即時中止しかない。趙氏が17日未明、党中央を代表して発した書面談話には悲痛な響きがある。 # s9 O% C/ T& e' O" D D& w 6 {8 k# W# K( c, g 「学生諸君、君たちの要求する民主と法制、反腐敗、改革推進の愛国の熱情は尊い。党と政府は決して報復しないと約束する。諸君が絶食を中止し、学校に戻った後、党中央と政府は君たちとの対話をさらに進める。再度お願いする。絶食をやめてくれたまえ」 5 m8 D8 l, c8 E# `5 \' c2 [ ! i$ }, R; i0 c/ L- v: Z 陸超★(りくちょうき)氏の「六四内部日記」によると、この談話は16日夕、中ソ会談の写真を持ってきた楊尚昆主席の長男でカメラマンの楊紹明(ようしょうめい)氏に人民日報の銭李仁社長が会い、趙氏の談話を同紙に出すよう楊主席への説得を頼んだのが発端だった。党中央は17日未明に新華社を通じ全国に流したが、学生運動の「動乱」規定の否定を否定しておらず、「効果には疑問があった」(陸氏)。 ) u! Y) v8 [7 b8 d% T: G2 \$ a, c7 S
趙氏は17日朝、トウ小平氏に面会を求める書信を送る。トウ氏に4・26社説の修正を受け入れてもらうためだ。趙氏は面談に最後の望みをかけた。/ k+ \1 G$ D. }2 e. _3 g) B
5 ]+ z D; z. h9 g6 p; A: F* [3 R' w 「トウ小平年譜」は「17日午後、住居で政治局拡大会議」と記している。その通り、トウ氏宅には李鵬、姚依林、胡啓立、喬石の常務委員と楊尚昆氏も集まっていた。 8 ~5 z. j9 E# n' o4 Y" a; V0 K! l I, O7 ~1 x5 H
「私が面談を要求したのに、トウ小平は彼らにも通知し呼んでいた。私の意見は聴く気がない表れだった」と趙氏は92年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」開放出版社、07年)。 4 g1 o) _% f, n . ^! K* e: j; i1 _+ v6 r トウ小平氏は既に重大な決心をしていた。# J6 o0 P- `8 e5 Y. U) d
/ \0 i. y5 _9 i$ F 天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。: }7 ]* x4 E. V* w0 i6 z' o( u
+ O4 m }% {5 w 19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。+ u5 T! u7 W: X- E u" U
6 C% R# G0 j/ b' I 「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」 . W3 A) R1 ~6 G! o5 Q5 i- M) h; A& b" a! l" R6 S4 p
学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。$ A( P: q- d0 M
E3 t. _! P2 N1 z! ? 朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。1 ?. J. L% U B9 Q% k# M
' I) h1 P, `' [4 a
「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」4 S% P0 K0 `8 V& s# y
! [5 _0 l& e s9 D6 s7 t; r 楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。 : t. p2 t7 A7 F- H! b2 A$ T4 U" c7 j% [
李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。' |5 d1 R" G9 K; H
, l9 `. T5 Z; z2 }2 L, b& T2 k
趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。 & r' C7 D) K3 g& W$ ~ # |: H1 x* p [: a% u- j2 D 絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。 8 Q* i E, v0 s5 G, L , I- h2 h( z. h 新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正) 0 y8 |/ @ C3 o0 U& V7 t! z& ?, b; q+ S" k+ y$ R# @# X- b, m
◇& O! t! x: e8 o! B/ E$ f
* K( o1 P' I# C4 p& W
【用語解説】中央軍事委員会: v. E' |7 a2 q" G6 I( v$ b
