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发表于 2007-2-26 09:23
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邓小平秘录:赵紫阳对学运乐观未防备保守派$ ?- U, w- G+ M2 n+ A
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日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。, Q S3 V0 [9 H' z/ ^6 f! T) M
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文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。人在德国 社区0 e* T1 W+ [. B
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根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。 b9 j% Y0 `0 f1 V( D
. Q% k: w Q3 Y" g- d, w 两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。人在德国 社区0 L9 P {% E& J" @- j; c+ K
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十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。rs238848.rs.hosteurope.de+ t( @# X9 q$ k, [, F9 `
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十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。
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3 R' W9 S" @) @5 m0 C 二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。rs238848.rs.hosteurope.de2 w+ u/ G. H3 C3 r! ^4 u: {0 U
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这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。$ ?/ d" U/ c* d( ^ R9 p
6 e7 z9 `- D* t5 O人在德国 社区 由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。
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【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件人在德国 社区) K# v# g$ c: ^: n# t1 U
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異変は、新華門事件から始まった。
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1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。
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それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。rs238848.rs.hosteurope.de3 L" S3 h6 P5 n4 M- g
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いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。
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1 B6 C5 N& G" o0 Z" G. m$ [人在德国 社区 どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。: H( s* q6 V, I% g# R z) ]
( ^) _& L+ i& `# ~( k2 a' G 当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。( ]7 F( Q, ^( z1 ?: k3 {# x
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楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。
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! ^' [. d! w$ c( M まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。
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党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。人在德国 社区# y% H* U3 [& t
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89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。
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4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。
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2 m1 V. X/ Y* b- M; T9 B! f: g. k 4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。
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& o; C- i7 a; B# S; j この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。! G% u, t5 e8 D( _& S# m
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「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。6 L* @* u! y6 V( t) _
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「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。; r' T% p U: k, n% [
, F: T; T3 o! s* l3 V, @* N人在德国 社区 全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。' g) W+ T, }% v# i
- h+ l+ W+ z3 B2 k- \2 A6 l この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。
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7 a% ?" b3 e5 u, p5 F 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。
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7 w; ], M) M8 R8 F6 B 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正)' B! j# ?6 [6 C! H2 h( m' H- K# h
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■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。
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1989年5月9日、北京市内で「新聞(報道)界の良心を声援する」との横断幕を広げる学生たち |
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