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邓小平秘录:赵紫阳向绝食学生抱歉来迟了
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2 o% s3 t9 W$ t% ]/ _ 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。
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「秘录」指出,胡耀邦解任两年四个月的一九八九年五月,邓小平又失去了他的改革帮手赵紫阳。四面楚歌的邓小平依赖的是解放军。决定戒严令和赵紫阳表明辞意次日的五月十八日,邓小平召集元老会议,恢复了「元老政治」。元老们严厉谴责赵紫阳,坚持支持戒严令。
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" g& A* m! W; S' A, U/ `' u 张良编著的「中国六四真相」指出,元老会议决定五月二十一日凌晨零时开始实施戒严,国家主席兼军事委员会副主席杨尚昆十八日下午召集中央军事委员会会议,邓小平在派兵命令书上签名,杨氏指示总参谋长迟浩田下令北京、渖阳和济南军区司令官派兵,十九日晚上,一部分部队秘密开始向北京移动。
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天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。人在德国 社区. r8 I. O9 j" {3 B# @6 _
+ V0 Y5 d+ d5 K9 \rs238848.rs.hosteurope.de 学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。
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「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。rs238848.rs.hosteurope.de7 E0 k; r3 h! f) \
3 \/ c* C- o! r2 C2 \ 担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。
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【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令rs238848.rs.hosteurope.de, w$ H' ^+ n6 x
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1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。
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* t: {4 i. ?, N9 h8 F7 }「来るのが遅すぎた」
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. |" |/ R" i4 Y人在德国 社区 四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。
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/ C6 q- w, T. U* X8 [ 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。
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; P0 h b* n) y# v3 H# W0 W 長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。0 s7 |8 w; B3 B# d8 L% g1 s
4 C# f# Q. e/ x7 `. E1 e( T 「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」
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# O7 l# L, w" `4 s人在德国 社区 数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。
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「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。& ^5 w5 E: M3 D. w/ |
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文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。0 y4 b: j* c- r( n
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「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。
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トウ氏が進軍命令書に署名し、楊氏が遅浩田(ちこうでん)総参謀長に北京、瀋陽、済南各軍区司令官に進軍を指示させた。翌19日夜には一部部隊は、極秘に北京に向け移動を開始した。
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天安門広場では学生の絶食が続いていた。17、18日のデモの主体は既に学生ではなく、企業・官庁の労働者や一般市民だった。ジャーナリストや文化人も多く、政府に対し学生の要求にこたえ、絶食をやめさせるよう訴えた。8 ^3 S/ k4 Z* v r7 c; z% r
$ {8 ? U! y T- s2 F, e+ P" D4 O 19日午前5時前、前ぶれもなく趙紫陽氏が李鵬(りほう)首相らとともに絶食学生の前に現れた。憔悴(しょうすい)した表情の趙氏は拡声器を手に「私たちは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせた。
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* @3 d( R( m) ?1 ` 「君たちは若く、前途は長い。健康に生き、中国が4つの現代化を実現する日を目にしてほしい。私たちは老い、どうでもいい。現在の状況は重大で、党と国家は非常にあせっている。絶食をやめてほしい。ありがとう、みなさん」
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6 b+ T7 {, ~/ j3 c5 {# D 学生たちの間から大きな拍手が起こり、嗚咽(おえつ)の声が聞こえた。学生たちは趙氏に握手やサインを求める。これが趙氏が公の場に姿を見せた最後になるとはだれも思わなかったろう。
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朝のテレビを見てトウ小平氏は激怒した。「真相」によると、トウ氏はすぐに楊尚昆氏を家に呼んで言った。rs238848.rs.hosteurope.de; f5 w5 z) e8 N. y \8 e8 E
; O, q! O# o- ]7 h2 Q0 U 「テレビを見たか。(趙紫陽氏は)苦しげな顔に涙を流し、迫害されていると訴えている印象だ。組織原則もあったもんじゃない」
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6 ~2 G5 O: N ]9 U" k 楊氏が「党内の分裂を公開しているようなもんだ」と言うと、トウ氏は陳雲氏ら長老からデモ対応で圧力を受けてきたとこぼし、趙氏が協力的でなかったので「こうするほかなかった」と戒厳令を決めた胸の内を明かす。
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( K( e1 s2 D5 [& ^6 U$ f2 L/ e 李鵬首相は天安門事件後の6月24日の中央委員会総会(4中総会)報告で、5月19日未明の絶食学生慰問について「(趙紫陽氏は)党との対抗姿勢を堅持し、そのために自分の地位が危ういと(学生たちに)知らせた」と述べている。7 e2 p2 o1 E5 Z! I* P; v* \. m
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趙氏は「学生の健康を心配したため」と反論したが、趙氏支持派の知識人はそうは受け止めなかった。既に流れていた戒厳令のうわさを真実と確信したのだ。知識人たちは戒厳令の口実をなくすため、学生に絶食中止を懸命に訴える(包遵信(ほうじゅんしん)著「六四的内情」)。
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, N# _' e: m7 g5 jrs238848.rs.hosteurope.de 絶食団総指揮の北京師範大生、柴玲(さいれい)氏が学生の説得に成功、絶食中止を宣言したのは5月19日午後9時。その30分後、北京市西北郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部大会で、戒厳令実施が発表された。
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新たなドラマの幕開けだった。(伊藤正)
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* Q; a/ m9 j! i6 f/ N【用語解説】中央軍事委員会rs238848.rs.hosteurope.de4 e/ y, M6 W0 }; v
: G! l% S' R+ U* N, D$ O4 W 最高軍事指導機関で、トップの主席は軍統帥権を持つ。党と国家の2つに分かれているが、実質的な違いはない。トウ小平氏は81年6月、主席に就任。当時は党副主席で、それまで毛沢東、華国鋒と党主席が兼任してきた前例を破った。87年の党大会で中央委員を辞退した際、党規約を改正し軍事委主席を続投、江沢民氏も中央委員引退後約2年間、主席に留任した。戒厳令布告は首相権限だが、軍動員命令権は軍事委主席にある。6 ^# ?6 f* l O1 A) q# a) d# [
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(2007/03/10 ) 0 V5 M( }. p( w2 v
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1989年5月19日未明、北京・天安門広場で学生たちに絶食の中止を訴える趙紫陽氏。右後方は温家宝・党中央弁公庁主任(現首相) |
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1989年5月19日未明、北京・天安門広場で学生たちに絶食の中止を訴える趙紫陽氏。右後方は ...
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