1 s. k( e5 u3 e5 s: t" e/ N 最高軍事指導機関で、トップの主席は軍統帥権を持つ。党と国家の2つに分かれているが、実質的な違いはない。トウ小平氏は81年6月、主席に就任。当時は党副主席で、それまで毛沢東、華国鋒と党主席が兼任してきた前例を破った。87年の党大会で中央委員を辞退した際、党規約を改正し軍事委主席を続投、江沢民氏も中央委員引退後約2年間、主席に留任した。戒厳令布告は首相権限だが、軍動員命令権は軍事委主席にある。2 R( W4 S& w n5 l3 D/ d+ m
$ ] r+ u# [# V1 N. V: z0 {( v! ?(2007/03/10 ) . J( [* F2 Z0 M; X# w1 L% y' L
! D8 b' Z) v3 E, m; c * `# A) P" b$ O4 |8 t0 _/ H# k' Q # c9 R0 d, N" ?! v( F1989年5月19日未明、北京・天安門広場で学生たちに絶食の中止を訴える趙紫陽氏。右後方は温家宝・党中央弁公庁主任(現首相)
邓小平秘录:八大上将曾发声明反对镇压学生 7 e, N! |2 M, T1 m9 @, t- ?2 U3 X& ~- `. ~/ z
(中央社记者杨明珠东京十一日专电)“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月,当时的中国总理李鹏决定于二十日上午十时开始戒严;第二天,前国防部长张爱萍等八大上将希望透过“人民日报”发表反对戒严的声明,但后来声明遭到封杀;参谋总长迟浩田告知“人民日报”“绝对不准发表”。- ^& O. S$ s# t h8 I
& [! E% s: h4 W5 L秘录指出,一九八九年五月十九日晚间,李鹏在党、政、军的干部大会上,预告将发布戒严令的画面,从二十日凌晨起在国营电视台播放;在这项干部大会上并未见到总书记赵紫阳的身影,许多人察觉到赵紫阳的异变,也渐对李鹏起憎恨心。后来,李鹏在国务院命令上署名,戒严令将从二十日上午十时在北京部分地区实施。* p: _. [$ V' P4 f5 W \
( { w# j/ h# a0 M, W
二十日,北京军区的第二十七军、三十八军先遣部队装甲车多数遭男女老幼包围之后折返。对军方颇具影响力的前国防部长张爱萍等八位上将于二十一日发表声明说“人民解放军军队属于人民,不能实施镇压、不能对人民开炮引起流血事件,为了避免事态恶化,军队绝不可进军北京”。8 y# o: o2 `) e j: P; D) `. V. Y
0 r; W. F$ h* Z$ c: u
这份声明由张爱萍的女儿透过中国社会科学院某研究院传给人民日报,该报副总编陆超祺告知迟浩田,但是三十分钟后,所获得的回覆是“绝对不准发表”。: k- Y- i3 B, u* B& a2 M- R: C
' K3 U4 D7 w. b; g) e; B 1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 ( B: A7 {1 X9 w' H; h U, E7 N
この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。' w9 d6 ^9 \# ]
0 Q$ y* @$ F2 R P0 p _& j, v1 L+ H& K
李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。 & u, v& y- G. o y n; m. z3 C' @/ l ≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫9 Y2 S6 X. r$ Y i) w7 a
$ d0 ?% L L" h ^7 c I+ R8 ~0 c
その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。/ O! f1 ~: S; O- A4 j
, c# c5 M" L/ W1 F, E7 L4 s1 p
若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。 , c9 ` C% v: [5 {9 c2 B0 N; s/ l . o) r! ^: @+ |: ^ W a 動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。* ~* v; c8 u/ W: C7 M
/ h8 e$ X% K4 E4 @6 `$ b 楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。, I+ l8 W' Q) z" E
( U, C3 x3 s+ d' _7 S6 @6 G7 h2 A 戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。 % a9 S9 V u Q2 q' v ) _0 v8 n; o1 L& p7 Z/ I' \ 「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」3 C b) p% M2 ~& Z
: H6 s( ?! ?( d
人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。* p9 F) [" D( S/ H$ `) E0 A& H2 ^
9 |+ N# G. s+ o3 W 8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。$ K& R+ n( V5 F1 ~
6 G x4 s. N9 S# W# L
掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。 1 L q7 v! b% [2 q a 1 O! n; k% R6 ^, c6 @- A1 t/ y 同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。 9 S+ E+ Q( k$ Y8 F' P+ M / B. u- ~- j5 Y2 R: y5 B" f その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。 ! F( L; I+ ~, ~6 m( q3 F * J, g$ E5 z9 t5 f3 j 市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。; E! H5 b3 S# {+ n; |5 b4 K
. k' Z9 K) @2 g
「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。) T' h- Q% t& m: t, ~
6 ?* [" D& w, j5 J
「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。 ! {, l! H) `' r' f" R. T2 @" n" U* d! Y) s6 @6 w
「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。 1 W: s# l, o; |& K, d ' N4 H }% F* h( M 「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」, q& D* T2 N0 x7 _4 I: k5 |
+ o' O& ~+ V4 f9 C# U
党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。 2 A: o& X, R" s* W 7 m+ K. W0 e; O) V- N, d1 P1 v+ H 一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。& x4 E. D" X* K/ i% |
! t W7 c7 C1 N. D7 g 「真相」によると、トウ小平氏の指示で、党中央は22日、トロント滞在中の万里氏に「米大統領との会談(23日)終了後、速やかに帰国し、しばらく上海で休養するよう(との指示を)決定した」と至急電を打っていた。同時に、上海の江沢民(こうたくみん)書記を23日、北京に呼び、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が江氏に対し、万氏への説得工作をするよう指示したという。# y }: s4 O- A( L4 q5 O
* R6 f5 T9 r/ | 《万氏はこの件を含め、天安門事件に関しては沈黙を守っている。趙紫陽氏は97年7月、友人の宗鳳鳴(そうほうめい)氏に万氏への怒りを表し、事件への態度を明確にすべきだと述べている(「趙紫陽軟禁中的談話」)》 " B* R! b) h7 o6 n% V, R w5 }7 Z, w" f' s [5 I/ B6 r
万里氏の帰国問題は、トウ小平氏ら長老のリードの下、李鵬氏ら強硬派が事態をコントロールしつつある表れだった。各分野で締め付けを強化、天安門広場の「清場」(学生一掃)への準備が進む。' a& o+ c! W" S2 S$ K
6 [/ n$ ^' h* x5 l/ o; V! ^
人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、新成立の「宣伝協調小組」(組長は王忍之(おうにんし)中央宣伝部長)が5月23日、各メディアに対し、すべての報道は「(戒厳令を予告した)5月19日の李鵬、楊尚昆講話と一致しなければならない」と通達した。 . W- h# _. h6 v/ _6 ^" j) s5 i/ ]* D: [& \2 \; h
その23日、北京では戒厳令後最大の数十万人デモが行われた後、各官庁、職場にデモ禁止令が通達された。24日以降デモ参加者は激減する。 8 `1 `$ Z) r" L0 Y0 V. ^; {, T# A; }0 ]& N1 D5 u/ W. e! V
楊尚昆氏は24日、全軍拡大政治工作会議を開いて、戒厳令に至る経緯を説明、動乱を制止し秩序を回復しなければならないと思想工作の徹底を図る。5 a d& N/ S+ ?; q6 d
- {" Y+ N; J5 q6 b u
長老らの動きも顕在化した。陳雲(ちんうん)中央顧問委主任は、23、24両日、李先念(りせんねん)政治協商会議主席、彭真(ほうしん)・前全人代常務委員長、王震(おうしん)国家副主席、薄一波(はくいっぱ)顧問委副主任氏ら長老のほか軍長老と会談、薄氏にこう話す(「陳雲伝」「陳雲年譜」)。 % y( H3 j4 Y3 L# s' ~7 d S0 H! `: [5 ?. y
「この局面で、引く余地はない。(デモを動乱とした)人民日報社説は、もう少しブルジョア自由化反対を言うべきだった。今やわれわれ老同志が発言しなきゃいかん」 " E; k& T) k, a' | ' R; Z4 d% k" o' [- F. ^ y* I 陳雲氏は26日、顧問委員会常務委会議、李先念氏は27日、政協会議主席団会議をそれぞれ招集して演説、彭真氏も26日、全人代副委員長7人と座談会を開き、戒厳令支持で意思統一を図った。 1 T& P6 _3 m/ h8 c( z, O" i0 ^; O/ k1 e- `' K: F8 M
知識人たちは、武力行使が近いと予感し、学生たちに広場撤収を説得し続けた。 + U c% [9 k, b+ t" P4 ?. i4 T6 T7 a/ E+ k1 A+ T
いったんは撤収方針が決まるのだが…。(伊藤正) 4 {, Y: c8 L ]! r0 m1 E v: g* a" f+ q9 ~5 g" f9 B ■全人代常務委員会 国家の最高権力機関とされる全国人民代表大会(全人代、国会に相当)の常設機関。委員長、副委員長、秘書長、委員で構成され任期は5年。年1回開催する全人代の閉会中、憲法の解釈・実施、法律の制定・改正、経済計画案や予算案の修正、戒厳の決定などを行う。( n7 _, p' p/ k l" N3 z
. \, M6 \/ f( x8 Y. i/ u; T●=彫の周が丹/ |4 n/ k; c; O* j5 J9 S
% r9 _7 H) |( u, V
(2007/03/13 )
邓小平秘录:共军血腥镇压手无寸铁市民 , C- K. O* W, M3 [$ W$ O1 {& g 8 }9 Q+ E' J e( V0 j7 g! x S(中央社记者张芳明东京十七日专电)日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,中共北京军区主力部队于一九八九年六月三日晚向天安门广场前进,沿途对强烈抵抗的市民开枪。一名新华社现场采访记者曾在日记写道,那是场「真正的战争」,问题是那是场正规军与没有武器的市民之间的战斗。 ; W, I- y& E- \8 }- p) B. l 1 _8 Z( Q6 P$ v( l& ]「秘录」报导,以河北省保定第三十八军为主的北京军区主力部队在装甲车前导下于四日凌晨一时稍后进入天安门前,部队是于三日晚上九时稍后由西长安街西端公主坟出发,由于遭遇市民的强烈抵抗,前进至天安门总共约八公里的距离,花了四个小时。 . j9 L& o* [ ^& u0 n 2 C7 Y; _4 l. _( |) }! Y部队和市民最初的「冲突」发生于公主坟东方两公里处,市民以并列巴士和车辆放火等方式抵抗。部队在晚上十时二十分左右开始开枪,天安门前也是如此。另一方面,同样遭受强烈抵抗的济南军区第五十四军几乎只对空开枪,北京军区第二十四军和渖阳军区第三十九军等也未开枪,放弃进城计画。' z/ v; @3 q! |* `
4 r2 Y: ^- u7 w第三十八军等部队获得开枪许可的经过迄今不明,由邓小平事前指示「不得已的情况下可使用一切的手段」来看,可视为现地指挥队的判断造成各部队对市民的抵抗采取不同的因应措施。 Y; e6 S7 a5 w/ b" p q: b7 w8 o- A$ p' R: Q" I/ M
戒严部队四日凌晨三时前几乎全面控制天安门广场和四周,四时开始进行最后通告,将实施「清场」。但学生总指挥部所在地的人民英雄纪念碑和周围,仍有以地方学生为主的三千多人在强烈抵抗。 2 R' N! \$ t6 w$ r# G: k 0 H8 ^3 j% n, i. Z( e9 H# O在此之前,二日晚在广场开始绝食的台湾歌手侯德健和北京师范大学讲师刘晓波等四人呼吁学生撤走,但遭到奚落。四人在商议下,侯德健两人已私下和戒严部队指挥官交涉,取得不抵抗下撤退的安全保证。 ' n \. _$ H. o) P9 S! Y " v- S& N c0 Q3 I* r3 B5 f1 B A+ w# z凌晨四时半左右,持枪的数千名士兵包围纪念碑,侯德健向学生演说,公开和军方交涉的结果,呼吁不要再有更多的流血。但是,学生们的回应是一起怒吼,刘晓波等的演说也是没有效果。 ! d# J9 { X2 n _' T9 O / M2 A! S4 X; i% s# N* P7 G1 c9 V8 h不久,出现数辆的装甲车,由扩大器警告学生退出广场,预告将使用武力。侯德健等提议由发出声音来进行投票,因赞成占多数而决定撤出时已是四日清晨近五时。所有学生完全撤退是在清晨五时半。) B8 x8 g, W) C. ?2 U
! p. _& M5 B" ~3 v
天安门事件的牺牲者人数有各种说法,总理李鹏在一九八九年九月对访中的已故自民党干部伊东正义指出死亡者三百十九名,包括十数名士兵。其中,学生有三十六名,大半是市民和劳工。/ ?$ G* y- b/ A# ~1 x
4 Q3 [! P% o) O- H- x8 s
「天安门广场连一人都不准杀」的邓小平和杨尚昆的指示被遵守。中共当局重覆否认天安门广场的「屠杀」,当时在现场的记者也未目击牺牲者,但是,广场的周围有许多的伤亡者。) }$ p8 F D6 S, t* x- l9 g0 H5 @. Z
$ S4 q3 t6 c9 A7 P! E天安门广场随后由数十辆战车占据,六四以后,北京市民也继续抵抗,不时传出枪声,各地出现抗议示威,外国政府也相继发表谴责声明。 : Y3 u/ F! U. T7 G+ E* y! ]) s! q - h# w3 w3 X+ {" P邓小平于六月九日接见戒严部队干部,脸上浮现笑容,显出心情愉快。天安门事件后,邓小平在家里闷闷不语,开始重抽数年前戒掉的香烟。当时,他已八十四岁,决定由政治全面引退。他对自己说,武力镇压之外没有其他选择之道。 " @5 J6 f1 U8 b I; k# G 3 i+ a n% K( c/ g* M- k m2 H4 |. l【トウ小平秘録】(31)第1部 天安門事件 6・4未明3 k8 {' b8 b& g. ^5 O4 T1 v6 r
: y1 y+ h9 F% ]6 \- B( t- f9 x& b1989年6月3日夜から4日朝までに北京で何が起こったのか。膨大な資料、報道、証言があり、映像がとらえただけでも、近代史上まれにみる大規模な武力鎮圧事件だったことが世界中に知れわたった。 & V+ b3 } b) ^: E+ N$ `8 |9 m! A" L 2 i6 R, k- x! n, G! B q, x+ p 前回書いたように、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は6月4日の日記に「本物の戦争だ」と記した。爆竹さながらの激しい銃撃音を耳にした人なら、同じ思いをしたはずだ。ただしこの「戦争」は、正規軍と武器を持たない市民との闘いだった。 ; Q! @0 u# w' C5 P0 |6 A - n6 k. t( w, E) L2 X0 d 張良編著「中国『六四』真相」によれば、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席(肩書は当時、以下同)は「武器の使用を極力避けよ」と指示していた。それがなぜ発砲する事態になったのか(以下は各種資料、証言による)。 ; A" C5 f* L" r' e7 A8 x" y2 \/ i9 ^* n& @
第38軍(河北省保定)を中心にした北京軍区主力が、装甲車を先頭に天安門前に1番乗りしたのは4日午前1時すぎだった。3日夜9時すぎ、西長安街西端の公主墳付近を出発、天安門までの約8キロを進むのに4時間を要した。激しい市民の抵抗を受けたためだ。0 y5 z" ?) i4 p
) | S3 G3 V$ |; Y) s0 I; f 最初の「衝突」は公主墳の東2キロ余の木●(もくせい)地で、市民側はバス、車両を並べてバリケードにして放火、火炎瓶やレンガ片などを投げて抵抗した。 6 Q3 [1 L) ]: g- E" y, r" T( p # w- T& w$ O! c) I9 `% I 部隊側は、午後10時20分ごろから発砲を始めた。以後、復興門、西単、六部口で市民側の抵抗を受ける度、発砲を繰り返し、天安門前でも同様だった。9 P- y( }1 v) A) r
5 l+ b. x7 i0 X3 d U 一方、やはり激しい抵抗を受けた南部方面部隊(済南軍区第54軍)は、空に向けての威嚇発砲がほとんどで、市民に向けた発砲は少なかった。北部方面(北京軍区第24軍)や東部方面(瀋陽軍区第39軍など)は抵抗に対し発砲せず、入城を断念している。$ @) X. i! E' o/ L
$ S7 v* O0 a/ m% T* ^6 X$ h* v 第38軍など西部方面部隊に発砲許可が出た経緯は、今も分かっていない。「万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよい」とのトウ小平(とうしょうへい)軍事委主席の事前の指示があった(「真相」)とすれば、現場指揮官の判断が各方面の対応の違いになったとみてよいだろう。 8 q* G4 u" Z- ^; T7 v S8 d0 w9 H, D* z
天安門広場とその周辺は4日午前3時までに、戒厳部隊がほぼ制圧、午前4時には「これから清場(占拠者の一掃)を実施する」と最後通告を発した。しかし学生側総指揮部のある人民英雄記念碑壇上や周辺にはなお地方の学生を中心に3000人以上がおり、決死の覚悟で頑張っていた。* p9 n, Q) _) s* M2 A0 y4 h& @
* J: F ?1 F0 T* ^3 s5 h それより前、広場で2日夜に絶食行動に入った歌手の侯徳健(こうとくけん)氏、北京師範大講師の劉暁波(りょうぎょうは)氏ら4人の知識人は学生らに撤収を呼びかけたが、激しいやじに遭う。4人は相談し、侯氏ら2人が戒厳部隊指揮官とひそかに交渉、無抵抗撤退への安全の保証を得ていた。 9 A" p" t0 Q. P) h* D& \) B6 y3 F 0 G5 N/ E; g; f$ C5 _8 ~3 W( }- I5 U 午前4時半、いったん消えていた広場の明かりがつき、銃を構えた数千の兵士が記念碑を取り囲んだ。侯氏が演説、学生の同意なしに行った軍側との交渉結果を明かし「もう血は十分だ。これ以上流血はやめよう」と訴えた。, ~8 I- W3 l: P1 t0 N( z1 R
; {$ ^: v3 |/ M
学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。 / O' u( M b7 E0 f, P# _/ s* [8 f' C$ j$ c
「裏切り者!」 * f# \! g/ @; i3 b; h' d% v8 j4 c / w& A8 m% ?: J0 g! V0 X 「さっさと消えろ!」 3 F8 I6 R3 B" V) Y/ K6 | . C* H3 D+ W1 h5 u+ h: Z+ e 劉暁波氏らの演説も効果がなかった。ほどなく数台の装甲車が現れ、「直ちに退去せよ」と実力行使予告がスピーカーから流れる。侯氏らは発声投票を提案、賛成多数で撤収が決まったのは午前5時前だった。 + q1 ^ @0 t: q/ O* E; n) d' K: D; _5 v- x9 }9 j2 M4 v
すべての学生がインターナショナルを歌いながら退去を終えたのは午前5時半。学生運動の発火点になった胡耀邦(こようほう)氏の死去から50日目だった。9 f" Q1 [3 b7 u$ ~/ N( G0 o m6 B
L7 ?- H7 s; f5 P) H; p
天安門事件の犠牲者数には諸説ある。李鵬(りほう)首相が89年9月、訪中した自民党の故伊東正義氏に明かした人数は、319人(十数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった。 ' F5 R8 M2 i7 Y8 h9 U* v( W& G+ v# P 7 B4 t z$ |5 H 「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。 2 @' G! e1 ]; g4 }+ Q# Z, D- a9 G: J+ Z; o% d( w
天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。' P5 P! z5 C# M$ r+ T( N; k" ]
* \& h. v+ k {# p2 Y: t( o
トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。 2 l& }5 @0 I- @1 F' K8 Q1 } * D, h( Z# r4 `: k7 Z, N しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。 3 Z$ F3 S) N @4 ]! ~3 D& v3 L! G 9 u5 H) x( d2 v8 y3 G; `- g) Z( U* I2 o 「天安門事件後、トウ小平は家では、一日中もんもんとして話をせず、数年前にやめたたばこを吸い続けた。卓琳(たくりん)夫人がいさめると、『わしにはたばこを吸う自由もないのか』とどなった。毛毛(マオマオ)(三女トウ榕(とうよう)氏)が『自由が欲しいですって? 学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ。あなたも座り込みに行きなさいよ!』と揶揄(やゆ)した」 7 n3 N, E, G4 T, @. |" P/ r p / X0 b) e' m, F その時、84歳。トウ小平氏は政治からの「完全引退」を決めていた。「武力鎮圧以外に選択の道はなかった」と自らに言い聞かせながら。8 Q5 q# r. V& X) V; M" Y6 d
# C; V% i/ S4 L9 ~
(伊藤正) & n9 F' w1 s4 d! b- V; V: f% I( U- k
●=木へんに犀 / S, b! o" o- U J2 J % V- }! w+ F. E( u◇8 G. |- ~ j, [$ ^" g3 _
+ u5 ]- M& n: |5 Z+ J0 j
【用語解説】人民英雄記念碑2 m# V* @2 U5 [4 ]# [
2 A: x4 C r" @7 I
天安門広場の中央部に位置。19世紀のアヘン戦争以来の革命闘争で犠牲になった英雄をまつるため1958年に建てられた石碑。高さ約38メートル、基壇は南北61.5メートル、東西50.4メートル。碑の正面には毛沢東が書いた「人民英雄永垂不朽」の文字と、背面には周恩来の書いた碑の説明がそれぞれ刻まれている。訪中した外国の元首らが献花することも多い。- e- s7 @3 o) i" q5 q; E
# A2 l: s$ D6 X& M$ x+ B
(2007/03/17) , T. R( L/ g; Q7 F" T$ z+ l/ T2 J' d# r7 r& l
4 w* k. s6 E, N0 |6 S0 N& ^ ( q) ]0 @7 ]' C! }4 \8 k1989年6月3日から4日未明にかけ、公主墳から天安門方面に向かった戒厳部隊は、市民、学生らの激しい抵抗にあった。木●(もくせい)地近くで集中的な発砲があり、死傷者の多くは復興医院に運ばれた(●=木へんに犀)
4 Y4 V' r- k. a+ K, ^ H【用語解説】アルシュ・サミット " s& |+ D8 \' @: |: {/ S* M( T# c6 }( f2 j2 w
89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。 3 q7 G, r# R' _' `- s0 E W# O0 l' Y9 P" K
9 o& c/ V2 Z" G* N# _+ ^5 ]天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月 ( f' _" H" L% C( N3 o$ M# f / ?! E3 P& F0 L; J. K1 E. T" o W3 f s! A, c